続・英語の散歩道(その4)-TSUNAMIと愛しきNOVA友たち | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

ここで当時の愛すべきNOVA友たちについて少し触れておきたい。

 

よく飲みに行ったNOVA友は総勢6人、私含めて男性3人、女性3人だった。職業は皆バラバラで私以外の男性2人は損保と自動車会社に勤務、女性の1人は証券会社、1人は病院(クリニック)の受付として働いていた。実はこのクリニック、私が幼い頃に通った内科・小児科だった。もう1人の女性の職業が思い出せない。

 

損保勤務の男性の会社は、以前私が勤務した大手損保に吸収された。合併の前後に彼は同僚の女性と結婚したが、その後退職、奥様の郷里博多で日本語教師となった。先日、現在の仕事の関連で久しぶりに話した。

 

自動車会社の男性は内装のデザインを担当していた。気が合い2人でショット・バーに通ったりもした。関東圏に異動になった後、英語力を買われて米・子会社でも勤務した。一昨年消息を訪ねてみると ……、なんと大手総合商社に転職していた。

 

 

証券会社勤務の女性は地元の高校教師と結婚、市内で家庭を持っているはずだが音信は途絶えている。クリニック勤務の女性は薬品会社のプロパーと結婚、ご主人の転勤で関西圏を経由して東京に行ったあたりで音信が途絶えた。

 

職業が思いだせなかった女性は、私より1つ2つ年上だった。我々は「チエ姉さん」と呼んでいた。大らかで何となく頼れる存在だった。独身だったので時々夜電話を掛けて無駄話したりもした。酒が飲めないのにいつも最後まで我々に付き合ってくれた。

 

連絡が取れなくなって暫くして彼女の訃報が舞い込んできた。私は既に翻訳者になっており地場の翻訳会社で多忙な日々を送っていた。彼女の妹さんと話すことができたが、晩年は闘病生活に苦しんだらしい。彼女の弔問に行けなかったことが今も悔やまれる。

 

 

NOVA友たちとの飲み会が定着した2000年の夏、門司港駅に集合して飲んだことがあった。そのときの幹事は私、飲み屋は関門海峡を望む「海峡」という焼肉屋を選んだ。当日の天気は晴れ、持ち込んだ焼酎を飲みながら海峡に沈んでゆく美しい夏の夕暮れを堪能することができた。なお、この焼肉店「海峡」も閉店してから久しい。

 

 

2000年4月にシステム開発部門から営業部門に異動になった。名目は市場調査・市場開発だったが、言ってみれば飛び込み営業に近いものだった。未経験の営業に苦労したが、NOVA友たちのお陰でどうにか乗り切ることができた。

 

 

その当時、営業車のラジオから毎日のように流れていたのが、サザン・オールスターズの「TSUNAMI」という曲だった。今もこの曲を聴くと、なかなか成果が上がらない飛び込み営業の日々と愛しきNOVA友たちが思い出される。