自叙伝(その23)-1977年春-受験戦争の開幕 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

19774月中旬、北予備(小倉校)の授業が始まった。

 

当時は1クラスに80100人ほど生徒がいて15クラスあった。国立文系、国立理系、私立文系のコースがあり、さらに成績で特A⇒A⇒Bとクラス分けされていた。特待生/準特待生の殆どが国立文系または国立理系の特Aクラスに入った。

 

私は国立文系特Aクラスの14組、Yは国立理系Aクラスの1組になった。因みに国立理系特Aクラスの3組は医・歯学部や旧・帝大理科系志望者が中心で、最高レベルの生徒が集まっていた。年に2回くらい成績によるクラス替えがあったが、Yは夏過ぎ頃にはAから特Aに上がった。

 

14組の3分の1くらいが倉高出身者で、その他東筑、八幡、門司、戸畑、京都(みやこ)、豊津、下関西など市内・近郊の県立高、明治学園(女子)、ラ・サール、広島修道などの私立高出身者もいた。北予備は黒崎校もあったので東筑、八幡などは黒崎校に入ったものが多かった。クラスの男女比率は7:3くらいだった。

 

授業は、国語・数学・英語(必須科目)が午前、社会・理科(選択科目)が午後に配置されており、午前中は14組で授業を受け、午後の選択科目は、他のコースの生徒と一緒に受ける形だった。午前中のみ授業を受けて午後は自宅で勉強する者、選択科目は受けず予備校の自習室で勉強する者など様々だった。因みに自習室は午後9時まで利用することができた。

 

建物は6階建てくらいでエレベーターはあったが、生徒は階段を利用することになっていた。学校内は土足厳禁、スリッパ(持参)に履き替えた。また屋外でも裸足にサンダル履きは禁止されていた。女子生徒については、化粧が禁止、さらにミニスカートの着用も禁止されていた。これは男子生徒の勉強の妨げ(?)になるとの理由からだった。

 

20歳を過ぎた者(2浪以上)で喫煙を希望する者には「喫煙許可証」が発行された。校舎の外の所定の場所で、許可証を首から下げて喫煙する生徒が見られたが、そこはかとない哀愁が漂っていた。

 

朝は玄関付近に教職員が並んで登校してくる生徒に「おはよう!」と声を掛けていた。1階ロビーにはタイムカードがあり生徒の就学状況(勤怠)が管理され、月次で自宅(親)宛てに送付されていた。それを見れば息子(娘)が真面目に予備校に通っているかが一目でわかるシステムになっていた。

 

正月三が日を除き北予備に祝日は無かった。授業は、火曜日から日曜日の週6日で、模擬試験などが月に1回~2回、土・日に実施されていた。原則、月曜日が休日だった。模擬試験は北予備オリジナルの公開模試、進研模試、旺文社模試、その他受験直前の東大オープン、京大オープンや京阪神三大学判定模試も行われた。

 

どの模試でも、コース毎に成績上位者100名の氏名・成績・出身校・志望校が1階ロビーの壁に貼り出された。志望校が東大・京大などで30番以下の順位だと何となく恥ずかしい思いをした。従って志望校に書く以上は、それに恥じない成績を取らなければならなかった。

 

各クラスには「チューター」(家庭教師)と呼ばれる担任がいた。特定の科目の教員が兼務する場合もあったが、生徒管理や進路指導を専任で行う方もいた。我が14組は専任のS先生で、教職員のリーダー的な存在だった。北大卒で声が大きく、厳しくも頼りになる方だった。最後の最後まで面倒を見ていただいた。

 

この国立文系特Aクラスの14組。ここが私の受験戦争の戦場となった。上位20人くらいは確かに個性豊かな秀才が揃っていた。これから一年、ここで様々な戦いが繰りひろげられることになった。