自叙伝(その38)-(補遺)忘れじの放課後 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

これも物理のY先生に関することなので、高校2年時の話である。なお、本Articleでは四人組のYも登場するので、混同を避けるためにY先生を先生と表記することにする。それにしても、高校2年にはエピソードが多い。

 

当時、私はクラスで「学習委員」のようなものをやっていて、中間考査・期末考査などの時間割が職員室前の掲示板に貼り出されると、それを教室の後ろの黒板に書くことが多かった。

 

例えば、1日目。「古典」⇒「英作文法」⇒「倫理・社会」のような時間割を書くと、クラスのある生徒が「どっ…泥沼やのう~」と嗚咽していた。確かに、この3科目を全て一夜漬けでやろうとすれば確実に「泥沼」になる。

 

 

2学期の中間考査だったろうか?おそらく197510月頃、ある珍事が試験前日に発生した。

 

その日、たまたま6時限目が休講になった。一夜漬けのためできれば早く帰りたいと思うのが人情である。5時限目の授業をサボって4時限目で帰れば3時間近く稼げる。そんな姑息な行動をとった生徒が男女合わせて10名ほどいた。

 

但し、問題は5時限目の授業だった。かの熱血教師の☹先生の「物理」だった。Rから相談を受けた。「帰って大丈夫かのう~?」と。私は「☹先生の授業やけっ、やめとけっ!」と助言した。Rは私の助言に従って思いとどまった。しかしYは、悪友たちの口車に乗せられ☹先生の授業をサボって帰宅した。

 

実は、1学期の終わり、夏の高校野球の地区予選で、男女2名の生徒が無断で☹先生の授業をサボって西高の応援に行った。☹先生は烈火の如く怒り、その生徒たちにビンタを食らわし「出てけっ!お前らにはもう授業受けさせんっ!」と叱責した。結局、二人が泣きながら土下座して☹先生に詫びてどうにか許してもらった、という事件があった。「サボったらタダじゃ済まんやろなぁ~」と考えるのが自然である。

 

5時限目の☹先生の授業が始まった。案の定、☹先生は生徒の数が異様に少ないのにすぐに気付き、4時限目には居て5時限目に居なくなった生徒を特定した。

 

翌朝、教室には、疲弊しきった数名の生徒たちの姿があった。Yに聞くと、なんと☹先生、6時限目の授業終了後、サボった10名ほどの生徒の自宅に電話をかけ、親を通じて全員を学校に呼び出した。

 

その後、彼らに対して5時限目と同じ授業を行った。遅れてきた生徒がいたため、途中で最初に戻って授業を行ったようだ。結局、授業が終わったのは午後8時近かったらしい。なお☹先生が行った授業は、もちろん、その中間考査の範囲外であった。

 

 

そんな放課後を知ってか知らずか、涼しい秋風が校舎を吹き抜けていた。