自叙伝(その22)-エピローグ-朧月夜の刹那 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

仙台から小倉に戻った日の翌日が西高の卒業式だった。卒業証書はもらったが、当日の詳細は覚えていない。不合格の発表後、父は信州大の受験を勧めたが、自信を失っていたのか結局松本には行かず浪人することにした。

 

四人組では、Rが地元の名門、九州工大に進むことになった。Sは北九州を離れ県内の全寮制の予備校に、Yと私は地元の北九州予備校(北予備)に入ることになった。なお、理系トップのXが京大・工学部に合格したことを知り「流石っ!」と思った。

 

北予備の特待生試験を受けたが、英・数・国だったのでどうにか「準特待生」に合格、授業料が半額免除になった。「せめてもの親孝行かも?」と思った。

 

3月の終わり頃、3年5組の集まりがあった。平和通りのバス停に集合、行く先は「平尾台」だった。10人ほどが集まったが、その中に1年4組でも一緒だった女子のHさんがいたので少し話した。理数系が強いイメージがあったが、西南学院大・文学部(独文科)に進むと聞き意外だった。なお、このHさん、それから10年以上のちに我が四人組のSと結婚することになる。

 

Rが九州工大に入学する前の4月初旬、Rの自宅に四人組が集まった。さすがに残り3人の自宅、というわけにもいかなかった。高校の卒業を祝うとともに、これから4人がそれぞれの道へと旅立つ門出の酒宴だった。

 

ビールや日本酒を少し飲んで、ほろ酔い加減でR宅を後にした。下曽根駅までRが見送ってくれた。日豊線の列車に3人が乗ったところで1人が減り、Sが城野で下車してまた1人が減り、私が南小倉で下車して四人がばらばらになった。

 

列車の中から見えていたのが、美しく暮れてゆく空と昇りつつある夕月だった。Yに別れを告げて降り立ったホームに吹く春風が、少し火照った肌に心地良かった。

 

駅を出て、朧月夜の闇が次第に濃くなる中、酔いを醒ましながら自宅まで歩いた。何故かとても清々しい気持ちになった。「もう一年頑張るかっ!」と思ったその刹那(せつな)、何かが吹っ切れた。

 

 

卒業から44年余り。周囲よりも幼い心と身体、そして大きな希望を抱えて入学した小倉西高。紆余曲折の高校生活の中で四人組と出会い、助け合ったり、競い合ったり、たまには喧嘩したりしながら、何となく自分の進むべき道を見つけることができた。帰り来ぬ貴重な青春の日々だった。

 

今思えば、西高の3年間は、我が人生の「春宵一刻値千金」。あの朧月夜の刹那のようにも思えてくる。