自叙伝(その37)-(補遺)夏の強行軍-神話の国へ | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

自叙伝を書き終わった翌日、こちらでは梅雨が明けた。昨日の会社帰り、電車の中から大きな入道雲を見た。随分久しぶりだった。やはり梅雨よりは夏が良い。

 

 

自叙伝を終えてから、当時のエピソードで書いておくべきことを幾つか思い出した。やはり貴重な記憶は何処かに残しておきたい……、と考え、今後不定期にこれらを「補遺」として綴ることにした。こちらもお付き合いいただければ幸甚である。

 

私にとって、やはり高校2年時が出来事満載の最も貴重な一年だった。まずは、その夏休みのエピソードを書いてみたい。

 

 

高校2年の夏休み、父と弟(当時中学2年)と3人で大山登山に行った。この旅、3泊4日ではあったが、往路・復路とも車中泊とかなり強行軍だった。何故父がこんな旅程を組んだのかは今も不明だが、私の記憶にしっかり残る旅となった。

 

当時、山陰本線に「さんべ」という列車があった。小倉⇔米子間の急行である。午後8時頃小倉から「さんべ」に乗り、午前6時くらいに米子に着いた。座席で眠るのは中学の修学旅行以来だったが、良くは眠れなかった。

 

米子駅を出たところの食堂で朝食をとった。駅から「大山寺」行きのバスで大山の麓に着いた。父の会社指定の旅館に行き、荷物を置き登山の準備をして、旅館から弁当をもらって登山口へと向かった。天候は晴れ。登山口へ着いたのは午前9時頃だった。

 

大山は標高1,729メートル。夏山登山が有名で軽装でも登れる。所要時間は登りが3時間程度、降りが2時間半程度である。

 

木々の間の登山道を淡々と登ってゆく。石が多くて登りにくいところもあった。登り始めは3人一緒だったが、時間が経つにつれ弟⇒私⇒父の順番になり、その間隔も広がっていった。途中、水が飲めるところや雄大な景色を望めるところもあり、初めての本格的な登山だったが「きつい!」よりも「楽しい!」の方が多かった。

 

登山の途中、雲が自分を通り過ぎて上に流れていくこともあり、そんな経験も新鮮だった。8合目あたりから景色が開け頂上が見えてきた。気温は秋のように涼しくなった。頂上に着くと赤トンボがたくさん飛んでいたことを覚えている。「ここはもう秋なんや~!」と思った。山頂には山小屋があった。山小屋の近くに座り3人で弁当を食べた。

 

山を降りて大山寺の街に戻ったのは午後3時頃だった。川のそばに「かき氷」の店があり3人で食べた。父は夏でも冷たいものはあまり摂らない人だったが、さすがに暑かったようで「久しぶりの氷やっ!」と言いながら喜んで食べていた。

 

旅館に戻って横になった。汗を落とす暇もなく私も弟も眠ってしまった。2時間くらい寝ただろうか?父から「そろそろ起きて、風呂でも入って来い!」言われて目が覚めた。

 

翌朝、旅館を出てバスで大山寺から米子へ。米子から国鉄で松江へ。松江では観光バスで松江城や小泉八雲記念館を巡り、何処かで安来節の踊りも見た。観光バスを降りて、今度は一畑電鉄で「松江しんじ湖温泉」から「出雲大社前」へ。出雲そばを食べ、出雲大社に参詣した。

 

出雲大社を後に一畑電鉄で「出雲市駅」へ。すぐ側の「出雲駅」に着いたのは午後7時くらいだった。駅辺りで食事をとり、再び急行「さんべ」で出雲から小倉へ。翌朝6時過ぎに小倉に着いた。

 

タクシーで自宅に戻ると、今度は、私も弟のすぐさま制服に着替えて学校へ。実は、その日は私も弟も登校日だった。当時は夏休みに1~2回登校日があった。

 

学校に着いてからのことはあまり覚えていないが、登山で真っ黒に日焼けした私に、友人から「何処の海に行ったん?」と聞かれて「いや!山登りに行ったんよ!」と答えた。旅行の時期は恐らく1975年8月8日(金)から8月11日(月)。まさに猛暑の候であった。

 

 

この大山登山、私の記憶に強烈なイメージとして残った。また出雲、松江、米子など山陰の街に郷愁に近い感情を覚えるようになった。以来、大山登山4回を含め、この地域に5回訪問している。