続・英語の散歩道(その19)-「国東半島」-巡礼の旅とセルロイドの筆箱 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

2007年8月初旬のTQEの結果を受けてデータ入力を始めて暫く経った9月半ば、父が他界した。以前から具合が悪かったが症状が急に悪化して逝ってしまった。

 

病院や検査が嫌いな人だったが余りに突然の死だった。とり急ぎ以前の会社の上司や同僚に連絡を入れた。葬儀の弔問に訪れた彼らの顔を見たとき思わず涙が溢れてきた。

 

通夜の挨拶は弟が務め告別式は私が務めた。無職の時期でもあり挨拶を述べながら自分の不甲斐なさに再び涙が止まらなくなった。

 

 

父は日本電信電話公社(現・NTT)を定年退職後の50代後半、「通関士」という資格に挑戦し合格していた。現役の頃は仕事中心の生活で海外旅行に行くことも無かったが、何処かに海外への想いがあったのだろう。自分が挑戦している翻訳とも相通じるものがあった。

 

 

父が逝って一か月ほど、勉強中も父を思い出し辛さで涙が流れた。心のどこかに「父親は絶対に死なないものだ!」のような思い込みがあった。そんな2007年10月の中旬、2回目のTQEを受験した。哀しみの中での受験だったが、今回は英文和訳、和文英訳ともに契約書が出題された。

 

 

TQEの答案を提出した後、気分を変えようと国東半島を経由して別府への2泊3日の旅に車を走らせた。秋の盛りの時季だった。

 

何かに憑かれたかのように豊後高田市の「富貴寺」と「真木大堂」、国東市の「両子寺」さらに豊後大野市の「熊野摩崖仏」と仏教関連のスポットを巡った。まるで巡礼の旅だった。

 

 

宇佐市方面に引き返し「和間海浜公園」というところに辿り着いた。夕刻が迫っていた。松林の傍らに腰かけて一人海を眺めていた。静かだった。一瞬時が止まって自分が風景の一部になったような錯覚を覚えた。哀しみに疲弊した心が少しずつ癒されていった。

 

 

その日は「昭和の町」に一泊した。町を散策していて廃業を控えた文房具店を見つけた。入口のガラスケースに並べられたいくつかのセルロイドの筆箱が目に留まった。

 

全て埃にまみれていたが「これ売り物ですか?」と尋ねると、店主の老人は「全部(当時の)定価でいいよ!」と言ってくれた。4つの筆箱を合計千円ほどで購入できた。これらの筆箱は今も私の机の引き出しで登板を待っている。

 

 

翌日、再び町を散策してから国東半島を海沿いに一周して別府に出た。ホテルに荷物を預け別府駅周辺を散策した。駅近くのアーケードは空き店舗が多く閑散としていた。

 

日帰り温泉に漬かった後、別府タワーに上り街の夜景を楽しんだ。タワーを後に夜の繁華街へ。居酒屋に入ると外国人の従業員が目立った。2000年に開学した「立命館アジア太平洋大学(APU)」の影響かも知れないが、別府は外国人が多い街へと変貌していた。

 

 

自宅に戻ると気持ちも随分変わっていた。明日からまた産業翻訳者を目指してTQEとの戦いが始まることになった。