自叙伝(その30)-UFOの年明け | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

秋も半ばを過ぎるころ、ついに日本史の尻に火がついた。どうしても教科書が覚えられない… …。そんな時、既に九州工大の学生になっていた四人組のRが日本史の教科書を「黒ベタ」にして効果的に勉強していたのを思い出した。藁にもすがる思いで私はRに連絡を取った。

 

Rは「黒ベタ」の教科書を快く譲ってくれた。京町の喫茶「マヤ」でRと少し話したが、焦っていたのか何を話したか覚えていない。ただ、安易に「これで何とかなる」と思った。

 

しかし、Rの「黒ベタ」教科書で勉強してみたが、上手くは進まなかった。後に理解したのは、彼はそんな独自の教材を作る過程(努力)の中で用語などを記憶し、さらに独自の教材を繰り返すことで記憶を定着させていった、ということだった。すなわち「人の褌で受験は戦えない!努力無しでは決して勝てない!」ということを悟った。

 

以来、日本史のどの時代が自分は嫌いなのか、弱いのかなどを分析し、その時代を復習する、何とかして興味を持つようにする、のような真摯なスタンスに変更した。さらに「日本史は65%取れれば十分!」と考え、開き直った。

 

開き直りが功を奏したのか……、11月中旬の進研模試で国立文系13位、同月末の旺文社模試で7位を記録、北予備でのハイスコアを更新した。この時点で模試の判定は、京大・法=B、阪大・法=Aくらいまで上がっていた。それでもまだ理科の2科目目には全く手を付けていなかった。

 

12月初旬、北予備で3者面談が行われた。肺結核で入院していた父が、外出許可を貰って北予備に来た。病状は治癒に向かっており深刻では無かった。1階の壁にハイスコアを更新したばかり私の順位・氏名が貼りだされており、父も少しは鼻が高かったかな?と思った。

 

面談の中、担任のS先生はキッパリと「阪大・法学部なら太鼓判を押します!」と父に言った。父も私もそれを受入れ、第一志望は阪大・法、Ⅱ期は横浜国大・経済(経済法)とし、私立は早稲田、同志社をメインで受験することにした。

 

私は、部屋に貼っていた檄文を「必勝!京大!」から「必勝!阪大!」へと書き換えた。しかし、何となく阪大は気が進まなかった。何よりも大阪の街自体に興味が湧かなかった。それに国語・社会に論述部が多いこともあった。ただ、数学は京大とほぼ同レベル、単に理科が物理1科目で済むことだけがメリットだった。

 

12月中旬、京大オープンは受けず、最後の進研模試を受験した。時期的にも北予備からの受験者は少なかった。また、特に「できた!」という感触も無かった。第一志望を阪大・法学部にしたまま1977年は終わり、1978年が明けた。

 

 

「本当に阪大を受験するのかなぁ~?」という何かフワフワした気持ちの中、流行っていたのがピンクレディーの「UFO」という曲であった。