少し前、テレビの番組でそうそうたる、大女優と呼ばれる映画の主演級女優たちへのインタビュー

で、「一番あこがれる女優ナンバー1」になった。

 今年4月に恋愛小説『わりなき恋』(幻冬舎)が話題を呼んでいる。

70代の女性の恋を描いた小説らしい。彼女にとってはちょっと冒険のような本だと思った。

しかし、彼女、現在80歳になってるそうだ、テレビで見かける限りそんな歳だとは信じが

たいが、女80歳、70代の女性の愛と赤裸々な性の物語を書いてもおかしくない。

いや、書ける年齢であろう。宇野千代など、若い時から亡くなるまでテーマはそれであった。

 
 彼女の本は、「砂の界へ」という彼女自身が戦火のイランを往き、ナイルを遡ったノンフィク

ション、文春文庫を一冊手元にもっている。女優ではなく、ジャーナリストとして挑んでいる。

まあ、普通の女優なら、そんな戦乱の地へルポしには行かないと思う。というところも芸能界

しか知らない、大御所女優連中の羨望に値するのかもしれない。


「日本とフランスという、いづれも文化の襞の深い、人間がなまなかなことでは生まれっぱなし

 の素顔をむき出しにしない、洗練されすぎた二つの国だけを往復していると、私は自分の中の

 とがった大事なものが少しずつ萎え、まるく怠惰になり、高慢にさえなってくるのを感じるの

 です」

 とがった大事なもの、このとがったものは持っている人といない人がいる。男にも女にもいる。

良し悪し、関係なく、ワタシはとがったものを持っていない人は苦手であり、持っていない人は

たぶん、ワタシを理解できないと思う、彼女とワタシのとがったものが同じだというのではない。

異質なものであって当たり前であるし、何にとがるかは人それぞれであるから。

丸く柔らかくなる自分が見えないし、考えられない。そこが嫌われる原因だとも思う。

かわいいおばあちゃんになりたいという多数の女性の望む老後にだけはなりたくない。

 変ったばあさんだけど、言ってることは違っちゃいない・・・というばあさんがいい。

どう望んでも、ナミナミならぬ努力も実を結ばないのが人の老いだから、偉そうなことは言えない。

思い描く老後の自分に出会える確率は、くじ引きに当たる確率より低い。


 フランス人の医師であり映画監督でもあるイブ・シャンピ氏のもとへ、人気絶頂だった映画女優の

岸恵子24歳は、惜しげもなくその地位を捨てて単身フランスへと旅立つ。

日本からフランス、プロペラ機で50時間の頃だ。

確かに、とがったものを持った女性だった。並のとんがりではない。

彼女の出世作である、佐田啓二との共演「君の名は」のすれ違いでイジイジするばかりの女主人公と

はあまりにかけ離れている。エッセイの中で彼女自身もそう書いている。

今年、本屋で手にした『わりなき恋』は小説だし、恋愛物語だから、図書館で順番を待って

読んでもいいと思ってそのままでいる。『わりなき』の意味は理無きと言う意味らしい。

 文章を読む度に彼女の非凡な才能を発見する、彼女らしい言葉を選んでいると思う。


 少し前、ツレが古い昭和の映画のポスター集をめくっていて、横からふと「雪国」を目にした。

川端康成の「雪国」の映画化だ。作家役は池辺良、芸者駒子の役が岸恵子だ。

「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」という有名な書き出しの長編小説だ。

ノーベル文学賞を受賞した作品の一つでもあるので、読んでいる人も多いと思うけが

なぜか、日本人より外国人の方がよく知っている。数少ない外国人の知り合いは全員読んでいたが、

20代だったその当時の日本人のこれも数少ない知人は誰も読んではいなかった。

感想を聞かれて困ったことを覚えている。古典的なことが書き込まれていて説明に苦労した。

原作の話はさておいて、この映画は、大昔見ている。生まれる前の映画なので、たぶんテレビで見た

んだと思うが、岸恵子という、バタ臭い顔の若い女優が、駒子の役なんてと思いながら見た事を思い

出した。だが、後に佐久間良子や三田佳子や岩下志摩なんかが駒子役をドラマや舞台などで演じたの

を見て、なぜか、昔、若い時に見た岸恵子の駒子が一番、駒子らしいなと思っている。

 話は逸れるが、これも川端の短編私小説、「伊豆の踊り子」の映画化での踊り子かおるの役の一番

は内藤洋子だと思う。相手役の一高のわたし役の黒沢年男は一番似合わない、高橋英樹もである。

一番は山口百恵の相手役三浦友和だと思う。

百恵も悪くはないが、内藤洋子のあのおでこがない分、負けている。

 原作は両作品とも若い時に一回きりしか読んでいないので、川端文学独特の風景描写や心理描写を

思い出せないでいる。映画や演劇での印象が強すぎて、本の中での美しい部分がビジュアルになって

しまっている。駒子からかおるの話になってしまったが、岸恵子の映画ではもう一本好きな映画が

ある。原作は幸田文の「おとうと」の映画化での姉役「げん」が、本を読んでいてイメージが重なっ

た。ぴったりだと思った。これも古くも新しくもない微妙な時代、大正時代の負けん気の強い、健気

で、細やかな情を表現する娘役でむずかしい役にもかかわらず、フランスの香プンプンであるあの顔

でなぜ、日本の女のあの凛とした、体から匂いたつような一本筋の通った女が演じられるのだろう

か?市川昆監督の確かな審美眼で、あのエキゾチックな顔の岸恵子の中に日本人的な美しさを見て取

っていたのだろうか?その演技で女優岸恵子はみごとに、多数の賞を勝ち取る。


1960年 「おとうと」ブルーリボン主演女優賞 ・・・一作目

2001年 「かあちゃん」日本アカデミー賞最優秀主演女優賞 ・・・最新作


  その他計8作の映画と撮っている。「悪魔の手鞠唄」は知ってると思うけれども。



 18年間の結婚生活で、彼女は離婚を決意した。原因は夫の女性関係、妻以外の女性との恋愛だが

どちらがどうだということではなく、夫婦とか愛とかいうものを通り越して、もっとどうにもならな

い血の命とか、彼女の中に流れる日本人の血がアンコミニカビリティを引き起こしたのだろうことが

想像できる。夫のシャンピ氏にも当然、愛すれど理解できない日本の女の部分があったであろう。

母から譲り受けた、姫鏡台と10歳になった娘の手をひいて、お城のようなシャンピ家を出る。

彼女はエッセイの中で、夫が雑誌に書いた文章のくだりを載せている。

『彼女の大変パリっ子的な物事の見方、考え方などの底に、つねに流れる日本的な魂は、おそらく

  何者によってもそこなわれない固さで、いつまでも彼女の深みに存在していくであろう』

 42歳で離婚した彼女は大好きなあじさいの花を山ほど買い、テーブルに日本文学全集を積み上げ

たと書いています。その後の彼女の活躍は、女優だけにとどまらず、ジャーナリストとして、ノンフ

ィクション作家として、日本とパリを往復する生活が続く。

夫シャンピ氏の最後の言葉「僕は、君の日本にとうてい勝てない」


 どこの国で暮らそうと、誰と愛し合おうと、岸恵子はそのエレガントの極みである美貌でフランス

人の著名人、文化人、要人を魅了してきた。彼女のフランス語は洗練されており、パリっ子でも舌を

巻くほどのユーモアと教養に溢れているそうだ。

完璧なまでの美貌、教養、ユーモア、だかそれだけなら、岸恵子でなくても他にいそうである。

彼女の中の、祖国日本がぶれていない、過ぎし日の時代の女を見事に演じる力が、女優魂が根底に

ある、それが見事に人間としての誇り高い高貴な光りみたいなものを相手に見せているのではなか

ろうか?ワタシなりの解釈だが、当たらずとも遠からずと自負している。


 彼女の小説も楽しみだが、市川昆監督との最後の映画「かあちゃん」をレンタルして見ようと思っ

ている。最初に読んだ「砂の界へ」のノンフィクションで、はっきり言って度肝を抜かれたのは

間違いない。