続・英語の散歩道(その6)-提案型営業と英文契約書との再会 | 流離の翻訳者 果てしなき旅路

流離の翻訳者 果てしなき旅路

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴16年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

少し当時の仕事の方に目を転じてみたい。

 

2000年10月に営業部の情報システムフェア(展示会)の事務局を担当し、取引業者との関係や営業部各メンバーの役割などがわかり、全員が協力して一つの行事を遂行することの意義が理解できた。また、納入などで新日鐵(現・日本製鉄㈱)の工場構内に入ることも多くなっていた。

 

2001年4月、提案型営業のグループに異動しベテランの管理職の下で「営業の何たるか」を一から学んだ。彼は精神論を強調することは全くなく、ただ「顧客のことを常に考える」姿勢を私に教示した。そのおかげで2001年下半期から少しずつ成果が出始め、営業がだんだん面白くなっていった。

 

一方でNOVA入学から丸2年、レベル4での滞留が長くなり少しマンネリ化していた。また、グループ①内のつば競り合いに少し疲れてもいた。2001年夏、NOVAを離れて仕事に専念することにし、英語は独学で続けることにした。

 

 

当時の営業事務担当の女性で英語を嗜んでいる社員が数名いた。短期留学の経験者もいた。彼女たちと一緒にTOEICを受験したことがあった。そのうちの1名が、私が825点のときに820点とほぼ互角だった。リスニングは彼女の方が上だった。長崎の女子大の英文科を卒業しており、頑張り屋で将来は海外で働きたいという夢を持っていた。

 

2003年3月、私が営業部から管理部・人事部門に異動したと同時に、彼女は会社を退職してシンガポールに渡り外資系の鉄鋼メーカーに入社した。シンガポール勤務時に結婚、数年後帰国して同・外資系メーカーの日本法人で勤務を続けた。

 

私が翻訳者になって数年後、彼女から会社に連絡があった。内容は国際会計基準の英文和訳の依頼だった。そこそこの規模があった。社内に和訳ができる人材がいないわけではないが、きちんとした日本語訳ドキュメントを作成するには時間が掛かるための依頼で、このような和訳の依頼は結構あった。

 

彼女のオフィスは日本製鉄㈱の構内にあった。オフィスを訪ねて10年以上ぶりに顔を合わせた。名刺を交換すると ……、頑張りの甲斐あってか?彼女は部長職まで昇進していた。

 

 

閑話休題 ……。再び当時の仕事に話題を戻す。

 

2002年には営業活動が実を結んだ。小規模な陸運会社にLANを敷設しハード・ソフトを含めた運送管理システムの新規導入を受注した。また、内航海運会社のサーバ・クライアントを含めた基幹情報システムの更新一式を受注した。この更新作業はプロジェクト・チームを結成して行うことになった。

 

さらに、ある外航海運会社に訪問を重ねるうち、同社が海上保険の契約書の理解に苦労していることを知った。久しぶりに英文契約書を見た。当時、翻訳のノウハウがあるわけでもなく、富士通の翻訳ソフトを提案して導入した。

 

 

後学のために、英文契約書に関する書籍「英文契約書の基礎知識」(宮野準治・飯泉恵美子著/ジャパンタイムズ)、「英文契約書作成のキーポイント」(中村秀雄著/商事法務研究会)、「契約・法律用語英和辞典」(菊池義明著/IBCパブリッシング)などを買い揃えたが、これらが後々自分の本業のバイブルとなろうとは当時全く考えてもいなかった。