両親が「犬は大切な人間の友達だ」と考えてる人でしたので、ワタシも物心ついたころ
から、犬と暮らしていました。父は小さい時から、家に2頭のシェパードがいた家で、大型犬
が大好きでした。母は、いつもワタシが拾った野良犬を「ベー子がこの子のママやからな、
全部面倒みなあかんで」と可愛がるだけで、お世話は丸なげです。他所の家ではたいていは
この反対みたいだったんですけど。まあ、ウチのママはスペシャルな人ですから。
よって、小さい頃は入れ替わり、立ち替わりに「ポチ」という名前の雑種がいました。
でもなぜか猫が我が家にいたことがないんです。嫌いというより苦手だったのでしょうか?
捨て犬には遭遇するのですが、捨て猫に遭遇したことがないんです。縁がない?
そんなワタシの犬派人生が、がらりと変わったのは、ブログ記事で何度も登場している
現在、一緒に住んでいる、緑と弥生の母親猫に、遭遇したからです。
もちろん、連れ合いのツレも同様、犬派でして、過去5年前に大きな犬と小さな犬と続けて
死別しました。その心の傷が癒えないまま、ちょっぴり穴の空いた生活をしていた頃です。
大きなお腹をした真っ白い猫が、居間の前の庭へ現れたのです。庭にはツレが毎朝、トース
トを一枚ちぎって季節の鳥達にあげていたんです。その鳥を狙って、いえいえ、鳥を狙える
体ではありません。鳥達の朝ごはんの横取りです。パンくずをくわえては逃げていきます。
目と目を見合わせたワタシ達、近所のコンビニで竹輪を買ってきて、妊婦猫を待ちます。
大きなのはお腹だけで、手足は、栄養失調で痩せてコリコリです。
もう、苦手な猫だけど、ほっとけません。竹輪だけじゃお腹の赤ちゃん達が大きくならない
よ、キャットフードをあげようよ。栄養をつけるには牛乳がいいんじゃないの?
毎朝、毎晩お腹を揺らせながら、こっそり、ひっそりとやってきては、用意したご飯を食べて
帰っていきます。お皿に近づくと警戒して逃げていきます。
それは野良犬も同じこと。慣れるまではしょうがありません。
どうする、あかちゃん連れてきたら、よく聞くよ、野良猫があかちゃんを銜えて見せにくるっ
て。 困るよ、俺、猫が恐いし。それは、ワタシも同じ。あの猫背が苦手です。
そんな、長年の正統派犬派の二人の心を根底から覆したのは、3匹の真っ白な子猫達です。
ビブラートのきいた細い声で、母猫を呼びます、おっぱいだけでは十分ではありません。
母猫は、お皿の中のフードをなんとか運ぼうとしています。チーズやささみなんか、銜えやす
いものを用意しました。どうする、3匹が出てきたら? どうしよう。
心配をよそに。。。
順番に出てきました。真ん丸い目をして、出てはひっこみ、ひっこんだと思ったら出てきて
もっと小さく、ちぎったチーズやささみを米粒よりも小さな歯で、むしゃむしゃ食べています
す。 可愛いな。うん、手でやってみようか? ひっかかれるかもしれん。
不安をよそに。。。
手からちゃんと食べはじめました。そっと頭をなぜてやると頭を押し付けてきます。
じゃれて、遊んでといってるようです。 可愛いな。 うん、だっこしてみようか?
どんどん、子猫達に惹かれていきます。ずーと小さい時から一緒にいた「ポチ」とはちっと
違うけど、心をわしづかみされるのは一緒です。人は自分より弱いくて、小さいものに、手を
差し伸べずにはいられないようです。
あれから1年と半年。。。
ワタシ達の生活空間には真っ白い猫が2匹、母猫の娘と息子です。緑と弥生。
母猫は、自由猫です、3度お産をしました。居なくなった猫、交通事故で亡くなった猫
隣の空き家を自分たちの家にして、毎朝、毎晩、ツレの用意したフードを食べにやってきます
5匹のファミリーです。皆仲良しです。
今でも、ワタシは犬が大好きです。里親探しが月1回、公園で行われていますが、行くと
連れて帰ってくる自信があります、よって行かないことにしています。
大きなお腹の白い猫が、「猫も好きになって」と人生を少し広げてくれたように思うからで
す。
何かに拘りを持つことは、良い事だと思っています。ワタシはこれが好きという拘り。
その拘りが、人生を広くしたり、味わい深いものにしてくれるものだからです。
人からなんと言われでも、「ワタシの好きなもの」というのは自由でワクワクして自分の中
で熟成して、自分自身を表現するときの、飾り物になったり、もしくは自分自身になったりも
するからです。だから、「これが好き」というものが特に無い人は、淋しく、味気ない人生
だと思います。
犬が大好きだった、半世紀、ふとしたことで、猫も理解できる、そして猫から信頼される
おばちゃんになれたことは、ちっぽけな人生にもう一個、花が咲いたような気分です。
犬派でも猫派でもない人もいっぱいいるんですけど、人間以外の生きてる、命あるものへの
愛をどこで消化しているんでしょうか?
今日、古いブロ友の記事を読みました。古い友って言い方?おかしいですね。
ブログを始めてすぐに、お友達になってくれた人、「ミラネーゼ Toshyのブログ」の
Toshyさんの記事です。10月4日 ミラノのサンタプロージェ広場での聖フランチェスカ
のお祭り。そこではfamily member である、犬や猫に祝福を与えてもらう集いがあった
そうです。人間の平和や幸福を祈り、祝福するお祭りは世界中で、何万何千とあるはずですが
一緒に暮らす、犬や猫に"God bless you"
イタリアの人って、どこまでおしゃれな人種なんでしょう?生活のおしゃれ、心のおしゃれ
見た目はどうしたって、ちかづくことは不可能ですが、豊かな心、自然や動物を愛し、思い
やる心に少しでもちかづけたら。歴史を文化を芸術を枯らさずに今も生き生きと輝かせている
イタリアの人達。
聖フランチェスカの祈り
主よ
慰められるよりも
慰めることが
理解されることよりも
理解することが
愛されることよりも
愛することができますように
記事にはってあったyou tubu の曲も心に沁みました。
犬派でも猫派でも、花派でも、人間派でもなんでもいい。。。
人は何かを好きで、慰めたり、理解したり、愛することが人としての生きる使命
なんじゃないのかしら?
でわ、今夜はこの辺で。
から、犬と暮らしていました。父は小さい時から、家に2頭のシェパードがいた家で、大型犬
が大好きでした。母は、いつもワタシが拾った野良犬を「ベー子がこの子のママやからな、
全部面倒みなあかんで」と可愛がるだけで、お世話は丸なげです。他所の家ではたいていは
この反対みたいだったんですけど。まあ、ウチのママはスペシャルな人ですから。
よって、小さい頃は入れ替わり、立ち替わりに「ポチ」という名前の雑種がいました。
でもなぜか猫が我が家にいたことがないんです。嫌いというより苦手だったのでしょうか?
捨て犬には遭遇するのですが、捨て猫に遭遇したことがないんです。縁がない?
そんなワタシの犬派人生が、がらりと変わったのは、ブログ記事で何度も登場している
現在、一緒に住んでいる、緑と弥生の母親猫に、遭遇したからです。
もちろん、連れ合いのツレも同様、犬派でして、過去5年前に大きな犬と小さな犬と続けて
死別しました。その心の傷が癒えないまま、ちょっぴり穴の空いた生活をしていた頃です。
大きなお腹をした真っ白い猫が、居間の前の庭へ現れたのです。庭にはツレが毎朝、トース
トを一枚ちぎって季節の鳥達にあげていたんです。その鳥を狙って、いえいえ、鳥を狙える
体ではありません。鳥達の朝ごはんの横取りです。パンくずをくわえては逃げていきます。
目と目を見合わせたワタシ達、近所のコンビニで竹輪を買ってきて、妊婦猫を待ちます。
大きなのはお腹だけで、手足は、栄養失調で痩せてコリコリです。
もう、苦手な猫だけど、ほっとけません。竹輪だけじゃお腹の赤ちゃん達が大きくならない
よ、キャットフードをあげようよ。栄養をつけるには牛乳がいいんじゃないの?
毎朝、毎晩お腹を揺らせながら、こっそり、ひっそりとやってきては、用意したご飯を食べて
帰っていきます。お皿に近づくと警戒して逃げていきます。
それは野良犬も同じこと。慣れるまではしょうがありません。
どうする、あかちゃん連れてきたら、よく聞くよ、野良猫があかちゃんを銜えて見せにくるっ
て。 困るよ、俺、猫が恐いし。それは、ワタシも同じ。あの猫背が苦手です。
そんな、長年の正統派犬派の二人の心を根底から覆したのは、3匹の真っ白な子猫達です。
ビブラートのきいた細い声で、母猫を呼びます、おっぱいだけでは十分ではありません。
母猫は、お皿の中のフードをなんとか運ぼうとしています。チーズやささみなんか、銜えやす
いものを用意しました。どうする、3匹が出てきたら? どうしよう。
心配をよそに。。。
順番に出てきました。真ん丸い目をして、出てはひっこみ、ひっこんだと思ったら出てきて
もっと小さく、ちぎったチーズやささみを米粒よりも小さな歯で、むしゃむしゃ食べています
す。 可愛いな。うん、手でやってみようか? ひっかかれるかもしれん。
不安をよそに。。。
手からちゃんと食べはじめました。そっと頭をなぜてやると頭を押し付けてきます。
じゃれて、遊んでといってるようです。 可愛いな。 うん、だっこしてみようか?
どんどん、子猫達に惹かれていきます。ずーと小さい時から一緒にいた「ポチ」とはちっと
違うけど、心をわしづかみされるのは一緒です。人は自分より弱いくて、小さいものに、手を
差し伸べずにはいられないようです。
あれから1年と半年。。。
ワタシ達の生活空間には真っ白い猫が2匹、母猫の娘と息子です。緑と弥生。
母猫は、自由猫です、3度お産をしました。居なくなった猫、交通事故で亡くなった猫
隣の空き家を自分たちの家にして、毎朝、毎晩、ツレの用意したフードを食べにやってきます
5匹のファミリーです。皆仲良しです。
今でも、ワタシは犬が大好きです。里親探しが月1回、公園で行われていますが、行くと
連れて帰ってくる自信があります、よって行かないことにしています。
大きなお腹の白い猫が、「猫も好きになって」と人生を少し広げてくれたように思うからで
す。
何かに拘りを持つことは、良い事だと思っています。ワタシはこれが好きという拘り。
その拘りが、人生を広くしたり、味わい深いものにしてくれるものだからです。
人からなんと言われでも、「ワタシの好きなもの」というのは自由でワクワクして自分の中
で熟成して、自分自身を表現するときの、飾り物になったり、もしくは自分自身になったりも
するからです。だから、「これが好き」というものが特に無い人は、淋しく、味気ない人生
だと思います。
犬が大好きだった、半世紀、ふとしたことで、猫も理解できる、そして猫から信頼される
おばちゃんになれたことは、ちっぽけな人生にもう一個、花が咲いたような気分です。
犬派でも猫派でもない人もいっぱいいるんですけど、人間以外の生きてる、命あるものへの
愛をどこで消化しているんでしょうか?
今日、古いブロ友の記事を読みました。古い友って言い方?おかしいですね。
ブログを始めてすぐに、お友達になってくれた人、「ミラネーゼ Toshyのブログ」の
Toshyさんの記事です。10月4日 ミラノのサンタプロージェ広場での聖フランチェスカ
のお祭り。そこではfamily member である、犬や猫に祝福を与えてもらう集いがあった
そうです。人間の平和や幸福を祈り、祝福するお祭りは世界中で、何万何千とあるはずですが
一緒に暮らす、犬や猫に"God bless you"
イタリアの人って、どこまでおしゃれな人種なんでしょう?生活のおしゃれ、心のおしゃれ
見た目はどうしたって、ちかづくことは不可能ですが、豊かな心、自然や動物を愛し、思い
やる心に少しでもちかづけたら。歴史を文化を芸術を枯らさずに今も生き生きと輝かせている
イタリアの人達。
聖フランチェスカの祈り
主よ
慰められるよりも
慰めることが
理解されることよりも
理解することが
愛されることよりも
愛することができますように
記事にはってあったyou tubu の曲も心に沁みました。
犬派でも猫派でも、花派でも、人間派でもなんでもいい。。。
人は何かを好きで、慰めたり、理解したり、愛することが人としての生きる使命
なんじゃないのかしら?
でわ、今夜はこの辺で。