自叙伝(その21)-追想-「杜の都」ラプソディ | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

その日、仙台は雪も無く晴天。乾いたやや強い風が路上の埃を舞い上げていた。

 

1977年3月1日夕刻。仙台駅ホームに降り立つと、何処からか太鼓の音が聞こえてきた。父に「祭りかねぇ?」と聞くと「珍しい時期にやるなぁ!」と言った。改札を抜けて駅前広場に出た瞬間、太鼓の意味がわかった。

 

そこには、羽織袴の弊衣と破帽を身につけた応援団らしき一群の学生の姿があった。「盛岡一高」、「秋田高校」、「水戸一高」、「熊谷高校」などの色とりどりの(のぼり)が立っており、東北大に進学したOBが駅に降り立つ母校の受験生を「陣太鼓」を叩いて鼓舞していたのである。「これがバンカラか!」と思った。母校の幟の下に駆け寄る受験生もいた。そんな応援団が無い自分を少し心許なく感じた。

 

広場を過ぎると、父は突然タクシーを止め「仙台で一番高いビルまで!」と告げた。そのビルの最上階に上ると「コーヒーでも飲むか!」と喫茶店に入った。30階くらいのビルだったが仙台の街が一望できた。何を思って父が私をここに連れてきたのかわからないまま、ただぼんやりと街を眺めていた。翌日が試験会場の下見、翌々日から試験だった。

 

翌日、仙台一高に下見に行った。正門周辺にはたくさんの檄文が掛けられていた。その中でひときわ目立つ檄文(?)があった。そこには「くたばれ!二高!」とデカデカと書かれていた。二高とは一高のライバル仙台二高のことで「受験は対抗試合かっ!」と思った。なお、旧制・第二高等学校に由来するものか、学力レベルは二高が一高よりも高い。

 

試験日になった。1日目が英語⇒国語、2日目が数学⇒社会、3日目が理科だったが、勝敗は1日目に決した。得意の英語ができなかった。第1問の長文のキーワード intuition 「直観」の意味が解らなかった。単語だけではない、和訳箇所の構文も読み解けなかった。文法問題もひねくれたものだった。これでほぼ敗北が決まった。

 

また、国語と社会では解答用紙として原稿用紙が配られた。受験番号を書く欄以外は何もない。自分で解答欄を作りながら解答することになった。苦手な上にさらに負荷が掛かった。このような受験方式は、地元で東北大の模試などを受けない限り、当時は知り得ない情報だった。

 

物理は、第1問は、凹球面上を滑って仰角シータ(θ)で飛び出す球体の運動を問うもので完答。だが第2問、上下2つのばね振り子に宙づりにされたコンデンサが単振動するときのコンデンサ内の電子の運動を問うものだった。フックの法則と電気の融合問題である。「文系に出す問題かっ!妙な実験しやがって!」と思った。よく取れて60%くらいだった。

 

数学だけが見積り通り80%以上とれたが敗北は見えていた。試験終了後、仙台市内の観光もせず、大学本学を見学することもなく帰途に就いた。ただ、この街を離れるとき「もう来ることは無いかな?」と思った。

 

小倉に戻ってから10日くらいが過ぎた頃「ミチノクノユキフカシサイキイノル」(陸奥(みちのく)の雪深し再起祈る)という不合格電報を受け取ることになった。

 

それから44年以上が過ぎたが、未だに再起できていないようで仙台の街には行けていない。