流離の翻訳者 日日是好日 -52ページ目

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

2004年末。クラスの忘年会には10名以上が集合した。私が幹事となり小倉・古船場町の「活魚 なべげん」を会場に選んだ。

 

 

2004年半ばから週末は独りで飲みに行くことが多くなっていた。その当時、ネオンサインに誘われてふらっと入ったのが「なべげん」だった。繁華街から少し離れた場所にあった。

 

いつも刺身と焼き鳥を頼み、ビールから始めて焼酎の水割りを何杯か飲んだところで2軒目のスナックへと流れていた。「なべげん」ではいつも「独り静かに飲む」スタイルを貫いた。

 

 

忘年会のその日も刺身の盛り合わせと焼き鳥その他一品類、それに名物の地鶏鍋をメインに酒宴が進んでいった。地鶏鍋には野菜がふんだんに使われており出汁も私の好みでクラスの仲間たちにも好評だった。

 

よく顔を出していたからか、大将や女将さんから日本酒や料理の差入れもあった。キャラはハイピッチで杯を重ねていた。また地鶏鍋の出汁が相当気に入ったようで焼き鳥や刺身まで放り込んで煮込んで食べていたが …… まあ、かなり出来上がっていた。

 

 

気がつくとキャラが宴席に居なかった。女性陣に確認するとトイレに入ったまま出てこないらしい。トイレで潰れているようだが、男ではどうすることもできなかった。

 

暫くしてキャラが女将さんや女性陣によりトイレから救出(?)されたが、酔った弾みで洋式トイレの陶製のタンクの蓋を落として割ってしまっていた。

 

とにかく大将と女将さんに謝罪し、時間的にも頃合いだったので宴会はお開きとしキャラを店から連れ出した。外は風もない静かな師走の夜だった。YTさんがご主人に連絡し車で迎えに来てもらいキャラを自宅まで運んだ。

 

思い出すのは夜の街、キャラが女性陣に保護され優しい顔で眠っていたことである。日本に来て1年余りの24歳のアメリカ娘の穏やかな微笑みだった。なお、タイトルのオイノー(OENO)とはギリシャ神話に登場する水を葡萄酒に変える女神のことである。

 

 

暫くしてまた「なべげん」に行った。トイレのタンクの蓋はガムテープで綺麗に補修されていた。私は「弁償させてください!」と申し出たが大将も女将さんも固辞した。大将は「あの可愛い外人さんのことは忘れない!」と笑っていた。

 

 

以後、事あるごとに宴会で「なべげん」を使うようになった。中学の同窓会や高校、大学の友人たちとも何度か「なべげん」で杯を重ねた。とは言いながらもう10年以上ご無沙汰している。

 

 

代替わりしているかもしれないが、そろそろ顔を出してみたくなった。

 

 

キャラと私には共通点があった。誕生日と血液型が一緒だった。同じ誕生日の人間とはそれまでの人生で殆ど出会ったことが無かった。また酒が好きという点も同じだった。

 

GEOS小倉校は駅前のビルの10階にあったが、キャラは時々生徒を引き連れ教室を抜け出しビルの屋上でレッスンを行うこともあった。屋上には小さな祠(神社)が設置されていた。商売繁盛を祈念したものだが、キャラは不思議そうに祠を眺めていた。

 

生徒によるプレゼンが始まって直ぐの2003年暮れ、クラスで忘年会を開催した。時期はキャラと私の誕生日前後の土曜日で場所は「小倉ホルモン」という焼肉店だった。店を決めたのは証券マンのJYでキャラに日本のホルモンを食べさせたかったらしい。

 

キャラはホルモンに抵抗を示すことは全くなくビールや日本酒をガンガン飲みながら美味しそうに平らげていた。

 

 

会社は2003年にISO9001認証を取得した。これにより事務手続きは標準化されたが面倒にもなった。ISOの人事や人材開発・教育業務への適用は一部に留まったが、自分が新規に創り上げた規定や制度などがISOに浸食されていくことに対して少し抵抗心を持つようになっていた。

 

しかし、その当時のISOの担当者(室長)が同社の代表取締役社長に就任したことを知ったのはつい先日のことである。

 

 

翌2004年、生徒によるプレゼンが定着し始める一方で、生徒の入れ替りも多くなっていった。2004年夏前後、ある生徒がクラスに入ってきた。地場の大手電機メーカーに勤務するYIという私と同年齢の男性だった。専門はロボット工学だった。

 

同じクラスの西高の先輩でもある年配女性は彼を mild-faced gentleman と表現したが、まさにそんな雰囲気の男だった。福岡・修猷館高出身で早稲田・理工卒。JYが東京に異動した後も、彼とは長い付き合いが続いており今も時々飲みやカラオケを楽しんでいる。

 

そしてもう一人YTさんという女性が入ってきた。北九州市の職員で、ご主人が郷里北九州へ転職・Uターンしたことに合わせて北九州市の中途採用試験を受験して入庁したらしい。彼女も早稲田・教育卒だと聞いた。フラメンコや花粉症のプレゼンは彼女によるものである。因みにご主人は小倉西高の後輩だった。

 

当時YTさんは小倉南区役所に勤務していたが、後に環境国際戦略部や企画部に異動、私が翻訳者になってからも翻訳・通訳の営業で訪問することになり、彼女とも長い付き合いになった。

 

 

そんな2004年の暮れ、会社での資格が1ランク昇格した。これも「標準契約書」や「自己啓発支援制度」の創設の功績によるものに思われた。

 

「自己啓発支援制度」に英検・TOEICを取り込んだことから若手の昇格試験に英語を取り込むことを企画し総務部長の承認を得た。

 

さてどんな問題を出そうかと考えた結果 …… 「あなたが現在担当している業務の内容を100語程度の英語で説明しなさい。」という問題とした。いわゆる自由英作文である。但し英和・和英辞典の持ち込みを可能とした。

 

昇格試験への英語の導入については賛否両論があったが、昇格対象者の競争心に火をつけたところもあり、同時に社内での英語学習意欲も高まり英検やTOEICの受験者も増えていった。

 

 

2004年暮れのクラスの忘年会は、小倉・古船場町の居酒屋「活魚 なべげん」で行った。キャラがこの店である事件を引き起こすことになった。

 

講師がキャラになって暫くして私は彼女にある提案をした。「毎回のレッスンで順繰りに生徒に英語のプレゼンをさせてみてはどうか?」というものである。

 

レッスンは45分×2=90分だったので、レッスンの最初の15~20分で生徒のプレゼンを行い、それに対する質疑応答などでレッスン前半を終了する。プレゼンのテーマは自分の仕事や趣味など何でもOKとした。なお、レッスンの後半は通常通り RAISE THE ISSUES に沿って進めるというものだった。

 

 

キャラは、その日のうちに私の提案を生徒に確認、生徒全員の了解を得た。全員が上級レベルの生徒であり、そんなプレゼンがやってみたかったようだった。翌週の最初のプレゼンは起案者の私が行うことになった。

 

 

週明けからプレゼンの準備に取り掛かった。何か日本的なものをやってみたかった。その頃覚えたばかりの単語でarchrival(最大のライバル・宿敵)というものがあった。その単語から浮かんだのが上杉謙信 VS 武田信玄の「川中島の戦い」(Battles of Kawanakajima)だった。とくに上杉謙信は、中国・魏の曹操と並んで私の好きな武将でもある。

 

Wikipediaなどで「川中島の戦い」について調べ、A4で4~5枚ほどの英文原稿を作成しプレゼンに臨んだ。出来はまずまずだったように思う。キャラが一番真面目に聞いていた。私のプレゼンにより以後の生徒のプレゼンのレベルが決まったように思えた。

 

 

なお、上杉謙信については頼山陽の漢詩「不識庵機山を撃つの図に題す」を10年以上前に若気の至りで英訳して以下のブログに掲載しているので追記しておく。

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-11086628064.html

 

 

以後、自分の仕事に関して中古の工作機械の輸出入の話とか、趣味のフラメンコについて、花粉症に悩む女性が花粉症の歴史ついて …… などなど各生徒のユニークなプレゼンが聞かれるようになった。

 

 

私について言えば、ミクロ経済学から「無差別曲線と効用関数」、1980年代のディスコ・ミュージック「怪僧ラスプーチン」(Boney M)をディクテーションさせた後ラスプーチンの生涯について、「元寇」について、インディー・ポップと癒し系音楽 …… などなど経済学や歴史について、極力学術的なプレゼンを行った。

 

 

キャラのレッスンも私もGEOS小倉校でだんだん有名になっていった。また英語プレゼンの内容も次第にブラッシュ・アップされていった。

 

Securities と答えたようにJYは最大手N証券の証券マンだった。年齢は私より5~6歳下に見えたが、その時私が感じたのは「今まで大変だったろうなぁ~」という同情に近いものだった。「N証券で5年生き残れたら面白い仕事ができる!」という伝説があった。以来、JYとだんだん親しくなっていった。

 

横浜近辺の県立高校出身で早稲田・政経卒。高校時代は柔道部だったらしい。彼の父親は京都府出身で京大・法学部卒、NHKに勤務していると聞いた。父親とはあまりコミュニケーションがうまくいっていないように思われた。

 

N証券の北九州支店はGEOSがあるビルの1階にあった。通学には最適な環境だった。JYは英会話の他にも、仕事で必要なようでパソコン教室でEXCELやACCESSの分析を学んでいた。

 

暫くして、彼には「日本語で話すときと英語で話すときとで人格が全く異なる」という妙な特徴があることを知った。日本語モードの場合は、寡黙で硬派なジェントルマンの風情があったが、これが英語モードに入ると一転、先生はからかう、下品な冗談は飛ばす、他の生徒は批判する …… などなど、全く別の人格が現れた。

 

不思議な男だとも思ったが「これが彼特有のストレス解消法なのかも …… ?」と思えるようになった。

 

 

出会って1か月くらいのうちにJYと差しで飲む機会があった。居酒屋である程度出来上がり、いつも通り2軒目はスナックでカラオケという流れになった。そこで彼が歌ったのが「軍歌」だった。それも1曲、2曲ではない。少なくとも10曲は歌った。「軍歌が好きなのか?」と尋ねると「軍歌しか知らない!」と真顔で答えた。昨今、実に稀有な男だった。

 

 

2004年の暮れが近づいた頃、彼は東京に異動になった。それから3年以上が経った2008年5月、私が㈱サン・フレア主催のTQEに合格してその説明会で上京したときに東京で飲んで旧交を温めた。このときJYはN証券関連の信託銀行に出向していた。以後、彼は何度か北九州に来てはともに軍歌を歌った。気がつけば私も軍歌ファンになっていた。

 

JYと最後に飲んだのが東日本大震災後の2011年の秋頃ではなかったか?彼は動脈瘤解離を患いその手術を経験した後、禁煙していた。私もその前年の2010年に健康上の理由で禁煙しており不思議な符合を感じた。

 

それから暫くして、JYから2冊の書籍が贈られてきた。何となく哲学的なものだった。お返しに5枚組の軍歌全集のCDをプレゼントした。彼はスマホにダウンロードして聴くと喜んでいた。

 

数年後JYはN証券を退職してテンプル大学(Temple University)のビジネススクールの日本キャンパスで勉強を始めたが、それから暫くして音信が途絶えた。病み上がりかつ独身でもあり今も気がかりに思うことがある。

 

 

彼が私に紹介してくれたのが「嗚呼神風特別攻撃隊」という曲である。残念ながらカラオケになっていない。YouTubeに曲があったので以下に紹介する。哀しくも激烈なメロディが素晴らしい。

 

管理部に異動した2003年の夏、たまたまNOVAの頃の知り合いとバスの中で会った。彼女は今ジオス(GEOS)に通っているらしい。少し興味を持った。

 

暫くしてGEOSに話を聞きに行った。上級のテキストは RAISE THE ISSUES(問題提起)というものでテキストの最初のテーマが「安楽死(euthanasia)」だった。かなり高度な内容に思えた。NOVAを卒業して2年が経っており気分転換を兼ねてGEOSに入学した。

 

その当時、現・担当者から業務引継ぎの最中だった。社員が随時受講する社外研修・講習の申込みや管理、秋の社内集合研修の企画、また前回の記事に書いた契約・法務業務の整理・文書化を始めていた。

 

2003年10月。「管理者研修」を実施した。テーマは「財務諸表の見方と財務分析」というもので講師には西南学院大・経済学部の教授を招聘した。過去3年間の自社の実際の財務諸表(貸借対照表・損益計算書)を材料に財務分析のケース・スタディを行うもので受講者から相当な好評を博した。

 

私は銀行で財務管理を学んだついでに日商簿記2級を取得していたが、この研修の受講者たちも簿記など会計学に興味を持った者が多かった。

 

 

それと前後して「英検準1級」の受験準備を秋口から始めた。2003年11月に受験し合格した。難しいものではなかったが、この「管理者研修」や英検準1級資格の取得が、翌年の「自己啓発支援制度」の構築のきっかけとなった。

 

 

ここで少しGEOSに話を戻したい。レッスンは担任制で最初の講師はキャシー(Cathy)というカナダ人女性だった。RAISE THE ISSUES を精読して講師の英語の質問に英語で答えるやや高度なものだった。基本的にグループ・レッスンの形式で生徒は毎回5~6名ほどだった。

 

レッスンは毎週土曜日の17:30~19:00頃までだったので、レッスン終了後、講師や生徒たちと飲みに行くことが多くなった。NOVAでは禁止されていた講師と生徒のプライベートな交流がGEOSでは黙認されていた。

 

当時よく行ったのが鍛治町のラッキー・ムーン(Lucky Moon)という居酒屋(バー)で外国人の溜まり場となっており、レッスンが終わってからも英会話を楽しむことができた。

 

キャシーの熱心なレッスンに慣れてきた頃、残念ながら彼女は帰国した。次に来日したのがボルチモア(Baltimore)出身のアメリカ人女性講師、キャラ(Cara)だった。当時大学を出たての22歳くらいの典型的なアメリカ娘だった。

 

さらに、2003年の秋に入った頃、ある生徒が我々のクラスに入ってきた。重たそうなリュックを背負っていたが、脚は裸足に革のデッキシューズ(石田純一か!?)靴も着ている服の上下もブランドは全て Polo Ralph Lauren だった。

 

私と彼(以後JYと呼ぶ)が交わした最初の英会話が以下のものである。

 

ME: What do you do?

 

JY: I’m working for a financial institution.

 

ME: Which financial institution, banks or securities?

 

JY: Securities.

 

 

以後、新しい講師キャラを囲んで私やJYを含むGEOSの上級レベルの生徒たちの間で、テキストを離れた独自のレッスンが展開されることとなった。

 

 

2003年3月。営業部から管理部・人事部門に異動し人材開発を担当することになった。社員教育や研修の企画・運営などである。現・担当者が同年末で定年退職するため引継ぎ期間を踏まえた早めの異動だった。営業部の直属の上司が、私の資質や文書化能力などを考慮して、私を同部門に推薦したと聞いた。

 

現・担当者から業務の引継ぎを受けながら、私は開発部門や営業部門勤務で感じていた問題意識を管理部の業務の中に具現化したいと考えていた。

 

 

その一つが契約・法務を管理する部門を社内に構築することだった。会社と他社(顧客)との間のシステムの開発・運用の請負や業務委託(準委任)、また他社への派遣出し、他社からの派遣受けなどである。

 

請負と業務委託の境界は微妙なところが多く、また派遣受けと絡むと二重派遣など違法となるケースもありデリケートな問題であった。2003年の秋頃から、総務部門長と協力してこのような契約形態を整理・文書化して役員への説明を行った。2004年の春過ぎ、最終的に契約形態ごとに「標準契約書」を作成し、全社員に対し数回にわたり説明会を開催した。

 

管理職含めて法務関連は全く知らないという社員が多く、顧客との様々な契約形態についての問合せが営業部門から毎日のように入るようになった。結局自分自身が契約・法務部門となった。忙しくはあったが、パートナーである総務部門長とは何度飲みに行ったか知れない。同い年だったが男気がある人だった。

 

 

そして、もう一つが社員が保有する資格・免許の洗い出しだった。従来、社内には情報処理関連資格の取得に対して報奨金を支給する制度があったが、近年きちんと運用されておらず有名無実となっていた。この制度を整備するには、まず社員がどんな資格・免許を保有しているのかを調査する必要があった。

 

こちらも2004年に入ってから、全社員に「情報処理に限らず業務関連の資格や免許を持っている人は申告してください」という旨のアンケートを実施した。

 

基本的に情報処理試験、各種ベンダー資格の他、日商簿記検定などの業務系資格や英検・TOEICなどの語学系など全ての資格・免許を対象とした。また、申告には証明書(CERTIFICATE)の提出を義務付け、紛失などの場合の再発行費用はすべて会社で負担することとした。

 

 

暫くすると ……、200名余りの社員から様々な保有資格・免許が申告されてきた。当然にして情報処理関連資格が大半を占めたが日商簿記2級・3級や販売士資格、英検2級取得者も結構いた。また、中学・高校の教員免許や危険物取扱者を保有する社員もいた。変わり種では自動車整備士や小型船舶免許また「潜水士」もいた。

 

茶道、華道や書道師範の免状を申告してきた女子社員もいた。また「柔道二段」と堂々と申告してきた若手男子社員もおり「どこが業務関連の資格なんや!?」などと考えていると思わず吹き出してしまった。

 

 

結局、情報処理試験・各種ベンダー資格に日商簿記検定など一部の業務系資格を加え、さらに英検・TOEICを含めて資格(TOEICは所定のスコア)取得時に報奨金を支給する運用とし、また各資格にポイント(得点)を付与してポイント数の合計を社員に競わせる「自己啓発支援制度」を構築した。

 

2004年も終わりに近づいた頃、会社玄関フロアに資格ごとの取得人数、上位資格所得者の氏名、さらに合計ポイント数上位10名の氏名を記載する掲示板を設置した。以後、この掲示板の前には社員のほか、会社を訪れる顧客も立ち止まって眺める姿が見られるようになった。

 

 

今にして思えば、この制度はN銀行のポイントゲッター制度の焼き直しであり、また「北予備」1階ロビーの成績優秀者掲示板の再現でもあった。

 

少し当時の仕事の方に目を転じてみたい。

 

2000年10月に営業部の情報システムフェア(展示会)の事務局を担当し、取引業者との関係や営業部各メンバーの役割などがわかり、全員が協力して一つの行事を遂行することの意義が理解できた。また、納入などで新日鐵(現・日本製鉄㈱)の工場構内に入ることも多くなっていた。

 

2001年4月、提案型営業のグループに異動しベテランの管理職の下で「営業の何たるか」を一から学んだ。彼は精神論を強調することは全くなく、ただ「顧客のことを常に考える」姿勢を私に教示した。そのおかげで2001年下半期から少しずつ成果が出始め、営業がだんだん面白くなっていった。

 

一方でNOVA入学から丸2年、レベル4での滞留が長くなり少しマンネリ化していた。また、グループ①内のつば競り合いに少し疲れてもいた。2001年夏、NOVAを離れて仕事に専念することにし、英語は独学で続けることにした。

 

 

当時の営業事務担当の女性で英語を嗜んでいる社員が数名いた。短期留学の経験者もいた。彼女たちと一緒にTOEICを受験したことがあった。そのうちの1名が、私が825点のときに820点とほぼ互角だった。リスニングは彼女の方が上だった。長崎の女子大の英文科を卒業しており、頑張り屋で将来は海外で働きたいという夢を持っていた。

 

2003年3月、私が営業部から管理部・人事部門に異動したと同時に、彼女は会社を退職してシンガポールに渡り外資系の鉄鋼メーカーに入社した。シンガポール勤務時に結婚、数年後帰国して同・外資系メーカーの日本法人で勤務を続けた。

 

私が翻訳者になって数年後、彼女から会社に連絡があった。内容は国際会計基準の英文和訳の依頼だった。そこそこの規模があった。社内に和訳ができる人材がいないわけではないが、きちんとした日本語訳ドキュメントを作成するには時間が掛かるための依頼で、このような和訳の依頼は結構あった。

 

彼女のオフィスは日本製鉄㈱の構内にあった。オフィスを訪ねて10年以上ぶりに顔を合わせた。名刺を交換すると ……、頑張りの甲斐あってか?彼女は部長職まで昇進していた。

 

 

閑話休題 ……。再び当時の仕事に話題を戻す。

 

2002年には営業活動が実を結んだ。小規模な陸運会社にLANを敷設しハード・ソフトを含めた運送管理システムの新規導入を受注した。また、内航海運会社のサーバ・クライアントを含めた基幹情報システムの更新一式を受注した。この更新作業はプロジェクト・チームを結成して行うことになった。

 

さらに、ある外航海運会社に訪問を重ねるうち、同社が海上保険の契約書の理解に苦労していることを知った。久しぶりに英文契約書を見た。当時、翻訳のノウハウがあるわけでもなく、富士通の翻訳ソフトを提案して導入した。

 

 

後学のために、英文契約書に関する書籍「英文契約書の基礎知識」(宮野準治・飯泉恵美子著/ジャパンタイムズ)、「英文契約書作成のキーポイント」(中村秀雄著/商事法務研究会)、「契約・法律用語英和辞典」(菊池義明著/IBCパブリッシング)などを買い揃えたが、これらが後々自分の本業のバイブルとなろうとは当時全く考えてもいなかった。

 

私にとって英会話は、まさに「四十の手習い」だった。才能を伸ばすにはやや歳を食っており、無理し過ぎたところもあった。

 

そんな中、レベル4のグループ①内では「前回のTOEICが○○〇点だった」などの話題が出るようになった。何も勉強せずに2000年3月に受験したTOEICのスコアは銀行の頃を僅かに超えた615点だった。人に言えるような得点ではなかった。

 

 

「専門の参考書や問題集で勉強しなきゃダメだ」と思い、TOEIC関連の書籍を買い集めた。リスニングは問題集付属のCDよりNOVAテキストのCDなどをよく聴いた。問題集ではリーディングの出題パターンに慣れたりボキャブラリーを増強することを目的とした。

 

TOEICスコアは2000年9月にランクBの735点を突破し、2001年5月には800点を超えた。しかし以後は800点台前半で長い間横ばいの状態が続いた。結局ランクAの865点を超えることはできなかった。

 

思うに、TOEICは瞬発力や反射神経を要する若者向けの試験であり、やはり年齢的にここが限界なのかと感じた。

 

また、NOVAのレッスンやTOEICの勉強を通じて「自分はリスニングやリーディング(INPUT)よりスピーキングやライティング(OUTPUT)の方が好きだ!」と感じるようになった。即ち「英語を聴くよりは話したい!英語を読むよりは書きたい!」ということだった。この気持ちが将来の日英翻訳者への道へ通じていたように思われる。

 

 

この頃、VOICEレッスンをより楽しみたいと思って読んだのが「英語で話す「日本」Q&A」(講談社バイリンガル・ブックス)というもので、このCDを聴きこなすことで日本の歴史や文化、風俗や習慣などをNOVAの外国人講師に英語でわかり易く説明できるようになった。例えば「征夷大将軍」の英訳は Barbarian Subduing Generalissimo という。

 

 

この頃、VOICEで弁理士のFさんという方と知り合った。私よりかなり年上だったがとにかく真面目でいつも真摯にレッスンを受けられていた。地元小倉高校から阪大・工学部を卒業され電機メーカーに勤務された後、一念発起して弁理士となったらしい。

 

思い出すのは、彼の英語はちょっと昔の受験英語っぽいところがあり、例えば「公務員」の英訳を、私なら government employee と言うところを civil servant (公僕)と表現していたことである。

 

 

 

法務・契約書専門の翻訳者なってから、隣接分野でもある知的財産権(特許権、実用新案権、意匠権、著作権、商標権など)を勉強した。2016年に2級知的財産管理技能士試験に合格した。

 

その年の暮れにFさんの弁理士事務所を訪問した。翻訳の営業を兼ねた訪問だった。久しぶりにお元気なお顔が拝見できたと同時に、以後の営業に関する貴重なアドバイスも戴くことができた。これもNOVAの懐かしい想い出の一つである。

 

ここで当時の愛すべきNOVA友たちについて少し触れておきたい。

 

よく飲みに行ったNOVA友は総勢6人、私含めて男性3人、女性3人だった。職業は皆バラバラで私以外の男性2人は損保と自動車会社に勤務、女性の1人は証券会社、1人は病院(クリニック)の受付として働いていた。実はこのクリニック、私が幼い頃に通った内科・小児科だった。もう1人の女性の職業が思い出せない。

 

損保勤務の男性の会社は、以前私が勤務した大手損保に吸収された。合併の前後に彼は同僚の女性と結婚したが、その後退職、奥様の郷里博多で日本語教師となった。先日、現在の仕事の関連で久しぶりに話した。

 

自動車会社の男性は内装のデザインを担当していた。気が合い2人でショット・バーに通ったりもした。関東圏に異動になった後、英語力を買われて米・子会社でも勤務した。一昨年消息を訪ねてみると ……、なんと大手総合商社に転職していた。

 

 

証券会社勤務の女性は地元の高校教師と結婚、市内で家庭を持っているはずだが音信は途絶えている。クリニック勤務の女性は薬品会社のプロパーと結婚、ご主人の転勤で関西圏を経由して東京に行ったあたりで音信が途絶えた。

 

職業が思いだせなかった女性は、私より1つ2つ年上だった。我々は「チエ姉さん」と呼んでいた。大らかで何となく頼れる存在だった。独身だったので時々夜電話を掛けて無駄話したりもした。酒が飲めないのにいつも最後まで我々に付き合ってくれた。

 

連絡が取れなくなって暫くして彼女の訃報が舞い込んできた。私は既に翻訳者になっており地場の翻訳会社で多忙な日々を送っていた。彼女の妹さんと話すことができたが、晩年は闘病生活に苦しんだらしい。彼女の弔問に行けなかったことが今も悔やまれる。

 

 

NOVA友たちとの飲み会が定着した2000年の夏、門司港駅に集合して飲んだことがあった。そのときの幹事は私、飲み屋は関門海峡を望む「海峡」という焼肉屋を選んだ。当日の天気は晴れ、持ち込んだ焼酎を飲みながら海峡に沈んでゆく美しい夏の夕暮れを堪能することができた。なお、この焼肉店「海峡」も閉店してから久しい。

 

 

2000年4月にシステム開発部門から営業部門に異動になった。名目は市場調査・市場開発だったが、言ってみれば飛び込み営業に近いものだった。未経験の営業に苦労したが、NOVA友たちのお陰でどうにか乗り切ることができた。

 

 

その当時、営業車のラジオから毎日のように流れていたのが、サザン・オールスターズの「TSUNAMI」という曲だった。今もこの曲を聴くと、なかなか成果が上がらない飛び込み営業の日々と愛しきNOVA友たちが思い出される。

 

電子辞書を使うようになったのも1999年だった。当時定評が高かったSEIKO社のSR-M6000という機種を購入した。NOVAでは殆ど使いこなせなかったが、翻訳者になってから重宝した。

 

20年くらい使ってさすがに壊れた。後継機種を探したがSEIKO社は電子辞書から撤退していた。仕方なくSHARP社のものを購入したが使い勝手が全然違った。結局SR-M6000の中古品を探して再度購入した。やはりSR-M6000が良い。今も手許で働いている。

 

 

レベル5になったくらいにNOVA小倉校の全体像が見えてきた。レベル1は居ない。レベル2も殆ど居ない。たまに東京から出張に来てVOICEに入る海外勤務経験がある外資系や大手企業のビジネスマンにレベル2がいた。

 

レベル3は何人かいた。思い出すのは20代半ばのAという女性である。流暢なイギリス英語をしゃべった。学生時代に1年くらい留学していたようである。しかし彼女は英語力を鼻にかけてちょっと生意気な物言いをするところがあった。一方で彼女も、会話力はさておきボキャブラリーばかりやたら強い私に嫉妬に近い感情を抱いていたようだった。

 

ある日、VOICEルームで講師以外彼女と二人きりになった。彼女と少しゆっくり(英語で)話す機会があった。そのときはじめて彼女がF銀行M支店に勤務していることを知った。自分も実は以前N銀行に勤務していたことを話した。

 

「何故、本部や国際部などへの異動を希望しないのか?」と尋ねると「私は短大卒だからダメ!本部や国際部は九大や早慶、上智など4大卒の子ばっかり!英語では決して彼女たちに負けていないのに!」と悔しそうに答えた。彼女の無念さがひしひしと感じられた。

 

「確かにそれはN銀行も全く同じ!学歴かコネがある子ばっかりだった!大した実力も無いのにね!」と言うと、お互いの心のわだかまりが消えていった。以来、彼女を見かけると挨拶を交わすようになった。

 

 

レベル4の生徒は玉石混淆だった。まずは就職、転職、昇進に向けて英語・英会話を勉強している大学生やビジネスマンたち(グループ①)。英検やTOEICなどをコツコツと受験している真面目な生徒が多かった。

 

次に、短期間の海外留学を経験した学生など(グループ②)。親の脛齧りの留学で英語の発音は多少ネイティブに近いが、語彙も会話の中身も中学生レベルという輩が多かった。政治、経済、社会などの話題には全然付いて来られず、勉強しに来ているのか女の子をナンパに来ているのかわからないような輩もいた。

 

また、大企業などをリタイヤした世代の好好爺(婆)的な方々(グループ③)。好好婆には元・高校教師などもいた。競争心を捨てて悠然と英語を楽しんでいる姿勢から尊敬できる方もいた。そして最後に、文法・語彙などはボロボロだが英語を実際に仕事で使っているハングリーな若造たち(グループ④)。このグループには個人事業主が多く、船員や航空自衛隊員もいた。

 

こんなグループ①~④が混ざり合ってレッスンやVOICEを受けるわけだから、その混乱状況は推して知るべしだ ……。などと考えていた2000年1月、自分もレベル4に上がった。ジェームスが最後に私を推薦してくれた。レベルアップには3名以上の講師の推薦と筆記試験が課された。

 

 

強いて言えば、私はグループ①に近かった。レベル4に上がって暫くすると、VOICEルームでグループ①とグループ④の激論を何度か経験した。またグループ④の船員、愛称「キャプテン」とレベル3のF銀行のAさんとの戦い(augument)など好カードな対戦もあった。

 

そんな中、グループ①内にだんだんライバル的な生徒たちが現れてきた。以後、私は英検やTOEICなどを絡めて競争心を剝き出しにしたライバルたちとの熾烈な戦いに巻き込まれていくことになった。