岸田新総理のプロフィールを見ていて、これまでの人生で私と岸田氏との間に2度接点があったことに気がついた。
最初は1978年の早稲田・法学部の受験の時。岸田氏は合格で私は不合格。あの小林秀雄のモーツアルトの並べ替えの現国が解けて合格したのか?なお、早稲田の受験については「自叙伝(その33)-高田馬場-ボールペンと悪問・奇問」に記載している。
二回目は1981年の就職活動での長銀(日本長期信用銀行)の面接時。岸田氏は東京・大手町の旧本店の面接で合格、私は大阪・御堂筋の大阪支店の面接で不合格。こちらは「英語の散歩道(その17)-実録・淀屋橋の戦い①」~に詳述している。
上記から、何となく岸田氏に親しみを感じるが、これが社会心理学にいう「ハロー効果」(halo effect)かも知れない。なお、「ハロー」(halo)とは、聖人の頭上の光輪をいう。
閑話休題……。私が入った「安田火災関前第一青雲寮」は3階建てで収容人数180名、A棟とB棟に分かれていた。冷暖防完備の個室で机、衣装ダンス、本棚、ベッドが備え付けられていた。
東京および近郊在住で自宅通勤以外の新人男子の全員が入寮しており、部屋は生年月日順にA101号室~割り当てられていた。因みに、私はA201号室だった。
1982年入社の新人男子は123名。修士・博士はおらず全員が学士。理系出身は2名だけ、文系は政経・法・経済・経営・商学部出身が殆どだった。早稲田と慶応を併せて50名ほど、東大6名、京大1名(私)、一橋8名、その他旧帝大などが20名ほどいた。
純粋な体育会系が30%ほどいたが、大学のスポーツクラブに所属していたものを含めると60%くらいになった。私のように全くスポーツをやっていなかった者は少数派だった。
入社式での三好武夫会長の挨拶は実に奇抜なものだった。壇上を動き回られて安田火災と東京海上を比較した話をされたと思うが詳細は覚えていない。「なんじゃ?!あの人?!」のような印象を持った。
その後、新人男子向けに講堂のようなところで末広貫之・常務取締役人事部長から講話があった。その講話の中の「薬で治らん病気にはなりなさんな!」という言葉を今も覚えている。森田理論の精神療法や心臓薬に頼りながらやっとのことで入社した私の耳には相当痛い言葉だった。
人事部厚生課から就業規則などの説明があり、入社3日目くらいから新入社員の合宿研修が始まった。研修所は3か所あったが、私が割り当てられたのは三重県の湯の山温泉にある研修所だった。研修生は40名ほどだった。
朝起き抜けのラジオ体操から始まり、研修所の周りをランニング、集団での朝食後、社歌を歌ったり、保険に関する様々な課題について4班に分かれてグループ討議した。班内の意見をまとめてプレゼンしたり、他の班と論争し合ったり……、そんな地獄の訓練が5日間、朝から晩まで続いた。
未経験からの失敗も甚だ多く、心身ともに疲れ果てたが、この時の湯の山で一緒に研修を受けたメンバー、また私と同じB班になったメンバーとは、何かしら「戦友」のような感情が芽生え、以後も事あるごとに「湯の山」の話が出るなど付き合いが続いていった。
そんな、安田火災の社員になるための通過儀礼(rite of passage)を終えた翌営業日、1年間の新人研修が行われる内務部の各課に配属された。配属先は、自動車内務第一課・第二課、火災内務第一課・第二課、新種内務第一課・第二課の計6課があったが、私は新種内務第一課(以下「新内一課」という)に配属された。
新内一課の新人男子の同期は20名余り、新内一課のK課長は鹿児島県出身で九大卒だった。