2008年11月下旬から2009年の年越しに掛けて、翻訳者として最初の繁忙期を迎えた。いわゆる「翻訳冬の陣」である。3社から入ってくる仕事の納期をコントロールしながらこなしていかなければならなかった。
長時間椅子に座る翻訳者にとって目・肩・腰の疲れは恒常的なものであった。コルセットを付けて作業するのが普通で、必要に応じて整骨院や温泉施設で疲れを癒していた。
サイマルからは金融のほか財務諸表関連の英訳も入るようになり、会計英語取得のため以下の書籍を読んだが、IBMの財務諸表を前提としたケース・スタディ的なもので基礎知識の修得にはあまり使えなかったように思う。
・「英文会計の基礎知識」(西山茂著/ジャパンタイムズ)
納期に追われつつその合間に金融や会計英語などの勉強を続けながら「翻訳冬の陣」が過ぎ去り年度も替わりイベントが少ない日々が続いていった。
ここで少し、私が生まれ育った町、すなわち小学校や中学校の校区に目を転じてみたい。
私が生まれ育ったのはJR南小倉駅が最寄りのKという町で、昭和の頃は子供も多く賑やかな町だった。ただ町の開発時期がモータリゼーションより前だったため、道幅が狭く平成に入った頃から大型店などが進出できず市街地化が立ち遅れていた。
その後、数少ないスーパーなどの店舗も閉店し不便で老人ばかりが住む「化石の町」となっていた。
私の生家には母方の伯父夫婦が住んでいた。夫婦には子供が居なかったため私や弟を小さい頃からよく可愛がってくれた。伯父の話はいつも脚色がなく面白かった。伯父は地場の電力会社に定年まで勤務した。電柱を建てるための土地の買収などを担当した時期もあった。
ある時、土地買収のために地主である農家の兄弟を接待した。彼らは当初「私ら酒はあんまり飲みきりまっせんけっ!」などと接待を断ったが、それでも伯父は「まあそう言わんと!」と店を予約した。
接待の当日、伯父は緊急な会議が入り1時間ほど遅れて宴会場に参上した。するとその農家の兄弟は …… 「何があんた!『酒はあんまり飲みきりまっせん?』どころか、完全にでき上がって二人で裸踊りをしとった!」状態だったという。
そんな、私と弟が大人になっても大笑いできるような話をしてくれた伯父だった。
伯母は早くに亡くなり、独り暮らしの伯父が倒れて施設に入ったのは私が翻訳者になって直ぐのことだった。生家は空き家状態となったが懐かしさから時々近くを車で通った。町は凋落する一方だった。
それが昨今やっとバイパスが通ることになり、2010年くらいにその一部が開通した。少しだけ町に血液が流れだしたように感じた。
近くの山頂に立つ観音像が私や私の家族、また優しかった伯父夫婦をずっと見守ってきた「化石の町」。その伯父が亡くなってもう5年余りとなる。