当時の大学受験の英語には基本的にリスニングが無かった。リスニングを課していたのは東京外大、大阪外大(現・大阪大・外国語学部)と上智大・外国語学部くらいではなかったか。東大ですらリスニングが無かったくらいだから、如何に読み書き重視だったかが想像できる。
当時の英語の試験問題の形式は、おおよそ、第1問が長文の英文和訳(下線部の部分訳)、第2問が長文の応用問題(穴埋め、文中の語彙・イディオムを問うもの、本文の主旨に合致する短文を選択させるものなど)、第3問・第4問は発音、文法や書き換えなどの問題、そして第5問が英作文という形式だった。
英作文は、英訳すべき日本文が示されているものが殆どで、たまに書き出しの英文が指定されたもの(条件英作文)もあった。無生物の主語が指定されているもの(物主構文)や、It など形式主語が指定されているものなどがあった。現在のような自由英作文は皆無だった。
前回の記事で2015年の東大の英作文の問題を引用したが、我々の時代に比べ、英語については間違いなく今の受験生の方が大変だと思う。
思えば、北予備時代は英語、数学、物理の貯金を使いながら、苦手な国語と社会を、時間を掛けて克服した1年だった。従って、英語について本当に突き詰めて理解したわけではなく、丸暗記で済ませたところも多かった。時間的にそれが限界だった。
やっとのことで大学受験を乗り越え、1978年4月、京都大学経済学部に入学した。当時、経済学部の定員は200名だったが、殆どが男子で女子は全部で5名も居なかった。1クラス50名の4クラス、第二外国語の選択によりクラスが分けられた。私は第二外国語にドイツ語を選択、経済学部2組(E2)になった。E2の生徒数は50名、全員男子だった。
教養部1年(1回生)の時は、必須の英語講義が2つあり、両方とも外書講読(リーダー)だった。教材の1つは “Don’t Look Now” という小説でイギリスの女流作家ダフニ・デュ・モーリエ(Dame Daphne du Maurier)のサイコ・サスペンス、もう一つは “The Fox” という小説で、こちらもイギリスの作家D.H.ローレンス(David Herbert Richards Lawrence)のやや複雑な恋愛小説だった。
何回か授業を受けて感じたのは、高校や予備校に比べ、緊張感の無い退屈なものだったこと、もう一つは私より遥かに英語ができる生徒がクラスに10名以上は居たことだった。クラスの現役・浪人の比率は65:35くらい、2浪以上も何人かいたが、やはり英語ができる生徒は現役組が多かった。
必須の外書講読以外にも、英会話や英作文(ライティング)などの英語の講義が選択できたが、英会話は何となく敬遠してしまい、英作文は体育か何かの必須科目と重なっており受講できなかった。
入学から1か月くらいのうちに小学校からの幼馴染みの2人に再会した。一人は「自叙伝(その15)-北からの使者」に書いたJ、そして、もう一人は、小学校の頃毎日のように放課後一緒に遊んだUTという友人だった。Jは学生課で私の下宿を調べて訪ねてきた。またUTとは教養部のキャンパスで出くわし、向こうから声を掛けてきた。
Jは農学部、UTは工学部で、私含めて3人とも一浪だった。Jとは私の下宿で一晩語り明かした。その翌日、Jから英語学習に関してある誘いを受けることになった。