当時の京大経済学部の定員は200名、その年の応募者は840名ほど、公表倍率は4.2倍だった。入院中の父は病院の許可をとり京都にも同行した。但し、今回は頼りない長男の付き添いではなく、長男の剣道の試合を観戦に行く父という感じだった。宿泊先は父の会社指定の「聖護院荘」という旅館だった。
1978年3月1日(水)。
先行の新幹線が京都-米原間で雪により遅延したため、新大阪から新快速に乗り換え京都に着いた。タクシーで旅館に着いたのは午後3時くらいだった。「聖護院荘」から京大構内まで歩いて10分ほどだった。父と散歩がてら京大に向かった。
当日の天気は晴れ。「ナカニシヤ書店」の角を西に曲がると京大の「時計台」が見えた。その佇まいに少し身が引き締まった。構内に入ると受験する教室が割り振られていた。私の受験番号は22番、割り振られた教室は「法経第1教室」すなわち時計台そのもの「時計台教室」だった。試験のスケジュールは、1日目が国語⇒数学、2日目が英語⇒理科、3日目が社会だった。
1978年3月3日(金)。
試験開始前、時計台の周辺で参考書を見ていると北予備の同じクラスのHが「〇〇!経済に変えたんかっ!」と声を掛けてきた。「うん!H君もっ!」と聞くと「僕も変えたよ!他にも経済に変えた奴が居ったぞ!」と言った。北予備内での経済の競争率が上がっていた。このH。倉高卒、現役で一橋・商を受験、北予備では常に5~6位以内のトップクラスの生徒だった。模試で彼に勝ったことは一度もなかった。「Hも経済かぁ~!」と少しため息が出た。
1科目目:国語。古文⇒漢文⇒現国の順番で解くのが定石である。その古文。設問はたった1問「全文を現代語に訳せ」だった。こんな設問見たことがなかった。要旨は「ある枇杷が大好きな尼さんがいて、枇杷の種が無くなるよう毎日神仏に祈願しているのだが、何時になっても種が無くならないのを嘆いていて……」のようなものだった。漢文は白居易の「茘枝図」。茘枝はライチのことで、また果物か!と思った。現国のうちの1問は森鴎外の「智慧袋」だったと記憶している。まずまずのできだった。
2科目目:数学。たまたま全問を掲載しているサイトを見つけた。
スッと解けたのは第3問だけ。第1問の不等式は結局微分で解いた。第4問は「自叙伝(その29)-複素数との戦い」での思考が役に立った。第2問、第5問も完答には至らず。第6問には手も出なかった。よくいって60%程度か?ほぼ敗北だった。「ダメかっ!」と思った。
だが、この数学、フィールズ賞を受賞した広中平祐が作成した問題もあったらしく青息吐息の難問が並んでおり、試験終了後、受験票を破り捨てて出て行った受験生も数名いた。
教室を出るとHに会った。「できたっ?!僕は第1問の不等式は微分して解いたよ!」と言われたので「僕も微分で解いたっ!」と答えた。「第4問は何とか解けたけど第6問は手が出んかった!」と言うと「僕は逆だ!第4問の方が難しかった!」とHは答え、最後に「〇〇!お前受かるぞっ!」と私の肩を叩いた。嬉しい言葉だった。残り2日間にファイトが湧いた。
1978年3月4日(土)。
1科目目:英語。特に難しいところは無かった。模試程度の出来栄え。75%前後か。
2科目目:理科。物理で1か所勘違いした。地学は第1問が天文から、ケフェウス座アルファ(α)星についての問題だった。まあどうにかなった。
1978年3月5日(日)。
1科目目:社会。世界史は75%程度。東洋史、西洋史は大体ヤマが当たった。東洋史では前漢・武帝など中華帝国と匈奴の抗争の歴史が問われた。日本史は70%弱。上杉謙信の出家前の名前「長尾景虎」や「米沢興譲館」が問われた記憶がある。大体予想通りの出来栄えだった。
旅館に戻ると、父が帰る準備をして待っていた。「ステーキでも食べるかっ!」と近くのレストランに入った。全く食欲が無かったが、父が「とにかく、テキ(敵)だけでも食えっ!」というので、験を担いで無理して口に入れた。
新幹線で小倉へ、自宅に戻ったのは午後7時くらいではなかったか?母は「今日は早よう寝て京都の夢でもみんさい!」と言った。体重計に乗ると4キロほど減っていた。風呂に入り8時過ぎから死んだように寝た。
目が覚めたのは翌日の午後1時過ぎ頃だった。途中目覚めることもなく17時間ほど寝たことになる。炬燵にボーっと座っていると、ある報せが入ってきた。