流離の翻訳者 日日是好日 -53ページ目

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

1999年3月末、NOVAの体験レッスンおよびレベルチェックを受けた。当時のNOVAは生徒のレベルを9段階に分けていた。レベル1~レベル7、さらにレベル7は7A、7B、7Cに分かれていた。レベル1が一番上でレベル7Cが一番下である。

 

体験レッスンの講師はローラ(Laura)というカナダ人女性だった。30代前半のスラっとした長身の美人だった。彼女は私の前で脚を組んで椅子に座り、いくつか私に英語で質問した。名前、仕事や趣味についてである。しどろもどろになりながら何とか質問に答えた。

 

次に、Can you describe me? と言ったので、You are sitting on the chair. You are crossing your legs. などと答えた。発音はボロボロだったろう。そのときふと「脚を組んで座る」という日本語から「付帯状況の分詞構文」という言葉が脳裏をかすめた。

 

You are sitting on the chair with your legs crossed. という表現である。

 

レベルチェックもローラだった。結果はレベル7C、最下位のレベルになった。

 

 

当日には契約を交わしNOVAに入学した。通学が1999年4月から始まり、以来土・日はほぼNOVA漬けとなった。7Cの頃は中学生と一緒に授業を受けることもあった。ある意味情けない気持ちにもなったが、それが当時の自分の英会話の実力だった。

 

4月中にレベル7B、5月に7A、6月頭にはレベル6に上がった。テキストの内容は難しいものではなかったが、それでも「言いたいことがなかなか英語にならない」状況が続いていた。

 

 

NOVAに通ううちに、所謂「NOVA友」と呼ばれる数人の仲間ができた。英語のレベルや年齢、性別に関係なく、VOICEなどで気が合うものが集まるようになり、3か月に一度くらい飲み会を催すようになった。20代後半から30代前半の男女が中心で、40代になったばかりの私と同じくらいの歳の女性もいた。

 

なおVOICEとは、NOVAのレッスンの一つで、レベルに関係なく参加できるフリートークの場を指し、普通は講師が何らかのテーマを生徒に与え、生徒はそれに対して英語で自由に意見を述べるという形式のレッスンだった。

 

 

若いNOVA友たちと交流する中、仕事のストレスは殆ど感じなくなっていった。中国人の女性カウンセラーに感謝した。英会話漬けの夏が過ぎて9月に入ったころレベル5に上がった。

 

 

レベル5に上がったくらいに結構仲良くなった講師がいた。私より5歳くらい年下のジェームス(James)というイギリス人男性でクイーンズ・イングリッシュ(Queen’s English)を話した。レッスンやVOICEの内容も専門的で特にボキャブラリーを重視した。「ボキャブラリーがあれば何でも話せる」と思えるようになった。

 

因みに、ジェームスは暫くしてNOVAを辞めて日本人の女性と結婚した。その後、市内で英会話スクールを開いた。それから10年ほどが経って、私が翻訳者・コーディネーターとなってから、イギリス英語が指定された英訳についてネイティブ・チェックを彼に委託するなど長い付き合いとなった。

 

 

当時、NOVAのテキストのCDの他、毎日車の中でよく聴いていたのが「英会話とっさのひとこと辞典」(巽一郎、巽スカイ・ヘザー/DHC)で、ちょっと洒落た表現が満載されていた。

 

1999年は世紀末。「ノストラダムスの大予言」の年である。

 

「ノストラダムスの大予言」(五島勉著)が、巷で200万部を超えるベストセラーとなったのが1973年でもう50年近く昔のことである。その中で最も有名な詩が以下のものである。

 

(英語版)

Century 10, Quatrain 72:

The year 1999, seventh month, from the sky will come a great King of Terror.

To bring back to life the great King of the Mongols,

Before and after Mars to reign by good luck.

 

(現代語訳)

諸世紀第10巻72編:

1999年の7の月、恐怖の大王が天空より降り立ちアンゴルモアの大王を復活させる

その前後は、マルスが幸運の名のもとに支配するだろう

 

同1973年には、小松左京氏の『日本沈没』が刊行・映画化され、20世紀末に向かっていわゆる「末法思想」(Buddhist Eschatology)的なムードに日本中が踊らされていた時代だった。

 

 

閑話休題 ……。そんな1999年の3月に入ったくらいから少し体調がおかしかった。やたら間違いや勘違いが多く、自分の職場がある階すら間違えたりした。

 

当時私はある製造業の基幹システムの開発メンバーの一人として勤務しており、いわゆるクライアント・サーバーシステムのシステム技術的部分を担当していた。結構ハードな業務だった。

 

さしたる自覚症状は無かったが、上司(プロジェクト・マネジャー)に相談し病院を受診することになった。心療内科である。診断の結果は「神経が極端に衰弱している」とのことでカウンセリングを受けることを勧められた。

 

後日、カウンセリングを受診した。カウンセラーは中国人の女性医師で流暢な日本語を話した。中国の大学の医学部を卒業後、九大医学部・大学院に留学したらしい。彼女は「何か好きなことを始めてみたらどうですか?」と私にアドバイスした。

 

「好きなこと……?」と聞かれて少し困った。思い浮かぶものが無いのである。「まあ昔は英語や数学が好きでしたが ……」と答えた。「英語は良いかもしれませんねぇ~将来仕事で使うかもしれませんし」と彼女は言った。事実、彼女は英語が話せた。

 

「中国語、日本語、さらに英語が使えるなんて大したもんだなぁ~」と正直に思った。ただ、この時点で英語を始めようとは決断していなかった。

 

 

それから暫くたって、あるテレビ番組に松田聖子が出ていた。外国人からインタビューを受けていた。彼女は流暢な英語を話していた。発音もきれいだった。この瞬間、私の心の中にある感情が生まれた。「松田聖子が英語しゃべれるのに、なんで俺がしゃべれんのや!!」という猛烈な反省にも似た感情だった。

 

 

既にネットが使える時代、市内の英会話学校を検索してみた。その頃テレビCMが始まったくらいのNOVAという英会話スクールが小倉駅ビルにあることがわかった。まだ「NOVAうさぎ」は誕生していなかった。

 

週末を待ってNOVAの体験レッスンを受けることにした。1999年3月末のことである。

 

退職したい旨、営業部のA副部長に話したのは1994年の師走も押し迫った頃だった。副部長の反応は「残念だが、まぁ仕方ないなぁ ……」だった。引継ぎ等を考慮して、退職時期は1995年1月末となった。因みにK課長の退職は2月末とされた。

 

たった3人のうち2人がいなくなれば、当然にして営業部・外為部門は回らなくなる。これに対応するために、急遽、東京支店の外為課長が1月下旬から応援に来られることになり、いずれは営業部の外為課長に就かれることが予定された。

 

私が退職する話は、営業部のA副部長から古巣の資金証券部や東京の市場証券部にあっという間に広まった。数名の同僚や元・上司から「本気かっ!やめとけ!」とか「また勉強する気かっ?本当に大丈夫かっ?」など様々な声があった。

 

 

1995年はいつもより静かに明けた。銀行は1月4日(水)からの勤務だった。1月の人事異動が週末の1月6日(金)に発令された。もちろん、退職予定の私は異動の対象外だが、異動が目されていた貸付の主任などを含めて営業部でも結構な人数の動きがあった。

 

そんな中、本部のある部門の副部長が神戸支店長に異動された。何度か話したことがある穏やかな方だった。神戸支店は資金証券部の部内旅行でもお世話になったところである。銀行を去る立場にありながら「神戸かあ!外為もあるし良いなぁ~」などと暢気(のんき)に考えていた。

 

このような長距離の異動の場合、赴任までに1週間程度の猶予があるのが普通だった。その副部長の赴任日は翌々週の3連休明けの火曜日に予定されていた。

 

 

その日、1995年1月17日(火)未明。マグニチュード7.3(震度7)の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が神戸の街を襲った。これによりN銀行神戸支店は甚大な被害を受けて壊滅した。その副部長は前日には神戸に入っていたが、赴任日当日「赴任しようにも支店に辿り着けない。それどころか支店がない。」状況だったと後に聞いた。

 

1995年1月17日(火)朝、自宅でNHKニュースを見ていたが地震の話は無かった。チャンネルを回していてある映像に目が留まった。テレビ東京系だった。

 

そこには、灰色の寒空の下、高速道路が見える大都市のあちこちから炎や黒煙が上がっている光景が映しだされていた。また高速道路が倒壊しかけていた。映像に目が釘付けになった。どうやら神戸らしい。「神戸でとんでもないことが起こってる!」と思いながらも、自宅を出て駅への道を急いだ。

 

 

1995年1月の後半は、送別会を兼ねての飲み会が多かった。資金証券部の同僚、営業部の同僚、また中途採用組との飲み会もあった。その頃、二次会などでカラオケに行くと、何となく「そして神戸」を歌っていた。涙があふれてきた。 

 

すべての飲み会が終了した1995年1月31日(火)N銀行を退職した。

 

 

当時の取締役・M本店営業部長は実は小倉西高の先輩だった。M部長は私の4年ほどの銀行員としての生活を大学に喩えられ「N銀大学を卒業したと思ってこれからも自分の目標に向かって頑張って欲しい」との(はなむけ)の言葉を下さった。

 

私は「N銀行の本部や本店営業部で働けて光栄でした。神戸の街の復興を見つめながらこれからも頑張っていきます。」と挨拶をした。

 

 

翌、1995年2月1日(水)朝、目が覚めると博多の街は突然の粉雪に見舞われていた。

 

 

本記事にて「福岡・博多慕情」編は終わりとする。なお、本福岡・博多慕情」編の記述は過去および現在の特定の企業(金融機関)や官公庁、また大学や個人を何ら誹謗・中傷するものではないことを付記しておく。

 

 

次回からは時計を少し進めて、英語の再勉強を始める1999年3月あたりから「続・英語の散歩道」編を始める予定である。

 

当時のボーナス戦とは、ボーナス支給後の定期預金などの刈り取りが中心で、地場企業を中心にボーナス支給日前後に会社のビルの入口に立ってチラシやリーフレットなどを通勤してくる従業員に配り「定期預金をよろしくお願いします!」と声をかけるのである。

 

毎日、内勤から数名がそんな企業の入口に立った。私にも2回くらい順番が回ってきた。本部にいた頃の有難みがやっとわかった。やはり支店は大変なのである。

 

 

営業部に出てからプライベートな時間が少なくなり、またストレスから退社後は飲むことも多く貿易為替などについての勉強も全然進んでいなかった。

 

それに加えて、秋には銀行創立50周年のイベントで、本部・福岡地区の全支店を挙げての大運動会が福岡ドームで開催され、その準備などくだらないことで時間を取られることも多かった。さらに、検査部検査の対応や部内の人間関係の確執など鬱陶しいことも重なり、支店に出て5か月ほどで完全に精神的に追い込まれていた。

 

「このままではサバイバルできそうにないなぁ」が正直な気持ちだった。何かをじっくりと勉強できる時間が欲しかった。

 

当時考えていたのは、財務系かまたは英語の資格の取得だった。あまり情報システム関連は考えなかった。安田火災の「いいとも会」のITが会社を辞めアルバイトなどをしながら専門学校に通い公認会計士の資格を取得したことを思いだした。「自分にもそんなふうにできないかなぁ」と考えた。

 

当時、簿記・会計の専門学校は福岡市内に3校くらいあり、それらは天神地区に集中していた。土日になるとそれらの専門学校に話を聞きに行った。ネットなどが無い当時、アナログ的に動いて情報を得るしかなかった。

 

また、銀行を辞めた場合のアルバイトについてもあたってみた。高校入試対象の学習塾や予備校で英語(や数学)などの非常勤講師の職が見つかりそうだった。試しに履歴書を送るとすぐに食いついてきた。まさに学歴が最大限アピールできる職種だった。

 

銀行を辞めて、学習塾で非常勤講師をしながら専門学校に通い、簿記・会計の勉強をして簿記の資格を取得し最終的に税理士や公認会計士を目指す!という、サバイバルの方向が見えてきた。

 

 

このような方針を上司のK課長や同僚のM主任に話したのは199412月の中旬だった。K課長からは実に意外な反応があった。

 

K課長も私と同じく銀行を去ろうとしていた。彼は出身地(県内)で不動産関連の事業を起こしている友人を手伝って生計を立てようとしていた。既に宅建など不動産関連の資格を取得しており、今後さらに上位の資格を取得しようとしていた。彼もまたサバイバルを考えていた。

 

12月下旬、私は現・監査役の元・資金証券部長に自分の決意を話した。ある程度の引留めがあったもののそれほど強いものではなかった。監査役は、冗談半分に「いっそのこと、医者でも目指したらどうだ?!」と仰った。

 

 

当時、営業部では月に一度、誕生月が同月のものが朝礼で全行員に簡単な挨拶をするルールがあった。12月誕生月の者が67名居た。たまたま私の隣にいた貸付の主任が「営業部で誕生日を迎えるのはこれが最後でしょう。」と挨拶をした。彼は年明けの異動が見込まれていた。

 

そして私の番になった。私は「8月に営業部に異動してきて5か月、皆さんのおかげで何とか今日まで来ました。 ……… しかしながら ……、私も営業部で歳を重ねるのはこれが最後となるでしょう。」と締めくくった。

 

 

そんな我々の動きを知ってか知らずか、本店営業部は3月末決算に次ぐ繁忙期である12月末に向かって走り続けていた。

本店営業部に検査部の検査が入ったのは1994年11月になってからのことだった。私にとっては初めての経験だった。

 

過去1年間(?)くらいの伝票類について金額の正当性や捺印もれなどがチェックされた。支店の勘定が締まってから検査の対応を行うので銀行を出るのは毎日23:00頃になった。

 

外為特有の処理は検査部の検査官では確認できないところもあり、他の外為店の外為課長が検査部の応援に来ていた。

 

この検査の対応を通じて、上司のK課長が実は「癇癪持ち」であることを知った。我々に対しても、また検査官に対してもかなり感情的な言葉を発していた。感情をコントロールできなかったようである。

 

検査部の検査は実質5日間くらいで終了した。検査が終わると営業部全行員がフロアに集められて公評が行われた。外為部門に大きな指摘事項は無かった。他部門についても大きな問題は無かったように思われたが ……、実はそうではなかった。

 

公評はされなかったが、他部門の男性行員(代理)の不正が発覚していた。大した金額ではないが、銀行の事務手続きや役席という立場を悪用した金銭の着服が判明した。ある処理が発生すると手数料(金銭)がその行員の個人口座に入金される仕掛けを作っていたのである。

 

その行員が支店長室に何度か呼ばれて長時間面談されていたのは知っていたが、裏にこのような事情があったことを知ったのは彼が退職した後のことだった。

 

人柄は悪い人ではなかったが、退職金も無く社宅からも放り出された彼に対し、銀行が行った唯一の温情措置は「依願退職」扱いにしたことくらいだった。彼は同僚の誰にも挨拶することなく1994年11月末、N銀行からこっそりと出て行った。その後どうなったのかは知らない。

 

 

前回、銀行本部⇔支店の上下関係について書いたが、営業部の中でも得意先⇔内勤の間に確執(かくしつが存在し、さらに外為担当⇔他部門の内勤間にも確執が存在した。

 

後者について言えば、外為は専門職で一度外為を担当すると、よほど適性が無い者を除いて、その後も外為店(大規模店舗)や本部を巡って昇進するケースが殆どだった。他部門の内勤にはこれに対するやっかみ(羨み)が明らかにあった。まあ、実際は内勤から得意先(営業)に出て業績を挙げたものが真っ先に昇進するのではあるが ……。

 

安田火災で言えば、マリン⇔ノンマリンみたいなものである。ここでもノンマリン営業で業績を挙げたものが昇進が早かったように思う。しかし、この内勤間の確執は飲み会などを通じていつの間にか解消していた。問題は前者の方であった。

 

11月のある水曜日、その日はいわゆる「ノー残業デー」だった。就業時間終了後、組合代議員の得意先の主任が「今日はノー残業デーです!早く仕事を終えて帰宅してください!」と営業部内に声を掛けて回っていた。外為の勘定は既に締まっていたが、たまたまその時、預金の女子行員が外為のデスクに来てK課長と仕事半分、面白半分に楽しそうに話していた。課長も穏やかな顔で応対していた。

 

それを見て、組合代議員の得意先主任は「K課長!ノー残業デーです!××さんを早く帰宅させてください!」と声をかけた。

 

とくに高圧的な言い方ではなかったが、この声かけがK課長の癪にさわった。「何や!貴様ぁ~ん!」となった。どうもこの得意先主任とK課長の間には以前から何度か諍いがあったようである。これをきっかけに両者泥試合の言い合いが始まった。

 

相手への悪口雑言も、終いには学歴や毛髪など身体的なことに及んだとき、そばで見ていた私はヘドが出るほど嫌な気持ちになった。どう見てもK課長に非があった。また、この得意先主任が空手を嗜んでいることを知っており「課長が手を出したら大ごとになるなぁ~」と考えていた。どうにか両者手を出すことは無く言い合いはおさまった。

 

K課長は、以前から若くして昇進し営業部内で幅を利かせる得意先担当者に対して劣等感に近い感情を持っていたようで、今回それが爆発したようだった。

 

私は、その日のうちに「課長を止めることができず申し訳ない!あんな上司の下にいて恥ずかしい!」と、その得意先主任に謝りに行った。彼は「以前からあいつとは何度かやってるんです!あまり気にしないでください!」と言った。このとき「こんな上司、こんな職場環境で果たして自分は仕事を続けられるだろうか?」という疑問が初めて湧いた。

 

この得意先主任は営業部・副部長からそこそこ高い評価を得ており、この件を副部長に報告・相談したようである。また、私も古巣・資金証券部の同僚やその年監査役に昇進されていた元部長にこの件を話した。私自身も何処かでK課長を追い詰めようとしていた。

 

 

年男だったその年、1994年。12月のボーナス戦が始まろうとしていた。師走。歳を重ねる頃に私はある決断をすることになった。

私がN銀行に勤務していた1994年頃、NHKの土曜ドラマで「銀行 男たちのサバイバル」というものが放送された。金融界(銀行)再編のドラマであり名優が多く出演していた。

 

総合企画部、業務推進部やMOF(大蔵省)担などN銀行内にも同一・類似の部門があり、また銀行の本部と支店の関係なども実にリアルで興味深く観ることができた。

 

 

本店営業部(営業部)異動して1か月が過ぎたくらいにN銀行の本部と支店の関係が少しづつ見えてきた。また顧客や支店勘定を締める手続きにも問題があることがわかってきた。

 

営業部に異動してまず感じたのは、本部の頃に比べて他部門の私への応対・物言いが全く変わったことである。彼らは明らかに「上から目線」になっていた。とくに本部しか知らない女子行員にそれが顕著だった。「何じゃあいつら!何も知らんくせに偉そうに!」と腹が立った。

 

それともう一つ。実にわがままな顧客が多かった。銀行の窓口は基本的に15:00に閉まるが直前に電話を入れて時間外の処理を頼む顧客(企業)がいた。「15:30くらいにはそちらに着くので処理してください!」と頼んでくる。頼むならまだいいが「処理しなさい!処理しろ!処理しないんだったら支店長を出せ!」と脅してくる。そんな顧客に限って面倒な処理を持ってきた。

 

15:00になると支店の各部門とも勘定の締めに取り掛かる。各部門の勘定を計理担当者に報告、計理担当者が営業部全体の勘定を最終的に締め、それを総合企画部(計理部門)に報告して営業部の勘定が確定する。上記のような顧客がいると外為の勘定の締めができず困るのだ。

 

計理担当者は「外為はまだですか!」とせっついてくるし、顧客は「早く処理しろ!」と急きたてる。そんなジレンマがほぼ毎日続いていた。当時、外為のシステムも勘定の締め方もまだまだ原始的で、それも時間が掛かる理由だった。

 

勘定が締まらないと行員は一名たりとも帰社できない。金銭が関連しているからである。普通は遅くとも17:00くらいには締まる勘定が18:00を過ぎても締まらないこともあった。

 

不突合(ふとつごう)の原因が判明してから「お前の部門の処理が悪い!」「いや!もともとお前の部門があんな処理したからこうなったんだ!」と部門間で喧嘩が始まることもあった。殴り合いにはならないまでも、机を叩いたりゴミ箱や椅子を蹴ったりなどの諍いが時々起こっていた。安田火災の新計上システム開発の頃を思い出していた。

 

 

そんなある日、証券・国際本部長のS専務が営業部に来られて「○○!仕事の方はどうだ?!」と声を掛けてくださったことがあった。S専務は大学・学部の先輩でもあるので、「処理が効率化されていないところが多くて苦労しています」と正直に答えた。「今度、整理して説明してくれんか?!」と仰ったので「はい!」と答えた。

 

結局、S専務との約束を果たすことができなかったことが今も心残りである。S専務は1999年ころN銀行から主要取引先の九州最大手スーパー「寿屋」(熊本市)の社長として送り込まれ、同社のバブル崩壊後の処理に随分とご苦労されたと聞いており、その後の2003年に67歳の若さで他界された。

 

資金証券部で私が送別会の幹事を担当した時は、当時、常務という立場でありながら、幹事の私を色々とフォローして場を盛り上げていただいた優しい先輩だった。この場を借りてご冥福をお祈りしたい。

 

「S大先輩!N銀行勤務時は、いつも私のことを気にかけてくださりありがとうございました。大変お世話になりました。どうぞ安らかにお眠りください。」

 

 

「ストレスが多ければ飲み会が増える」のは真実である。営業部・他部門の若手たちとよく飲みに行くようになった。その頃は博多駅のガード下に新しくできた焼き鳥屋に行くことが多かった。彼らもストレスが多かったのか実によく飲んだ。

 

飲むことでストレスが発散できていたのかどうかよくわからない。ただ同僚とバカを言ったり愚痴を言い合ったりしながら、夏の終わりから秋にかけて営業部での私なりのサバイバルの日々がゆっくりと過ぎていった。

 

 

そんな状況の中、秋も半ばに入った頃、幾つかの事件が勃発した。

週明け199481日(月)。銀行に着くと既に人事通達が届いていた。私の異動先は「本店営業部」だった。本店内ではあるがついに支店に出ることになった。

 

私の後任は東京・市場証券部のY主任が本店に異動して担当することになった。Y主任は、宮崎県出身で九大・理学部・物理学科卒業後に京大法学部に学士入学、京大卒業後、海外青年協力隊を経てN銀行に入行した行員だった。

 

「まあ彼ならスワップ取引の数値解析だろうがIT関連だろうが問題なく担当できるな!」と、ある意味安心した。

 

 

本店営業部はN銀行の本店の1階・2階のフロアを占めていた。総勢70名程度の規模で、1階が預金、公共料金(公金)、貸付、内国為替(内為)、外国為替(外為)などの事務部門(支店窓口)、2階が得意先(営業・渉外担当)だった。得意先担当者は10名余りいた。

 

資金証券部のT部長に連れられエレベーターで1階へ降りて本店営業部に挨拶に行った。相手は本店営業部のA副部長である。A副部長から「外国為替を担当して欲しい」旨告げられ、上司のK外為課長を紹介された。

 

「えっ!外為!?だったら英語やっときゃ良かったなぁ」が正直な感想だった。当時の外為担当は課長含めて男性2名のみ。日々かなり逼迫した状況で業務をこなしていた。私の異動は同部門の人員の補充だった。 

 

K課長は関西学院大出身、その下に私と同じ歳のM主任がいた。M主任は下関西高から上智大・外国語学部卒。専攻は英語ではなくポルトガル語だったが英語はかなり話せた。

 

N銀行に入行してすぐの頃、同外為部門で一週間ほどOJTを受けたことがあった。当時の外為担当行員は7~8名ほどいたはずだったが、何かあったのか ……?

 

減員の理由は、本店営業部の外為業務の一部が私の異動の数か月前に国際部に移管されたからだった。確かにOJTでお世話になった部次長(兼・外為課長)他数名の外為担当行員が、昨今国際部に異動していた。

 

 

安田火災にももちろん本店営業部はあったが、私が事務管理部(総合システム部)に異動した1983年当時でも、本店営業第一部から第十部まであり、各部に2~3の課があった。かなり大規模な組織で200250名ほどの人員を抱えていたのではないか?

 

安田火災と比べてN銀行の本店営業部はかなり小規模で、私が新入社員のときに配属された内務部・新種内務第一課と同じくらいの規模であった。

 

 

外為業務は大きく貿易為替業務と資本為替業務に分けられる。私は、資金証券部で担当した外貨預金やインパクトローンなどに関連する資本為替業務をまず担当し、それに慣れてから貿易為替業務を担当することになった。

 

 

本店営業部に異動して10日ほど経った頃、安田火災「いいとも会」のOYから連絡(電話)があった。「盆休みに夫婦で広島に帰省するので広島で会わんか?!」との誘いだった。まだ異動後の引継ぎの最中だったが「気晴らしに広島でも行ってみるか!」という気持ちになった。

 

広島駅でOYに会った開口一番、彼は私に向かい「おお!よう来たのぉ平成狸合戦ぽんぽこ!」と言った。相変わらずの口の悪さである。私は麦わら帽子が似合う彼を見て「まるで村の助役が愛人を連れてお忍び旅みたいな風情やなぁ~!」と仕返しした。

 

 

 

そのとき、彼が連れて行ってくれたところが山口県岩国市の「錦帯橋」だった。高速で一時間余りではなかったか。

 

錦帯橋を渡り、山麓駅からロープウェイで山頂駅へ。お盆の初日だったが岩国城は閑散としていた。猛暑の中、蝉の声が周囲の雑音をかき消していた。盆明けの業務に対する不安も何処かに消え失せていた。

 

錦帯橋をあとに広島市内に戻り、奥様の実家近くでOYと二人で飲んだ。出産を控えられており、また我々に気を遣っていただいたようで奥様は同席されなかった。

 

博多に戻って暫くして奥様から一通の手紙が届いた。時候の挨拶などが書かれたあとに「口の悪い主人とどうしたらそんなに仲良くできるのでしょうか?その秘訣を教えてください。」という文で手紙は締めくくられていた。

 

 

それから、四半世紀余りが過ぎた20211月。錦帯橋を再び訪ねた。風のない穏やかな日で、冬の淡い光が川面をキラキラと輝かせていた。錦帯橋の名物は「ソフトクリーム」らしい。橋を渡った先にいくつかの店舗があった。

 

旧制・山口県立岩国高等学校の跡地に造られた「吉香(きっこう)公園」も整備されていた。そのそばの「白山比咩(しらやまひめ)神社」の「心願成就」の御守はいつも手許にあり、今も私を見守り続けている。

 

S部長時代の神戸旅行から1年半、2回の部長交替を経た1993年秋、近場の二日市温泉の高級旅館「大丸別荘」に泊りがけで部内旅行(宴会?)に行った。幹事はその年の夏に福岡市内の支店から異動してきたNという男性行員だった。

 

行先が近場になったのは、部の予算があまりなかったことや、土・日よりは金・土で旅行に行き日曜はゆっくり休みたいという行員の要望もあったからである。

 

JRで博多から二日市まで30分足らず、駅から旅館までタクシー、一風呂浴びても19:00過ぎには宴会が始められた。宴会では、昭和的ではあるがゲーム大会なども催され和やかで楽しい秋の一夜が過ぎていった。

 

その翌日、全員で旅館近くの大宰府に参拝した。またそのそばの「だざいふえん(現・だざいふ遊園地)」にも立ち寄った。絶叫マシーンなどがない昔風の遊園地で結構楽しめた。全員で昼食をとり昼過ぎには解散となった。こんな旅行も悪くないかな、と思った。

 

 

1994年の春頃から銀行業務検定試験「財務3級・2級」の勉強を始めた。過去問のほか、試験を主催する「銀行業務検定協会」が推薦する「財務分析のための実践財務諸表の見方」、「財務分析の実践活用法」(いずれも大野敏男著・経済法令研究会編) を帰宅後毎日少しずつ読み進めていた。

 

ただ、簿記や原価計算を知らずして財務管理や財務分析を理解しようとすることにはどうしても無理があった。「やはり簿記をやらなきゃダメかなぁ~」と感じながらも勉強を継続していた。

 

このとき財務管理ではなく、英文契約書やTOEICに目標を定めていたなら、全く異なる未来が待っていたように思う。ただ当時は、財務諸表の内容や収益性、生産性、安全性、成長性や損益分岐点分析(CVP分析)などの財務分析の方がより面白いと感じていた。

 

 

1994年春、部長・部次長との人事面談の際「一回支店に出てみんかっ?」という趣旨の打診があった。当時のN銀行もまた、以前の安田火災と同じく「営業第一主義」が跋扈しており「支店経験がなければ支店長(部次長)にはなれない」のような伝説が蔓延っていた。

 

部長・部次長の打診に対し、財務分析の勉強を通じて企業への貸付(融資)に興味を持ち始めていた時期でもあり、ともかく「わかりました!」と答えた。「出てみりゃどうにかなるやろ!」のような「根拠なき自信」が何処かにあった。高校3年時の東北大の受験みたいなものだった。

 

 

19947月30日(土)~7月31日(日)。阿蘇・九重方面へ部内旅行が催された。宿泊先は当時のN銀行の九重保養所だった。天候は晴れ、猛暑だった。自家用車4台に分乗して阿蘇・九重へと向かった。

 

高速を降りて途中何処かの鉱泉(炭酸泉)に立ち寄った記憶があるが場所は覚えていない。夜は保養所の庭でバーベキューを楽しんだ。

 

翌日、九重からの帰途、立ち寄った阿蘇のある展望台からの眺めが実に素晴らしかった。以後、何度かそこを再訪しようとしたが、いまだに辿り着けていない。少し雲がある夏空の下、草原の上に立つ部員男女全員の写真が手許で笑っている。

 

 

この「幻の展望台」の旅が銀行最後の楽しい思い出となった。その翌日の週明け199481日(月)。思いも寄らぬ人事異動を言い渡されることになった。

 

資金証券部内の人員が異動で次々と入れ替わる中、日々金利決定委員会の資料作成や金利スワップ契約の管理、それに加えて、証券外務員試験、銀行業務検定試験「証券3級」、また昇格のための行内試験「財務管理」などの受験で慌ただしく1993年は過ぎていった。

 

証券会社のシンクタンクから購入した金利スワップ管理ソフトは、元本金額が減額してゆくアモチ型(amortization type)の入力が面倒で、あまり使い勝手が良いものではなかったが、このソフトで初めてWindows 3.1というOSを知った。

 

行内試験「財務管理」の参考書は「ケースで身につける企業の見方」(関口尚三著・金融財政事情研究会)というものだった。経済学部出身でありながら、貸借対照表や損益計算書などの見方をしっかり理解したのはこのときが初めてだった。なお「ケースで身につける企業の見方」は今も手許にある。

 

 

N銀行の人事部(研修室)は行員に年一回の通信教育の受講を推進していた。何となくTOEIC対策の講座を受講したのもこの年だった。金利スワップで英文契約書に触れ、何処かに英語学習意欲が芽生え始めていたのかも知れない。

 

因みにTOEICが日本で実施されるようになったのは1980年頃のことで、私が安田火災の新入社員時代の19833月に受験したのもTOEICだった。

 

19834月に事務管理部(総合システム部)に異動になったためか、この初回受験時のスコアは知らされなかった。ただ、試験を受けた感触はリスニングが全くできなかった記憶があるのでスコアは惨憺たるものだったろう。

 

通信教育を修了した19935月頃、力試しにTOEICを受験した。部内の入行2年目の女子行員も一緒だった。その時のスコアは600点をかつがつ超えた程度のひどいものだった。せめてもの救いはリーディングがそこそこ得点できたことで、やはり受験勉強の遺産が少しは残っていたのかな?と思えた。

 

一緒に受験した女子行員(九大・文学部卒)は、私よりも随分低いスコアでかなりショックを受けていたようだった。

 

 

このTOEICの受験で英語学習意欲に火が点くことはなかったが、英語よりは「ケースで身につける企業の見方」で学んだ財務管理に興味を持つようになり、銀行業務検定試験の「財務3級」⇒「財務2級」と受験してみようか?と思うようになった。

 

 

語学に関しては、資金証券部に隣接する国際部に英語や中国語が話せる日本人の行員が何人かいたこと、また、ニューヨーク支店勤務を経て当時本店・人事部門に配属されていた主任が、本店を訪れた外国銀行・証券など外国人顧客を相手に流暢な英語で本店内を案内していたことなど、やや刺激を受けることもあった。

 

なお、この人事部門の主任、昨年N銀行で最初の生え抜きの頭取に就任した。

1992年夏、お世話になったS部長が大阪支店長として赴任された。後任の部長は、S部長と異なり実に穏やかな方だった。

 

この夏は、他にも資金部門のF代理が東京・市場証券部に異動されたり、また資金部門の女子Aさんが広報室に異動になるなど結構な動きがあった。Aさんは広報室に行くことをとても嫌がっており、彼女は送別会の最中までただただ泣き続けていた。

 

私には主管部である広報室への異動を何故そんなにAさんが嫌がるのか全く理解できなかったが、どうも広報室が社内報などを発行する部門であるため、支店への出張、インタビューや写真撮影、その他本店内での館内放送などが嫌だったかららしい。よほど甘やかされて育ったのか?

 

 

F代理の替わりに支店からT代理が異動してきたり、Aさんの替わりに新人の女子行員が入ったり、私が資金証券部にいた3年半ほどの間に、証券事務部門の部次長、商品勘定担当の男女2名の行員、また資金部門のリーダーである代理を除いて、すべての行員が入れ替わってしまった。

 

銀行での最初の友人のHSはN銀行の投資顧問子会社に異動になり、二人目の友人のSTも主任に昇格した後、箱崎支店に異動した。STが支店に異動した後、私は再び資金部門に移ることになった。

 

証券事務部門でエクシード・SQLなどのEUCツール、また表計算ソフトOFISPOLなどを駆使できるようになっていた私は、資金部門に再移動して以来、大口定期預金など自由金利商品の金利決定手続き(「金利決定委員会」)の資料作成などを片っ端からシステム化していった。

 

従来手書きで作成していた資料が、システム化されてスピーディに印刷されてくるのを見ていると東京・安田火災時代の電算オンライン課の頃が思い出された。また「もっと上手くやれたのになぁ~」という悔恨の念に駆られることもあった。

 

そんな中、ある業務と出会った。「金利スワップ」である。銀行の固定金利の貸付には金利変動リスクがある。固定金利の貸付の場合、貸付時より市場金利が下がれば銀行にとって利益、上がれば銀行にとって損失が発生する。これを変動金利と交換してリスクをヘッジするのである。いわゆるキャッシュフローの交換である。

 

「金利スワップ」取引の相手方は大抵都銀か外銀だった。N銀行が固定金利(の一部)を相手方に支払い、相手方から変動金利を受け取る契約である。当時の貸付元本は5億円以上くらいで、金利交換のタイミング(期間)は3か月が中心、6か月というものもあった。また受け取る変動金利はLIBORLondon Interbank Offered Rate)が殆どだった。

 

この時、N銀行と都銀・外銀の間で締結されたのが「金利スワップ確認書」(Interest Rate Swap Confirmation)というもので英文で書かれていた。いわゆる英文契約書である。

 

当時の部内には、英文契約書を理解できる者などおらず、またネットなどの情報源も無い。とりあえず大学時代に使った英和辞典で只管(ひたすら)調べて和訳を作成した。決して完全な訳文ではなかったが、どうにか部長・部次長に説明し納得させることができた。

 

大きな書店などで「英文契約書」関連の書籍を探していれば、もう少しまともな訳文ができたのではないかと思う。当時はそういう方向の追求よりは「スワップ取引のすべて」(日本長期信用銀行 金融商品開発部 編著/金融財政事情研究会)などを読んでスワップ取引を数理的に解析することに四苦八苦していたように思われる。

 

その後、金利スワップ取引は瞬く間に増え続けすぐに50本、100本となっていった。結局、金利スワップ取引の評価のために、ある証券会社のシンクタンクが作成したソフトウェアを導入することになった。

 

 

この英文契約書。私が、英語として一から真剣に勉強し始めたのは、それから10年以上が経過した2007年のことであった。