ここで、四人組Yの状況に少し触れておきたい。
Yは9月くらいまでは第一志望を神戸大・工学部にしていた。『そして神戸』のEと同じである。しかし秋が深まる頃、九大・工学部・応用原子核工学科に変更した。彼は物理が得意だったのでその辺に理由があるのかも知れない。また、国立Ⅱ期は九州工大、私立は本命が東京理科大、他、同志社・理工あたりを志望していた。
2月中旬、同志社の地方試験でYと一緒に博多に行った。私は、前年の数学での失敗を受けて、私立文系は全て世界史で受けることにした。世界史なら悪くても60%は取れる。試験会場は親不孝通り近辺の予備校だった。2人ともそこそこの出来だったと思う。試験終了後、二人で太宰府天満宮に参拝した。最後の神頼みだった。
冷たい季節の中、時はアップテンポで過ぎてゆき、気が付けば早稲田の入試が迫っていた。行きの新幹線の中でのエピソードは「自叙伝(その25)-ある教師と数学の精鋭たち」に書いた通りである。
東京での受験は、K、E、その他Eの幼馴染みの輩たちと一緒だった。代々木あたりのホテルに宿泊し早稲田の政経・法と受験した。当日、山手線を高田馬場で降り「早大正門」行きのバスに乗った。そのバスの中、数名で北九州弁を話していると……、満員であるにもかかわらず、乗客たち(殆どは受験生)が次第に我々の周りから離れて行った。どうも方言が怖がられていたようだった。「東京の奴らにまず一勝!」と思った。
終点でバスを降りると「大隈講堂」が目に入り、その後ろに茶色っぽい講義棟が連なっていた。「これが早稲田かっ!」と思った。早稲田ではボールペンで答案を書かなければならなかった。大学の試験や国家試験などと同じだが……、少し抵抗があった。
試験問題はあまり覚えていない。確か、政経学部の世界史でアフリカ史が出題され、民族運動の指導者の名前や団体名が問われた。「そんなもん知るかっ!」と思った。
また、法学部の国語で小林秀雄の「モーツァルト」のある章の文節をバラバラにしたものを正しく並べ替える問題が出た。「こんなもん!読んだことある奴じゃなきゃわからんわっ!」と思ったが、この問題……、その後「歴史的な悪問」と評されることになった。
英語は、政経も法もさほど難しくは無かった。だが「私立文系一本でやってきた東京の奴らには負けたかなぁ~?!」が正直な感想だった。
早稲田・法の受験日の翌日が同志社の発表だったので、東京に1泊して新幹線を京都で降りて同志社に発表を見に行った。発表は午前中だったが着いたのは午後、受験生もまばらだった。初めて自分の受験番号が書かれている掲示板を見て「これで二浪は無くなった!」と思った。
同志社を後にして……、京大を下見しようと今出川通りを東に歩いた。かなり歩いたがメインキャンパスの北側を通り抜けたようで時計台が何処なのかもわからなかった。気が付けば銀閣寺近くまで来ていた。夕刻が迫っていた。古本屋を2・3軒覗くと京大の古い「赤本」が結構置いてあった。「買おうかっ?でも、もう遅いかっ!」と思った。
京大入試まで残すところ1週間となっていた。