福岡・博多慕情(その19)-「錦帯橋」の残光 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

週明け199481日(月)。銀行に着くと既に人事通達が届いていた。私の異動先は「本店営業部」だった。本店内ではあるがついに支店に出ることになった。

 

私の後任は東京・市場証券部のY主任が本店に異動して担当することになった。Y主任は、宮崎県出身で九大・理学部・物理学科卒業後に京大法学部に学士入学、京大卒業後、海外青年協力隊を経てN銀行に入行した行員だった。

 

「まあ彼ならスワップ取引の数値解析だろうがIT関連だろうが問題なく担当できるな!」と、ある意味安心した。

 

 

本店営業部はN銀行の本店の1階・2階のフロアを占めていた。総勢70名程度の規模で、1階が預金、公共料金(公金)、貸付、内国為替(内為)、外国為替(外為)などの事務部門(支店窓口)、2階が得意先(営業・渉外担当)だった。得意先担当者は10名余りいた。

 

資金証券部のT部長に連れられエレベーターで1階へ降りて本店営業部に挨拶に行った。相手は本店営業部のA副部長である。A副部長から「外国為替を担当して欲しい」旨告げられ、上司のK外為課長を紹介された。

 

「えっ!外為!?だったら英語やっときゃ良かったなぁ」が正直な感想だった。当時の外為担当は課長含めて男性2名のみ。日々かなり逼迫した状況で業務をこなしていた。私の異動は同部門の人員の補充だった。 

 

K課長は関西学院大出身、その下に私と同じ歳のM主任がいた。M主任は下関西高から上智大・外国語学部卒。専攻は英語ではなくポルトガル語だったが英語はかなり話せた。

 

N銀行に入行してすぐの頃、同外為部門で一週間ほどOJTを受けたことがあった。当時の外為担当行員は7~8名ほどいたはずだったが、何かあったのか ……?

 

減員の理由は、本店営業部の外為業務の一部が私の異動の数か月前に国際部に移管されたからだった。確かにOJTでお世話になった部次長(兼・外為課長)他数名の外為担当行員が、昨今国際部に異動していた。

 

 

安田火災にももちろん本店営業部はあったが、私が事務管理部(総合システム部)に異動した1983年当時でも、本店営業第一部から第十部まであり、各部に2~3の課があった。かなり大規模な組織で200250名ほどの人員を抱えていたのではないか?

 

安田火災と比べてN銀行の本店営業部はかなり小規模で、私が新入社員のときに配属された内務部・新種内務第一課と同じくらいの規模であった。

 

 

外為業務は大きく貿易為替業務と資本為替業務に分けられる。私は、資金証券部で担当した外貨預金やインパクトローンなどに関連する資本為替業務をまず担当し、それに慣れてから貿易為替業務を担当することになった。

 

 

本店営業部に異動して10日ほど経った頃、安田火災「いいとも会」のOYから連絡(電話)があった。「盆休みに夫婦で広島に帰省するので広島で会わんか?!」との誘いだった。まだ異動後の引継ぎの最中だったが「気晴らしに広島でも行ってみるか!」という気持ちになった。

 

広島駅でOYに会った開口一番、彼は私に向かい「おお!よう来たのぉ平成狸合戦ぽんぽこ!」と言った。相変わらずの口の悪さである。私は麦わら帽子が似合う彼を見て「まるで村の助役が愛人を連れてお忍び旅みたいな風情やなぁ~!」と仕返しした。

 

 

 

そのとき、彼が連れて行ってくれたところが山口県岩国市の「錦帯橋」だった。高速で一時間余りではなかったか。

 

錦帯橋を渡り、山麓駅からロープウェイで山頂駅へ。お盆の初日だったが岩国城は閑散としていた。猛暑の中、蝉の声が周囲の雑音をかき消していた。盆明けの業務に対する不安も何処かに消え失せていた。

 

錦帯橋をあとに広島市内に戻り、奥様の実家近くでOYと二人で飲んだ。出産を控えられており、また我々に気を遣っていただいたようで奥様は同席されなかった。

 

博多に戻って暫くして奥様から一通の手紙が届いた。時候の挨拶などが書かれたあとに「口の悪い主人とどうしたらそんなに仲良くできるのでしょうか?その秘訣を教えてください。」という文で手紙は締めくくられていた。

 

 

それから、四半世紀余りが過ぎた20211月。錦帯橋を再び訪ねた。風のない穏やかな日で、冬の淡い光が川面をキラキラと輝かせていた。錦帯橋の名物は「ソフトクリーム」らしい。橋を渡った先にいくつかの店舗があった。

 

旧制・山口県立岩国高等学校の跡地に造られた「吉香(きっこう)公園」も整備されていた。そのそばの「白山比咩(しらやまひめ)神社」の「心願成就」の御守はいつも手許にあり、今も私を見守り続けている。