自叙伝(その32)-ボーダーライン攻防戦 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

大晦日の夜から正月三が日、久しぶりにゆっくりと休んだ。松の内を過ぎた1月10日頃、12月に受けた進研模試の結果が来た。数学が189点/200点と思いもよらぬ高得点で偏差値が100を超えた。全国版の成績優秀者リストには全科目合計、国数英3科目合計および数学単独の3か所に氏名が掲載された。

 

初めて京大・法でA判定が出た。このとき「やっぱり京大を受けよう!」と決めた。また、少しでも合格最低点が低い経済学部に変更した。「赤本」に2回生進級時に転学部が可能と書かれていたからである。この志望校の変更を父も母も二つ返事で承諾してくれた。

 

ここまで来たら頑張るしかなかった。問題は理科の2科目目である。当時の京大の配点(時間)は、国語200点(150分)、数学200点(150分)、英語200点(150分)、社会100×2科目=200点(150)、理科50×2科目=100点(90分)で、合計で900点、法学部・経済学部の合格最低点は530点前後(59%程度)だった。

 

しかし、よく見れば理科の2科目目は50点/900点=僅か5.6%程度、科目別に足切りがあるわけでもなく「恐るるに足らず!」と判断した。それなら好きな天文学がある「地学」にしようと決めた。高校1年時、星を見て様々な想いを馳せていた頃を思い出し、高校2年時の教科書「地学Ⅰ」を読み始めた。

 

さらにもう一つ片づけるべき科目があった。「現国」である。今まで一度もまともに勉強したことが無かった。これについては薄い問題集に取り組むことにした。選んだのは「現代国語の解法ルール48」(小島英男著・洛陽社)というものだった。この問題を1日1~2問じっくり解くことにした。

 

1978年1月中旬、やっと全科目の戦闘態勢ができあがった。国立Ⅰ期の入試は3月3日~5日(3日間)。本番まで1か月半ほどあったが、2月中旬に同志社(法)、下旬に早稲田(政経・法)の入試を挟んでおりあまり時間は無かった。

 

この頃、予備校ではオプション的な「直前講義」を実施していたが、基本自宅で勉強していた。朝は9時頃起き、祖母が作った朝食を食べて10時頃から勉強、午後1時くらいに昼食を食べて2時頃から勉強、7時頃に夕食(父はまだ入院中)、午後10時前くらいから午前3時くらいまで勉強して就寝というスケジュールだった。

 

一日13時間くらい勉強して6時間程度睡眠をとっていた。とにかく毎日、国・数・英・社・理を必ず(社・理については最低1科目)こなすようにした。気が付けば2月に入っていた。

 

 

この頃、必ず観ていたテレビ番組が「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」だった。サーカス団の団長のような「ベンジャミン伊東」(伊東四朗)の「デンセン音頭」など、くだらないと思いつつも楽しんで観ていた。

 

また、この番組にレギュラーで出演していた「キャンディーズ」の解散も間近に迫っており、ミキ(藤村美樹)が初めてセンターに立った「わな」という曲が流行っていた。

 

「わな」でリフレインされる「♪~~でも、あいつはしくじった~~♪」という歌詞がボーダーライン攻防戦最中(さなか)の私の耳に痛かった。