安田火災の前身、東京火災の初代社長は唯武連という鳥取藩の藩士で、会社設立は1887年、翌1888年に営業を開始している。
私が入社した1982年は設立から95年目、創業から94年目であった。入社当時のパンフレットに「もうすぐ100年」というキャッチフレーズが記載されていたことを覚えている。
また、当時の安田火災には「拡大・均衡・効率化」というスローガンがあった。「拡大」を担うのが保険料を稼ぐ営業部門、「均衡」を担うのが保険金を支払うサービスセンター(SC)部門、そして「効率化」を担うのが、我々が配属された内務部などの事務部門だった。
安田火災事務本部(東京都保谷市⇒現・西東京市)に内務部はあった。寮から関東バスで15分ほど、またJR武蔵境駅から「安田火災事務本部」行きの直行バスもあった。思えば恵まれた通勤環境だった。
事務本部には、新入社員研修を担当する内務部の他、事務管理部と事務企画部があった。事務管理部と事務企画部は、後に統合されて総合システム部となり「効率化」を担当する中枢部門となっていった。
新内一課担当の保険種目は、傷害、所得補償、盗難、動産総合、その他新種保険などで、その他新種保険には、ヨット・モーターボート、競走馬、航空機保険などがあった。因みに、新種内務二課(新内二課)担当の保険種目は、賠償責任、労働災害総合、住宅ローン保証保険などだった。
内務部の1年間で、自分の所属する課の種目はもちろん、ノンマリンの全種目(自動車・火災・新種)の講習が行われた。その他に、営業店実習、SC実習、それ以外にも課独自の様々な研修が行われた。
もちろん研修の受講だけが仕事ではない。内務部は全国(主として東日本)の営業店から送られてくる保険契約書(申込書)の審査・計上部門でもあった。我々新人男子も研修を受講する傍ら、デスクに就いて保険契約書の審査をする業務を担当した。研修で理論を学び実際の契約書の審査で実務を学ぶという体制になっていた。
課内には我々の講習を担当する先輩男性職員が5~6名ほどいた。一番年上の方が入社5年目くらいの主任だった。それ以外は課長を除き全て女子職員だった。男性は合計で30名弱、女性はお局様クラスから新人女子まで含め合計50名以上いた。総勢80名ほどの結構大きな課だった。
新人研修に少し慣れてきたメーデーに組合(損保労連)の行事があり、渋谷辺りで集会があった。その帰り、同期社員たちと麻雀になった。たぶん最初は雀荘で、さらにメンバーの一人の自宅で打つことになった。
彼は寮ではなく自宅通勤だったが、途中、彼の父親が参戦してきた。よく喋る愉快な人だったが結局徹マンになった。翌朝、虚しい気持ちで社会人初のGWを徹マン明けで迎えることになった。なお、この麻雀のメンバーの一人、湯の山B班で新内一課の同期(以後HYと呼ぶ)とは、以来長い長い付き合いが始まることになった。
これも梅雨前だった思うが、新内一課の同期で千葉の白子海岸に1泊2日で旅行に行った。名目は勉強のための合宿だったが、実際のところ昼は海辺で遊び夜は飲んだだけだった。懐かしい写真が今も手許に残っている。
そんな中、1982年7月下旬、長崎で大水害が発生した。調べると、死者・行方不明者299人、負傷者805人、家屋全壊584棟、半壊954棟、床上浸水17,909棟、床下浸水19,197棟の大災害だった。この水害の対応のためSC部より内務部にも応援要請があった。家屋の被害など査定して保険金を支払う業務を手伝うのである。
内務部からも新人含めて10名ほど、私の課からも同期1名が応援に行ったが、非常に貴重な経験をしてきたようで、翌年、彼が内務を出て赴任するときに同期会の冊子に残した「勇気を出せは何でもできる!」という言葉が記憶に残っている。
1982年9月、京都支店へ営業店実習に行った。期間は2週間ほどだった。だが、この実習、営業マンに同伴して代理店や顧客を回り実務を経験する以外にもう一つ重要な使命があった。来年度の新入社員のリクルーターである。
京大は私一人だったため、営業実務よりはリクルーターが中心となった。京大法学部・経済学部合わせて10数名と面談したが、前年に比べて安田火災の人気は高まっているように思えた。
私は自分が内務部の研修で使用している新種保険の規程集やタリフ(tariff)、また京都支店営業第三課から貨物・海上保険関連資料をもらい、それらを活用して安田火災を彼らにPRした。
これが功を奏したのか、翌1983年は京大からは4名の新人が入社することになった。