続・英語の散歩道(その25)-残暑の京都へ-「吉田」・「一乗寺」の想い出 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

2008年9月中旬。トライアルに合格した㈱サイマル・インターナショナルの話を聞きたいと思い大阪まで行くことにした。電話だけでも良かったがこれからの翻訳業務について実際のところを聞いてみたかった。

 

 

サイマルの関西支社は当時淀屋橋にあった。淀屋橋は「実録・淀屋橋の戦い」以来、随分久しぶりだった。コーディネーターの方、男性1名と女性2名と1時間余り話をした。サイマルからは一次翻訳および校閲(チェック)も入ることがわかった。

 

サイマルの単価はやや割高だった。これは設定方法の違いも関係した。S社やサン・フレアが、①訳文200ワードあたり○○円という形であるのに対し、サイマルは②原稿400文字あたり○○円という形だった。①の場合、冗長な訳文を作れば翻訳料金が高くなるが、②では変わらない。以前書いたように、当時の私は節より句を多用していたため何となく割高感があった。

 

 

淀屋橋を後に京阪電車で京都に出た。岡崎にホテルをとっていた。夕刻から学生時代の友人たちと一乗寺の「炉端焼 京八」で飲むことになっていた。

 

ホテルにチェックインして荷物を置き、徒歩でとりあえず大学へ向かった。大学1・2回生時は吉田二本松町に下宿しており岡崎から吉田にかけては思い出が多い街並みが続いていた。喫茶「風媒館」は健在だった。

 

下宿の横を通って京大正門にたどり着いた。時計台を一周して構内を北に抜けて今出川通りに出た。時計台の背面は近代的に改築されていた。「進々堂」に入りコーヒーを飲んだ。木製の長机に腰かけて中庭を眺めていると時の流れに黄昏れた。

 

 

今出川通りから、若草色の市バスに乗り一条寺に向かった。銀閣寺道を左折して白川通りへ入ると再び懐かしい街並みが車窓を流れていった。バスを「一乗寺下り松町」で降り、思い出深い「曼殊院道」を京福電鉄の一乗寺駅まで歩いた。引き返して大学3・4回生時に住んだ一乗寺燈籠本町へ向かった。

 

当時新築だった雲母坂(きららざか)沿いのアパートは28年余りの時を超えても健在だった。銭湯「雲母湯」が目に入った。既に営業しており入浴したい衝動に駆られて暖簾をくぐった。京都の銭湯は何処も湯温が高い。残暑厳しい京都で却って汗をかいてしまった。

 

 

「雲母湯」を出て、友人たちが待つ一乗寺宮ノ東町の「炉端焼 京八」へ向かった。「京八」のマスターとママさんは私にとって「京都の両親」と言えるくらいお世話になった方々だった。

 

店の風情もメニューもあまり変わっていなかった。友人たちとマスター、ママさんに囲まれて学生時代の話に花が咲いた。懐かしさに涙が出た。

 

 

翌日は大学の周辺、百万遍から北白川、今出川通りを散策した。喫茶「アラビカ」ではママさんと少し話ができた。懐かしいメニューはワンコインの「オムライスセット」。昼下がりの通りには蜩の鳴き声だけが響きわたり雑音を消していた。

 

 

リフレッシュできた京都の旅を終え、翌日からまた気持ちを新たに翻訳原稿との格闘の日々が始まることになった。