流離の翻訳者 日日是好日 -54ページ目

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

資金証券部内の人員が異動で次々と入れ替わる中、日々金利決定委員会の資料作成や金利スワップ契約の管理、それに加えて、証券外務員試験、銀行業務検定試験「証券3級」、また昇格のための行内試験「財務管理」などの受験で慌ただしく1993年は過ぎていった。

 

証券会社のシンクタンクから購入した金利スワップ管理ソフトは、元本金額が減額してゆくアモチ型(amortization type)の入力が面倒で、あまり使い勝手が良いものではなかったが、このソフトで初めてWindows 3.1というOSを知った。

 

行内試験「財務管理」の参考書は「ケースで身につける企業の見方」(関口尚三著・金融財政事情研究会)というものだった。経済学部出身でありながら、貸借対照表や損益計算書などの見方をしっかり理解したのはこのときが初めてだった。なお「ケースで身につける企業の見方」は今も手許にある。

 

 

N銀行の人事部(研修室)は行員に年一回の通信教育の受講を推進していた。何となくTOEIC対策の講座を受講したのもこの年だった。金利スワップで英文契約書に触れ、何処かに英語学習意欲が芽生え始めていたのかも知れない。

 

因みにTOEICが日本で実施されるようになったのは1980年頃のことで、私が安田火災の新入社員時代の19833月に受験したのもTOEICだった。

 

19834月に事務管理部(総合システム部)に異動になったためか、この初回受験時のスコアは知らされなかった。ただ、試験を受けた感触はリスニングが全くできなかった記憶があるのでスコアは惨憺たるものだったろう。

 

通信教育を修了した19935月頃、力試しにTOEICを受験した。部内の入行2年目の女子行員も一緒だった。その時のスコアは600点をかつがつ超えた程度のひどいものだった。せめてもの救いはリーディングがそこそこ得点できたことで、やはり受験勉強の遺産が少しは残っていたのかな?と思えた。

 

一緒に受験した女子行員(九大・文学部卒)は、私よりも随分低いスコアでかなりショックを受けていたようだった。

 

 

このTOEICの受験で英語学習意欲に火が点くことはなかったが、英語よりは「ケースで身につける企業の見方」で学んだ財務管理に興味を持つようになり、銀行業務検定試験の「財務3級」⇒「財務2級」と受験してみようか?と思うようになった。

 

 

語学に関しては、資金証券部に隣接する国際部に英語や中国語が話せる日本人の行員が何人かいたこと、また、ニューヨーク支店勤務を経て当時本店・人事部門に配属されていた主任が、本店を訪れた外国銀行・証券など外国人顧客を相手に流暢な英語で本店内を案内していたことなど、やや刺激を受けることもあった。

 

なお、この人事部門の主任、昨年N銀行で最初の生え抜きの頭取に就任した。

1992年夏、お世話になったS部長が大阪支店長として赴任された。後任の部長は、S部長と異なり実に穏やかな方だった。

 

この夏は、他にも資金部門のF代理が東京・市場証券部に異動されたり、また資金部門の女子Aさんが広報室に異動になるなど結構な動きがあった。Aさんは広報室に行くことをとても嫌がっており、彼女は送別会の最中までただただ泣き続けていた。

 

私には主管部である広報室への異動を何故そんなにAさんが嫌がるのか全く理解できなかったが、どうも広報室が社内報などを発行する部門であるため、支店への出張、インタビューや写真撮影、その他本店内での館内放送などが嫌だったかららしい。よほど甘やかされて育ったのか?

 

 

F代理の替わりに支店からT代理が異動してきたり、Aさんの替わりに新人の女子行員が入ったり、私が資金証券部にいた3年半ほどの間に、証券事務部門の部次長、商品勘定担当の男女2名の行員、また資金部門のリーダーである代理を除いて、すべての行員が入れ替わってしまった。

 

銀行での最初の友人のHSはN銀行の投資顧問子会社に異動になり、二人目の友人のSTも主任に昇格した後、箱崎支店に異動した。STが支店に異動した後、私は再び資金部門に移ることになった。

 

証券事務部門でエクシード・SQLなどのEUCツール、また表計算ソフトOFISPOLなどを駆使できるようになっていた私は、資金部門に再移動して以来、大口定期預金など自由金利商品の金利決定手続き(「金利決定委員会」)の資料作成などを片っ端からシステム化していった。

 

従来手書きで作成していた資料が、システム化されてスピーディに印刷されてくるのを見ていると東京・安田火災時代の電算オンライン課の頃が思い出された。また「もっと上手くやれたのになぁ~」という悔恨の念に駆られることもあった。

 

そんな中、ある業務と出会った。「金利スワップ」である。銀行の固定金利の貸付には金利変動リスクがある。固定金利の貸付の場合、貸付時より市場金利が下がれば銀行にとって利益、上がれば銀行にとって損失が発生する。これを変動金利と交換してリスクをヘッジするのである。いわゆるキャッシュフローの交換である。

 

「金利スワップ」取引の相手方は大抵都銀か外銀だった。N銀行が固定金利(の一部)を相手方に支払い、相手方から変動金利を受け取る契約である。当時の貸付元本は5億円以上くらいで、金利交換のタイミング(期間)は3か月が中心、6か月というものもあった。また受け取る変動金利はLIBORLondon Interbank Offered Rate)が殆どだった。

 

この時、N銀行と都銀・外銀の間で締結されたのが「金利スワップ確認書」(Interest Rate Swap Confirmation)というもので英文で書かれていた。いわゆる英文契約書である。

 

当時の部内には、英文契約書を理解できる者などおらず、またネットなどの情報源も無い。とりあえず大学時代に使った英和辞典で只管(ひたすら)調べて和訳を作成した。決して完全な訳文ではなかったが、どうにか部長・部次長に説明し納得させることができた。

 

大きな書店などで「英文契約書」関連の書籍を探していれば、もう少しまともな訳文ができたのではないかと思う。当時はそういう方向の追求よりは「スワップ取引のすべて」(日本長期信用銀行 金融商品開発部 編著/金融財政事情研究会)などを読んでスワップ取引を数理的に解析することに四苦八苦していたように思われる。

 

その後、金利スワップ取引は瞬く間に増え続けすぐに50本、100本となっていった。結局、金利スワップ取引の評価のために、ある証券会社のシンクタンクが作成したソフトウェアを導入することになった。

 

 

この英文契約書。私が、英語として一から真剣に勉強し始めたのは、それから10年以上が経過した2007年のことであった。

 

19924月付けで、資金証券部の資金部門から証券事務部門に担当替えになった。私と入れ替わりに証券事務部門の友人STが資金部門に移り資金事務を担当することになった。4月はお互いの引継ぎで過ぎていった。

 

証券事務部門は東京の市場証券部のバックオフィスとしての業務が中心である。やや受動的な業務に思えた。

 

市場証券部が行う投資勘定の株式や債券など有価証券の売買の事務のほか、株価指数先物取引や株価指数オプション取引の事務も担当するようになった。その他、大蔵省(福岡財務局)や日銀への報告書の作成も資金部門より多くなった。

 

 

当時の証券事務部門の人員は、部門長として部次長(支店長クラス)がおり、その下に投資勘定の担当が男性3名、女性2名、商品勘定の担当が男性1名、女性1名の総勢8名ほどだった。

 

部次長は元々システム部出身の方で、銀行の資金・証券関係の情報システムを一から構築された方だった。また当時流行っていたエンド・ユーザー・コンピューティング(EUC)を部内で推進されていた。

 

N銀行のホストコンピュータは日立、そのEUCツール、エクシード(EXCEED = Executive Management Decision Support System)が資金証券部に導入されていた。このエクシードの下でSQLでプログラムを作成することもあった。東京の頃、駆使した簡易ツールADAPTみたいなものだった。

 

また、マイクロソフトのWindowsWORDEXCELも無い当時、日立の表計算ソフトにOFISPOLというものがあった。実に使い易いソフトで、こちらも駆使するようになった。

 

 

証券事務部門にいた頃、ある女子行員が中途採用で入行してきた。N銀行の取引先の地場の明太子会社の社長令嬢で海外留学の経験があった。彼女は私の隣の席で証券事務を担当していたが、あまり事務は向いていないように思えた。

 

当時、毎日の朝礼で各部門から前日・当日の為替相場、株式相場、債券相場などについて報告を行っていたが、それに加えて週一回、順番で3分間スピーチがあった。そんな3分間スピーチで彼女がちょっとビックリする話をした。

 

彼女の話は、イタリアのファッション・ブランド「ベネトン」が「世界エイズデー」に協賛してエイズ予防のためにコンドーム使用のキャンペーンを行っていることと、コンドームの使用がいかに大切かについてのものだった。

 

普通は、スピーチが終わると部長や部次長あたりから何らかのコメントがあるのだが、その日の彼女のスピーチの後は誰からも反応は無く、一瞬の気まずい沈黙を経て朝礼は終了した。

 

その後、彼女は1年ほど資金証券部に勤務した後、秘書室に異動した。女性中心の「大奥」のような組織の体質が合わなかったのか、暫くして彼女は銀行を退職した。

 

 

銀行を退職した後、彼女は家業の明太子会社に入社し、今は実質上経営に携わっているようである。同社が開発する商品はいつも斬新で画期的で、もしかして、これも彼女のアイデアかな?と思ってしまう。

 

「間奏曲」(インテルメッツォ)とは、元々「劇・歌劇などの幕間前後に演じられる短くて軽い劇または音楽。幕間劇。」をいい、それが転じて「器楽の短い中間楽章、あるいは独立した器楽小品の題名。間奏。」を意味するようになった。

 

2か月近く「入試英作文」の世界を懐かしく彷徨っていた。再び「福岡・博多慕情編」に戻る前に、間奏曲的にこの記事を掲載してみたい。

 

 

高校時代の友人たちと話していると「もうすぐ50年になるなぁ~」という話題になる。確かに我々が知り合ってから丸48年が経過しており、四度目の干支が回ってきたところである。

 

長いと言えば長いようで、あっという間だったような気もする。

 

 

昔書いた記事に、映画「わが谷は緑なりき」(“How Green Was My Valley”)のオープニングの映像がある。

 

この映画は父母、とくに母が好きだったもので、幼いころ「ゴールデン洋画劇場」などで観た映画である。

 

舞台はイギリス・ウェールズの炭坑町。以前は、父母や兄弟がそろって炭坑で元気に働く幸せな家族だった。それが労働争議、ストライキや落盤事故などで一人ひとり谷を去って行った。

 

父の死後、今や初老となった末っ子の男性が谷を去るときに、かつて緑だった谷を回顧するシーンがオープニングとなっている。「50年の思い出を残して。思い出か …。」という言葉が心に沁みてくる。 

 

 

 

それでは、次回から「福岡・博多慕情編」を再開する。

市内の「足立山」は別名「霧ヶ丘」とも呼ばれるらしい。霧の発生が多いからだという。現在の地名にも「霧ヶ丘」というところがある。こちらは足立山の麓だが、昨日高校時代の友人とその辺りを散策した。

 

そんな中、今朝こちらは名前の由来どおりの濃霧に見舞われた。足立山が見えないほどの濃い霧は随分久しぶりのことだった。

 

 

次の問題もややノスタルジックな内容である。自宅のある部屋に残された古いピアノ。娘たちをしっかりと育てあげた初老の紳士(婦人)が、ピアノを眺めながら巣立っていった娘たちを偲んでいる姿が思い浮かぶ。

 

但し、彼(彼女)はだた黄昏ているだけではない。次の行動を起こそうとしている。そんな静かな決意のようなものが感じられる文面である。

 

 

問.次の文を英訳しなさい。

 

我が家の古いピアノには懐かしい思い出がたくさん詰まっている。5歳からピアノを始めた娘たちもすっかり大人になり、今や誰も弾かなくなった。しかし、なかなか処分する気にはなれない。そういうピアノを買い取って再生させる会社があるらしい。プロの手で修理すれば、また美しい音を(かな)でることができるという。

2009年 京都大学・前期)

 

(流離の翻訳者・拙訳)

The old piano left in our house is filled with a lot of nostalgic memories. Our daughters, who started playing the piano when they were five years old, have fully grown up, so nobody plays it any more. Nevertheless, I cannot easily make up my mind to dispose of the old piano. I’ve heard that there are some companies which buy such pianos and recycle them. Our old piano, if it is repaired by a professional craftsman, is said to become able to produce beautiful sounds again as it used to.

 

 

約2か月にわたり「特集・入試英作文への挑戦」と題したシリーズを掲載してきたが、本記事をもって終わりとしたい。

 

昨今の大学入試の英作文は自由英作文の形式が多くなっており、一部の私大では英作文自体を出題していないところもある。やや残念に思う。

 

京大を中心とした日本文を指定して英訳させる形式は随分少なくなってきているが、京大がこの形式の英作文を出題し続けることを期待しつつペンを置くこととしたい。

翻訳者になった頃くらいから、自分の時間が増えたのか、暇を持て余していたのか、旧友たちとの交友関係が増え始めた。

 

収入がなかなか安定しないフリーランス翻訳者とは孤独な商売である。仕事が来なければ暇だし不安だし、一旦仕事が入り始めると納期に追われ、夜も昼も無くなる。泣く泣く仕事を断らなければならないときもある。辛い仕事である。

 

そんな時に声を掛けてくれたのが高校や大学からの旧友たちだった。実に有難く思えた。

 

私はそんなに強い人間ではないので、これまでも友人たちに相談したり意見を聞いたりしながら生きてきたし、これからもそうするだろう。もちろん彼らに迷惑を掛けない程度に。

 

 

翻訳者になって良かったのは旧友たちから英語に関する相談を受けることが増えたことである。和文の原稿を見て間接的に彼らの仕事を知ったり、協力して一つの作品(英訳)を完成することもできた。それらのすべてが良い思い出となっている。

 

 

次の問題文は、やや高尚で少し古い時代の友情について述べているように思われる。昔読んだ、武者小路実篤の「友情」の触りの部分を思いだす。

 

友情とはもっと人間的なものであり、そんなにストイックに考える必要はないのではないか、と思う。

 

 

問.次の文を英訳しなさい。

 

友情には、私利私欲をさしはさまないのが本当だと思う。私は友人に、私のために何か取計らってくれと頼んだり、物質的な利益を得られるようにしてくれと頼んだりしたことはほとんどない。ただ友人とのつき合いを楽しみ、彼らも私とつき合って喜んでいるのを見て満足しているだけである。

1991年 京都大学・前期)

 

(流離の翻訳者・拙訳)

I believe that a true friendship should stand aloof from self-interest. I have scarcely ever asked a friend to deal with something for me, or to bring some material benefits to me. I’m just enjoying relationships with them, and also being satisfied to see them feeling delighted with friendly relations with me.

与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」に「友を選ばば書を読みて六分の侠気(きょうき)、四分の熱」という一節がある。

 

現代語に訳すと「友人を選ぶのなら、本をたくさん読み六分の義侠心(義理人情)と四分の情熱を持った人間がよい」という意味である。

 

高校時代に覚えたこんな英文を思いだす。

You cannot be too careful in choosing your friends.

「友人を選ぶにあたってはいくら注意してもしすぎることはない」

 

 

父が病に伏せていた頃、病院を訪ねると、「○○~!○○~!」と親友の名前を何度も寝言のように叫んでいた。後に知ったが、その方も遠き地でやはり病に伏せていたらしい。

 

我々家族はみな父のそばにいたが、このまま会えず終いになりそうな親友を思いだしていたのだと思う。父は夢をみていたのか、それとも(うつつ)だったのか?

 

 

自分の人生を振りかえるとき、高校1年時の友人(たち)と出会っていなかったなら恐らく自分は全く別の人生を歩んでいただろう、と思うことがある。

 

友人との出会い、また男女の出会いについても、たまたま同じクラスになったとか、たまたま席が近かったみたいに運命がなせる業であり偶然の産物と思えるが、思春期のある人との出会いが、人生を左右することもある。

 

 

京大の英作文にも「友情」をテーマとしたものがいくつかある。今回はその一つを取り上げる。

 

 

問.次の文を英訳しなさい。

人間の性格は見かけよりも複雑なので、相手のことが完全に分かることなどあるはずがない。とは言うものの、初対面の人物とほんの少し言葉を交わしただけで、その人とまるで何十年も前からつきあいがあったかのような錯覚に陥ることがある。こうしたある種の誤解が、時として長い友情のきっかけになったりもする。

2012年 京都大学)

 

(流離の翻訳者・拙訳)

Since a person’s character is not so easy to understand as his appearance, it is highly unlikely that one person could completely understand what the other person is. Nevertheless, despite the fact that I've just met a person first and exchanged only a few words with him, I sometimes feel by mistake as if we have had known each other for long years. However, such a misunderstanding may occasionally serve as a trigger for a long friendship.

父や叔父たちを見ていると、父方の家系は理数系科目が得意だったように思われる。叔父たちも皆、今でいう「エンジニア」と呼ばれる職業に就いていた。

 

それに加えて、父は若い頃から俳句を嗜み、また達筆でもあったため、私は小さい頃から「国語は日本人ならできて当たり前!ましてや数学など数字が数えられれば誰でもできる!」と言われ続けて育った。 

 

 

そんな私が数学に挫折したのは中学2年くらいのことだった。全く勉強しなかったこともあったが、中間・期末試験などの成績はひどいものだった。そんな状況が中学3年のときに一転した。家庭教師の千鶴さんのお蔭である。「因数分解」など代数系が面白くなった。

 

高校でも数学はスロー・スターターだった。高校1年時の数学の成績は目も当てられない状況だったが、高校2年のとき数学教師の全員が入れ替わり「数列」を学んだくらいから面白いと感じるようになった。

 

旺文社の問題集を買って解くようになり、高校1年時の「数学Ⅰ」の内容も自主的に復習するようになった。この辺りは「四人組」の影響が大きい。

 

大学では数学はさしたる勉強はしなかった。強いて言えば「文科系のための線型数学」(志村利雄著・東京図書)を読み上げた程度だった。微積分は「イプシロン-デルタ論法」で挫折した。

 

以来、数学についてまともな勉強は全くしていない。

 

 

今の仕事があとどれくらい続けられるかわからないが、時間ができたら数学を一からやり直してみたい。今は「数学検定」というものがある。できれば高校(理科系)卒業程度(「数学検定」準1級程度)までは頑張ってみたい。

 

 

次の問題は、珍しく数学をテーマとしたものである。これを真理と思うかどうかは人によるだろうが、久しぶりに技術英語を翻訳した気持ちになった。

 

 

問.次の文を英訳しなさい。

数学は、少し先へ進んで、わからないとなったら、どうにも手のつけようがありません。公式もなんにも知らないで、自力だけでなんとか解決のつくたちの仕事ではないからです。しかし、その際でも、ごく初歩の初歩から、そっくりやり直す気で勉強するうちには、案外数学もやさしい、やさしいどころか面白いものだ、そう思うに違いありません。

1994年 京都大学・後期)

 

(流離の翻訳者・拙訳)

In learning mathematics, once you become unable to understand it at a little advanced stage, it will be beyond your control no matter how hard you may try. This is because mathematics is not such a kind of work that can be solved only by yourself without knowing anything about its formulae. Nevertheless, even in such a case, while you are learning mathematics steadily from the very first step, intending to relearn all of it, you will surely think that mathematics is easier than you had expected, or you may even find it interesting, rather than being easy.

 

「海事」は広辞苑によると「海上の事柄に関すること」とある。英語では maritime affairs という。

 

形容詞 maritime を英英辞典で引いてみると、

Maritime is used to describe things relating to the sea and ships.

「海や船に関するものを表すときに(形容詞) maritime を使う」

 

 

英文契約書で時々貨物海上保険に関するものを翻訳したが、海事関連の英単語はちょっと変わった語が多い、という印象がある。

 

例えば、barge(はしけ), pier, quay, berth(埠頭), wharf(波止場), hull(船体), bow, stem(船首), stern(船尾), port side(左舷), starboard(右舷), charter(傭船・用船), moor(停泊する), berth, come alongside(接岸する) ……。

 

 

高校時代よく星を観察した。星図なども見れるようになり北半球の星座は殆どわかるようになった。これがきっかけで親友ができたことは以前の記事自叙伝(その5)-オリオン座ベータ星リゲルに書いた。

 

だが、南半球の星座となると実に奇妙な名前の星座が多かった。「羅針盤座」、「六分儀(ろくぶんぎ)座」、「八分儀(はちぶんぎ)座」、「竜骨(りゅうこつ)座」、「望遠鏡座」など航海用道具の名前や、「水蛇(みずへび)座」、「海蛇(うみへび)座」、「巨嘴鳥(きょしちょう)座」、「カメレオン座」などちょっと不気味な動物の名前など。

 

南半球には一度も行ったことがないが、明るい星が少ないことや星座の名前から「暗くてちょっと神秘的な星空かな?」などと推測していた。

 

次の問題は、そんな南半球の星座をテーマにした内容である。星座の名前から全く別の発想をする人もいるものである。

 

 

問.次の文を英訳しなさい。

南半球を旅行していた時に、見慣れない星々が奇妙な形を夜空に描いているのを目にした。こうした星座のなかには、航海に必要な器具や熱帯に住む動物の名前が付けられたものがある。星座の名前の由来について、私には正確な知識がないが、何百年か前の船乗りたちが何を大切にし、何に驚いていたのか、その一端がうかがわれる。

2013年 京都大学)

 

(流離の翻訳者・拙訳)

When I went on a trip in the southern hemisphere, I found unfamiliar stars form a strange figure in the night sky. Some of those constellations were named as an instrument for navigation or a tropical animal. I don’t have correct knowledge about the origin of the constellations; however, in view of such constellation names, I can understand some of what the sailors hundreds of years ago regarded as important, or what they were surprised at.

子供の頃、漫画本などを読んでいると、登場人物の声を自分の頭の中で勝手に想像し気が付けばそれが頭の中で流れるようになっていた記憶がある。たまたまその漫画がアニメ化されてテレビで放映されたりすると「この登場人物の声は自分のイメージとちょっと違う!」などと感じることがあった。

 

昔観た映画で「ネバーエンディング・ストーリー」というものがある。ドイツ映画で日本公開が1985年だからもう37年経つのか ……。これは子供が本に書かれた世界に飛び込んでいく物語である。

 

本の中の想像の国の名前は「ファンタージェン」。戦う相手は「虚無」(Nothing)。少年アトレーユが勇者となっていく物語で当時20代の私にも十分楽しめるものだった。

 

 

次の問題文は、子供と本の関わりについて自らの子供の頃の体験に基づいて意見を述べたものである。これもまた子供の頃のノスタルジックな思い出に言及した京大らしい問題である。

 

 

問.次の文を英訳しなさい。

 

子供のころに、本を読んで感動したり、わくわくしたりした思い出は、一生消えることのないほど強烈なものである。子供は未知の世界に対して新鮮な好奇心を持ち、想像力が豊かであるため、本の世界のなかで生きることができるのだ。成長してさまざまな試練に出会ったときに、そのような経験が思わぬ力を発揮する場合がある。

(2008年 京都大学)

 

(流離の翻訳者・拙訳)

The memories of having been impressed or thrilled by reading books in our childhood are so vivid that we cannot forget them even throughout our life. Because children have fresh curiosity about unknown world and also have a fertile imagination, I think they can live in the world of a book. When they grow up and encounter various hardships, such fantastic experiences may sometimes show unexpected power.