1978年3月15日(水)。
久しぶりに四人組が集まった。その日はYの九大の合格発表日、またSの九州芸工大(現・九大・芸術工学部)の合格発表日でもあった。博多駅からSは一人で大橋の九州芸工大キャンパスへ、Y、R及び私は箱崎の九大キャンパスへ向かった。往路か復路か路面電車を利用したように思う。
Yは九大・工学部・応用原子核工学科に見事合格。掲示板が近づくと、我々が後ろで見守る中、まずYの眼が受験番号を追いかけそれに身体が付いていった。それから……。ガッツポーズをとるYの姿があった。北予備で1年間ともに苦労した戦友の勝利だった。一方で、Sは残念ながら九州芸工大の合格は成らず、国立Ⅱ期の九州工大との戦線へと戻って行った。
その夜、門司のYの自宅で飲んだ。慰労会・兼祝宴である。御父上が「白魚」を買って帰られた。生まれて初めて「白魚の踊り食い」を体験したが、ちょっと気味悪かった。ご家族皆嬉しそうで、Yが御父上と酒を酌み交わす姿が羨ましかった。
1978年3月18日(土)。
Yから「『未知との遭遇』を観に行かんかっ?」と誘いがあり、予備校で待ち合わせた。待合わせ時刻は13:30頃だったろうか。
予備校に着くと、壁に京大合格者の氏名が貼り出されていた。経済学部もHなど2~3人の名前があったが私の名前は無い。「えっ!発表今日やったんか?!」と焦った。Yは隣にいた。慌てて公衆電話で自宅に電話すると祖母が出た。「ばあちゃん!電報来とらんっ?!」と聞くと「いいや!何も来とらんよっ!」と答えた。「とにかく、タクシーですぐ帰るけっ!」と言って電話を切った。
Yに「一緒に来てくれ!」と言い、北予備を出てタクシーで自宅に向かった。タクシーの中「やっぱりダメやったか!」という気持ちが押し寄せてきた。「ダメなら早稲田に行くんだ!」と何度もお経のように唱えながら気持ちを落ち着かせた。
自宅に着いてタクシーを降りたその瞬間、母が玄関から飛び出してきた。「〇〇ちゃん!受かったよ!京大受かったよ!」と叫んだ。今、電報局から電話があったらしい。「ヤッターっ!」と家に入り、Yと抱き合った。Yは「俺はお前を尊敬するっ!」と言った。
母が北予備に連絡すると、担任のS先生は「えっ!阪大じゃないんですか?!」と何度も聞き返したらしい。阪大も同日合格発表だった。実は、北予備にもS先生にも京大に変更したことは黙っていた。自宅を出てYと予備校に向かった。S先生から「落ちとったら承知せんところだったぞっ!でもよくやったな!良かったな!」と言われた。
結局、北予備から京大文系には、文学部2名(田川高1名、下関西高1名)、経済学部6名(倉高2名、東筑高2名、門司高1名、そして小倉西高1名)の計8名が合格した。法学部はゼロだった。
その後にYと観た『未知との遭遇』の内容はあまり覚えていない。ただ、そのタイトルは、大学入学後、私とYに起こる様々な出来事を暗示していたかのようだった。
当時、解散目前のキャンディーズの「微笑みがえし」という曲が流行っていたが、この年に高校入試や大学受験、また就職など、人生の節目を迎えた人には思い出深い曲だろう。
父が他界してから13年余りが経ち、また先月、母の三回忌の法要を行った。今月やっと父母の遺品や古い家具などを処分し始めたところである。そんな中、母の遺品にある封筒を発見した。その中に後生大事に保管されていたものは、私と弟の高校時代の通知表と私の京大の合格通知だった。
2021年6月初めから、中学3年の後半から大学合格まで(1973年9月頃から1978年3月まで)4年半余りの自叙伝を書き綴ってきた。自分の記憶が確かなうちに何処かに記録を残しておきたい、と考えたのが動機である。
記憶の一片が思い出せれば周辺の記憶も芋づる式に浮かび上がってくる、ということがわかった。夢の尻尾を捕まえるのと同じである。五木寛之の「孤独のすすめ」にも同じようなことが書いてあった。蓋し、人の記憶とは魔訶不思議なものである。
暫く経ったら、また何処か別の時代の自叙伝に挑戦したいと考えている。なお、本自叙伝の記述は特定の個人や法人(学校法人など)を誹謗・中傷するものではないことを付記しておく。
最後に、中学時代の家庭教師の千鶴さん(小倉高25期)、当時の小倉西高の教職員の方々および北九州予備校の教職員の方々、並びに小倉西高29期の親友たち、その当時および現在のご家族の皆様、また、北九州予備校でともに学んだその他の戦友たちに感謝の意を表したい。
同時に、本自叙伝を、現在小倉西高に在学する高校生、および北九州予備校に在学する受験生に捧げることとしたい。
流離の翻訳者