自叙伝(その26)-戦友とマドンナたち | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

予備校と言っても、勉強ばかりの灰色の毎日が続いていたわけではない。周りに友人(戦友)もいたし、それなりに楽しいこともあった。

 

クラスでは西高同窓のE、中学同窓で倉高出身のK、その他Kの倉高の友人たちとも次第に話すようになった。ただ、入学当初、トップクラスの生徒たちと話すことは殆ど無かった。午後の自習時間は四人組のYとほぼいつも一緒に自習していたので、西高同窓の理系の生徒たちとも仲良くなっていった。実習室には、大抵午後8時頃まで居た。

 

 

少しテレビドラマに話題を転じる……。以前「破れ傘刀舟悪人狩り」の話を書いたが、この続編の「破れ奉行」の放送開始が1977年4月、終了が1977年12月。なんと私の予備校時代の主要部をカバーしていた。主演は同じく萬屋錦之助、今回は、深川奉行速水右近という地位があった。鯨船と(もり)というアイテムも付加され、決め台詞は「天に代わって破れ奉行、てめぇらぁ斬る!」。実に痛快な物語であった。ストレスが多かったのか、勧善懲悪ものが面白く思えた。

 

私の周りのY、E、Kの間で水曜日は「破れ奉行」の話がちょこちょこ出ていた。このドラマの奉行出動の映像で鯨船を船頭が漕ぐシーンがある。Eは「あれは絶対人形が漕いどる!ようできた人形やなぁ~。」と言って譲らなかったが、今YouTubeで見ても間違いなく生身の人間が漕いでいる。

 

 

Eとは始めは紳士的(?)な付き合いだったが、暫くしてこの人物の面白さがわかってきた。Eの自宅にも遊びに行くようになり、Eと中学同窓で浪人中のユニークな友人たち(倉高、ラ・サール、熊本マリスト出身)とも知り合った。Eやその友人たちのことを書くと切りがなくなりそうなので、本Articleではこの辺までとしたい。

 

 

クラスに居た女子生徒で覚えているのは2人。1人は戸畑高出身の通称「マダム」。その名の通り大人っぽい雰囲気を感じさせる女性だった。もう1人は大分舞鶴高出身の「眠眠餃子」。髪型が唐子の女児そのままだったので私が名付けた。本人を直接呼んだことは無いが、私の周りでは普通に「ミンミン」と呼んでいた。 

 

このマドンナたち。「マダム」は同志社・文学部(英文科)に進み、卒業後はスチュワーデス(今でいうCA)になったと聞いた。また「ミンミン」は第一志望の北大・文学部に進んだが、当時付き合っていたらしい同じクラスの倉高出身の男子生徒は、第一志望の九大に落ちて、山口大に進んだらしい。女性は案外ドライに割り切れるのかも知れないが、そうでなければ、親から浪人させていただいている身、浪人中安易に恋愛などするべきではない。

 

 

勉強は4月、5月とハイピッチで進め公開模試でもそれなりの結果を出せたが、梅雨に入った頃に息切れしてきた。そして、7月半ばにはほぼ「スランプ」の状態になった。科目は違うが、これはYも同じだったようである。

 

 

ちょうど、山口百恵の「イミテイション・ゴールド」という曲が流行り始めた頃であった。