2009年度開始早々、地場のS社からやや大きな規模の英訳が入った。ある製造業の安全衛生関係マニュアルの一式で、工業技術の知識に加えて、労働安全衛生法およびその施行令・規則などの知識も必要な難解なものだった。ネットで調査しながらの英訳、また訳文のEXCELへの入力も面倒だったが、1か月近くかけて何とか仕上げた。
その一方で2009年の春過ぎから、同じくS社から契約書の英文和訳のチェックの依頼が入るようになった。「誤訳・訳抜けなどをチェックして契約書らしい日本語にしてほしい」との依頼だった。一時翻訳者は地元の年配の女性で昔は東京・丸の内でBG(笑)(今でいうOL)だったそうで、確かに訳文が古臭く不自然なところがあった。
例えば「それぞれ」と訳すべきところが「夫々」(笑)と表記されていた。これではまるで漢文の書き下し文である。ただこの人、パソコンが使えずワープロユーザーだったが、恐ろしく翻訳速度の速い人だった。確かに一次翻訳はある程度のスピードが要求された。
フロッピーディスクに格納されたデータを、PCに読み込ませWORDにコピーしてチェックするのだが、これがなかなか面白い。古臭い訳語などは一括変換できるのでさほど負荷は掛からなかった。訳文がどんどん契約書らしくなっていった。
チェック後の訳文の顧客からの評価も高かったようで、これ以降、契約書の和訳チェックは必ず私に来るようになった。
さらにS社からは工業・技術関連の大規模な英文和訳(一次翻訳)も入るようになった。和訳はトライアルを受けたわけではなかったが、先方からの依頼を断るわけにもいかなかった。工業製品・設備の仕様書や取扱説明書が中心である。中には数百ページにわたる英文もあった。
このような大規模な翻訳では、数名の翻訳者で分担して訳すのが普通である。但しその場合、主要な語彙の訳語の統一を図る必要があった。S社にはベテランの工業・技術系翻訳者・兼コーディネーターのGさんという人がいて、その人がこのような訳語のテーブルを作成して翻訳者に配布していた。
地元に同業者がいることやこんな協同作業があることが、日頃感じていたフリーランス翻訳者としての不安定な心境に「自分は一人じゃない!」のような微かな安心感を与えていた。
そんな英文和訳や協同作業を通じて少しずつ翻訳コーディネーターの仕事に興味を持ち始めた。さらに、何時の日か「S社の下で地元の翻訳者を束ねて大きな製品を作ってみたい!」のような気持ちを持つようになっていった。
なお、このS社の翻訳者・兼コーディネーターのGさんの下で、私が一から工業・技術系の翻訳やコーディネーションの実務を学び始めるのは、それから1年ほど先の2010年5月半ばのことになる。
2009年春の選抜高校野球大会(センバツ)では、長崎の清峰高校が長崎県勢として春夏通じて初めて全国制覇を果たし紫紺の大優勝旗が関門海峡を渡った。
センバツの大会歌、谷村新司さんの「今ありて」が歌われるようになったのは前年2008年の春からである。その歌詞の中に以下の文面がある。
「♪~ 新しい季節(とき)のはじめに 新しい人が集いて
頬そめる胸のたかぶり 声高な夢の語らい
ああ甲子園 草の芽 萌え立ち 駆け巡る風は 青春の息吹か
今ありて 未来も扉を開く 今ありて 時代も連なり始める ~♪」
少しだけそんな気持ちになった2009年の春が過ぎていった。