1992年4月付けで、資金証券部の資金部門から証券事務部門に担当替えになった。私と入れ替わりに証券事務部門の友人STが資金部門に移り資金事務を担当することになった。4月はお互いの引継ぎで過ぎていった。
証券事務部門は東京の市場証券部のバックオフィスとしての業務が中心である。やや受動的な業務に思えた。
市場証券部が行う投資勘定の株式や債券など有価証券の売買の事務のほか、株価指数先物取引や株価指数オプション取引の事務も担当するようになった。その他、大蔵省(福岡財務局)や日銀への報告書の作成も資金部門より多くなった。
当時の証券事務部門の人員は、部門長として部次長(支店長クラス)がおり、その下に投資勘定の担当が男性3名、女性2名、商品勘定の担当が男性1名、女性1名の総勢8名ほどだった。
部次長は元々システム部出身の方で、銀行の資金・証券関係の情報システムを一から構築された方だった。また当時流行っていたエンド・ユーザー・コンピューティング(EUC)を部内で推進されていた。
N銀行のホストコンピュータは日立、そのEUCツール、エクシード(EXCEED = Executive Management Decision Support System)が資金証券部に導入されていた。このエクシードの下でSQLでプログラムを作成することもあった。東京の頃、駆使した簡易ツールADAPTみたいなものだった。
また、マイクロソフトのWindowsやWORDもEXCELも無い当時、日立の表計算ソフトにOFIS/POLというものがあった。実に使い易いソフトで、こちらも駆使するようになった。
証券事務部門にいた頃、ある女子行員が中途採用で入行してきた。N銀行の取引先の地場の明太子会社の社長令嬢で海外留学の経験があった。彼女は私の隣の席で証券事務を担当していたが、あまり事務は向いていないように思えた。
当時、毎日の朝礼で各部門から前日・当日の為替相場、株式相場、債券相場などについて報告を行っていたが、それに加えて週一回、順番で3分間スピーチがあった。そんな3分間スピーチで彼女がちょっとビックリする話をした。
彼女の話は、イタリアのファッション・ブランド「ベネトン」が「世界エイズデー」に協賛してエイズ予防のためにコンドーム使用のキャンペーンを行っていることと、コンドームの使用がいかに大切かについてのものだった。
普通は、スピーチが終わると部長や部次長あたりから何らかのコメントがあるのだが、その日の彼女のスピーチの後は誰からも反応は無く、一瞬の気まずい沈黙を経て朝礼は終了した。
その後、彼女は1年ほど資金証券部に勤務した後、秘書室に異動した。女性中心の「大奥」のような組織の体質が合わなかったのか、暫くして彼女は銀行を退職した。
銀行を退職した後、彼女は家業の明太子会社に入社し、今は実質上経営に携わっているようである。同社が開発する商品はいつも斬新で画期的で、もしかして、これも彼女のアイデアかな?と思ってしまう。