福岡・博多慕情(その16)-「金利スワップ」と英文契約書 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

1992年夏、お世話になったS部長が大阪支店長として赴任された。後任の部長は、S部長と異なり実に穏やかな方だった。

 

この夏は、他にも資金部門のF代理が東京・市場証券部に異動されたり、また資金部門の女子Aさんが広報室に異動になるなど結構な動きがあった。Aさんは広報室に行くことをとても嫌がっており、彼女は送別会の最中までただただ泣き続けていた。

 

私には主管部である広報室への異動を何故そんなにAさんが嫌がるのか全く理解できなかったが、どうも広報室が社内報などを発行する部門であるため、支店への出張、インタビューや写真撮影、その他本店内での館内放送などが嫌だったかららしい。よほど甘やかされて育ったのか?

 

 

F代理の替わりに支店からT代理が異動してきたり、Aさんの替わりに新人の女子行員が入ったり、私が資金証券部にいた3年半ほどの間に、証券事務部門の部次長、商品勘定担当の男女2名の行員、また資金部門のリーダーである代理を除いて、すべての行員が入れ替わってしまった。

 

銀行での最初の友人のHSはN銀行の投資顧問子会社に異動になり、二人目の友人のSTも主任に昇格した後、箱崎支店に異動した。STが支店に異動した後、私は再び資金部門に移ることになった。

 

証券事務部門でエクシード・SQLなどのEUCツール、また表計算ソフトOFISPOLなどを駆使できるようになっていた私は、資金部門に再移動して以来、大口定期預金など自由金利商品の金利決定手続き(「金利決定委員会」)の資料作成などを片っ端からシステム化していった。

 

従来手書きで作成していた資料が、システム化されてスピーディに印刷されてくるのを見ていると東京・安田火災時代の電算オンライン課の頃が思い出された。また「もっと上手くやれたのになぁ~」という悔恨の念に駆られることもあった。

 

そんな中、ある業務と出会った。「金利スワップ」である。銀行の固定金利の貸付には金利変動リスクがある。固定金利の貸付の場合、貸付時より市場金利が下がれば銀行にとって利益、上がれば銀行にとって損失が発生する。これを変動金利と交換してリスクをヘッジするのである。いわゆるキャッシュフローの交換である。

 

「金利スワップ」取引の相手方は大抵都銀か外銀だった。N銀行が固定金利(の一部)を相手方に支払い、相手方から変動金利を受け取る契約である。当時の貸付元本は5億円以上くらいで、金利交換のタイミング(期間)は3か月が中心、6か月というものもあった。また受け取る変動金利はLIBORLondon Interbank Offered Rate)が殆どだった。

 

この時、N銀行と都銀・外銀の間で締結されたのが「金利スワップ確認書」(Interest Rate Swap Confirmation)というもので英文で書かれていた。いわゆる英文契約書である。

 

当時の部内には、英文契約書を理解できる者などおらず、またネットなどの情報源も無い。とりあえず大学時代に使った英和辞典で只管(ひたすら)調べて和訳を作成した。決して完全な訳文ではなかったが、どうにか部長・部次長に説明し納得させることができた。

 

大きな書店などで「英文契約書」関連の書籍を探していれば、もう少しまともな訳文ができたのではないかと思う。当時はそういう方向の追求よりは「スワップ取引のすべて」(日本長期信用銀行 金融商品開発部 編著/金融財政事情研究会)などを読んでスワップ取引を数理的に解析することに四苦八苦していたように思われる。

 

その後、金利スワップ取引は瞬く間に増え続けすぐに50本、100本となっていった。結局、金利スワップ取引の評価のために、ある証券会社のシンクタンクが作成したソフトウェアを導入することになった。

 

 

この英文契約書。私が、英語として一から真剣に勉強し始めたのは、それから10年以上が経過した2007年のことであった。