自叙伝(その35)-啓蟄-受験戦争の終結 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

1978年3月6日(月)。

その日は二十四節季の「啓蟄」だった。冬籠りの虫が這い出る時節である。約3日分の眠りから覚めた私は、居間の炬燵でコーヒーを飲みながら、京大の試験のことや国立Ⅱ期の横浜国大のことなどに思いを巡らしていた。父は黙って新聞を読んでいた。

 

その時、電話が鳴った。電話機は台所にあり父が立ち上がって受話器を取った。「もしもし… … …そう!合格!… … …はい!どうもありがとう!」と言って電話を切った。「合格」の言葉だけが耳に入った。父は「おい!〇〇!早稲田の政経、合格っちぞ!法はダメやったみたいや!」と言った。その日は早稲田の発表日で合否電話を頼んでいた。完全に忘れていた。

 

私は「えっ!嘘やろっ!」と答えた。確かに、法は国語の「モーツァルト」にやられたが、政経はアフリカ史以外、大きな失敗は無かった。ただ電話だけでは信じられず「千葉の叔父さんに確かめに行ってもらえんやろか?!」と父に相談した。父はすぐに千葉県柏市に住む叔父に電話し、私の受験番号を告げて早稲田に行ってもらうよう依頼した。叔父はフリーの建築士で時間に融通が利いた。

 

夕刻、叔父から電話があり、早稲田の政経に間違いなく合格していることがわかった。また、電話で叔父と話すと「横浜国大より早稲田の政経の方が上だぞっ!」とアドバイスしてくれた。父と相談すると「京大がダメなら早稲田の政経に行けっ!」と言った。この時点で私の受験戦争が終わった。前年、仙台から小倉に帰ってきてちょうど1年だった。

 

父が入院中であるにもかかわらず、同志社に入学金を払ってもらっており、さらに早稲田にも払ってもらう有難みなど当時の私は全く感じていなかった。家計に脳天気な受験生だった。修行僧のの爪の垢を煎じて飲むべきだったのかも知れない。

 

当日、北予備に早稲田の結果を連絡、またYに連絡し、翌日北予備で会うことにした。Yは既に東京理科大の合格を決めており、彼の九大の手ごたえも知りたかったし、自分の京大のことも話したかった。

 

翌日、Yと北予備で会った。受験に関して話は尽きなかった。ただYの話を聞くより自分の話をするのに精一杯だった。それはYも同じだったろう。Yの話で覚えているのは世界史で「地図」が出て都市の名前を聞かれた、ことくらいである。本ブログの読者でもあるYのために、その年の九大理系の数学の全問題を以下に掲載する。

 

http://server-test.net/math/php_q.php?name=07_kyushu&v1=1&v2=1978&v3=1&y1=1978&n1=1&y2=1978&n2=2&y3=1978&n3=3&y4=1978&n4=4&y5=1978&n5=5&y6=1978&n6=6&y7=0000&n7=0

 

自宅の最寄りのバス停近くに「ブックス熊谷」という書店があった。当時、そこには私より年上の美人の姉妹がいた。北予備からの帰り時々立ち寄った。京大の受験終了後、そこで井上靖の「楼蘭」を買ったことを覚えている。ただ、結局この本を読み終えることはできなかった。

 

 

九大の合格発表日は3月15日(水)だった。だが、私は京大の合格発表が3月20日(月)までに行われるとの認識があっただけで、実際の合格発表日を知らなかった。これがあるハプニングを引き起こすことになった。