英語の散歩道(その16)-内々定・内定無き解禁日 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

1981年夏。帰省してからJが亡くなった件を小学校の友人たち報告したり、また中学3年時の同窓会に出席して報告したりした。また、Jのお父上の故郷(大分県)へJの墓参りにも行ったが、これが夏だったのか、記憶が曖昧である。

 

 

いつの間にか、卒業後の進路を決めなければならない時期になっていた。結局、民間企業一本となったが、ゼミの同期生や友人たちの影響もあり、何となく損保か長信銀、都銀かな……?と考えていた。

 

大学の同期生たちは、夏も京都に残り就職活動を行っている者が多かった。大抵は、志望する企業の大阪支店や京都支店の大学やゼミのOBを訪ねて話を聞くという活動だった。

 

父の知り合いのコネで、損保(東京海上)と長信銀(興銀)の大学OBに会えることになり8月下旬に上京した。東京海上の先輩は入社1年目の方でマリン部門に配属されていた。丸の内の赤レンガの東京海上本社ビルは煌びやかなイメージだったが、その一方で、先輩は同期社員との熾烈な競争にかなり疲弊しているように見えた。

 

また、興銀(現・みずほ銀行)の先輩2名にもお会いした。本店・債券部と都内の支店に勤務されている方だった。債券部の方はエリートそのものの温和な方で私のレベルに合わせて話をしてくれた。また、都内の支店に配属されている方は、郷里も私と同じ福岡だったがバリバリの銀行マンという感じでかなり圧倒された。結論的には「ここは自分には無理かな!」と感じた。

 

今思えば、この上京は一流企業のサラリーマンがどんな生活をしているのかが少しわかった程度で、真の就職活動としてはあまり意味は無かった。京都に戻り、周りの友人たちの就職活動の進捗を確認して少し焦り始めていた。

 

9月に入り、三井銀や日債銀の先輩と会ったり、ゼミの野村證券の先輩やKDDの話を聞いたりした。9月中旬以降、三井銀の人事担当者と会ったが入社する気にはならずお断りした。また、日債銀は最終面接まで進んだが、こちらは緊張しすぎて失敗した。

 

周囲の友人たちには、総合商社やメーカー、生保や信託などを志望している者もおり、それぞれが自分の志望に向かって動いていた。だが、101日の解禁日が近づくにつれて友人たちとも次第に連絡を取りづらくなり情報交換ができなくなった。恐らく内々定、内定をもらっている学生も多かったように思う。

 

 

結局、内々定も内定も得ることなく101日の解禁日を迎えることになった。この時点では、東京海上と長銀(日本長期信用銀行)を第一志望として、その他都銀の上位行を回ろうと考えていた。

 

 

これら私が志望する企業の大阪支店は、すべて京阪電車の淀屋橋駅周辺にあった。所謂「淀屋橋の戦い」が開幕することになった。