冬が近づいても、国語と社会(世界史・日本史)の学習は捗々しくなかった。というより、殆ど勉強しなかった。12月に入りそろそろ志望校を決める時期になった。所謂、三者面談である。
面談で父が西高に来た。随分久しぶりだったろう。昔々西高定時制に在学していたからだ。W先生は「国立Ⅰ期は神戸にせんか?神戸はいいぞ!それに東北は今まで受けた者が居らん!」と仰り、また「行きたい大学には大学院で行きゃあいい!」とも仰った。「W先生、昔神戸に居ったことがあるんかな?!」と思った。
第一志望の東北大・法学部を変更する気は全くなかった。それは自分なりに勝算があったからである。ただ国立Ⅱ期は北杜夫縁の信州大・人文学部、私立は同志社・法学部を受けることにした。同志社は福岡で受験することができたことも理由である。
当時の東北大・文系の配点は以下のようになっていた。国語(120点)、数学(100点)、英語(120点)、社会(60点×2科目=120点)、理科(60点)の合計520点。法学部の合格ボーダーラインは300点前後(約58%)だった。
そして、私の勝算とは、数学・英語・物理で80%以上とる。たとえ国語と社会が35%しか取れなくても、合計で308点となりどうにか合格できる。さらに数学・物理で高得点が取れれば楽勝!!というものだった。何ともはや安易な見積りである。
年が明けて1977年に入った。自習や自宅学習も増え、自宅に居ると焦るばかりで、気晴らしに市立図書館でRやYなどと自習することもあった。ただ、あまり効率は上がらなかった。
2月中旬、同志社・法学部を受験した。数学を選択したが、2問中1問が苦手な確率で失敗し見事に玉砕した。「数学にはリスクがある!」ことを思い知らされた。私の勝算が根底から揺らぎ始めていた。
当時、国立Ⅰ期校の入試は、3月3日から3月5日の3日間だった。「雛祭り」に始まり終わった翌日が「啓蟄」というスケジュールである。父が頼りない長男(私)のため、休暇を取って仙台まで同行することになった。ブルートレイン「富士」で小倉から東京まで行き、山手線・京浜東北線などで上野に出る。上野から東北本線の特急で仙台へ行く、という行程だった。
上野駅で少し時間があったので、父と上野公園を散策して東京国立博物館へ立ち寄った。何か仏教関連の展示会が催されてた記憶がある。様々な仏像を眺めていると焦っていた心が次第に落ち着いてきた。そのとき「古代や中世の日本史は勉強したら面白いかも知れない!」という発想が浮かんだ。
その後、東北本線の特急に乗り、夕刻「杜の都」仙台に到着した。だが、そこには想像を絶する光景が待ち受けていたのである。