自叙伝(その31)-(補遺)修行僧と大黒天 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

西高同窓のAとは3年5組で同級、また中学も同窓だった。家も近くて時々顔を合わせるような間柄だった。小学6年頃に私の地区に移ってきた転校生で、地区の少年野球チームで何度か草野球をしたことがあった。かなり上手かった。

 

北予備での彼は苦学生そのものだった。頭を坊主刈りにし、朝刊を配達してから新聞販売店の重たい自転車で北予備に来る。雨の日は販売店の合羽を着て来る。午前中の必須科目の講義を受けて午後3時頃まで自習、夕刊を配達するため自転車で販売店に戻る。夕刊の配達が終わったら再び自転車で北予備に来る。午後6時くらいから9時まで自習して自転車で帰る。これを1年間継続した。まるで修行僧のような男だった。

 

Aの自宅は私の家よりも立派で家計が厳しいとはとても思えず、ご両親の躾か本人の意思だろうと思っていた。Aは高校3年時は文系だったが、文系の数学(数Ⅰ・ⅡB)と物理(物理Ⅰ)が得意で、これらの科目で受験できる国立理系を目指していた。彼の第一志望は東京水産大(現・東京海洋大)だった。

 

水産大志望で坊主刈り、新聞版売店の重たい自転車に乗っていたので、私のクラスのK(Aと中学が同窓)は「魚屋」と呼んでいた。夏のある日、KとE(Aとは西高で同級)が予備校の駐輪場に停めてあるAの自転車の荷台にブロックを積む悪戯をした。それを発見したAは「誰かぁ~っ!俺の自転車にブロック積んだ奴は!誰かぁ~っ!」と怒ったが、この時点ではAからKやEに対する反応は特に無かった。

 

数日後、今度はK首謀でAの自転車の荷台に空の石油缶を積んだ。Eと私はそれを見ていたが止めなかった。所謂「悪意の第三者」である。石油缶を発見したAは「誰かぁ~っ!俺の自転車にドラム缶積んだ奴は!誰かぁ~っ!」と怒り、「お前らっ!覚えとれよっ!」と叫んだ。

 

その翌日、Kがたまたま駐輪場に行くと、K自慢の組立式の自転車が完璧に分解されていた。そこにはモンキースパナを持ってしゃがんで笑っているAの姿があった。

 

Kは怒り「A!貴様ぁ~ん!」とは言ったものの言葉に詰まった。仕掛けたのはK、報復されても仕方なかった。Aは「K!こんなんっちっ、後味が悪かろうがっ!」と言うと黙ってKの自転車を組立て始めた。AとK二人で30分くらいかけて元通りにしたようである。Aの生きざまを垣間見た気がした。

 

後にAと話すことがあった。Aに「〇〇!お前自転車のこと知っとったろうがっ?」と聞かれたので「お~知っとったよ!」と正直に答えた。Aは「まぁ~、お前にゃ数学と物理でいつも世話になっとるけ!何もせんっ!」と言った。但し、Eにどのような報復があったかは知らない。

 

Aは東京水産大、Ⅱ期の岐阜大・工学部ともに不合格で福岡大・工学部に進んだ。私が大学1年の夏休み、3年5組の同窓会で家に誘いに来た。髪は坊主刈りのまま、黒のサングラス、黒のボンタンに派手な白のアロハシャツを着て現れた。

 

2人で銀天街を歩いていると……、案の定、チンピラ風の輩が「兄ちゃん!え~シャツ着と~のぉ!わしのシャツと替えてくれんなっ!?」とからかってきた。Aは「そうですかっ!」と答えてニコッと笑って彼らをいなした。私はホッと胸をなでおろした。

 

何処か一本筋が通った笑顔が素敵な男だったが、その同窓会で会ったのが最後である。

 

 

閑話休題……。19771231日(土)大晦日。私は17時頃までYと自習して北予備を出た。その帰り道。綺麗な夕映えの中、奇妙な老人を見た。まるで七福神の「大黒さん」のような恰好で福袋を担いでいた。

 

その老人は、すれ違いざま私を見てニコッと笑った。「えっ!あれ何っ!追っかけてみるっ?」と思ったが、振り返らずに何歩か進んだ。「でもっ!」と思って振り返ると、もうその老人の姿は無かった。今もその正体はわからない。