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流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

2008年3月。S社から最初の仕事が入った。技術文書の英訳で小規模なものではあったが初めて自分の英文が金に変わった。NOVAで英会話を勉強しようと一念発起してからまる9年が経過していた。

 

初仕事を終えてから、市内の学習塾や予備校講師の面接を受けた。英語の模擬授業をさせられたが人にものを教えた経験も乏しく得意でも無かった。ただ当時は翻訳をまだ副業と考えていた。

 

 

2008年4月に入り、S社に対して初めて請求書を発行しまさに個人事業主になった。それと入れ替えにS社から中規模の英訳が入った。今度は内部統制に関するもので法務関連の規定であり専門分野だった。

 

 

その一方で、2月のTQEの結果発表を翌週に控え落ち着かない日が続いていた。

 

2008年4月15日(火)。TQEの結果が郵便で届いた。英文和訳は67点で不合格だったが和文英訳は76点で合格した。手ごたえ通りの結果だった。

 

 

翻訳会社㈱サン・フレアからTQE合格者説明会のお知らせが届いた。また正式な履歴書を作成してサン・フレアに送った。合格者説明会は5月上旬に東京・西新宿のサン・フレア アカデミーで開催が予定されていた。

 

それに備えて、産業翻訳者としての名刺を作ったり新しいジャケットを作ったりと、まずは外観から翻訳者としての体裁を少しずつ整えていった。

 

 

当時の問題は「法務・契約書の英文和訳をこれから先どうするか?」ということで、すなわち、①法務・契約書を専門として英訳・和訳とするか?または②和文英訳を専門として法務・契約書を中心に周辺分野の金融、またS社関連の技術分野などに範囲を拡げてゆくか?のいずれを選択するか、ということだった。

 

自分の気持ちは明らかに②だった。3回のTQEの受験を通じて英訳の面白さにとり憑かれていた。ちょっと悩んだが「英訳専門の翻訳者で行こう!」と決断した。

 

 

当時のサン・フレア アカデミーの機関誌【ぷらす】PLUSに掲載された「TQE合格者喜びの声」に、以下のような文を私は寄稿している。

 

因みに、その回のTQE合格者の内訳は英文和訳が23名(全員3級)、和文英訳が12名(全員3級)、また文芸分野の英文和訳に2級合格の男性が1名いた。法務・契約書分野では英文和訳2名、和文英訳5名が合格した。和文英訳は私以外の4名はすべて女性だった。

 

 

「……  和文英訳の醍醐味は単語・表現や構文の選定にあると思います。ただし法務文書に関しては、できるだけ法務で多用される単語や表現を用いること、また節より句を用いたほうが文体がすっきりして冗長性がなくなること、講師よりご指導いただいたこの2点を念頭において英文を完成させました。 ……  将来的には、法務だけでなく他の分野の日英翻訳についても学びたいと考えております。 ……」

 

2008年2月中旬、3回目のTQEを受験した。英文和訳は裁判関連で米・地方裁判所からの上訴文、和文英訳は商標権に関する契約書が出題された。

 

今回感じたのが英文和訳、和文英訳ともに原文に何か所か意図的な改竄が見られることだった。これはいわゆるトライアル特有の「ひっかけ(TRAP)」であり、翻訳者に誤りを誘発させようとしているものだった。「見破ったり!」と思った。

 

また和文英訳では日本語をわざとわかりにくくしているところもあった。何が言いたいのか読み取りにくいのである。日本語を咀嚼して構成し直さなければ英文が作りにくかった。思いきって原文を破壊する度胸が必要になった。

 

1回目や2回目の受験ではそんな「ひっかけ」に気付くこともなく答案を提出していた。それだけでも「少しは成長した」と感じた。2008年2月20日(水)夕刻やっと答案を提出して戦いが終わった。

 

 

翌日の午後、車で1時間ほどの築上町・椎田の綱敷天満宮に合格祈願に行った。なお、「綱敷」とは菅原道真公が左遷の折、友綱をたぐり寄せて即席の座席としたことに由来するらしい。神社はちょうど梅祭りのシーズンで境内に甘酸っぱい香りが漂っていた。疲弊した脳裏が早春の梅の香に満たされていった。

 

 

TQEを受験する前の2月初旬、前の職場の同僚の紹介で地場の翻訳会社、S社を訪問した。S社の本業は設計・エンジニアリングだが1970年代から翻訳部門を有しており、同部門は主として技術翻訳を生業としていた。

 

面接ではUさんという年配の英語通訳・翻訳者と話をした。長年、新日鐵(現・日本製鉄㈱)関連の技術通訳・翻訳を経験されていた。彼からは「英訳ができる翻訳者が欲しい」との話を聞き、英訳のトライアルを渡されていた。内容は機械の取扱説明書だった。

 

畑違いの内容だったが選り好みしている余裕はなかった。翌日からS社のトライアルに挑戦し2008年2月25日(月)に提出した。取説の文体をどうするか悩んだが、ネットなどを参照しながら判断した。

 

取説などの技術文書は法務文書の文体に類似するところがあり「~するものとする」の助動詞 shall が使えることがわかった。あとは語彙だけの問題だったが、こちらもネットで何とかクリアーできた。

 

 

2008年2月末はハローワークの紹介で面接に行ったり、高校時代の友人に会いに博多に行ったり、また前の職場の上司と飲んだりしながら過ぎていった。

 

 

2008年3月3日(月)。S社から「トライアル合格」の連絡があった。この日、初めて翻訳者として認められた。「時計台教室の戦い」の初日、勝敗を分けた数学の試験からちょうど30年が経過していた。

 

2007年12月初旬、10月のTQEの結果が発表された。結果は和訳が66点で英訳は67点でともに不合格!!予想外だった。また和訳が前回より下回ったのがさらにショックだった。

 

「たった3点」は決して簡単なものでは無かった。一週間ほど勉強する気が起らなかった。

 

 

長渕剛の「とんぼ」にこんな歌詞がある。

 

「♪~ 明日からまた冬の風が横っつらを吹き抜けて行く それでもおめおめと生きぬく 俺を恥らう 裸足のまんまじゃ寒くて凍りつくような夜を数え だけど俺はこの街を愛しそしてこの街を憎んだ …… ~♪」

 

自分が社会にとって不要なもののようにさえ思えてきた。2度の失敗は人生で経験が無かった。「二浪」の気持ちがわかったような気がした。

 

 

諦めるわけにはいかなかった。気を取り直してサンフレア アカデミーの「ビジネス法務 契約書 ケース スタディ」の日英コースを申し込んだ。このとき自分が明らかに「英文和訳より和文英訳の方が楽しい!」と感じていることを知った。今後は英訳をより重視することにした。

 

 

通信講座のテキスト、ケース スタディ、また参考文献のデータ入力・整理を続ける中で語彙や表現、構文が研ぎ澄まされて行った。何かが見えつつあった。

 

勉強を続ける中、気がつけば2008年が明けていた。松の内も過ぎたころ、2月のTQEが終了するまでテレビを観ることを自ら禁止した。

 

 

そんな2008年の1月下旬、可愛がってくれた父方の叔父が亡くなった。下関での通夜・告別式に出席した。叔父たちの中では一番年下で、冗談もわかり何かと話が合う叔父だった。電気関係のエンジニアをしていた。

 

私が幼い頃、壊れた時計やライター、オルゴールなどを玩具代わりにくれた。それらは私の宝物になっていた。また時々パチンコでとったのかチョコレートを山ほどくれた。

 

50代後半に「脊髄空洞症」という難病を患い長年の闘病生活が続いていた。随分苦しかっただろう。やっと楽になったのかも知れないが随分と早い死だった。

 

 

まだ叔父が独身の頃よく歌っていたものに「ラ・ノビア(La Novia)」という曲がある。元々、南米チリの音楽家が作ったものだが日本でも大ヒットしている。

 

「♪~ 白く輝く花嫁衣裳に 心を隠した美しいその姿 その目にあふれるひとすじの涙を 私は知っている アヴェ・マリア …… ~♪」

 

「偽りの愛を誓う花嫁」の悲しみを明るく朗らかに謳いあげた名曲である。

 

 

葬儀を終えた後、そこには叔父の死の悲しみに浸る間も無く、再びTQE戦線へと戻らざるを得ない自分の姿があった。

 

2007年8月初旬のTQEの結果を受けてデータ入力を始めて暫く経った9月半ば、父が他界した。以前から具合が悪かったが症状が急に悪化して逝ってしまった。

 

病院や検査が嫌いな人だったが余りに突然の死だった。とり急ぎ以前の会社の上司や同僚に連絡を入れた。葬儀の弔問に訪れた彼らの顔を見たとき思わず涙が溢れてきた。

 

通夜の挨拶は弟が務め告別式は私が務めた。無職の時期でもあり挨拶を述べながら自分の不甲斐なさに再び涙が止まらなくなった。

 

 

父は日本電信電話公社(現・NTT)を定年退職後の50代後半、「通関士」という資格に挑戦し合格していた。現役の頃は仕事中心の生活で海外旅行に行くことも無かったが、何処かに海外への想いがあったのだろう。自分が挑戦している翻訳とも相通じるものがあった。

 

 

父が逝って一か月ほど、勉強中も父を思い出し辛さで涙が流れた。心のどこかに「父親は絶対に死なないものだ!」のような思い込みがあった。そんな2007年10月の中旬、2回目のTQEを受験した。哀しみの中での受験だったが、今回は英文和訳、和文英訳ともに契約書が出題された。

 

 

TQEの答案を提出した後、気分を変えようと国東半島を経由して別府への2泊3日の旅に車を走らせた。秋の盛りの時季だった。

 

何かに憑かれたかのように豊後高田市の「富貴寺」と「真木大堂」、国東市の「両子寺」さらに豊後大野市の「熊野摩崖仏」と仏教関連のスポットを巡った。まるで巡礼の旅だった。

 

 

宇佐市方面に引き返し「和間海浜公園」というところに辿り着いた。夕刻が迫っていた。松林の傍らに腰かけて一人海を眺めていた。静かだった。一瞬時が止まって自分が風景の一部になったような錯覚を覚えた。哀しみに疲弊した心が少しずつ癒されていった。

 

 

その日は「昭和の町」に一泊した。町を散策していて廃業を控えた文房具店を見つけた。入口のガラスケースに並べられたいくつかのセルロイドの筆箱が目に留まった。

 

全て埃にまみれていたが「これ売り物ですか?」と尋ねると、店主の老人は「全部(当時の)定価でいいよ!」と言ってくれた。4つの筆箱を合計千円ほどで購入できた。これらの筆箱は今も私の机の引き出しで登板を待っている。

 

 

翌日、再び町を散策してから国東半島を海沿いに一周して別府に出た。ホテルに荷物を預け別府駅周辺を散策した。駅近くのアーケードは空き店舗が多く閑散としていた。

 

日帰り温泉に漬かった後、別府タワーに上り街の夜景を楽しんだ。タワーを後に夜の繁華街へ。居酒屋に入ると外国人の従業員が目立った。2000年に開学した「立命館アジア太平洋大学(APU)」の影響かも知れないが、別府は外国人が多い街へと変貌していた。

 

 

自宅に戻ると気持ちも随分変わっていた。明日からまた産業翻訳者を目指してTQEとの戦いが始まることになった。

 

通信教育「ビジネス法務・契約書総合講座」は基礎講座が3か月、専門講座が6か月の合計9か月のコースだったが、通常のペースの2.5倍程度のスピードで進めて2007年7月末にはコースの全課題を提出した。

 

 

通信教育の修了を待たずしてTQEに申し込んだ。受験の時期は2007年6月初旬だった。英文和訳、和文英訳の両方を申し込んだが、まさに度胸試しの受験だった。試験問題が金曜日の夕刻に送られてきた。提出期限は翌週水曜日の17:00までだった。

 

問題は英文和訳が判決文、和文英訳が契約書だった。通信教育の教材の全てを履修しておらず未知の範囲の教材を読みつつネットを検索しながらの翻訳が続いた。英文和訳、和文英訳ともそれぞれ十数時間を掛けてどうにか訳文が完成し期限までに提出できた。

 

 

答案提出後に感じたのは「翻訳とはこれほどエネルギーを使うものなのか!?」ということと、「通信教育のテキストをペラペラとめくっているようでは埒が明かない。データ化して検索できるようにしておかなければ ……。」ということだった。

 

強いて言えば、和訳より英訳が面白く感じたが、英訳の場合、ポイントは動詞だった。日本語から浮かぶ動詞ではなく、辞書で本来の意味や使い方(構文)をきちんと確認する必要があることがわかった。

 

 

TQEの合格点は70点である。細かくは70点以上が3級、80点以上が2級、90点以上が1級の翻訳実務士に認定されるが合格者の殆どが3級だった。とにかく70点取れれば良いのだが「まあ無理だろう!」が正直なところだった。

 

 

TQE受験後、まず始めたのはデータ入力だった。通信教育のテキストにある重要な単語、熟語、構文や表現などを「英語-日本語テーブル」の形でWORD入力していった。EXCELにしなかったのはスペルチェックが即座に行えるからで、またTQEの答案をWORDで作成・提出することも理由だった。手間の掛かるものだが、後々これが威力を発揮することになった。

 

 

それに加えて、法律英語に関して以下の参考文献を読み漁った。絶版になっているものもあり殆どはAMAZONのマーケット・プレイスから入手した。

 

①国際法務と英文契約書の実際(吉川達夫他著/アイエルエス出版)

②入門アメリカ法(丸山英二著/弘文堂)

③国際取引法(松枝迪夫著/三省堂)

④海上保険概論(亀井利明著/成山堂書店)

⑤法律英語のカギ(長谷川俊明著/東京布井出版)

⑥続・法律英語のカギ(長谷川俊明著/東京布井出版)

⑦法律英語のプロ(長谷川俊明著/東京布井出版)

 

さらに①~⑦に収録されている重要な英文表現などを抽出しデータ化していった。これもまた骨の折れる作業だった。古い書籍で中古品もあり下線や注記が施されているものもあった。古書独特のノスタルジックな香りに図書館にいるような錯覚を覚えた。

 

 

受験から2か月くらいした2007年8月初旬、6月のTQEの結果が発表された。英文和訳・和文英訳ともに67点で不合格だった。ただこの時は「あとたった3点なら次回は楽勝だなぁ~」と安易に考えた。だがTQEはそんな甘いものでは無かった。

 

 

GEOSの講師、キャラが帰国したのは2006年の春頃だった。送別会には生徒や同僚の講師など30人以上が集まった。

 

このとき送別会の幹事をしたが、キャラの素直な人柄からかファンが多く初級・中級クラスからも参加希望者が膨れ上がり、当初上級クラスの「オール・イングリッシュ」の宴会を想定していたが、それどころではなくなった。

 

まあ賑やかな宴会だったがキャラが帰国した後、講師が替わったタイミングでGEOSをやめた。軍歌の証券マンや mild-faced gentleman などGEOSのユニークな仲間たち、様々な英語プレゼンの経験、「なべげん」などでの飲み会の想い出、そんなものが散りばめられた2年半余りが終わった。

 

 

2007年に入った。法律英語の勉強を模索する中とりあえず以前から持っていた①「英文契約書の基礎知識」(宮野準治・飯泉恵美子著/ジャパンタイムズ)を通読することにした。

 

また文法書を通読したことが無かったので、定評の高い②「英文法解説」(江川泰一郎著/金子書房)を読み始め、加えて和文英訳の基礎として、随分昔に高校時代の英語教師のD先生が推薦した③「英文構成法」(佐々木高政著/金子書房)を読むことにした。

 

 

①②③を同時に進める英語漬けの日々が2か月ほど続く中、ネットで、

・国内には結構数多くの翻訳会社があること

・翻訳者を養成するための通信講座を提供している翻訳会社があること

・翻訳者となるための資格試験があること

を知った。

 

①を読み終え②③も軌道に乗った2007年3月、ある翻訳会社の通信教育を受講することにした。サン・フレア アカデミーの「ビジネス法務・契約書総合講座」というものである。受講と同時に、そのアカデミーが翻訳者の登竜門として「翻訳実務検定(TQE)」という試験を行っていることを知った。

 

更に、このTQEに合格すれば、翻訳会社㈱サン・フレアの登録翻訳者となって産業翻訳の仕事が受託できるシステムとなっていた。

 

 

こうして2007年春、「契約・法務分野の産業翻訳者」を目指すという方向性がやっと見えた。退職して半年近くが経過していた。

 

 

ユーミンの大ヒット曲「春よ、来い」は、1994年のアルバム「THE DANCING SUN」に収録されたものだが、2007年のベスト・アルバム「SEASONS COLOURS -春夏撰曲集-」にも収録されている。

 

 

「♪~ 春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき 夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く ~♪」

 

 

「北予備」に入学した1977年春から30年、今度は産業翻訳者を目指し、まだ見ぬ春に向かって一大決戦が開幕することになった。

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-12683298697.html

 

松任谷由実の2006年発売のアルバムで「A GIRL IN SUMMER」というものがある。全般にセンチメンタルな曲が多いが、その3曲目の「哀しみのルート16」。独りドライブには最適で心に沁みる曲である。

 

 

閑話休題 …。2006年春先からISOの指摘を受けて管理部では適正な「人事評価制度」の再構築を進めていた。既存の制度は人事評価や給与の決め方に恣意的なところがあった。それに加えて、その主たる担当者である人事部門長が全く捌けない男だった。

 

大手企業では人事部門には人望が厚いか、または頭が切れる人間が配属されるのが普通だが、その男はどちらでもなかった。会社での資格は私より上だったが、いつものらりくらり、ヘラヘラと仕事をするフリばかりの輩で、彼と打合せなどしていると腹が立って机を叩いて退席することも多々あった。そんな血圧が上がるような毎日が続いていた。

 

 

そんな2006年の5月頃、ある「人事評価」に関する会議で「中途採用者の入社前の業務経験をどのように自社の人事評価に反映させてゆくか?」について議論していたとき「そんなものは考慮する必要はない!」と誰かが言った。

 

その瞬間それまでの鬱憤が爆発した。「あんた!何を言うとるんや!それなら中途採用なんかするな!」「生え抜きだけでやろうとするからあんなバカが人事を担当することになるんや!」と取締役管理部長以下全員に対してブチ切れた。まあ、そこまで言った以上はある程度の覚悟はできていた。「これ以上この会社にいても先は見えてる!」と思った。

 

 

帰宅してから冷静に考えたが「会社を辞めてどう生きていくか?」について簡単に答えは出なかった。それでも会社には「退職したい」意思を表明して、専門学校で話を聞いたり転職サイトに登録して面接を受けたりしながら夏が過ぎていった。

 

NTT関連のある会社での海外からの契約・法務対応ヘルプデスクの面接では英語でインタビューを受けた。当時は「英語力+法律またはIT」関連職種の話が来ることが多かったが、「やはり通訳っぽい仕事は無理かなぁ~」が正直なところだった。

 

 

2006年夏、2泊3日で島根県の「温泉津温泉」へ旅した。1987年の夏以来だった。「輝雲荘」という宿だったが料理が美味かった。近くに鳴き砂で有名な海岸や窯元もあり、猛暑の候、浜辺で海を眺めていると将来への不安を一時的に忘れることができた。

 

「輝雲荘」の玄関に洒落た「狸」が置かれていた。それがやたら気に入り後に宿に問合せて出所を確認しネットで購入した。ちょっと高級な狸だった。この狸は今も自宅の玄関に鎮座し我が家の「看板狸」の役割を果たしている。

 

 

2006年10月末、10年近く勤務した地元のIT企業を退職した。退職の前から専門学校でビジネス法務の勉強を始めており、2006年12月に「ビジネス実務法務検定」の3級と2級を同時に受験し合格した。得点率は3級が97%、2級が98%だった。

 

 

これでビジネス法務の全体像が見えるようになり、次はいよいよ法律英語の世界入ることになった。だが、そこには別名 legal jargon とか legalese とも呼ばれる難敵たちが待ち構えていた。

 

私が提案型営業の部門に異動した頃からよく行くようになったのが、当時小倉北区紺屋町にあったスナック「アルファ」である。当時の上司の同級生がママさんだった。上司は酒もカラオケも大好きな人でいつも穏やかに気持ちのいい飲み方をした。

 

 

彼と飲みに行くと一軒目は居酒屋、二軒目は必ず「アルファ」でカラオケとなった。飲み会が終わるといつも午前3時は過ぎていた。

 

「午前3時の東京湾(ベイ)は港の店のライトで揺れる 誘うあなたは奥のカウンターまるで人生飲み干すように 苦い瞳(め)をしてブランデーあけた ……」(中原理恵「東京ららばい」)みたいなものである。

 

この店でどれくらい新しい歌に挑戦したかわからない。カラオケボックスを除いて人生で一番歌った場所だった。

 

 

なお、この「アルファ」のママさんは後に若松でも店を開きそちらで飲んだこともあった。私が翻訳会社に勤務するようになって2年目くらい、彼女の訃報を元・上司から知らされた。還暦前の突然死だった。本人は苦しみの少ない死だったかも知れないが、私を含めて周囲のショックは相当大きなものだった。

 

仕事の悩みなどがあった時も「アルファ」で歌えば何となくスッキリして明るくなれた。貴重な店だった。この場を借りて感謝申し上げるとともにご冥福をお祈りしたい。

 

「トシさん!当時はいつも楽しい気持ちにさせてくれてありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。」

 

 

2005年も終わりに近づいた頃、ある曲が流行り始めた。ドラマ「野ブタ。をプロデュース」の主題歌「青春アミーゴ」(修二と彰)である。ドラマの主役、堀北真希の出世作であり曲も昭和的なメロディが耳に残るものだった。

 

この曲を上司がよく練習していた。彼はバンドを組んでいたこともあり音楽には良い意味でうるさい人だった。私はまだ歌ったことが無いがいずれ挑戦してみたい。

 

 

堀北真希は好きな女優の一人である。2011年の映画「白夜行」では悲しい過去を持った悪女を見事に演じた。一転して2012年のNHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」みたいな役もできた。

 

 

2005年当時、会社での契約・法務業務での必要性から「ビジネス実務法務検定」という資格に興味を持った。この資格と英語とが翌年以降結びつくことになった。

 

そして私の人生の分岐点となる運命の2006年を迎えることになった。

 

2005年8月。火の国熊本を車で旅した。熊本県の菊水町(現・和水町)に父方の菩提寺があり随分久しぶりに墓参りをした。蝉時雨に包まれる境内は閑かだった。納骨堂に立ち並ぶ納骨壇の一つに父方のオリジンがあった。祭壇に手を合わせながら少し祖先のことを考えた。

 

 

その日は玉名立願寺温泉に泊まり馬刺しと球磨焼酎を堪能し、翌日熊本市内へ移動した。上通りや下通りは北九州より遥かに賑やかで南国の都会のイメージがあった。昔買ったNOVAのVOICEチケットが残っていたのでフラッとNOVA下通り校のVOICEに入った。

 

それにしても暑かった。その日の気温は36℃を超えており、受付の女性に「暑いですねぇ~」と声をかけると「今日は涼しい方ですよ!」と涼しい顔で答えた。「ここはどんな街や!?」と思った。

 

VOICEには数名の生徒がいた。平日ではあったが学生・社会人ともグループ①が多かった。なおこのグルーピングについては「続・英語の散歩道(その3)-電子辞書とレベル3・4の群像」に記載している。

 

 

熊本の生徒たちと英会話を重ねるうち熊本県民のある気質がわかってきた。一言でいえば閉鎖的、排他的かつ頑固だった。私が「北九州市出身」と口にすると会話の内容が何となくよそよそしくなった。「こいつはよそ者だ!」という態度が会話から感じられた。

 

暫くして「博多出身」の男子生徒がVOICEに入ってきた。今度は一転、全員が彼に対して攻撃的な態度をとり始めた。明らかな対抗意識が感じられた。「料簡(了見)の狭い奴らだ!」と感じたが、何処か父を彷彿とさせるところがあった。

 

 

状況はやや異なるが、安田火災の新入社員研修で以下のようなことがあった。同期に熊本大・空手部出身の男がいた。その日の研修は班に分かれてあるテーマに対するディベート(討論)とプレゼン(発表)だった。嫌でもとにかく人に負けじとしゃべらなければならない。

 

当日のディベート・プレゼンが終了して新入社員各自が当日の感想を述べる時間となった。熊本大の彼の感想を今も思い出す。

 

「私は父母から『男は女みたいにベラベラしゃべるな!』と言われて続けて育ちました。今日の研修で私が父母の教えに従ってしゃべらずにいるとスタッフの方は『○○!何かしゃべれよ!』と急きたてます。私は自分がどうして良いのかわからなくなりました。」

 

場違いとは言え、父母の教えを尊重する彼の意見に共感できた。また、口が達者な都会出身の輩たちに敵意に近いものを感じており、心の中で彼にエールを贈った。

 

 

世に「肥後もっこす」という言葉がある。Wikipediaによれば「①純粋で正義感が強く一度決めたら梃子でも動かないほど頑固で妥協しない男性的な性質を指す。」とあった。

 

その一方で「②自己顕示欲が強く議論が好き。異なる意見には何が何でも反論し、たとえ自分が間違っていると判っても自分の意見を押し通す。」と続いていた。

 

さらに「③短気で感情的かつ強情っぱりで九州男児そのものだが、意外と気の小さいところもあるのが特徴。」そして「④プライドや競争心が強く特に恥やメンツにこだわる傾向がある。」と結論付けていた。

 

 

よくよく考えてみると ……、この気質は父を彷彿とさせるどころか、まさに私自身を言い当てたものであった。

 

2005年に入った。この年はあまり印象が無いがGEOSでの英会話学習は継続したまま、DHCの翻訳の通信教育を受講してちょっとだけ翻訳の世界を覗いてみた。

 

「英日実務翻訳ビジネスコース」というものでビジネス文書の英文和訳のコースだった。受講すると分厚いビジネス英和/和英辞典が付いてくる特典があり辞書欲しさに受講した。受講修了の証として翻訳「認定証」らしきものが送られてきたが手許に残っていない。

 

当時「翻訳」と言えば「英文和訳」イメージがあったが、課題の英文和訳を手書きするのが面倒でWORDに打って印刷し解答用紙に貼り付けて提出した。「翻訳って面倒くさい!」という印象だけが残った。

 

 

その頃、ネットを検索していて福岡市のある翻訳会社(フリーランス翻訳者設立の個人企業)が翻訳者を募集していることを知りトライアル(TRIAL)に応募してみた。英文和訳である。暫くしてトライアル問題が送られてきた。

 

なお、トライアルとは翻訳会社(委託者)などが翻訳者(受託者)を募集するにあたって課す試験のことで、このトライアルに合格すると、翻訳者は自らが十分な翻訳スキルを持っていることを証明することができ、翻訳業務を受託することができるようになる。

 

翻訳言語(英語、ドイツ語、中国語など)、翻訳分野(法務、金融、特許、環境、電気・機械など)及び翻訳方向(英⇒日・日⇒英など)により複数の問題が課されるのが普通である。

 

送られてきたトライアルの英文は、自動車のある部品(?)の組み立て方を記述したものだった。全く未経験かつ畑違いのものだったが、とにかく和訳して送ってみた。英文から日産自動車関連の文書であることが推測できた。

 

暫くすると先方から返信があった。履歴書・職務経歴書を送ってほしいという。書類を送ると電話が入り面接したいと言ってきた。

 

その翻訳事務所は福岡市の西鉄大橋駅近辺にあった。事務所に入ると40代半ばの女性がデスクに座っていた。スラっとした方で女性編集長然とした雰囲気があった。フリーランス翻訳者数名でその事務所を経営しているらしい。事務所内にはあまり強くない香水の香が漂っていた。

 

彼女は私に翻訳者の資質が十分にあることを告げると、今後OJTのつもりで翻訳の仕事を受けてみませんか、のような話をした。私は少し考えさせてほしい旨告げて事務所を後にした。会社員たる身、副業は会社の許可を得る必要があった。その一方で、自分の英語力が金になるかも知れないという少し甘い誘惑を感じていた。

 

 

帰宅してから調べてみると ……、当時社員に副業を認めている会社は殆ど無かった。もちろん私が勤務する会社も就業規則で副業を禁止していた。ましてや私は、従業員にそんな規則を遵守させるべき管理部に所属していた。

 

他にも管理部のISO対応のために、セミナーの受講や内部監査員資格の取得などを控えており、結局「今はタイミング的に無理!」と先方に連絡してお断りした。

 

 

しかし、それから3年余りが経った2008年。自分が複数の翻訳会社の和文英訳のトライアルに同時に挑戦している姿など当時は想像することもできなかった。