自叙伝(その25)-ある教師と数学の精鋭たち | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

この1977年という年、実は全ての受験生にとって「背水の陣」の年だった。何故なら翌年度から「共通一次試験」が予定されていたからである。旧制度入試の最後の年であった。

 

 

北予備にも個性溢れる教師たちがいた。まず挙げるべきは数学のY先生である。

 

数学の授業は基本的に問題演習が中心で、当日講義される問題の解答を休憩時間中に生徒が率先して黒板に書き、それを先生が批評・解説されるという形式だった。私も数列、ベクトルなど好きな分野で何度か前に出て解答を書いたが、あるとき「ほ~らっ!間違ごうたっ!」と指摘されたことがある。

 

Y先生は理系特Aの担任だった。東大卒とか、愛煙家で肺が片方しかないなどの噂もあったが真偽は不明である。当時で40代後半くらい、ドスの効いた低くて響く声で厳しく指導された。

 

何処からか仕入れたような妙な解き方や表記をすると「教科書に書かれてる通りに解きなさいよっ!あんた!そんなことやから〇浪もするんよっ!」とか「ちょっと!あんた!一次変換を何と思うとんかねっ!」など相当厳しく指摘された。一方で「まあ、こんな高校入試みたいな問題を出すようならこの大学も終わりやねっ!」や「この出題者!こんな図書かせて、受験生をバカにしとんのかっ!」など大学側を批判することもあった。

 

この迫力は、解答を書いた生徒だけでなくクラス全体に沁みわたり、数学が好きな私に心地良い緊張感を(もたら)した。このY先生の授業を通じて、どれだけ自分の誤った認識を正していただいたか知れない。

 

「そんなことやから〇浪もするんよっ!」と言われたのが、倉高出身、東大文Ⅰ一本で3浪していたIさんである。いつも角刈りのような短い髪型だったので、我々はコッソリ「板前」とか「板前カット(イタカツ)」と呼んでいた。

 

このIさん、実に真面目で我々年下にも優しく、いつも真摯に授業を受けられていた。一方で、北予備のソフトボール大会では名ショートと呼ばれるプレーで活躍したと聞いた。私は夏休み2日間掛けて考えたある数学の仮説(三角関数と数列)の真偽をIさんに確認に行ったことがある。この件はいずれ何処かで書こうと思う。

 

「一次変換を何と思うとんのかねっ!」と言われたのは、こちらも倉高出身のG君という生徒だった。現役では東大文Ⅲを受験していた。以前から「将来は学者になりたい!」と言っていたと聞いた。文Ⅲ(文学部)志望だったが数学が相当強かった。様々なアイデアの別解を披露し参考になることも多かったが、時々Y先生の逆鱗に触れることがあった。

 

G君とは、早稲田を受験するときの行きの新幹線でたまたま会った。「何処にした?」と聞かれたので「京都の経済にしたよ!」と答えた。彼は「そうか!僕は文Ⅱにしたよ!」と言い、また「これから一か月近く東京なんよ!早慶と東大の一次二次で、ずっと東京!」と言った。「頑張ろうね!」とお互いを励ましあって別れたのが最後である。

 

 

その春、Iさんは東大文Ⅰ、G君は東大文Ⅱに合格した。Iさんは東大法学部卒業後、上級職で北九州市に入ったが、数年勤務された後に弁護士になったと聞いた。またG君は、東大経済学部卒業後、清水建設に入社、今も勤務されているかも知れない。