英語の散歩道(その7)-「英文表現法」と迷走する心 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

京大工学部に進んだUTという友人について少し触れておきたい。

 

彼とは小学3年から5年まで同じクラスだった。彼の自宅は小学校のすぐ近くだったので、毎日のように自宅に寄って帰った。お母上がいつもおやつを出してくれた。彼には私の弟と同じ歳の弟が居り、弟同志も仲良しだった。

 

UTは弟を可愛がる良き兄でもあり、私の弟はいつも羨ましがっていた。書道が上手くて優しく少しユーモアのある優等生だったが、私の自宅に遊びに来たことは無かった。とにかくお母上には、おやつを含め小学校時代ほんとにお世話になった。

 

篠崎中⇒南小倉中の3年間、UTと同じクラスになることは無く、校内で時々すれ違って挨拶する程度の関係だった。中学卒業後UTは小倉高に進んだが、入学直後にお父上の転勤で長崎へ移動、県下トップの進学校、県立長崎西高に編入していた。

 

教養部のキャンパスで、彼は私に「もしかして……、〇〇チロ?!」と声を掛けてきた。〇〇チロはごく少人数しか知り得ない小学校時代の私のあだ名だった。「えっ?!」と答えると、彼は「違うならいい!ごめん!」と言った。私は「いやっ……!僕は〇〇チロだけど……、もしかして……UT?!」と言うと、「うん!」と答えた。その次にお互い相手方に同時に質問したのが「えっ!2回生?!」だった。

 

小学3年から5年までの3年間、私とJとUTの3人とも同じクラスだった。大学の4年間、残念ながら3人が一堂に会することは無かった。学生時代、次にUTに会ったのはJが命を絶った後の1981年の晩夏、Jを偲んで飲んだ居酒屋だった。それが最後である。

 

UTは修士課程には進まず、卒業と同時に新日本製鐵(現・日本製鉄)に入社した。私が50代の頃、四人組のRを通じてUTの消息を調べてもらった。Rは東京工大大学院の修士課程を経て新日本製鐵に入社していた。Rのおかげで何度かUTとメールのやり取りをすることができたが、結局会えずじまいとなっている。

 

 

閑話休題……。随分と前置きが長くなってしまった。Jと下宿で語りつくした翌日、Jは「一緒に英検1級の勉強をせんかっ?!」と私を誘ってきた。当時、英検準1級は無く2級の上が1級だったが、この2つの級の間には大きな差があった。Jと二人、河原町通りにあった「駸々堂書店」で英検1級のテキストと問題集を買った。その後、勉強を始めてはみたものの……、語彙が相当に難しく早々に挫折した。その後、テキストと問題集は長期間本棚で埃を被ることになった。

 

 

英検1級はともあれ……。大学の周辺には古本屋がたくさんあり、古本屋を散策しては大学受験とは別の切り口のイディオムや語源などの英語書籍を探して揃えるのも楽しみの一つになった。また「英文表現法」(戸川晴之著・研究社)を購入しパラパラ眺めたりしていた。何処かに「英作文の勉強がしたい!」という気持ちがあったようである。

 

 

1回生の終わり、法学部への転学部に心が揺れる中、どういうわけか「文科系のための線型数学」(志村利雄著・東京図書)を淡々と読み進めていた。フィボナッチ数列など面白いトピックが盛り込まれており、本をパラパラとめくるとアニメーションが見える仕掛けが組み込まれていた。この本は今も手元にある。

 

 

結局、2回生進級時に法学部への転学部は叶わず、将来への方向性を見失ったまま経済学部に居残ることになった。この辺りから私の心の迷走が始まったように思う。