Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

今年の2月28日にアメリカのキチガイ大統領Tがイランを「騙し討ち」の様な形で奇襲攻撃を仕掛ける暴挙に出て以来、イランは対抗戦力として「ホルムズ海峡」を閉鎖した。

此れ以来、今まで此処を通過していた各国の大量のタンカーや貨物船は足止めを食って、目的地に到達出来ないままの状態である。

諺に「キチガイに刃物」とあるが、キチガイに権力と財力と武力を持たせると最悪の事態になるのである!

其の結果、石油や石油製品や其の他の物資の供給が著しく停滞し、世界中で深刻な物資不足(特に石油製品)と物価高騰が起きている。

余が個人的に友人の建築会社の社長さんや、水道業者の友人や、農家の幼馴染、自動車を買い上げた業者の職員の方、更に我が家の駐車場を提供している近所の診療所の看護師さん等に話を聞いても、普段当たり前の様に調達している物資が不足、価格高騰して確保するのが容易ではないらしい。

たとえ技術があっても、材料や物資が無ければ、何も作れないと言う現実を各業界が思い知らされている今日此の頃である。

こんな一匹のキチガイ爺の為に世界中の人々が迷惑、損害を被っている事は何とも腹立たしい!

※因みに(心理学を学んでいる)余のみならず、アメリカ本国の幾人かの精神科医や心理学者達でさえこのキチガイ爺が

NPD(Narcistic Personality Disorder=自己愛性人格障害)及び HPD(Histrionic Personality Disorder=ヒステリー性人格障害)であると診断している。

アメリカ国民の間で不支持が圧倒的に多くても、このキチガイ大統領Tを罷免するには、国会の上院、下院両方で3分の2以上の同意が必要とされる。

故にもうそろそろ誰か「一念発起」して、この邪悪で身勝手なキチガイ大統領Tを暗殺してくれないかと思えるのである。

さすれば世界中が恰も黒雲が去って行く様に、一気に晴れ晴れと好転するであろう!

 

   RAL Standard Farbenmuster im Deutschland

最近ではCalbeeのスナック菓子の包装が石油製品の一種ナフサ系の顔料や溶剤の不足を理由に、暫くの間従来の鮮やかな色から白黒のみの配色になると言うニュースを聞いて呆れてしまった。

(※尤も余はスナック菓子はインスタント食品同様に一切食べないので知った事ではないのだが・・・・何故なら管理栄養士によると、スナック菓子やインスタント食品は栄養素が殆ど無い上に、塩・糖・脂、及び科学性添加物が過剰に含まれているからである。)

だが余は1992年以来、毎日3時にはBourbonのチョコレートケーキ”SYLVEINE”を食している。

もし此の箱が余の最愛の色「」から白黒に変わったら、流石に余は購入意欲をなくすであろう。

(※色が白黒だけ等と、葬式の「鯨幕」や不祝儀袋の水引ではあるまいし、余には耐えられない!)

高名な心理学者・多胡輝先生が執筆された本「心理トリック」(1971年)の中にも以下の興味深い実験、実践例がある。

「ある居酒屋がスコットランドの名門ウィスキーメーカー "Johnnie Walker"の空瓶に国産のウィスキーを移し替えて客に勧めたとしよう。

恐らく(此のトリックを見抜けず)満足そうに飲む客がかなりいるに違いない。

酒の味よりも"Johnnie Walker"のラベルが飲み手に絶対の威力を発揮するのである。

この様に品物を入れる物、あるいは包む物によって、消費者の嗜好が自由に変わる傾向を「非合理的性向」と言う。(中略)

こうした消費者の心理を上手く捉えて、売り上げを伸ばす事に成功した会社がある。

それはGood Luck社と言うマーガリンメーカーであるが、元の包装紙にはマーガリン等の乳製品の絵が二、三個描かれ、隅の方に「四つ葉のクローバー」が描かれていた。

色彩研究家Cheskinは幸せを呼ぶシンボルとされている「四つ葉のクローバー」こそ、消費者が求めているイメージだと考えて、これを強調する方法を採った。

包装紙を3回に渡って、次々にクローバーを大きくして、遂には大きな浮彫の「四つ葉のクローバー」だけを描いた箔付きの包装紙を採用した。

この結果、全く同じ品質のマーガリンの売れ行きが、目覚ましく伸びて行ったのである。」

 

  Schmincke "Norma" Ölfarben Muster 

其の他、「食」の分野のみならず、生活三大要素の「住」や「衣」の分野に目を向けて見ても、同様に次第に「色彩」が失われているのである。

最近新築される家は建材の価格高騰及び借金の金利上昇、更に実質賃金の減少の関係で、庶民達にはどうしても家に大して費用を掛けられない様である。

又、今日では前記の事柄を理由に家のローンの支払いに行き詰まったり、折角購入した家を手放す家庭も少なくない様である。

余の住む街で最近新築された家々を見ても、敷地は狭く、建材は安価で、デザインは無個性で、色彩さえも乏しいのである。

ある一級建築士の書いた記事によると、最近の庶民の家には伝統的な「和室」が無い事が殆どらしい。

其の理由とは和室の土壁、天然木の天井、畳は全て各職人の手作業による物なので費用が高くつくからである。

余も此の一級建築士さんに同感で、日本の家屋から「和室」が消えて行くのは何とも寂しく世知辛い思いである。

其の上、宅地が狭いので「庭」すら無く、自動車2、3台を駐車する空間がある程度なのである。

(※街のど真ん中に3階建て部屋11室のBacksteingotik(レンガ・ゴシック様式)の館(実家)及び前記の駐車場を所有し、郊外の田舎には Neoklassik(新古典派様式)の別荘と田んぼ6反を所有する余の感覚からは、(見下した表現だが)庶民の住居は「家」ならぬ「小屋」にしか見えないのである。)

 

服飾の分野でも最近の庶民の服装を見ていると、同様に「色彩」が著しく欠けているのである。

「高度成長期」の1960年代、「バブル経済期」と呼ばれた空前の好景気の1980年代に流行した鮮やかな服や乗り物に比べれば、最近の衣服や乗り物が如何に無彩色になっているか一目瞭然である。

余は自分が学生時代であった1980~90年代の服(殆どが、又は系)を今でも大事に着用している。

と言うのは余が高校生であった頃はサイズはMで合っていたのだが、自分が1985年から始めているウェイトトレーニングによって将来より筋肉が付く事を予測して、意図的にLサイズを購入していた。

更に色以外にも一応好きなブランドや「天然素材」に愛着があったので、化学繊維による大量生産品には見向きもしなかった。

御蔭で今でも150着程の衣料品を良好な状態で保管出来ているのである。

「バブル経済期」が終わって1990年代には日本社会に不景気、雇用難、デフレーションが到来した。

そして余の記憶では同年代半ば頃には、日本の衣料品の色は鮮やかな色から次第にくすんだ、又は暗い無彩色へと変貌して行った。

Farbpsychologie(色彩心理学)の理論では、色の流行は其の時代の精神及び経済状態を象徴、反映すると言われる。

実に前記の1960年代から80年代には欧米諸国のみならず、日本でも鮮やかな色が流行していたのに対して、2000年代以降は黒や灰色が中心となった「無彩色」が流行している。

嘗て"Mittelalter"「中世」(10~14世紀)ではヨーロッパ各国や中国、そして日本でも建築と服飾文化の中に所謂「禁色」(きんじき)と言う習慣が存在した。

此れは王侯貴族、僧正、大地主、豪商、等の支配階級、上流社会に属する者のみが使用出来る色であった。

例を挙げると、「」「銀」「」「」「」等が其の代表である。

詰まりこれ等の色は使用する者の「高貴」や「財力」や「特権」を象徴していたのであった。

(※今日でこそ「禁色」と言う習慣は無いが、此の様な歴史上の文化を知る余としては、自分が士族出身の富裕層として、最愛の色「」を常に身に着ける者として、「優越感」に浸れるのである。)

笑い話の様だが、例えば大型商業施設の駐車場に一旦車を停めて店に入った後、自分の車を探すのに手間取った事がある人。

又は冬に大型飲食店に行って一旦コートを壁に掛けて、店を出る時に自分のコートを見付けるのに手間取った。

等の経験のある人はかなりの数いる筈である。

何故ならいずれの場合でも、大多数の人が似たり寄ったりの物を使用しているからなのである。

(※因みに余は此の様な経験は一度も無い。

何故なら周知の通り余は極端に「個性」が強いからである。)

 

   Faber-Castell : Farbstifte

 日本人の特有の国民性として「同調性」が非常に強い点が挙げられる。

詰まり周囲の人間と同じ事をしたり、同じ物を持っている事で安心感を得ると言う、所謂「他人思考型人間」の代表例であると言える。

(同ブログの記事「自分思考型人間と他人思考型人間」参照)

大多数の日本人はとは反対に余はとことんまでに「自分思考型人間」なので、大衆の人気だの流行だの「同調圧力」等は完全否定、完全無視している。

其れどころか、(いつもの様に高慢で自惚れた言い方だが)有象無象、又は凡下な庶民と同じである事に我慢がならないのである!

諺の「出る杭は打たれる」に対し、出過ぎた杭に成れば打たれる事は無いと思うし、「長い物には巻かれろ」ではなく、巻かれる前に断ち切ってしまえと思うのである。

又、「団栗の背比べ」等は全く嘲笑すべき愚行だと思うし、周りの人間が「砂利石」なら、余自らは「宝石」として自分を磨き上げ、一人輝くのが好きなのである。

いつもの悪い癖で度々高慢で自惚れた事や庶民を見下した様な事を書いたが、(読者の方々はどうか御気を悪くしない様に!)

多種多様な色(絵具)を使う芸術家としての余としては、社会から美しい「色彩」が失われて行くのは何とも残念で嘆かわしいのである!

例えば不幸で恵まれない時代の事を「暗黒時代」と呼ぶ様に、此の社会現象は宛ら人々の心から「希望」や「喜び」や「感動」が失われている様に感じられるのである。

一方でヨーロッパのSymbolik(象徴学)では7色の🌈「虹」は「希望」の象徴である。

 

参考に同ブログの記事「服飾史の中の"Sexy Lingerie"と"Bikini" の起源と色彩効果」に書き記している「各色が象徴する抽象的意味、並びに人間に与える感情及び生理作用」を再度以下の通り書き記しておく。

:≪情熱、愛情、積極性、自信、活動、強さ≫ 

活性化、精神的刺激作用が強いので、脈拍を増加させ、興奮させるので衝動性、創造性、攻撃性を増進する。 憂鬱な気持ちを高揚させる効果や、男性生殖腺を刺激する効果がある。

:≪明朗、快活、社交性、賑い、精力、多弁≫ 

情緒的刺激色で、脈拍を僅かに増加させ、活力と注意力を与えるが、過度の刺激は返って不安を招く。

:≪希望、健康、自由、開放感、楽観性、変動性≫ 

気分転換をしたり、浮ついた気分を引き締める効果があるが、

長時間の使用は疲労を招く。

:≪安心、安定、慰安、均整、平和、爽快感≫ 

精神系統に作用して、鎮静、睡眠、鎮痛の効果を与える。 

緊張を解いて、血圧を下げたり、神経痛や頭痛を緩和する。 

更には目の健康にも良い。

:≪理性、冷静、沈着、几帳面、謙虚、受動性≫ 

動脈を収縮させ、血圧を高める。 又、化膿、冷え性、リューマチ、癌腫瘍の悪化をも防ぐが、過度の使用は倦怠、憂鬱を引き起こす。

 

:≪芸術性、神秘性、創造性、感受性、高貴、優美≫ 

心臓、肺、血管に作用して、組織の抵抗力を増進する。 

又、女性生殖腺を刺激する効果がある。

 

:≪現実性、保守性、堅実、自己満足、信頼、責任感≫ 

自分自身や其の環境や状況を変えたくないと云う保守的な考えを持つ人が好んで使う色。 精神的に円熟させる作用がある。 
 

ピンク:≪幸福、愛、温和、可憐、処女性、柔軟性≫ 

興奮や激情を癒し和らげ、安楽感や幸福感を与える効果があるが、場合によっては筋肉に脱力作用をもたらす事もある。

 

:≪潔白、誠実、清楚、清潔、純粋、神聖≫ 

感性、直感を活性化する作用があるが、反面論理的思考力を鈍化させる。 禅や瞑想に於ける「無我」「無心」の境地を表す色でもある。

 

グレー≪真面目、勤勉、遠慮、節制、従順≫ 

問題や迷いがある時、精神的な落ち着きをもたらす効果があるが、無個性、無情、無関心と見受けられる事がある。


:≪重厚、荘厳、陰気、悪心、反抗性、不満≫ 

精神を落ち着かせ、引き締める効果があるが、其れに対し気分を暗鬱にしたり、他人との意思の伝達を阻害する効果もある。

 

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   H.de Toulouse-Lautrec :  Portrait de Suzanne Valadon (1888)

人間は生きている限り、どうしても悲しい事、苦しい事、又は何か問題や障害に遭遇してしまう事がある。

そして其れ等が解決出来ない時、何かの快楽でnegativ(不快な)気持ちやStreßを紛らわそうとする。

一昔前までは「依存症」とは極僅かの人間だけに該当している精神的疾患であったし、其の種類も限られていた。

(例:アルコール、ニコチン(煙草)、薬物、買い物、賭博、他)

ところが現代では恐るべき事にインターネット、スマートフォン、ゲーム、等の依存症の人は世界中で見受けられる様になっている。

今から20年程前の2000年代になって以降感じる事だが、街へ出て見ると路上でも、駅、役所、商業施設、金融機関、等に於いても多数の人々が周囲を気にも留めずスマートフォンに見入っている光景を度々見かける。

余の住む人口7万人程の小都市(現在東区)でさえ、この様な有様なのだから、我が親類の通勤する東京や、友人の住む大阪、等の大都会では尚更此の(病的な)社会現象は多く見受けられる様である。

此れに対応し何名かの著名で有能な医師の方々が其の著書、論文、講演、等で啓発活動をされている。

精神科医の和田秀樹先生の著書「依存症社会」によると、日本人が一番多く罹患している精神病は「依存症」で、2013年頃の厚生省の統計によると、「アルコール依存症」が約230万人、「ニコチン依存症」が約1480万人、「賭博依存症」が約560万人、「インターネット依存症」が約270万人、そして「買い物依存症」が推定で約610万人との事らしい。

更に同先生の著書「疎外感の精神病理」によると、現在ではスマートフォンに日本国民の約18%がかなりの依存、約55%がやや依存している状況らしい。

是(約1億2300万人の20%)より計算すると、人数では約2460万人と言う事になる。

合計すると、何と約5610万人もの国民が何らかの「依存症」に陥っていると言う驚異的な統計結果になる!びっくりアセアセ

そして困った事に、大部分の依存症患者には此の病気の自覚が無いのである。

更に由々しき事に、日本社会は「依存症」を出し易い状況なのである。

(例:嗜好品、賭博施設、等が全国に散在している、スマートフォンの過剰販売と普及、これ等に対する法的規制の緩慢、等)

又、「依存症」とは「意志が壊れる病気」なので、正しい治療をしないと治癒出来ないのである。

 

又、脳神経外科医の川島隆太先生の著書「スマホ依存が脳を傷つける」によると、脳に以下の障害が認められている。

注意・大脳の中枢である「前頭前野」の機能の著しい低下
注意・「思考力」「記憶力」「集中力」「創造力」の著しい低下
注意・欲求の制御不能  注意・睡眠障害  注意・意志薄弱

注意・成長期の子供の脳発達が大きく損なわれる

注意・成人なら不安・抑鬱の傾向が高くなる

注意・「認知症」になる年齢が早くなる

これ等の衝撃的な悪影響、及び症状は最新の研究によって明らかになっているとの事である。

又、川島先生がスマートフォンを「デジタルドラッグ」と表現されている様に、此の通信機には恰も「覚醒剤」や「麻薬」の様に「依存症」を引き起こす要素がふんだんに組み込まれているので、使う際には利用者自らが「依存症」に陥らない様、細心の注意が必要なのである!

こう言った良心的な先生方の警告を無視する阿呆、馬鹿、貧乏人共が将来どの様な惨めな人生を辿るのかと思うと、呆れると同時に哀れでならないのである。

(冷徹な解釈をすれば、全ては「自己責任」「因果応報」「自業自得」と言えるのだが・・・・)

 

参考に川島先生による「スマホ依存症」のチェックリストを紹介する。

・朝一番にインスタントメッセンジャーやSNSをチェックする

・料理や洗濯など家事の最中もインスタントメッセンジャーに反応する

・家族と食事を囲む間もスマホをつい見てしまう

・幼い子供がぐずると、スマホやタブレットでお気に入りのアニメを見せる

・通勤や仕事の合間に、少しでも時間があるとスマホを見る

・動画を倍速で視聴する

・友人のみならず、知らない人のSNS投稿に「いいね!」を押す

・目的地の道案内をスマホにしてもらう

・気になる事は全て「検索」で解決する

・夜寝る時、寝室やベッドの中にスマホを持ち込む

これ等の事を当然と思ってやっている人は、既に脳がスマホに乗っ取られているらしいのである。

(因みに余はいずれの項目も該当しない。そしてSNSもゲームも一切やらない。)

 

  Correggio:  Leda e il cigno (1532) コレッジオ作 「レダと白鳥」
 J.D.Ingres:  Le Bain turc  (1862)  アングル作 「トルコ風呂」

更に近年、WHO(世界保健機関)でも精神疾患の一つとして認定されている「ネット・ポルノ依存症」については、欧米諸国の精神科医の間で研究が進められている。

参考に此の「ネット・ポルノ依存症」の診断テストを紹介する。

各項目に以下の回答点数を付けて、其の合計が75点以上あれば、「ネット・ポルノ依存症」と診断される。

 

1、ポルノは人生に於ける重要事である。

2、欲求不満を満たす為にポルノを使う。

3、日常生活の問題から逃避する為にポルノを観る。

4、ポルノを観ると、不快な気持やストレスが解消する。

5、更なる快楽を求めて、もっとポルノを観たいと感じる。

6、ポルノを観る計画を継続的に立てている。

7、ポルノを観る必要性が次第に増加している。

8、ポルノを断つ事が長続きしない。

9、ポルノを観る回数、時間を減らそうとしたが失敗した。

10、何らかの理由でポルノを観れない時、ストレスを感じる。

11、ポルノを観られないと、激しく動揺する。

12、以前観たポルノだけで満足せず、より過激なポルノを求める傾向にある。

13、家族や友人と過ごすより、ポルノを観たいと感じる。

14、やるべき用事があっても、ポルノを先に観てしまう。

15、ポルノが原因で仕事等の能率が低下した。

16、ポルノが原因で私生活に支障をきたした事がある。

17、ポルノを観ていない時でも、ポルノの事を思い浮かべたり、ポルノを空想したりする。

 

全く無い:1点、滅多に無い:2点、少々ある:3点、時々ある:4点、頻繁にある:5点、とてもある:6点、常にある:7点

   P. Delvaux:  Les Amies (1968)  デルボー作「女友達」

 Nudemodels ca, 1920 

これ等の項目を読んでみると普通の人なら失笑、爆笑して、「こんなの完全な病気じゃないか!」と思う事であろう。

だが「ポルノ」と言う単語を、依存症の原因となる事物(例:スマートフォン、アルコール、ニコチン(煙草)、薬物、買い物、賭博、ゲーム、等)に全て置き換えて診るとどうであろう?

普段、日常茶飯事、当たり前と感じている事が、如何に異常で病的な状態であるか判るのである。

余もラブ「爆乳美人」ラブラブが大好きな上、自身がヌードモデルや※Porno男優に成るのに理想的な容姿筋肉(彫の深い美人顔、超筋肉質、餅肌、他)なので、「ネット・ポルノ依存症」になる人の気持ちは十分に理解出来る。

だが、快楽が高じて自分の健康や私生活までに支障を来たすまでになっては、正しい人生を歩んでいる事にはならないのである。

(※馬鹿げた想像なのだが、もし余が人生に失敗していたらどうなっていただろう? と考えた事があった。

挙句の果てにはPorno男優にでも成るしか道が無かったかも知れない・・・)

 

 

余はドイツのKunstakademie(芸大) で学ぶ傍ら、Medizinische Akademie(医大)でも特別受講生としてAnatomie(解剖学)と Psychologie(心理学)を学んでいた。(1991~95年)

其の中でAlkohlismus(アルコール依存症)に関する講義を受けた事もある。

当時、担任のPsychologie u, Gehirnnerv(脳神経)の医師である F.Ficker先生は、人間がAlkohlismusに陥るUrsache(原因)、

 Phase(経緯)、 Sympthom(症状)、そしてLösungsmittel(解決法)について実例やユーモアを交えて詳しく教示してくれた。

当時のFicker先生の言葉 >Alkohlismus anfangen ist so einfach, aber abschließen ist so schwierig.<(アルコール依存症になるのは簡単ですが、終わらせるのは大変困難です。)は今でも余の心に刻まれている。

故に余は自分で生活態度をチェックして、如何なる「依存症」にもならない様に心掛けている。

余が個人的に調査、分析して診ると、「依存症」になる人には以下の共通点が見受けられる。

ネガティブ・人生に確固たる「生き甲斐」「希望」「志」「目的」が無い

ネガティブ・人生に何かの「不満」「悩み」「ストレス」「劣等感」がある

ネガティブ・大した用事も無く、時間を持て余している

ネガティブ・家庭や社会で孤立している

ネガティブ・欲望を抑える「自制心」が弱い

ネガティブ・意志薄弱で他人の言いなりになり易い

ネガティブ・「依存症」に関する知識や警戒心が無い

 

幸いな事に余も含めて、我が家族、親類、友人、知人の中には「依存症」の者は殆どいない。

(但し例外に生来のADHD(注意欠如過活動性症候群)で「買い物依存症」になって、浪費、散財を長年続けて、家を「ゴミ屋敷」にして、経済的に破産同然にまで落ちぶれている大馬鹿女が一匹だけいるが・・・・余はこの女の家族が誠に気の毒、不憫でならない。ショボーン

社会心理学の統計によると高学歴で社会的地位のある人や富裕層の人程、「依存症」になる確率が極めて低い様である。

何故なら此の階層に属する人達は自分の人生や仕事に「自信」や「充実感」や「満足感」があるからである。

そして「依存症」の恐ろしさや弊害を認識しているからである。

又、余の日本の友人でキリスト教会組合の理事が此の様な事を言っていた。

「悪魔が好む人間とは? 其れは※弱い人間です。 何故なら弱い人間は簡単に誘惑出来て悪の道に引き込み易いからです。」

(※ここで言う「弱い人間」とは身体でなく「心」即ち「自制心」や「理性」の弱い人間の事である。)

 

では依存症にならない、ないしは依存症から脱出して健全になる方法は何か?と問われると、余の答えとして、人生に於いて何か(健全な)「生き甲斐」、「目的」、「楽しみ」を持ち、其れを熱心に継続する事であると主張したい!

其の実例として、余が昨年の12月にフランスの画家M.Utrillo(1883~1955年)の記事を書いた中で、彼が10代から「アルコール依存症」になって長年苦しみ続けたが、絵画制作によって此れを立派に克服した事を紹介している。

彼の伝記は「依存症」に陥っている人にとって大変な励みになるのではなかろうか。

Utrillo以外に歴史に名前と作品を残す芸術家達の中で、「アルコール依存症」であった人を挙げると、Frans Hals(1583?~1666) 、 V.v.Gogh(1853~1890)、H.d.Toulouse-Lautrec (1864~1901) 、 J.Pollock(1912~56) 等がる。

幾人かの精神科医や伝記作家の研究、統計によると、「天才」は凡人に比べて「依存症」になり易い性格である事が述べられている。

ドイツの天才大文豪J.W.v.Goeth先生(1749~1832)の御言葉 >Wenn man große Sache  will,  muß erst kleine  Sache  anfangen.   Wenn man  Schwierigkeit will,  muß erst Einfachheit anfangen.<(人間が大事を望むなら、先ず小事から始めよ。 難事を望むなら、先ず簡単な事から始めよ。)の如く、小さな事、簡単な事から始めれば良いのである。

其の他、各学校や教育・文化施設、医療機関、等で依存症についての授業やSeminar(講座)を開設して、出来るだけ多くの国民を啓発、そして注意喚起する必要があると思えるのである。

スマートフォンは一見、多種多様な機能が満載されて、大変便利で楽しい道具に思えるかも知れない。

しかし、一旦此れにのめり込んで「依存症」にまでなってしまうと、人間は自分の「人生」と言う掛け替えの無い貴重な時間を失い、「幸福」や「成功」を得る為の学習や努力をする事さえ出来なくなってしまう。

増しては人生に「幸福」や「成功」をもたらす「希望」「理想」「目的」「志」まで失ってしまうのである。

(自惚れて庶民を見下した様な表現だが)貴族出身者や富裕層やエリート層の人間から見れば、下層階級や貧困層の者共等、成程取るに足らないチンケな存在かも知れない。

しかし諺にも「一寸の虫にも五分の魂」とある様に、何人(なんびと)たりと言えども、生きる権利位はある筈である。

そして生きるからには、より健康で、幸せに成りたいと願う筈である。

余は少なくとも此の記事に関心を持って読んでくれている人達には、スマートフォン、更には其の他の健康や生活を蝕む有害な「依存症」に陥る事無く、自分の人生を有意義で充実した物にしてもらいたいのである!

此の事は他人からの助言、啓発より、自らの意志や注意や決心で実行しなければならないのである。

 

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余は自分で絵画作品、其の他の工芸品を制作するのみでなく、Kunstsammler(美術収集家)として、様々な骨董品、美術工芸品を収集している。

そして、それ等の中には一部が欠落、ないしは損傷している物もあるので、自らの知識と技術によって修理している。

 

2024年の修理作業:

嘗て余が学業及び芸術活動の為ドイツと日本を毎年行き来していた1991~95年頃、交通手段としてドイツのLufthansa航空、ないしはオランダのK.L.M.航空を利用していた。

当時オランダの首都Amsterdamに寄った時、同国の伝統工芸品の1つであるDelft陶器のオランダの民家を模った瓶を購入した。 

此の陶器製瓶の屋根の天辺に蓋付の注ぎ口があり、蓋の内部がコルク栓で出来ている。

ところが経年劣化の為、此のコルク栓が折れてしまい、まともに蓋が閉まらなくなってしまった。

とは言え此のコルク栓を単独で入手するのは不可能なので、そこで思案した結果自分で修理する事にした。

先ず、コルク栓の残りの部分に竹ひごを差し込み適度な長さに切って接着剤で固定する。

次に竹ひごの周りに接着剤を塗った厚紙を巻き付けて固定する。

最後にガムテープをその上に巻き付けて、注ぎ口の口径に合う様に調整したのである。

此れ以外方法が思い付かないので、唯一の解決法として試みたのだが、思いの他上手く行ったのであった。

此の成功の直後には同様にフランスのCognac製造業者CamusのLimoge陶磁器製の瓶の経年劣化したコルク栓も同じ手法で修理しておいた。

  Camus・Limoge:Renoir "After the Bath"(1888)
 
 Camus・Limoge: Renoir "Woman asleep"(1897)

余は専らドイツワイン(Mosel 又はRhein産)を毎日就寝前にグラス1杯のみ飲む習慣があるのだが、Cognacも何か目出度き事があれば「祝い酒」として、又は風邪の初期症状が出た時には「消毒薬」として極少量を飲む様にしている。

(※酒類に含まれるメチルアルコールは殺菌消毒作用がある。)

因みに各先進国に輸出されるCognacの中では、 "Henesy" 、 "Remy Martin" そして"Martell"の順番に量が多いのであるが、原産地のフランスでは"Otard"が(特に貴族出身者の間で)一番人気があるらしい。

やはり其の理由として、Baron de Otard(男爵)が経営者で、此の会社も蒸留所も嘗てのフランス王FrançoisⅠ世(1494~1547年 )の城Château de Cognacの中に有るからであろう。

余は個人的には瓶のデザインではCamus、そして業者の家柄、格調では"Otard"が一番の好みである。

 

2026年3月の修理作業:

Unterweißbachの工房で作られた "Schäferpaar"を入手した。

此の作品も(恐らく)羊飼いの恋人の男女を表現している。

興味深き事に、男の目線が丁度、女の乳房に向けられている。

Eleganz(優美)の中に Erotik(性愛)を彷彿させる要素を含んでいる処は、正にPorzellan の製造と貴族による収集が著しく発展した18世紀のRococo趣味を見事に継承している。

此のFigur(人形)の特徴として女性像のスカートを形成しているTüll(レース、薄網目織)が挙げられる。

此の部品はまるで線香と同じ位壊れ易いので、取り扱いには細心の注意が必要なのである。

余が此の作品を購入した時点で既に此のTüllの一部が欠落していた。 

其れ以前にも、同工房やTettau、Sitzendorfの工房で造られたFigurでも此のTüllの極一部の欠落が見受けられた。

 Sitzendorf :  "Ballerina im Tüllkleid"

そこでこれ等に余の独自の手法で修理を施して来たのである。

此の陶磁器製のTüllは粘土やパテから手作業で造るのは不可能と判断し、Gaze(ガーゼ)を代用品として使う事にした。

先ず欠落している部分に接着剤を塗り、そこに大きさの合うGazeを切り取ったのを貼り付け、余った部分を鋏で切り取る。

更に其の上からニスを混ぜた白の油絵具を塗り付けるのである。

スカートのTüllの一部が欠落したままよりも、こうして修理している方が遥かに見栄えがするのである。

 

同ブログの以前の記事『3月の我が家に纏わる様々な出来事』に書いている事だが、2021年12月には我が館(実家)の色褪せた台所の窓の格子、並びに玄関の窓の格子に着いている多数の小さな発疹の様な傷を、自ら調合した塗料で修理した。

更に翌年2月には我が館の事業所の入り口の天井の塗装、バルコンの目地の修理、玄関前のタイル縁のコンクリートの修理、室内の壁紙の一部の貼り付け、3月には館の西側の金属製屋根の錆取りと塗装、そして玄関口の照明器具の和紙の張り替え、更には我が家の車庫の金属部の塗装、駐車場の地面の白線の修理、等の作業を全て余1人で完了した。

普通の人ならば此れだけの作業は専門業者に委託するのだが、

そこへ行くと余は芸大で絵画/グラフィック及び建築をも学んでいる画家であり、美術工芸品、骨董品の鑑定、収集、修理も行っているだけに、自分自身でいとも簡単に成し遂げられるのである。

同様にブログの以前の記事『日本の正月飾りとドイツのWeihnachtsdekoration 「一新」と「保守」の文化の違い』に書いている事だが、日本は"Renovierende Kultur(「一新」の文化)、ドイツはKonservierende Kultur(「保守」の文化)と表現する事が出来る。
両国の文化で其の他の例を挙げると、日本では家財道具が古くなったら廃棄処分して、改良した新しい物を作ったり、購入する事が主流である。
例えば住居や施設等の建造物でも大抵の場合30年ないしは50年経年すると、解体して新しい物を建てるのである。
故に日本では家財道具の「保証期限」が切れた物は、本体どころか其の部品の製造も終了するので、古い物を修理するのが容易ではない。
一方ドイツでは家財道具を安易に廃棄せず、親、祖父母ないしは其れ以前の先祖の代より手入れ、修理をしながら受け継いでいる。
同様に建造物の場合、100年以上前に建てられた物件を安易に解体したりせず、破損、老朽した部分のみ修理して、更に時代に適合した設備を追加する等して全体的に保持して行くのである。
故にドイツでは半世紀以上前から作られた物の部品でも製造したり修理する技術も残しているので、古い物を確実に保持出来るのである。
成程それぞれの文化には一長一短があるし、日本人には「日本式概念と方針」が常識として慣れているのかも知れないが、余は個人的には断然 "Deutsche Konzept u,Methode"(ドイツ式概念と方針)の方が好みに合うのである。
何故なら物事の価値を決めるのは、古いか新しいかではなく、有益か無益か、又は有意義か無意味かであると考えるからである。
即ち古より価値の有る物は守り続け、価値無き物は抹殺すれば良いのである。
「古い物」は何でも切り捨ててしまう等と言う考えは正に「愚の骨頂」であり、良き物、価値ある物はたとえ古くとも守り続け、後世の世まで残して行かねばならないのである!

(因みに当記事に出て来る"Lichthaus"画像右のGiebelaufsatz(切妻の飾り)も余が金属パテで整形し、油絵具を塗って修理している。)

 

日本では文化財と貴重品以外は大部分の古い物を壊して捨てるので、其の分だけ新しい物を大量に製造して販売する。
故に業者の儲けは多いが、其の反面無駄が多いし、ごみの処理に手間や費用が多くかかってしまう。
ドイツでは大抵は古い物でもReparatur(修理)、Pflege(手入れ)、Reform(修正)、Wiedergabe(再生)、そしてWiederverwendung(再利用)によって保持するので、新しい物を適当な量だけ製造して済ます。
故に業者の儲けは日本程ではないが、無駄が遥かに少ないし、

ごみの処理に掛かる手間や費用も遥かに少ないのである。

余は前の大戦中を生き抜いた我が親父殿や祖父母、小中学校の恩師達の教え、そしてUmweltschutz(環境保護)の先進国であるドイツでの長年(1989~2003年)の学習、経験もあって、上記のドイツの習慣を実践する様に心掛けている。

そして余は今まで長年に渡り多種多様な美術工芸品、骨董品、等を収集、修理、又は改良して来た。

其の他、「プロフィール」にも書いている様に、余は衣料品、皮革製品、そして家具も大量に持っているので、これ等の修理も改良も専ら自分で行っている。

又、衣料品、皮革製品、そして家具を選ぶ時には、「流行」等と言う軽率で不安定な事は完全無視して、あくまで自分が気に入っている」(系)、「デザイン」(古典的、伝統的)、「材質」(天然素材)、そして「ブランド」(YSLとGoldpfeil)を基準としている。

御蔭で我が館(実家)には既に30年ないしは50年以上使い続けている物がざらに有るのである。

其れでいて物品の「整理・整頓」は徹底的にしているし、無意味、無価値な物は一切買わない、そしてゴミは定期的に処分しているので、家の中が散らかる事は決して無いのである。

これ等の品物は単に集めるだけでなく、自らの知識、経験で鑑定し、自らの技術で修理、改良出来る事には喜びと同時に、物品を大事にする心掛けも養えるのである。

そして単なる「道楽趣味」のみで終わらず、「物品資産」を増やす事によって「実益」や「充実感」も得られるのである。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav        All rights reserved

19世紀半ばになってヨーロッパ諸国では Industrial Revolution(産業革命)が次々と浸透して行き、其れまで伝統的に続いたManifaktur(手工芸)に代わってMashinen-produkt(機械生産)が産業の主力となった。

(例:イギリスイギリス:1820年代、フランスフランス:1830年代、ドイツドイツ:1850年代、雪の結晶ロシア:1870年代)

此の新しい知識と技術は世界でも群を抜いて優れており、次々と便利な物品を発明し、其れ等を大量に生産して行った。

此の高度文明と技術はやがてとヨーロッパ諸国に巨万の「富」を齎(もたら)し、遂には「軍事産業」をも盛んにする様になった。

そしてヨーロッパ列強国は自国のみならず、新たなる領土拡張を目指して海外に進出し、貧しく文明の立ち遅れたアジア、アフリカ諸国を次々とKolonisation(植民地化)して行った。

例:イギリスイギリス →インド、エジプト、スーダン、ナイジェリア、ビルマ、香港、上海、他

フランスフランス →アルジェリア、モロッコ、マダガスカル、カンボジア、ベトナム、ラオス、他

ドイツドイツ →カメルーン、タンザニア、ナミビア、南洋諸島、山東省、他

イタリアイタリア →リビア、ソマリア、エチオピア

チューリップオランダ→インドネシア   チョコベルギー→ザイール

おうし座スペイン→西サハラ  

船ポルトガル→アンゴラ、モザンビーク

雪の結晶ロシア →モンゴル、旅順   アメリカアメリカ →フィリピン

日本日本 →台湾、朝鮮、満洲国

余は自分の祖先が清和源氏の流れを汲む士族である事、そしてKönigreich Preußen(プロイセン王国)に自分のGeistige Heimat(精神の故郷)として愛着があるので、個人的に国内政策ではAristokratie(貴族政治)、そして国外政策では Imperialismus(帝国主義)を理想としている。

(※現代の庶民には「何と言うAnachlonismus(時代錯誤主義)なんだ!」と思われる事であろう。)

故にかつて19世紀後半にドイツや其の他のヨーロッパ列強国、そして日本がこれ等の政策を推進していた事を称賛していた。

当時のDeutsches Kaiserreich(ドイツ帝国)ではVerteidigungsminister(国防省)ならぬ"Krieg-minister"(戦争省)が存在していた。

Aristokratie(貴族政治)、 Bürokratie(管理主義)、そして Militarismus(軍国主義)を国家政策の基本としていたKönigreich Preußenが中心となってドイツ帝国を成立させたのだから、当然の成り行きと思える。

ドイツ帝国のReichskanzler(宰相)Otto v, Bismarck閣下(1815~98年)は>Die nationale Vertreters verhalten so höflich in der Friede, und innerlich ihre Kraft(Wirtschaft u, Militär) einander vergleichen.  Aber wenn ihre Behauptung nicht  steht, dann verwendet die Waffenkraft.<「平和な時には国家の代表は互いに慇懃(いんぎん)に振る舞い、そして内心では互いの力(経済、軍事)を比較しているのだ。だが自国の主張が通らない時には、武力を行使する。」と言われている。

此の御言葉は正に当時のImperialismus(帝国主義)の中のヨーロッパ列強国のNationale Politik (国家政策)を象徴していると言える。

 

 Die Enthauptung Trump des Teufels nach Original von Peter Paul Rubens 

時が流れて今日では経済格差、外国からの大量の移民の流入や「ロシア、ウクライナ戦争」そして長年のキリスト教とイスラム教の対立、等が原因となって、ヨーロッパ各国では国民思想の「右傾化」が顕著になって来ている。

何と今ではアメリカでもあのキチガイ大統領Tの指令によってDepartment of Defense(国防省)がDepartment of War(戦争省)に改名されている有様である。

今年1月3日未明、アメリカ軍がベネズエラの首都カラカスに侵入し、13年の間独裁政権を敷いて来たマドゥロ大統領と其の妻を拘束してアメリカに送致する事件が起きた。

ヨーロッパのAristokratie(貴族政治)と Imperialismus(帝国主義)を理想としている余ですら此のアメリカによるNeo-Imperialism「新・帝国主義」と呼ぶべき国外政策には、甚だしい不快感を感じるのである!

当時のPreußenや日本の様に、国土も限られ、経済的に貧しい国がImperialismus(帝国主義)やMilitarismus(軍国主義)を採っていたのなら、国を守り繫栄させる為に止むを得ない事として納得が出来る。

だが、アメリカの様に世界最大の経済力と軍事力を持つ大国が、小国や発展途上国を攻撃するのは、恰(あたか)も「弱い物苛め」の様に思えてならないのである!

此れに関して余は以下の古代中国、「春秋戦国時代」の故事を思い出した。

「宋」の大使・墨子が、宋の攻略を目論む「楚」の王に謁見して、「立派な馬車を持ちながら、まだ隣人の馬車を盗ろうとする男をどう思いますか?」と尋ねると、楚王は「強欲で盗癖があるに違いない。」と答えた。

すると墨子は「では、貴国は五千里四方も有るのに、我が宋は五百里四方しか有りません。宋を攻めるのは此の者と似たりではありませんか?」と諭し、最終的に楚王の宋への侵略を断念させた。

残念ながら強欲で、利己的な現在のアメリカの腐れ外道のキチガイ大統領Tには「仁義」も「道理」も通用しないのである。

嘗て第二次世界大戦時にドイツと日本の軍隊がそれぞれ「奇襲攻撃」を敢行した事には、余は合理的な戦術として肯定的であった。

参考に戦術的観点から「奇襲攻撃」は以下の利点がある。

爆弾敵の不意を突いて攻撃するので、組織的に反撃して来る前に短期間で戦闘を終了出来る。

爆弾「短期決戦」によって、所要時間、労力、そして自国の損害(人命、物質、費用)を最小限に抑えられる。

今年2月28日、遂にアメリカとイスラエルが共同で長年対立しているイランに対し軍事攻撃に踏み切った。

今まで交渉を進める様な素振りをしておきながら、この様に奇襲攻撃したのだから、「騙し打ち」と言っても過言ではない。

今回のアメリカとイスラエルによる「騙し打ち」に対し、余は寧ろ激しい「怒り」を覚えるのである!

両国のキチガイ大統領Tと腐れ外道の首相N、並びにこいつらに「お追従」する閣僚共の独断によって、昨年のイスラエルによるパレスチナ自治区、及びガザ地区への非人道的な弾圧、攻撃に続き、またしても非人道的な凶行が行われてしまった!

更に個人的な意見だが、彼らがこの様な悪行を重ねるのなら、かつて大戦末期にNazisが行っていた”Holokost”(元来ギリシャ語で「火炙り刑」:ユダヤ人大量殺戮の事)を非難する権利等無いのではないか?と思えるのである!

 

一定の国家のNationalism(国家主義)や政治家のEgoism(利己主義)によって、世界の平和と秩序を乱し、経済に多大な損害を与える事に「正義」等、全く存在する訳がが無い!

この非道によって、イラン国内では1日で最高指導者ハメネイ師、及び其れを取り巻く上級幹部、更には(現時点で)千人以上の民間人の死者が出ていると中東の各テレビ局が報道している。

ハメネイ師の邸宅に一点集中の攻撃をしている点からして、アメリカの情報機関と軍部は予てより、対イラン攻撃に備えて計画、準備していたと観て間違い無い。

此の奇襲攻撃に対抗して、イラン軍はイスラエル及び複数の隣国の米軍施設に対し反撃しある程度の損害を与えた。

イラン政府は「宣戦布告」無しで奇襲攻撃を仕掛けて来た両国に対し徹底抗戦、及び報復を宣言している。

此れについて各国は以下の声明を発信している。

ナイフオマーンの外相は攻撃を受け、「落胆している。活発で真剣な交渉は再び妨げられた。」と投稿した。 又、「此れはアメリカの利益にも世界平和の推進にもならない。」として、アメリカにこれ以上飲み込まれない様求めた。

フランスフランスの大統領は「現在の緊張の高まりは誰にとっても危険だ。止めなければならない。」と述べ、国連安全保障理事会の緊急会合を呼びかけた。

おうし座スペイン政府は自国内の軍事基地をアメリカ軍に提供する事を拒否した。

カナダカナダ の首相は「イランの核兵器の取得を阻止し、国際平和と安全を更に脅かす事を阻止する為に行動するアメリカを支持する。」と表明した。

雪の結晶ロシア 外務省は「アメリカとイスラエルが中東を奈落の底に突き落としている。其の上攻撃によって中東地域が「人道的、経済的な破滅や恐らく放射能汚染の惨事に急速に近付いている。」と批判している。

中国中国外務省も同様に「明らかな国際法違反だ!」と非難している。

アメリカアメリカ国内ですら対イラン攻撃以来、各地で抗議、反対デモ頻繁にが起きている。

キチガイ大統領Tはオウムか「馬鹿の一つ覚え」の如く>Make America great again!<と繰り返しほざいているが、余から見れば >Make America nasty always!<(アメリカを増々酷くしている!)と言うべきである。

こいつが初めて当選した時、ある高学歴のDemocratic党支持のアメリカ人が「私達の国民は権力の座に絶対就けてはいけない人を大統領に選んでしまいました。」と言っていたのを今でもはっきりと覚えている。

 

イランでは今後「軍事政権」が成立し、前記の徹底抗戦、及び報復を方針決定している事から、今後長期戦になる事が予測される。

此度のアメリカ、イスラエルによる凶行は、結果的に全世界に以下の悪影響を齎す事は必定であろう!

叫び原油価格の高騰、及び供給難   

叫び各エネルギー代の高騰   

叫び物価高騰よる更なるInfrationの加速 

叫び世界規模の不況、 企業倒産、失業の増加

爆弾アメリカ国内でのイスラム系のテロ攻撃の増加

日本は石炭、石油の99% を輸入に依存している故、これ等の値段が高騰すると、自ずから電気代も上がってしまう。

日本の発電技術の割合を見ると、約29%が天然ガス、約28%が石炭、約7%が石油、 約8%が原子力、約11%が太陽光、約8%が水力、約6%が再生可能エネルギー、約2,6%が其の他の自然エネルギーと言った状況である。

参考に世界で最も『海洋発電』が発達しているのがノルウェーで、何と国全体の発電の約50%を占めているのである。

同じヨーロッパのイギリスでも、2003年頃から国家政策として推進され、今では国全体の発電の約30%を賄う程にまで成長している。

一方、アジアでは同じ島国のフィリピンでも17%が水力発電である。

同じ島国が此の様に実践しているのだから、日本でも決して実現不可能な事では無いのである。

今更「たら、れば」と仮定をしても空しいのだが、もし日本政府が「水力発電」及び其の他の自然エネルギーを主力としていれば、此度の原油価格高騰になっても電気代には悪影響は無かったであろう。

かつて日本は海水の流れによって巨大なタービン(水車)を回す事で発電する所謂『海洋発電』の理論に関して世界でも卓抜していた。

ところが巨額な費用がかかる事、海岸に権利を有する自治体や漁業組合等との調整の問題等でなかなか実践出来ていないのが現状である。

最初に水力発電所を多数建設するには成程、其れなりの費用がかかるかも知れないが、長期的な展望からは寧ろ水力発電の方が断然、経済的で安全で環境にも優しいのである。  何故なら

波水力発電はエネルギー源の「水」は常に無料なので電気代も自ずから遥かに安価になる。

波そして今日の深刻な環境汚染の原因となる二酸化炭素や放射能、等全く排出しない。

波更に水力発電所の維持管理費も比較的安価に成るのであるから、良い事尽くめなのである!

 

以前の同ブログの記事「天台仏教から見たキリスト教とイスラム教の対立について」に書いている事だが、全く一定の国家のNationalism(国家主義)や政治家のEgoism(利己主義)によって、世界の平和と秩序が乱され、経済に多大な損害が齎されるのでは、全人類は堪った者ではない! 

全くを以て「世界の迷惑」である!

(※過激な事を書く様だが、誰かがアメリカでこの腐れ外道のキチガイ大統領Tを「暗殺」してくれれば、アメリカでけでなく、全世界の人々が救われるとさえ思われるのである。)

誰かが為さねばならない事なのに誰も為そうとはしない。其れを為せば其の人は「英雄」となる。 誰も為してはならない事なのに、其れを為せば其の人は「犯罪者」となる。

(我が「格言集」より)

お互いに自分達の正当性ばかり一方的に主張せず、他人の立場や異なる(又は相反する)思想や活動に対して理解し、其れ等の存在を容認する様に努めれば、最悪の事態にはならなかった筈である。

政治、経済、国防戦略、以外の分野で欧米諸国と中東諸国の対立の原因として「宗教」が挙げられる。

では何故キリスト教とイスラム教が対立しているかと言うと、それぞれの宗教では自分達の唯一の神のみを信仰し、他の宗教は全く受け入れずに否定する排他的なDogma(教義)に起因している様である。

世界の様々な宗教や神話を研究する上で、大別するとMonotheismus(一神教)と Phantheismus(多神教)に分類する事が出来る。

キリスト教とイスラム教は「一神教」の代表格で、其れに対し仏教、ヒンズー教、Germanische Mythologie(ゲルマン神話)、 Griechische Mythologie(ギリシャ神話)、其の他世界中に存在する古代神話は大抵の場合「多神教」に属している。此の「排他主義」が他者や他宗教に対する無理解や不寛容の根本的原因となっていると同時に、「一神教」の短所であるとも言える。

一方、仏教の歴史を振り返って見ると、先ず釈尊(紀元前565年~485年、衆聖点記説)によって成立、布教が成された仏教の発祥地インド及びネパールでは、現地に太古より存在しているバラモン教の神々を自分達の宗教に吸収し、更に紀元1世紀頃から中国に伝来して以後、儒教や道教の要素も吸収し、そして日本に538年に伝来すると、今度は日本古来の神々まで吸収すると云った具合に他宗教を排斥する事無く、闘争する事無く存続して来ている。

そう云う意味で、仏教はキリスト教とイスラム教に比べ、器の大きい寛大な宗教であると言える。

 

心理学でも実証されている事だが、人間は誰しも多かれ少なかれ、「自分」を基準にしているので、どうしても自分が正しいとか、普通だとか思い込んでしまう傾向がある。

様々な人種の中で白人は特に此の傾向が強い。

中でも特にアメリカは自国が"Land of Freedom"(自由の国)を称する余り、イスラム教国にまでキリスト教基準の自由を押し付けようとしているのである。

仏教と同様にキリスト教とイスラム教にも、他人の過ちや罪を許すGnade(慈悲)やToleranz(寛容)が最も重要な教えの一つとして存在する。

其れならばGunade(慈悲)やToleranz(寛容)を同国、同人種、同宗教の者にのみ向けるのではなく、異国、異人、異教の者にも向けるべきではなかろうか。

人生に於いて自分のGlaube(信仰)を大切にする事も、キリスト教では成程Hoffnung(希望)、Demut(従順)と並ぶ“Die drei Tugende”(三つの美徳)の一つである。

だからと言って自分の宗教を絶対視する余り、他宗教を攻撃して良いという理由には決してならない!

神であれ仏であれ、彼らの授けた正しい尊い教えを人間達が悪用して、お互いに憎み合い、争い合う事等絶対に望んでいないのである!

 

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日本とヨーロッパ諸国の道具の文化を比較して見ると、興味深い様々な違いを見出す事が出来る。

此度は「斧」について書き記して行こうと思う。

(※因みにドイツ語で大型の斧はAxtと言い、手斧はBeilと言う。)

ヨーロッパ諸国で「斧」は木を伐採する道具だけでなく、中世(10~14世紀)では戦闘用の武器(ドイツ語:Streitaxt)、そして死刑囚を斬首刑に処する時にも使われていた。(ドイツ語:Henkersbeil)

更に14世紀には"Hellebarde"(西洋鉾)の様に槍と斧と鳶口を合体させた実用的な武器も使われる様になった。

一方、日本では古来より木を伐採する道具は専ら鋸で、戦に於いても「斧」が使われる事は余り無かった様である。

余は予てより手斧は3丁持っているのだが、大型の斧をも持って置きたいと思っていた。

今月に通販サイトにてチェコ軍の払い下げ品の大型の斧を見付けて購入したのだが、柄が削られ過ぎて頭(楔)から簡単に抜けてしまうので、合う柄を探して購入する事にした。

此の斧の頭は形式からしてドイツ製の可能性が高く、しかも鍛冶屋による手造りの「一品物」で、寸法も長さ:21.5cm、刃渡り:10cmと普通の斧より大きく、日本製の柄では合わないと判断し、同様に通販サイトで合う柄を見付けて注文致した次第である。

此の斧の柄はドイツの老舗業者Helko Werk (創業1844年)によりアメリカ産のHickory(ドイツ語ではEshe)を使って製造された物で、長さが80cmある。

斧の名前は"Spaltmeister"(ドイツ語で「薪割り名人」)と称している。

Hickoryは頑丈で粘りのある木なので、建材のみならず野球のバット、アーチェリーの弓、ゴルフクラブ、等のスポーツ用品にも利用されている位である。

此の柄が到着して斧の頭と合わせると、流石にドイツ製同士なのか、ぴったりと合致した。

余は以前に別荘で使う鎌や鳶口や杓、等の柄を自分で取り付けた事もあるので、自分で斧の頭と柄を取り付けようとも思ったのだが、斧はかなり力の掛かる道具なので、諺の「餅は餅屋」の如く専門家に依頼した方が賢明だと思い、これ等の部品を近所の知り合いの老舗の金物屋さんに持ち込み、取り付けてもらった。

其れでも斧の刃は自ら研ぎ、鞘も作って置いた。

因みの此の金物屋さんの御主人は、とある大名家の家老職の御家の御出身なのである。

此の前にも昨年に別荘で使っていた小型の鶴嘴(約60年の年代物)の柄が折れてしまったので、彼に新しい柄を取り付けてもらっているのである。

本来は我が家の田舎の別荘で木を切ったり、古い家具を解体するのに使う予定だったが、余と同じ「士族」出身の御方の手作業により余りにも立派な斧に成ったので、使わずに「工芸品」として大事に保管する事にした。

又、チェコ軍の払い下げ品であったので値段が非常に安価で、柄と合わせても現地値段(約:50€, 50)よりも安価に仕上がったのである。

其の後、4月下旬には除草レーキの柄も新しく取り付けてもらった。

 

ヨーロッパの文化ではAxt(斧)はSchwert(剣)と並んでWaffenfkraft「武力」やMacht「権力」の象徴とされ、しばしば貴族のFamilienwappen(家紋)やStadtwappen(街の紋章)に図案化されている。

例:  Heiligenbeil (Ostpreußen) 、Bartenstein  (Ostpreußen)、             Weinbach (Hessen) 、Beilngries(Bayern)

                                                            Heiligenbeil                       Bartenstein               

                                   

                                 Weinbach                                                   Beilngries

扨、ここで例示している旧ドイツ領Ostpreußen地方の北部の湾岸に接する町Heiligenbeilに纏わる伝説を紹介する。

此れは余が所蔵する本"Ostpreußische Sagen" 「東プロイセン

地方の伝説」(Bechtermünz出版社)から自ら翻訳した物である。

尚、此の物語も他の同地方の伝説同様に余が”Serienbilder”(シリーズ絵画)の中の1つとして描いている。

         *Heiligenbeilの地名は如何にして付いたか

現在のHeiligenbeil(町)の所在地には、遠い昔ここRomove地方に一本の樫の木が生えていた。

此の樫の木はとても大きく、夏でも冬でも常に沢山の葉を生い茂らせていた。

Prussen民族の初代王Weidewutは此の樫の木を「御神木」として神格化し、木の幹の下に祠(ほこら)を建て、Curche(Gorcho)と言う名の飲食を司る神を祀っていた。

此の偶像は毎年処分しては新しく作り直し、其の都度収穫した果実を集めては「供え物」として献上していた。

  ✠Heinrich Gustav: "Heinrich von Plauen" aus Ostpreußischen Sagen

此の「偶像崇拝」は後の(※1231年、Deutscher  Ritterorden「ドイツ騎士団」が当地方に入国し、キリスト教を広めて当地方を領有化して支配し始める。)Ermland地方の大僧正 Anselmusの時代まで続いていた。

大僧正Anselmusは当地に赴き、(異教の)原住民達に彼らが続けていた「偶像崇拝」を止め、此の樫の木を切り倒す様に説得した。

しかし住民達は此れを拒んだ為、共に入植して来たキリスト教徒に此の樫の木を切り倒す様に命じたのであった。

キリスト教徒が斧で樫の木に一撃を打つと、斧が跳ね返って彼に当たり、此れが故で落命してしまった。

此れを目の当たりにしたPrussen民族の原住民達は、自分達の神が罰を当てたと信じて激しく嘲笑した。

一方、大僧正Anselmusが連れて来た其の他のキリスト教徒達は恐れおののき、誰一人として此の樫の木に手を触れようとしなくなった。

此れを見届けた大僧正Anselmusは心を奮い立たせ、自ら斧を採り此の樫の木に打ち込んだのだが、流石に敬虔な聖職者には異教の神の祟りは全く無かった。

 ✠Heinrich Gustav: "Wie Heiligenbeil zu seinem Namen kam" aus Ostpreußischen Sagen

すると大僧正Anselmusは此の樫の木を長く時をかけて切り倒した後、幹の下に建てられている祠を共に焼き払う様に命じたのであった。

其の後、彼は此の地に町を開基し、其の中心地に教会を建立して、そこに樫の木を切り倒した斧を(記念品として)管理する事にした。

そして彼は町に”Heiligenbeil”(聖なる斧)と名付けたのであった。

今では此の斧を見る事は出来ないが、町の紋章は此の出来事に因んで、斧が図案化されているのである。

 

扨、中世のヨーロッパでは前記の通り、斧を木を切る道具としてだけでなく、「武器」としても利用していた。

此れに因んで余が大変な愛着を持って所有していたもう一つのヨーロッパの代表的な武器について書いて置きたい。

其れは「洋弓銃」である。

洋弓銃はラテン語ではArcuballista、ドイツ語ではArmbrust、英語ではCrossbowと呼ばれる。

本来は戦闘兵器又は狩猟道具として12世紀頃に発明された機械仕掛けによって矢を発射する強力な弓矢である。

14世紀に弦を引く装置(Winde)が改良され、此の代表的な装置として、Deutsche Winde(ドイツ式写真上)とEnglische Winde(イギリス式写真下)がある。

 Armbrust mit Deutsche Winde (16Jh)

 Armbrust mit Englische Winde(15Jh)

此の洋弓銃は威力、射程距離そして命中率共に弓矢に比べて格段に上がった。

此れによって甲冑を着た兵士をも簡単に射殺する事が可能になった。

しかし其の反面、洋弓銃は弓矢に比べて撃つのに時間がかかると言う欠点もあった。

此れを解決する為に中世当時の戦闘ではSchütze (射撃手)と

Schildträger(盾持ち)が2人1組で行動していたのであった。

其の後20世紀にはレバーを引くだけで弦を引く事が出来る装置が出来上がり、狙撃用スコープも追加される様になった。

ヨーロッパの伝説、物語の中で、洋弓銃から一番に思い起こされるのは何と言ってもFriedrich Schiller先生(1859~1805)が1803~04年に書かれた劇作品"Wilhelm Tell"であろう。

此の物語の舞台は14世紀初頭のスイスのUnterwalden-Uri地方、此の地の住人Wilhelm TellはArmbrust(洋弓銃)の名手で英雄である。

此の地に新しく赴任して来た代官Geßlerは悪政を敷いて現地に住む民衆達を苦しめる。

此れに逆らうTellに対し、Geßlerは何と彼に自分の息子の頭上にリンゴを載せ、其れをArmbrustで撃ち抜く事を強要する。

追い詰められたTellは其れでも見事に此れを遣って退けて窮地を脱する。

だが此れに激怒したTellは復讐と地元の民を救う為、悪代官Geßlerを狙撃して見事に仕留めるのであった。

余は大学時代に此の台本(ドイツ語版)を読んで感動したのを今でも覚えている。

 

更に余が所有していた2丁の洋弓銃を紹介する事にしよう。

一丁目はドイツERMA-Werke製で1980年代制作、矢の速度: 500km/h、有効射程距離: 約200m、貫徹能力: 50mで鉄板5mm。

此れを余は1997年に我が地元となる首都Berlin・Wedding区で個展開催の為に住んでいた折、当区役所の近所にあったWaffenhandlung(武器屋)にて購入した。

矢は市販のアルミ製の物があるのだが、何せ洋弓銃の威力は凄まじいので矢が固い物体に当たると、一発でアルミの矢は変形してしまうのである。

そこで余は衝撃に耐えられる矢をドイツの城や博物館に保存されている矢を参考に自分で作っていた。

二丁目は(恐らく)イタリア製で1960年代制作された物である。

此れは2010年に兵庫県・龍野市の余の知り合いの骨董屋さんを訪ねた折、偶然店で見付けて即座に買い取ったのであった。

 

嘗て洋弓銃は日本では長い間、弓矢の一種と見なされていたので「銃刀法」の規制には該当しなかった。

故に所有するのに何ら警察に届け出をする必要は無かったのである。

余は今まで人間はおろか動物に対しても洋弓銃を撃った事どころか向けた事も無かった。

其れは余が銃の普及率がアメリカ並みに高いスイス、スウェーデンの国民と同様にGerichtigkeit(正義)やMoral(道徳)やVernunft(理性)を心掛けているからなのである。

ところが大変腹立たしい事に洋弓銃による事件が大阪、横浜、其の他の地方で起きてしまった!

ほんの極一部の異常者、犯罪者の凶行によって、正義や道徳や理性を心得ている上で洋弓銃を所持している者までが誤解をされ、肩身の狭い思いをするのは甚だしい迷惑であった。

此の様な単発小銃にも匹敵する程の殺傷力を有する物件は規制するべきであるとの意見も多々聞かれるが、余は個人的には武器を規制する事よりも道徳教育を強化、浸透させる事の方が犯罪を減らす事に効果的であると思えるのである。

にも拘らず2021年6月8日、洋弓銃の所持を「許可制」とする「改正銃刀法」が衆院本会議で可決成立された。

洋弓銃を使った殺傷事件が起きた事件を踏まえ、使用や販売についても空気銃並みに厳しく規制すると言うのである。

此れに関して余が警察署に問い合わせて詳しく調べてもらった処、「許可制」とは言うものの此の難しい条件を満たす事はほぼ全く不可能であった。

御蔭で余は1997年以来愛着を持って所有していた洋弓銃2丁を2022年9月15日までに(法的に間に合う様に)手放さなければならなかったのである。

余は今でも新たに変えられた「銃刀法」に対し大変腹が立っているし、誠に残念で勘弁出来ないのである!パンチ!ムキー爆弾

 

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1月23日、高市早苗・新総理は「自民党」の過半数議席確保を目的に、突然の衆議院解散を宣言された。

此れに対抗して「立憲民主党」は自民党と連立を解消した「公明党」と新たに新党「中道改革連合」を結成した。

16日後の2月8日、北日本及び日本海側が豪雪にみまわれる中(全国の死者49人)、衆議院選挙が開催された。

其の結果、「自民党」が316議席(118増)を獲得する圧倒的な勝利を得た!(投票率:56.26%)

戦後から此れまでの選挙の歴史で見ると、自民単独では中曽根康弘政権時の1986年の衆参同時選挙で得た衆議院300議席の最多記録を上回った。

一方、「中道改革連合」は壊滅的な惨敗を喫し、獲得議席は僅か49(123減)であった。

その内訳は公明党出身議員が28人(7増)が再選し、立憲民主党出身議員は144人中123人が落選した。

余も選挙以前は「自民党」が辛うじて目標の過半数議席を取ると予想していたが、実際は議会の3分の2を単独で占める議席を獲得したのであった!

(此の事には自民党員のみならず、其の他の各政党、そして各選挙ジャーナリストですら驚嘆している。)

此の極端なまでの選挙結果の主たる原因は、先ず国民意識の「右傾化」、「高市総理の高い支持率(約67%)、そして立憲民主党の誤った作戦と準備不足であると言える。

自民党の勝因の1つとして「※インターネット宣伝」を他の政党より積極的に利用していた事がある。

(※ネット宣伝全体の56~80%を自民党が占めていた。)

(余はDeutsche Geschichte「ドイツ史」を専門的に学び研究して来ているだけに、此の様にカリスマ性先端技術を駆使して選挙に勝った事例として、どうしてもかつてのNazis党のラジオ、テレビによるPropaganda(宣伝)と1933年1月30日のMachtbegreifung(政権掌握)を思い出してしまうのだが・・・)

一方、立憲民主党は公明党と連携して支持者の「票」を上乗せする事で自民党に対抗しようとしたのだが、逆に此の作戦が国民から「姑息」とか「無節操」と見なされて、大量の「票」を失う羽目になったであった。

(皮肉な言い方だが、票数の「足し算」を目論んだのが結果的に「割り算」になってしまった。)

又、立憲民主党への18~30代の若年層の支持率が僅か0~1.4%と驚く程低かった事も敗因の1つであったと言える。

此度の「衆議院選挙」は正に「自民党」の所謂「奇襲戦法」と「短期決戦」が功を奏し、「付け焼き刃」でこしらえた「中道改革連合」を打ち砕いたと言った具合である。

自民党議員の幾人かが「大勝しても驕り、慢心する事無く、気を引き締めてやって行きたい。」と発言していたのは表面上は殊勝な事であると思われる。(心変わりが無ければ良いのだが・・・)

正に諺の「勝って兜の緒を締めよ」の如くである。

此の事は、高慢な自惚れ屋の余自身も心に沁みる言葉であった。

 

           「関ヶ原合戦」

 "The Battle of Midway"「ミッドウェー海戦」

日本の戦争の歴史を振り返って見ても、有利な軍勢が大敗を喫した事例を挙げると、慶長5年(1600)旧暦9月15日の「関ヶ原合戦」の西軍、そして1942年6月5日~7日の"The Battle of Midway"「ミッドウェー海戦」の時の日本軍がある。

「関ヶ原合戦」の当初は東西両軍は兵力でほぼ互角、布陣では西軍有利と見られていたが、西軍側の複数の大名の傍観、裏切りによって東軍が優勢となり西軍が崩壊し、東軍の大勝で終わる。

ここでは合戦以前の東軍総大将・徳川家康公の諸大名への「根回し」の調略も功を奏したと言える。

「ミッドウェー海戦」では日本海軍が航空母艦の上で大量の搭載機に魚雷と爆弾を付け替え作業をしている時、アメリカ空軍の急降下爆撃機に襲撃され、空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」が立て続けに沈没し、後に「飛竜」も沈没する。

一方、アメリカ軍は空母Yorktownと駆逐艦Hammann隻が沈没した。

(後に同年10月26日に行われた「南太平洋海戦」では空母Hornetが沈没し、空母Enterpriseも中破した。)

諺に「勝負は時の運」、又は「勝ちに不思議の勝ち有り、負けに不思議の負け無し」と言うのがあるが、此度の衆議院選挙も正に予想を遥かに上回る結果であったのではなかろうか。

戦争や其の他の「勝負事」にも「勝者」と「敗者」がいる様に、平和な社会に於いても同様な事が言える。

例を挙げると、何か新しい技術が発明されると、代わりに何か古い技術が衰退する。

事業や投資の分野では、誰かが利益を得ると、誰かが損益を被る。

更には最近多発する「詐欺事件」の様に、騙す者がいれば、騙される者がいる。

「あちらを立てれば、こちらが立たぬ。」「無理が通れば道理が引っ込む。」と言うのが世の中の常である。

要するに「平等」等、人間の世界には絶対に存在しない!

全ての人間を幸せにしたり裕福にする等、全く不可能なのである。

 

奇しくも此の記事を書いている本日は「建国記念日」である。

参考に此の記念日について説明すると、国民の祝日に関する法律

(祝日法、1948年7月20日法律第178号)第2条は、建国記念日の趣旨について、「建国を偲び、国を愛する心を養う。」と規定している。

此れは1966年の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌67年2月11日(政令により規定)から適用されている。

今更書くまでも無い事だが、今日の日本社会は出口の見えない不景気、度重なる物価とエネルギー代の高騰、数々の企業の倒産、廃業、国民の実質賃金の減少、貧困化、そして政府、自治体の負債の拡大(2025年12月末時点で1342兆1720億円!)等、悪い事ばかりである。

これでは国民の多数が「建国を偲び、国を愛する心を養う」どころか「厭世観」「閉塞感」「絶望」を感じるのも無理もないかもしれない。

(最近の各マスコミの統計では国民の約60%が「生活が苦しい」と回答している。)

自民党は俗に「富裕層優遇の政党」とも呼ばれいているし、高市総理は故・安倍晋三総理の路線を継承する方針である事、そして日銀総裁も昨年より「利上げ」を宣言している事から、今後確実に言える事は、日本社会でも今まで以上に貧富の差が拡大する事である。

此れをBlackhumorを込めた童歌(わらべうた)風の表現をすると、「格差が開く、金持ちはホ~クホク、中間層はズ~ルズル、貧乏たれはズ~タボロ。」と言った具合であろう。

又、長編映画「男はつらいよ」(フーテンの寅さん)の中に以下の面白い台詞がある。

「貧乏人て者はな、一番辛くて寂しい時はよ、金持ちに札束で頬っぺた叩かれる時だぞ。」(③フーテンの寅・より)

「どこ突いたらそんな台詞が出るんだ! 俺が貧乏なのは俺のせいだよ。 博が貧乏なのは経営者の手前のせいだぞ。」(⑲寅次郎と殿様・より)

(因みに余が裕福で自由なのは自分のせいではない。 士族の御先祖様と富裕層の母上の御蔭であるぞ! 其れを片時も忘れてはならんぞ!)

 

前回2024年、そして今回の衆議院選挙の後も、日本の行政上の課題は未だ山積している。

政治家はただ単に「日本経済を立て直す」だの、「国民生活を豊かにする」だの、「国民の幸福と平和を守り抜く」だのと言った「奇麗事」や実現困難(又は)不可能な政策を唱えて、国民に空しい夢や期待を抱かせるだけでは、其の職務や義務を遂行しているとは決して言えない。

余は個人的には寧ろ日本の現在の大変深刻な諸問題(社会、経済、環境、他)を国民に認識させ、「官民一丸」となってこれ等の国内の深刻な諸問題を解決、克服に取り組む必要があると思えるのである!

更に個人的な意見を述べると、現在の日本は1960年代の「高度成長期」、70年代の「安定成長期」、そして80年代の「バブル経済最盛期」と言った時代の様に、大量の機械、電気製品を製造して、世界中に販売して莫大な利益を得ていた頃とは全く異なる状況である。

其れどころか今日では中国にこれ等の「貿易上の特権」を奪われている状況である。

そして国内では国民の約33%が「下層階級」、約17%が「貧困層」にまで転落し、食料自給率は僅か37%、そして主力の「火力発電」の原料である石油、石炭も99%を輸入に依存しているままである。

そして今日の世界的なInflation、及び円安の影響で、これ等の輸入が不利になっている。

これ等の悪条件により国民や社会の負担は増加するばかりである。

此度の選挙前にも国民の要望で一番多かったのは、「食料品の減税」であった。

とは言え一時的に「応急処置」の如き減税をしても、根本的な物価高、エネルギー費高を解決しなければ国民生活は恒久的に改善した事には成らないのである。

世界の各先進国と比較してみても、日本は「食料自給率」と「資源自給率」に於いて著しく劣っている事は周知の事実である。

故に是からの日本は前記の「製造」「販売」による利益ばかり追求するだけでなく、寧ろ火力、原子力発電を水力、其の他の自然エネルギー発電に転換する画期的な「エネルギー改革」、並びに各農業(米、野菜、果物、畜産、他)の生産力を向上させる為の「農政及び農地改革」を実践して国民の生活を保守する事が得策であり、喫緊の課題であると存じている!

 

最近の日本の国内情勢や未来を鑑みて、正直な処「楽観的な見通し」は決して出来ないと思われる。

其れどころか深刻な事態に対し悲壮なまでの覚悟、決心、そして断固たる信念と尽力で臨まなければ、此の国は破産、滅亡の最期を迎える事にもなり兼ねないのである!

此れは余のみならず、数多くの著名な社会学者、経済学者、環境学者、ジャーナリスト、更には普段は楽天的な幾人もの有名芸能人達ですら、似たり寄ったりの意見なのである。

又、ある中国の経済学者は、日本の食料及び資源自給率の深刻な低さについて、こんな皮肉を言っている。

「日本を滅ぼすのに軍隊は要らない。 ただ食料と燃料の輸出(供給)を止めるだけで十分でアル。」

因みに古代中国の兵法書「孫子」の中にも「百戦百勝は最善の策に有らず。最善の策は即ち不戦勝也。」「先ず敵の愛する(大事な)所を奪え。」と記されている位なので、此の見解は的を得ていると言える。

其れでも余は士族出身の富裕層である立場上、たとえ日本が将来襲来が予測される※「Stagflation」、「食糧危機」、そして「南海トラフ大地震」等で破産しようが滅亡しようが、実家の財産(金融、不動産、物品)及び複数の「不労所得」で十分生きて行けるだけの自信も余裕もある。

(※停滞、渋滞を意味するStagnationとInflationを掛け合わせた造語:詰まり経済停滞と貨幣価値下落と物価高騰が同時に起きる社会現象。)

とは言え人間は物質的財産だけで生きて行ける訳がない。

其の為には悲観的な見通しの中でも、確固たるHoffnung「希望」やLebensziel「人生の目的」が必要なのである!

更には世の中何が起きるか分からないので、常日頃のVorsicht「用心」とVorbereitung「備え」も必要なのである。」

 

極少数の「賢者」だけで世の中を良くするのは容易な事ではない。

だが世の中の大多数の人間が阿呆や馬鹿では世の中はすぐ駄目になってしまうのである!

 

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本日16日がドイツの大作曲家Beethovenさんの御誕生日である事、そしてつい此の間、フランスの画家Utrilloの没後70周年を機に記事を書いたばかりなので、ふと思い付いたのだが、余が敬愛する大芸術家達の中に何と6人も12月生まれの方々がいるのである。

因みに我が母上も12月18日が誕生日である。

余は少年時代より歴史に名前と作品を残す「天才」「偉人」「英雄」「人傑」等の伝記や経歴、そして彼らの格言、名言を読む事が大層好きであった。

其れだけに彼らの生年月日を自ずから覚えてしまうのである。

そして大変有難き事に、これ等は我が人生に於けるVorbild(手本)やWegweiser(道しるべ)に成ってくれているのである。

更に我が先祖や親の加護もあって、御蔭様で余も幸運で恵まれた、望み通りの悔いの無き人生を送る事が出来た!

晴れ王冠1カラーパレットダンベル鉛筆宝石赤

彼らに関して余は今まで本ブログ内に以下の通りの記事を書き記しているので、参考までに御覧頂きたい。

 

12月2日:Georges Seurat(1859~91年)  

  G.Seurat :   "La Parade de Cirque" (1887~88)

フランスのNeo-Impressionism「後期印象派」に属する画家で    Pointillismus(点描法)の創始者。

Seuratは彼の親友の画学生Aman Jeanと共に美術学校を辞め、独自の様式を確立させる為に科学者Dove、H.v.Hermholz、J.C.Maxwell等の著したChromatik(色彩学)の本を読む事で理論的知識を深めて行った。
1882年、23歳頃には彼独自のPointillismus(点描法)を確立させた。
それまで絵筆で画面に大量の絵の具の「点」を打つ事によって描く技法は前代未聞であった。
人間が先人の成した事を受け継いだり、模倣する事は簡単だが、自ら前例、手本無しで物事を創り出す事は誠に難しいのである。
凡人は他人が既に通った道を通る。天才は己の道を自ら切り開く。」(我が格言集より)
又、我がPreußen御出身の大天才哲学者I.Kant先生(1724~1804年)は「天才の第一の素質とはIndividualität(個性、独創性)であり、其れは規則によって学び取れる熟練の能力ではない。」と定義付けておられる。
そして、天才の仕事(作品)はしばしば彼の生存中は正当に評価される事が少なく、寧ろ後世で高く評価され、社会に大きな影響や貢献をもたらしているのである。

(Seuratの人生も此れに該当している。)
実にSeuratのPointillismus(点描法)の理論と技術は現代社会に於いて印刷物の画像、テレビ等の映像に応用されているし、彼の作品も他のImpressionismus(印象派)の画家E.Manet、C.Monet、 A.Renoir 、E.Degas、C.Pissallo、 P.Cezanne等と同様に高い評価と人気を保っている。
そう云う意味でSeuratは僅か31歳の短い生涯ではあったが、誠の天才であると言える。

 

12月11日:Hector Berlioz(1803~69年)

フランスの作曲家でRomantiker「ロマン派」の先駆者。

主に Cantata、Symphonie、Opera、Oratorio、Requiem、 TeDeum等の大規模な管弦楽作品を手掛ける。

Berliozは開業医の息子として生まれ、両親の希望で最初は医学大学で学んでいたのだが、音楽への情熱を捨て切れず、医学を断念し音楽大学へ進んだ。

そして作曲家としてデビューするも、彼の個性の強い革命的で巨大な管弦楽作品はなかなか世間で好評を得られず、費用ばかりが嵩張り、48歳になるまで借金生活を余儀なくされたと云う経緯がある。

余は彼の此の様な失敗を本で読んでいたので、自分は似た様な失敗をしない様に心掛け、展覧会は出来るだけ費用の掛からない様に、尚且つ運搬し易い様に全てを合理的にまとめて来た。

しかしながら余個人的には、芸術家の真の勝利、成功とは苦悩や困難を乗り越えて獲得する物だと思っている。

そう言う意味では Berliozの晩年の"Légion d'honneur"勲章(4等)の叙勲、そしてヨーロッパ諸国、其の他の国々での演奏、録音、等の後世の勝利、成功こそ誠に偉大で永遠の価値ある物であると思われるのである。

其れに引き換え余の経歴と言えば、ドイツの地元Brandenburg州でデビューして以来、20回も日独両国で常に公共事業としての個展を開催し、いつも賞賛されるばかりであったから、全く世の中で甘やかされて来たとしか言い様が無い。

故に余は天性の才能と(長年鍛えた)肉体的な強さはあっても、意外と逆境に弱いかも知れない。

そう言う意味で余は苦悩や困難を乗り越えて勝利、成功を獲得した過去の天才、英雄、偉人、人傑に憧れてしまうのである。

(とは言え当の御本人は大変であったと思われる!)

 

12月14日:Pierre Puvis de Chavannes( 1824~98年)

  P. Puvis de Chavannes :   "Le fleuve"  (1864)

   "Le Bois sacré"  (1884)

   "Inter artes et naturam"  (1888)

フランス第2の都市Lyons市の貴族出身の画家。

彼の父上は地元の採鉱所の主任技師であった。

本来は裕福な家庭であったが、15歳の時に母上が、18歳の時に父上が立て続けに逝去される悲運に見舞われてしまった。

1846年、イタリアへ旅行して現地でRenaissanceの巨匠達の作品に感銘し、画家に成る事を決心する。

彼の作品の特徴として、大画面の古典的で荘厳な構図、パステルカラー調の色彩、そして気品と調和を保っている事である。

代表作としてMarseille市のPalais Longchamp (宮殿)及びMusée de Beaux-Arts(美術館)の壁画(1867~69年)、Hôtel de Ville Poitiers(邸宅)の壁画(1870~75年)、首都ParisのPanthéon(偉人廟)の壁画(1877年)、Amiens市のMusée de Picardieの壁画(1861~65+1878~88年)、地元のMusée de Beaux-Arts de Lyonsの壁画(1883~86年)、La Sorbonne (大学)の壁画(1887年)、Rouen市のMusée de Beaux-Arts の壁画(1888~91年)、Paris市庁舎の天井画、壁画(1892~94年)、等の大作を手掛けた。

これ等の功績により"Légion d'honneur"勲章(3等)までを叙勲する。

因みにPuvis de Chavannesの作品は岡山県・倉敷市の大原美術館が3点を所蔵しているし、余は2014年にも島根県立美術館で彼の作品展を観ている。

 

12月16日:Ludwig van Beethoven(1770~1827年)

ドイツの作曲家でKlassiker「古典派」からRomantiker「ロマン派」の過渡期に活躍し、後世の音楽界に大きな影響を及ぼした。

大作曲家Beethovenを見つめる際、何よりも先ず彼の音楽史に残した余りに偉大な功績、並びに数多くの作品の世界的な著名度が際立つのだが、其の一方で彼の56年の生涯は決して安楽で平坦な物にあらず、寧ろ「運命」と「苦悩」との戦いでもあったと言える。

Beethovenが1802年に進行性の難聴を苦に当時の住所Wien郊外の Heiligenstadtにて遺書を認めた事はMusikwissenschaft(音楽学術)に詳しい人の間では有名な逸話である。
作曲家にとって聴力の著しい減退は、丁度我ら画家にとって視力が急激に衰えるに似たりの苦難である。
(其れ故に余は自分の両眼の視力が1.5ある事を幸せであると思い、大切にしている。)
とは言え彼が31歳の若さで遺書を認めるまで精神的に追い込まれた事は、余は彼の作品を愛好し、賞賛する者として、同時にドイツで活動していた芸術家としても心痛の思いであった。
しかしBeethovenは自分の日記に「運命は人間に忍耐力と勇気を与える。」と記した如く、其の窮状から見事に立ち直り、交響曲、 協奏曲、序曲、ピアノソナタ、ピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲、声楽曲、其の他、次々と傑作を生み出して行った。
これ等の作品が今も尚全世界で、繰り返し演奏、録音され、そして賞賛され続けている事は今更言うまでも無い。

此の彼の生き方こそが「運命」は人間の「気力」(精神力)によって克服出来る事を実証しているのである。

 

12月26日:Maurice Utrillo(1883~1955年)

 M.Utrillo :   "Notre Dame de Paris"  (1937)

フランスの画家で、首都Parisの街角を大量に描いている。

幾人かの美術評論家は度々Utrilloの事を「悲劇の画家」と表現する事がある。

だが、彼の伝記から其の人生を読み取ると、決して生涯全てで不幸だったのではない。

私生児として生まれた上、母親に放置されて10代でアルコール依存症になって、病院で入退院を繰り返したり、刑務所に拘留された「酔いどれ絵描き」の30代までと、名声と人気を獲得し、資産家Lucie Valoreとの結婚によって、家庭、経済共に安定した50代以降の晩年では天と地程の差が見られるのである。

芸大を出て高い技術と専門知識を使って描く画家の眼からは、Utrilloの絵画は素人同然の稚拙な作品に見えるかも知れない。

しかし彼の生涯の作品数と制作期間から計算すると、1枚の作品を1~3日の内に仕上げていた事になる。

其れだけに彼は膨大な量の作品を残している。

此れはとても凡才如きに出来る仕業ではない!

UtrilloはParisの街角を描くのに現地で直に描くのではなく、

写真絵葉書を見て描いていた。

其の際にはデッサンを正確にする為に、写真と画板の上にSection(格子)を引いていたのである。

当時の写真絵葉書は大抵白黒か、場合によっては写真家が手で着色した物であったので、Utrilloも色に関しては現地で確認したか、自分で想像していた様である。

12月30日:Theodor Fontane(1819~1898年)

  Theodor Fontane von Carl Breitbach (1883)

ドイツの小説家、我が地元Brandenburg州の Neuruppin市出身。

彼の苗字”Fontane”は元来フランスの苗字”Fontaine”(泉)から起因している事から、彼の先祖も1685年以降フランスからBrandenburg-Preußen王国に移民して来たHuguenot教徒である事が判る。

(因みに我が地元Berlin, Brandenburgでは今日でも彼の様なフランス系の苗字を度々見掛ける事がある。)

当初実家が故郷で経営する薬局を継ぎ、薬剤師として経歴を始めるが、其の後記者に転身し、最後は文学作家に収まる。

代表作として紀行文:"Wanderungen durch die Mark Brandennburug" 

小説:"Grete Minde",   "Schach von Wuthenow",  "Unterm Birnbaum",   "Unwiederbringlich",  "Der Stechlin"

回想記:"Meine Kinderjahre" 等がある。

これ等のFontaneの作品を全て余はドイツ語の原版で所有し大部分を読んでいる。

特に彼の紀行文”Wanderungen durch die Mark Brandennburug”は彼の最大の代表作で、5巻(Havelland, Oderland,  Spreeland,  Grafschaft Ruppin,   Fünf Schlößer)で構成されている。

地元の文化財、風景、伝説(昔話)を主題に描いていた余にとって貴重な歴史的記録、文献、そして参考資料であった。

彼の小説作品の特徴として、始まりから心温まる物語が展開しているにも拘わらず、最後に衝撃的な終わり方をする事である。

又、Fontaneは多くの格言、名言も残してくれている。

"Worte,  die von Herzen kommen"(心より来る言葉)の中では彼の文学作品群及び書簡より抜粋した格言、名言が納められている。

 

あとがき:

此度の記事も先月11月に書いた「2025年、此の1年を振り返って」の時と同じく、過去に余が書き記した随筆、論文の1部を抜粋、編集、加筆して完成する形式を採った。

此れは決して「楽」をしているのではなく、内容上止むを得ず過去の関連している文章を再利用するしかなかったのである。

余の本業の絵画の分野では、1つの作品は最初から最後まで一筆ずつ描いて行くしかない。

たとえ其れが過去の作品の「複製」であっても同様なのである。

しかしながら文学、音楽の分野では面白き事に、1つの作品の原稿や楽譜から転用、編集、加筆して、新たな作品を生み出す事が出来るのである。

実に歴代の大作曲家J.S.Bachや J.Haydn、W.Mozartそして此度取り上げているBeethovenでも、多忙で時間が無い場合は此の様な手法で過去の自分の作品から新たな作品を創り出しているのである。

 

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”Maurice Utrillo” de Suzanne Valadon 実母Suzanneによるユトリロの肖像

12月26日はフランスの首都Parisの街角を愛し描き続けた画家Maurice Utrillo(1883~1955年)の誕生日である。

一昨年2023年は彼の生誕140年を機に京都の「美術館えきKyoto」にて11月3日~12月25日まで「ユトリロ展」が開催され、更に今年2025年は没後70年記念に東京・新宿のSOMPO美術館にて彼の回顧展が9月20日~12月14日まで開催されている。

以前にも彼の個展は日本国内で何度も開催されており、余も1989年に「広島県立美術館」、そして1996年に「ふくやま美術館」で2度「ユトリロ展」を観て来ている。

其の他にも幾度となく開催された「フランス近代絵画展」でも彼の作品を何点も観て来ている。

そして日本国内では東京・町田市「西山美術館」、神奈川・箱根町「ポーラ美術館」、広島市「ひろしま美術館」、倉敷市「大原美術館」等でも彼の作品が常設展示されている。

更にUtrilloの画集は母国フランスのみならず日本でも多数発行されている事もあって、彼は日本人の間でも比較的馴染みのある画家であると言える。

余も彼の画集2冊(いずれも新潮社)並びに展覧会図録を1冊所有している。

 

 Auguste Renoir :   Femme nue dans un Paysage 1883

扨、是よりUtrilloの生涯について書き記して行く。

Susanne (本名Marie-Clemantine )ValadonがParisに出て来てA.Renoirや H.d.Toulouse-Lautrecや P.Puvis d. Chavannes等の高名な画家達のモデルを務めていた頃、18歳の時にMauriceを私生児として出産している。

彼の母親の出生を調べて見ると、何と彼女も私生児として生まれているのである。

日本の諺の「親の因果が子に報う」と言うのがあるが、正に此の画家の親子にも該当していると言える。

1891年にスペイン人ジャーナリストMiguel UtrilloがMauriceを法的に認知した事から彼の姓を名乗る様になっている。

其の後、Susanneは息子Mauriceを自分の母親に預けて本来の育児義務を放棄してしまう。

此の事からMauriceは孤独で貧しい少年時代を過ごした。

1893年にMontmartre の中学校に入学するが、既に13歳で酒を覚えてしまい、以後長きに渡り「酒浸り」になる。

1900年から1903年にかけて複数の職場に就くものの、非社交的で、激情的な性格と飲酒癖が災いして全く長続きしない。

そして遂にはアルコール依存症の治療の為、精神病院に入退院を繰り返す始末であった。

17歳になって精神科医からArt therapy(芸術療法)として絵を描く事を勧められる。

Utrilloは当初渋々描いていたのだが、流石に是より「天性」の才能を発揮して行ったのであった。

1903~1907年の彼の制作期間を美術評論家は「Montmagny時代」と呼んでいる。

1904年、自由奔放な母Susanneは息子よりも3歳年下の画家André Utterと親しくなり、1909年にはPaul Musisと離婚し彼と入籍するのである。

此れにはUtrilloも呆れ反ってしまった事であろう。

    La Maison de Berlioz et le Pavillon de Chasse Henri Ⅳ (1909)

 「ベルリオーズの家とアンリ四世の狩り小屋」

 

 Le Lapin Agile(1911)居酒屋「跳ね兎」

 

 L'Impasse Cottin(1911)「コタン小路」

 

 La Château Blanc(1912)「白い城」

 

 L'Eglise St.Severin(1912)「聖セブラン教会」

1910年から彼が代表作を多数制作した「白の時代」が始まる。(1914年まで)

此の時代の作品はParis市内の典型的な建造物の白い漆喰の壁を多く描いた事に因んでこう呼ばれている。

幾人かの美術評論家達はUtrilloを「白い漆喰の画家」又は「白壁の画家」と名付けている位である。

一方でアルコール依存症は治らず、治療の為に同市内の療養所に入院する。

翌年には遂に泥酔からの軽犯罪により同市内の刑務所に1か月拘留される。

1913年に初の個展を開催するも、出品31点の内、2点が売れるに止まる。

更に同時代の複数の画家で共同開催する”Exhibition Independent”(独立展)にも出品する。

Rue St.Rustique â Montmartre(1922)「モンマルトルの聖ルスティク通り」

1915年頃から絵の色彩が豊かになった事から1925年までの期間は「色彩の時代」と呼ばれる。

1916年には更にアルコール依存症が悪化し、4か月間精神病院に入院する。

其の後も1918年まで精神病院に入退院を繰り返す。

しかし第一次世界大戦後、時代精神にも変化が見られ、ようやく1919年の個展では大好評を得て、世間から華々しい注目を得る様になる。

にも拘わらず1921年には再び軽犯罪により刑務所に拘留され、後に精神病院に入院する。

同年6月と1923年の母Susanne との「二人展」いずれの展覧会でも大成功を収める。

更にフランスの詩人・小説家Francis Carco(1886~1958年)が初のUtrilloの伝記を発表する。

1928年には"Légion d'honneur"勲章(5等)を叙勲するに至る。

 Notre Dame de Paris(1929)「パリのノートルダム寺院」

1935年、52歳でUtrilloの絵のコレクターであるベルギーの銀行家の未亡人Lucie Valoreと結婚する。

因みに彼女はUtrilloより12歳年上である。

同年、画商Paul Petridesと出会い、翌年には彼と独占契約を結ぶ。

1937年以来、Paris郊外の別荘地Le Vésinetに居を構え、妻と共に平和な晩年の生活に入る。

 La Cathédrare de Chartres(1937)「シャルトル大聖堂」

1938年、4月に母Susanne が死去。

Utrilloの悲嘆は余りに深く彼女の葬儀にも参加出来ない程であった。

此の頃より信仰(Cathorique)に帰依する様になり、邸内に小さな礼拝所を設置して毎日祈りを捧げる様になる。

アメリカのNew Yorkで個展が開催される。

 Rue de Momt Cenis,  La Maison de Mimi Pinson(1938)

 「モン・セニ通りのミミ・パンソンの家」

1950年、イタリアVeneziaの”Biennare”(2年に1度の国際現代美術展)に1室を与えられ出品する。

"Légion d'honneur"勲章(4等)を叙勲する。

1955年、首都Parisの「名誉市民賞」受賞。

同年11月5日、静養先のホテルで肺充血によって死去。

(享年71歳)

 Moulin de la Galette sous la Neige(1950)

 「雪景色のムーラン・ド・ラ・ギャレット」

 

幾人かの美術評論家は度々Utrilloの事を「悲劇の画家」と表現する事がある。

だが、彼の伝記から其の人生を読み取ると、決して生涯全てで不幸だったのではない。

私生児として生まれた上、母親に放置されて10代でアルコール依存症になって、病院で入退院を繰り返したり、刑務所に拘留された「酔いどれ絵描き」の30代までと、名声と人気を獲得し、資産家Lucie Valoreとの結婚によって、家庭、経済共に安定した50代以降の晩年では天と地程の差が見られるのである。

因みに我が親友で似顔絵描きで肖像画家の地本さん(1941~2010年)はUtrillo同様に大酒飲みではあったが、大阪から倉敷市に定住して以来、当地の大原美術館前の路上でとても人情味のある素敵な似顔絵を沢山描きながら、宛ら「大阪漫才」の如き愉快な話をして多くの人達を楽しませていた。

余から見るとUtrilloと地本さんはどこか似ている様に見受けられるのである。(本人も此れを認めている。)

彼は「芸術家は貧しい、不幸な時程優れた作品を作り、豊かになってしまうと味気の無い作品になってしまうんだよ。」と言っていた。

実に当時のUtrilloの知人、友人、評論家達は、彼の50代以降の晩年の作品は過去の繰り返しで精彩を欠いていると評している。

 

芸大を出て高い技術と専門知識を使って描く画家の眼からは、UtrilloV.v.Gogh(1853~1890年)の絵画は素人同然の稚拙な作品に見えるかも知れない。

しかし此の2人は生涯の作品数と制作期間から計算すると、1枚の作品を1~3日の内に仕上げていた事になる。

其れだけにGoghは37年間の生涯の内、十数年程しか制作活動をしなかったにも拘わらず、約2000点の作品(油彩画、デッサン)を残しているし、Utrilloは更に膨大な量の作品を残している。

此れはとても凡才如きに出来る仕業ではない!

一方、余は同じ画家でも1枚の作品を完成させるのに10~15日、場合によっては20日程掛かる事もある。

(1日の制作時間は10~12時間)

何故なら建物のレンガや瓦を1つ1つ「細密描写」するからである。

恰(あたか)も外科医の手術の如く繊細な技術と鋭い神経を要する仕事なのである。

毎日此の様な作業をしている余にとって、UtrilloやGoghの絵は(普段絵を描かない)左手で1日で描き上げられる程簡単に見える。

しかし両者の作品には見る者を感動させる"Human Spirit"(人間の魂)が滲み出ているのである!

余の絵の様に超絶技巧を駆使した、写真と見まがう程の細密、正確で冷厳な作品とは対照的なのである。

 

次にUtrilloの作品と人間性について心理学的に分析してみたい。 

UtrilloはParisの街角を描くのに現地で直に描くのではなく、

写真絵葉書を見て描いていた。

其の際にはデッサンを正確にする為に、写真と画板の上にSection(格子)を引いていたのである。

当時の写真絵葉書は大抵白黒か、場合によっては写真家が手で着色した物であったので、Utrilloも色に関しては現地で確認したか、自分で想像していた様である。

此れは丁度余が戦争で破壊されて現存しない文化財を当時の白黒写真から色を想像(予想)して描くのと類似している。

又、建造物の「材質感」を出す為、Utrilloは絵具の中に漆喰の粉を混ぜる等の工夫もしていた。

首都Parisには成程、多数の文化財や観光名所があるが、Utrilloは寧ろ在り来たりの街並みと教会に焦点を当てて描いていた。

彼は「名声」、「威厳」、「地位」や「権力」よりも、そこに暮らす庶民達の日常生活にSympathy(共感)を感じていたのだろう。

そして「教会」は彼にとって「純粋な祈り」並びに孤独、悲しみ、苦しみからの「救済」の象徴であったと推測される。

実に彼は晩年に宗教(Cathorique)に深く帰依している。

興味深い事に1921年頃よりUtrilloの作品にはStaffageとして、尻の大きな女性像が度々現れる様になる。

此れは余が自分の作品中に描く女性像が「爆乳美人」であるのと似ている。

心理学的に分析すると、画家が描く異性の人物像は其の人の理想や憧れが現れている。

又、Utrilloは自分の作品に付ける署名をM.Utrillo.Vと書いている。

最後のVの字は母親の姓 Valadonの略であり、ここにも彼の母親への愛着が見て取れる。

 

彼は母Susanne から生まれて間もなく祖母に預けられ、言わば「育児放棄」された様な状態であった。

心理学者の詫摩武俊先生が、母親の子育ての態度は子供の性格に著しく影響すると解説している。

例: 無視・・・冷酷・攻撃的・情緒不安定・創造性に富む
拒否的・・神経質・反社会的・乱暴・冷淡・注意を引こうとする

Utrilloの非社交的で激情的な性格は彼の母親の態度が影響していると診て間違い無い。

Susanne はUtrilloの伝記を読む限り、とてもではないが「御淑やか」な女性ではなかった様である。

其れでもUtrilloは此の奇異な性格の母親を"Oedipus Komplex"の如く盲目的に愛し続けた。

実に1938年、4月に母が死去した際には、悲嘆の余り彼女の葬儀にも参加出来なかったらしい。

其れでも「Susanne Valadonと云う我が母は気高く、美しく、善良な女である。」と詩に書いている位である。

Utrilloの人生を語る時、「アルコール依存症」はどうしても避けられない事柄である。

余はドイツのKunstakademie(芸大) で学ぶ傍ら、Medizinische Akademie(医大)でも特別受講生としてAnatomie(解剖学)と Psychologie(心理学)を学んでいた。

其の中でAlkohlismus(アルコール依存症)に関する講義を受けた事もある。

当時、担任のPsychologie u, Gehirnnerv(脳神経)の医師である F.Ficker先生は、人間がAlkohlismusに陥るUrsache(原因)、

 Phase(経緯)、 Sympthom(症状)、そしてLösungsmittel(解決法)について実例やユーモアを交えて詳しく教示してくれた。

Ficker先生 の言葉 >Alkohlismus anfangen ist so einfach, aber abschließen ist so schwierig.<(アルコール依存症になるのは簡単ですが、終わらせるのは大変困難です。)の通り、Utrilloも此の悪習慣を終わらせるのに大変な苦労と時間を費やしたのであった。

結果的にUtrilloは「絵画制作」によって自分自身を「アルコール依存症」から救ったのである。


 Nicolas Poussin :  "Belbstbildnis"

 Nicolas Poussin :  "Et in Arcadia ego" (1630)

 Nicolas Poussin :   "L' Empire de Flore" (1631)

フランス古典派絵画の巨匠Nicolas Pussin(1593~1665年)は、イタリアの首都Roma滞在中に「古代世界の最も美しい記念物とは何か?」と問われた時、足元の雑草の間から一握りの土を拾い上げ、「此れこそ古代ローマの精華だ!」と答えたと言う。

又、前記のF.CarcoはUtrilloと此の様な問答をした。
Carco:「もし君がParisを離れ、二度と戻れない事になったら、Parisから何を持って行くかね? 何か此れと言う物がある?」
Utrillo:「漆喰の欠片を持って行くだろうね。」
Carco:「其れはどうして?」
Utrillo:「僕は子供の頃、漆喰の欠片を集めて遊んだんだ。」
Carco:「其れだけかい?」
Utrillo:「勿論さ、此の漆喰の欠片を眺めたり触ったりすると、色々な考え事が浮かぶんだ。」
Pussinは一握りのRomaの土に古代文化の美と精神の原点を見出し、UtrilloはParis・Montmartreの家屋の壁の漆喰の欠片に、過ぎ去った美しい日々を垣間見たのであった。

余は予てより我が地元Brandenburgで修復中の歴史的文化財からレンガの一部を頂いて、日本の我が家に持ち帰り、自分のAtelier(仕事部屋)の机の隅に置いている。
これ等のBrandenburgの古きレンガを手に取って見つめる度に、余は地元での幸福と喜びに満ちた日々を思い出し、同時に当地を主題にした作品制作に於けるInspiration(閃き)とMotivation(意欲)が起こされるのである。
余を含め3人の歴史に名前と作品を残す芸術家が、これ等の決して高級でもない素朴な対象物に、自分達の仕事に於けるGeistige Quelle (精神の源) 及びIdeales Fundament(理想と観念の原点)を置いている事は大変興味深き事である。

 

小説家Alphonse Daudetの息子でParis生まれのジャーナリストで評論家のLéon Daudet(1867~1942年)は「 確かにUtrilloはParisを理解し表現した画家達の中では、最高のそして第一級の巨匠である。」と述べている。

余もドイツの街や建築物を描く画家として此の評価には共感するし、其れでいて余の作品には無い庶民的な「癒し」と「温もり」を感じさせられるのである。

 

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今年も残す処僅かとなり、年の締め括りに此の1年を振り返って見る事にした。

先ず今年は何もかもが上手く行き、誠に充実した年であった。拍手晴れ

不思議な事に余の今までの人生の中で、龍辰年~ヘビ巳年はどう言う訳か大きな躍進と成果を齎(もたら)しているのである。

例:1989年に余は最初のドイツ留学(Goethe-Institut)

が出来た。

2000~01年には我が館(実家)を余のデザイン・設計の元にBacksteingotik様式で新・改築を実現させた。

2001年にはBrandenburg/H市のDom(大聖堂)に於いて、更に首都Berlin Mittemuseum に於いてKönigreich Preußen(プロイセン王国)成立300年、Wedding区設立750年の記念事業として我が個展を翌年まで開催した。

2012年には徳島県・鳴門市ドイツ館に於ける我が個展が此の年の「国民文化祭・とくしま」の一環として、並びに「Grimm童話発行200年記念事業」として開催された。

そして2024年と2025年も大いなる躍進と成果を得る事が出来た。

宛ら農業に喩えると、昨年育てた作物が見事に実り、今年大いなる収穫を得たと言った具合である。

此の事を各項目毎に詳しく綴って行く次第である。

尚、此度の随筆は余が過去に書いた複数の随筆の一部を抜粋、改訂して完成した物である。

分野こそ違えど、此れはあたかもドイツの作曲家J.Brahms(1833~97年)が1880年にSchlesien地方の州都Breslauの大学の為に作曲した” Akademische Festovertüre” (Op.80)と作り方が似通っている。 

と言うのも此の序曲はBrahmsが以下のドイツの複数のStudentenlieder(学生歌曲)を接続、編曲して作り上げた作品だからである。

・Wir hatten  gebaut ein staatliches Haus

・Der Landesvater  ・Fuchsenritt  ・Gaudeamus igitur

此の曲は普段のBrahmsの重厚、且つ憂愁の漂う曲とは異なり、何とも祝典的で明朗快活な作品である。

 

家別荘の新築お祝い

「初春に紅白の荘建ち上がり、館になびき九枚笹の旗」

先ず今年1番の成果は何と言っても我が家の新しい別荘の完成である!

我が家の田舎の別荘は1957年に建てられて以来、我が家族にとって思い出深き物があった。 
ところが長き年月が経つに連れて別荘は老朽化が進んだ為、保持する事を断念した。                                             そして御名残惜しき思いはあれど、2023年1月に古い別荘を解体したのであった。

余は自分のデザイン・設計した「建築作品」は現在の我が実家のみで終わると思っていたのだが、此の事から別荘を第二の「建築作品」として自分でデザイン・設計する事になったのである。  

ところが我が家の別荘前の道は自動車が通り抜ける事が出来ない程狭い故、「建築基準法」を満たしていない事が判明した。 

そこで余は知り合いの司法書士さんの立ち合いで、別荘の周囲の田んぼの持ち主さんとの交渉の結果、快く田んぼを余に譲渡してもらえたである。(2022年の3月)

其の直後に田んぼを既存の道沿いに埋め立て、予定通り建設工事に必要な道路を作ったのである。 

此の別荘を取り囲む田んぼ(864坪)を獲得する事は、余にとって少年時代からの念願であった事、更に今日の日本では著しいコメ不足と米価格の高騰が深刻な社会問題となっているだけに、此の事は別荘を新築する前の大きな成果であった。

試行錯誤した後、最終的に「外観」はNeoklassizismus様式(1770~1830年頃)、そして「内装」はRococo様式(1735~1810年頃)を採用してデザイン・設計したのであった。 

此度の別荘新築の為のKonzept(基本方針)として、我が館(実家)で成し得なかった事の実現である。 

即ち”Symmetrie”(左右対称)のデザイン、     

現代的な物を排除する事(例:テレビアンテナ、エアコンの室外機、温水器、等)     

見晴らしの良い自然環境の構成(隣近所に人工的障害物が無い事、周囲に樹木が多い事)である。 

そしてようやく2024年(辰年)9月5日より我がデザイン・設計を基に新しい別荘の建設が始まった。                     

ヨーロッパの古典的なÄsthetik(美学)やKunstphilosophie(芸術哲学)の理論でSchönheit『美』とはBalanze「均整」とHarmonie「調和」とEinheit「統一感」を有し、そして非凡で類稀な存在である。」と定義されている様に、余は自分の芸術作品にこれ等の要素を常に意識しているだけでなく、 日常生活に於いても同様に意識している。                                               即ち此度の別荘のデザイン・設計に於いてもこれ等の要素を取り入れているのである。

そして遂に我が家の新しき別荘は2025年(巳年)の1月24日に見事に完成したのである!! 

我が崇拝するFriedrich大王陛下に習って、我が館(実家)は北ドイツの建築様式(Backsteingotik)でありながら"Maison Belle Rouge"(美紅館)とフランス語で名付けているので、別荘も同様に "Villa Rouge et Blanc"(紅白別荘)と命名したのである。

既に前の記事『新しく甦りし我が家の別荘』にも書いているのだが、不思議な事に本来我が家の別荘でありながら、毎週行く度にまるで「小旅行」をしている気分になるのである。

 

カラーパレット絵画制作

2016年の徳島県・鳴門市ドイツ館に於ける個展を最後に余は「公共事業」としての個展開催(日独両国で通算20回)から身を引かせてもらっている。

以来我が本業の絵画制作は「趣味」と成り代わっているのである。

たとえ趣味とは言えども余は自分のLebenswerk(生き甲斐の仕事)である絵画制作に手を抜く気等一切無く、今でも尚個展を開催していた頃と変わらない程のペースで制作を続けている。

今年になって我が主題は2018年5月以来手掛けているPreußen王国を形成していたSchlesien(シレジア)地方(1763年獲得)の文化財群をSerienbilder(シリーズ画)として計37点描き上げた。

Königreich Preußen(プロイセン王国)は元々1618年にKurmark Brandenburg (ブランデンブルク選帝侯国)がHerzogtum Ostpreußen(東プロイセン公国)を相続して其の基礎が成された。
其の後Großkurfürst (大選帝侯)Friedrich-Wilhelm公によってHinter-Pommern地方やBistum(大司教領)Magdeburg等を獲得して領地を拡大した。
そして1701年には国王FriedrichⅠ世陛下の元に初めて王国として成立した。
しかしながら当時のヨーロッパの大国、フランス王国、ロシア帝国、オーストリア帝国に比べて、国土も小さく、経済的にも貧しいが故、Friedrich-WilhelmⅠ世陛下の統治時代には国防の為に軍事力の強化が図られた。
彼の後を継いだFriedrich大王陛下は更に拡大した精強の軍隊によって、新たなる領土拡大を目指された。
新興国家のKönigreich Preußen(プロイセン王国)にとって此の大層肥沃なSchlesien地方の獲得は、正に”Strategie zum Überleben”「生き残り戦略」であった。

此の地方の都市と文化財の際立つ特徴として、18世紀のBarockからRococo様式の流行った時代に建てられた細長い塔が多く見られる事、そして同じく18世紀から19世紀にかけて建立された数多くの城郭である。
此れは当地方がKönigreich Preußen(プロイセン王国)の領地となって以来、目覚ましい進展を遂げている事を象徴しているのである。

 

引き続き今年の6月以来 Westpreußen地方(1772年獲得)へと移っている。

両地方は第二次世界大戦終了までPreußen王国が統一したドイツ帝国の領土であったのだが、其の後ポーランド領となっている。

 

ダンベルウェイトトレーニング

「十五より我が身鍛えし四十年、月日経てども姿麗し」

 

余はウェイトトレーニング、格闘技等の練習を週5日のペースで続けて今年の5月で通算40周年になる。拍手ブーケ1ブーケ1ブーケ1ブーケ1お祝い

此の年数は大学卒の者が公務員として勤務して定年退職するまでの38年よりも長いのである!

いつもの如く自惚れる様だが、此の事に関しては「我ながら良くここまで続けて来れた者だ!」と感心しているし、毎日自分の(美人)顔や裸体(T:173、B:105、W:68、H:93cm)に見惚れている始末である。

余の同世代の人間は大凡、「中年」ないしは「初老」に相応しい姿になっていると言うのに、どう云う訳か余は容姿、体力共に衰えないのである。

其の理由は親からの遺伝のせいか、医学知識を応用した健康管理のせいか、将又(はたまた)、「道楽」の様な人生を歩んで来たせいだろうか?

今では「余は本当に人間なのだろうか? もしかして魔物か?」とさえ思えるのである。驚き

ドイツでの芸術大学時代(1991~95年)には芸大と同市内にある医学大学でも「特別受講生」として「解剖学」と「心理学」を学んでいたので、自分と家族の健康に人一倍配慮している。
2022年までは長年に渡り田舎の別荘(1957年建造)でトレーニングを続けて来たのだが、前記の通り別荘を解体して以来、トレーニングマシーン(2台)其の他のトレーニング器具を館(実家)に移設して23年4月初め以来、大広間(14畳)にて行っている次第である。

通常なら実家から6km離れた別荘に自転車で行って、少し雑用をしてからウェイトトレーニングを始めていた。 

自転車で15分程走るのはトレーニング前の準備体操になっているので、直ちにトレーニングを始めるのでは、どうも拍子抜けした気持ちになるのである。 

其れ故に余は自転車で館(実家)から別荘の丁度中間点(3km)に位置する郵便局の前をUターン、即ち往復6km走って実家に帰ってからウェイトトレーニングを開始するのである。 

本来なら安全の為、高温の中で激しい運動は慎まなければならないのだが、余はトレーニングをする大広間ではエアコンで冷房をせずに、短い水着とリストバンドだけを着用して運動をしている。

何故なら今まで38年間、別荘では1度も冷房をせずに行って来たからである。 

と言うのも別荘の有る田舎では実家のある町のど真ん中よりも気温が4~5℃程低いし、風通しも良いので問題は無かった。 

とは言えトレーニングの時間帯(午後6:00~8:30)でも室内温度が近頃では30℃以上あるので、トレーニングの1セットの合間の度にエアコンで除湿をした隣の居間に移って小休止している。 

我が館(実家)には地方の美術館を凌ぐ程の大量の美術工芸品のコレクションがあるし、而もトレーニングの合間にテレビを見ているので集中出来ないのではないかと思えるのだが、何故か不思議な事にトレーニングには十分に集中出来ているし、其れどころか別荘でトレーニングをしている時以上に時間に正確に行えているのである。(正直此れには余自身でも感心している。)

 

赤薔薇ガーデニング

「夕暮れに蜻蛉群がる柘榴の実、微かに見えし秋の面影」

「長月に館の庭に百日紅、荘の庭には蝉の声聞き、夏は居座り、秋は足踏み」

「晩秋に軒に吊りたる干し柿の、色は変われり時は過ぎ去り」


我が家の経営する駐車場ではガーデニングを嗜んでいるので様々な草木があり、1年を通じて四季折々の花や実を生らしている。                                       例:薔薇(ばら)、野薔薇、山法師、葡萄(ぶどう)、梅、木瓜(ぼけ)日日草(つるにちにちそう)、百合、紫陽花(あじさい)百日紅(さるすべり)柘榴(ざくろ)、紅葉、雛菊、老鴉柿(ろうやかき)、欅、椿、南天、水仙、山茶花(さざんか)、雪柳、梅桃(ゆすらうめ)沈丁花(じんちょうげ)空木(うつぎ)、フリージア、

手毬(こでまり)、紫蘭、ゼラニウム、常盤忍(ときわしのぶ)、折り鶴蘭、他

そして我が家の田舎にある別荘でも多種多様な草木があり、其の中で梅、無花果(イチジク)、木苺、柘榴、柿は花だけでなく多くの実を成らしてくれるのである。

イギリスでは貴族や富裕層を中心とした”Gardening”が大変盛んで、何と国民の5割以上がガーデニングを嗜んでいる程である。

English Gardenに於いて、草木は先ず観賞する事に重点が置かれるのだが、其の上そこで育った果実を食べる事が出来ると、更に楽しみが増え、庭園としての評価も上がるのである。

其の中で昨年、今年の大きな収穫は昨年の秋に柿が400個以上も成った事、又今年の夏には木苺(Maulbeere)が丼(どんぶり)11杯も採れた事である。

昨年以来どう言う訳か知らないが、我が家の別荘を新築して以来、驚く程に「柿」と「木苺」が実を成らしてくれるのである。

迷信染みた事を書く様だが、恰(あたか)も庭の木々までもが我が家の新築された別荘を祝福してくれている様である。

更に別荘の周りに864坪の田んぼ、並びに別荘から200m程離れた処にも同様に909坪の田んぼを所有している。

(これ等農地は余の農家の友人に耕作してもらっている。)                                

御蔭様で米不足、米価の高騰にも微動だにせず余裕綽々で食生活を営んでいる。                                       

所謂「令和の米騒動」を見ていて、2022年の3月に前記の864坪の田んぼを購入しておいて良かったとつくづく実感するのである。

 

コインたち経済:株価と金相場が急上昇

「谷深ければ山高し」

我が家は親の代より既に1989年以来、大手証券会社を通じて株や証券に投資を続けている。

其の際に我が母上は「銘柄選び」と「買い時」と「売り時」は全て当証券会社の職員(プロ)に一任しているのである。

正に日本の諺「商売は道によって賢し」又は「餅は餅屋」の如くである。

そして、投資の三大要素である「長期・積み立て・分散」を常に守り抜いている。

此れにて年を追う毎に順調に金融資産を増やして来ているし、不動産資産、そして余が担当する物品資産(美術工芸品、貴金属、等)も同様に増やして来ているのである。

御蔭様で余は賃金の為に働く事も無く、我が家の(昔の男爵、子爵並みの)財産と不労所得(金融所得、不動産所得)だけで悠々自適、余裕綽々で生活出来る事には、常に我が先祖と母上と証券会社に感謝している!

扨、今年はアメリカのキチガイ大統領が対アメリカ貿易に於ける外国からの輸入品の関税率を(一時的に)「狂気の沙汰」と言う程吊り上げた事が悪影響して、4月頃には世界的に平均株価が大幅に下落した。

しかし翌5月頃から次第に回復し、夏頃には此の反動で平均株価は大幅に上昇して行った。

此度は投資の格言「山高ければ谷深し」の逆に「谷深ければ山高し」となった具合である。

我が家が長年取引をしている大手証券会社からの「運用報告書」(対象期間:7月1日~9月30日)の「各資産の概況」によると、日本の大型株式、小型株式、グローバル株式、エマージング株式、日本債券、グローバル債券、ハイイールド債券、オルタナティブ、不動産(REIT)、コモディティ(商品)いずれも好調、上昇、好期待、プラスリターン、等と有益な評価がされている。

 

宝石赤コレクションの充実と完成完了

本ブログの我が「プロフィール」にも書いている様に、余は様々物品のコレクションを趣味としている。 
例:美術工芸品各種、骨董品各種、図書、切手、絵葉書、写真、衣料品、ジュエリー、等 文化的、歴史的、及び資産価値の有る物品(鑑定、修理も可能)

 

 

 

 

 
 
 
日本の諺に「継続は力なり」とあるし、ラテン語の諺にも"IN PERSEVERANTIA VERITAS"(執着こそ真実也)とあるが、我ながら長年に渡り良くぞここもまで価値の有る物品を膨大な数になるまで集めた者だと感心、満足している。

又、仏教にも吾唯足知(われただたるをしる)と言う人間の貪欲を戒める格言がある。

此れは「物を絶えず欲しがる事を慎み反省し、自分の身の程を知り、自分に足りているだけで満足、感謝すべし。」と言う意味の教えである。

正にドイツ語の”Mäßigkeit”、ラテン語の”TEMPERANTIA”、そして日本語の「節制」に相通じる格言である。

流石に我が各コレクションに於いて望む物は殆ど手に入れて来たし、最近では物価の高騰も著しい故、そろそろ購入を控えても良いのではないかと思う様になった。

此の世界規模のインフレーションは逆に資産価値の有る物品の価値も吊り上げているのである。             

中でも特に「金」の相場は驚異的な程に上昇している。

余が宝石紫宝石白宝石赤ジュエリーを集中的に購入していた2000~2002年頃は「金相場」が1g当たり1004円(2000年)、1037円(2001年)、1253円(2002年)と、ここ半世紀で最も安価であった。

ところが「金相場」(1g)の価格は次第に上昇し、2006年に2114円、2010年に3054円、2012年に4267円、2015年には5101円、そして2021年以降は更に上昇して6794円、翌22年には7326円、23年には8706円、24年には遂に1万475円となり、今年は何と1万7000~2万5000円と前代未聞の急上昇を見せている。

自分が集中的に購入していた時代に比べて20倍以上の価格にまでなっている事には余のみならず、貴金属業者ですら誠に驚嘆するばかりなのである!!びっくり

2000~2002年頃当時、余は将来には金相場も少なくとも3倍以上には成るだろうと思っていたが、まさかここまで急上昇するとは努々思ってもみなかった!

此の様な事になるのなら、我が母上にでも頼んで、金貨や金の延べ棒等で大量に購入しておけば良かったと、逆に後悔の気持ちも湧いて来るのである。

とは言え人間は未来を確実に予測する事は出来ないので、精々今現在を真剣に生き、未来に向けてのHoffnung(希望)とPlan(計画)とVorbereitung(備え)を持って生きて行くしかないのである。

 

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人間は左右両手があると、どちらかが「利き手」であるのだが、世の中の大多数の人が「右利き」で、「左利き」の人は極少数である。

今回は此の少数派である「左利き」について書いて行く事にした。

世界規模で医学的統計を見ても、「左利き」は男性の場合は約14%、 詰まり7人に1人の割合である。

女性の場合は更に少なく0.5~0.6%、即ち150~200人に1人しかいない程珍しいのである。

実に余の学生時代を振り返って見ても、男子生徒20人の内、3人は左利きであったのに対し、女子生徒には左利きが1人もいなかった様である。

日本とドイツ両国に住んで来た余の今まで人生の中で、左利きの女性に直に遭遇したのはたった2回のみである。

又、長年事業経営して来た我が母上、更に我が親戚や友人達に此の事を話しても、皆同様に「左利きの女性を殆ど見た事が無い。」と証言している。

更に此れらの世界的な統計から、世の中の殆どの道具及び機械、電気製品は「右利き用」にデザイン、設計されているのである。

 

参考に自分が左右の「利き手」の度合いを知る上で、以下の道具をどちらの手で操作するかで推し量る事が出来る。

尚、此のチェック項目は余自らがドイツの医学大学で(特別受講生として)Anatomie(解剖学)並びにPsychologie(心理学)を学んだ知識、経験から作成した物である。

1.筆記用具(鉛筆、ボールペン、等) 2.画筆、刷毛

3.鋏 4.箸 5.包丁(ナイフ) 6.鋸 7.金槌 8.箒 9.ブラシ 10.電気製品のリモコン 11.スマートフォン、又は携帯電話 12.本(ページをめくる) 13.金銭(払う) 14.ボール(投げる)

余が自分でこれ等の項目をチェックすると、1~7は全て右手、そして8~14は全て左手で操作している。

他にも特異な事で余はArmbrust(洋弓銃)や空気銃、等は左手で引き金を引くし、弓矢を撃つ時も左手で弦を引く。

 

余は生来「左利き」なのだが、我が母上によると世の中の道具は殆どが右利き用に作られているので、「左利き」のまま大人になったら不便だと思い、「右利き」に成る様に訓練してくれていたそうである。(此の事には今でも我が両親に感謝している。)

御蔭様で実に余は両親から習った道具は右手で使い、自分で初めて習う物は左手で扱う様になったのである。

とは言え余は字を書く以外は大抵の道具は左右両手で使えるし、本業の絵画制作でも、右手の様な「超絶技巧」(米粒に字を書く程の細密描写)ではないが、19世紀以降のImpressionismus(印象派)位の絵なら左手でも十分に描けるし、単純なペンキ塗りは専ら左右両手で行っている。

詰まり余は「左右両利き」と言う事なのである。

此れは非常に有利な事で、余は先ず右手で長時間作業をして疲れると、引き続き左手で作業を続ける事が出来るし、普通の人が主に片手でする仕事も両手で同時に進める事が出来るのである。

 

又、余は毎日絵を描く為に右手を長時間(1日:約8~10時間)使うので、右手の負担を軽減する為に、日常生活に於いては殆どの作業を左手で行う様にしている。

興味深き事にプロ野球のピッチャーも余と同様に利き腕の負担軽減の為に、日常生活で全く同じ事をしている人が何人もいるらしい。

スポーツの分野では「左利き」は希少な存在として重宝されたり、試合(勝負)を有利に進める事が出来る。

何故なら「左利き」と遭遇する率が低い分だけ、大多数の「右利き」のスポーツ選手は対処しにくいからである。

最近では野球の選手の中には、ボールを打った直後一塁へ走るのに「左打席」の方が「右打席」より1歩早く走れる、そして右投げのピッチャーに対し有利に対応出来ると言う利点から、本来「右利き」の人が意図的に「左打ち」に成る様に訓練する事も少なくないらしい。

野球以外にも常に両手を使う職業の人にとって「両利き」とは、仕事の能率が良くなるので大変有利である。

例:ピアノ奏者、オルガン奏者、美容師、理容師、調理師、格闘家、等

 

余は自分が元来「左利き」なので、「左利き」の人を見掛けると親しみを感じて話をしてみると、やはり世の中の道具が大抵右利き用にデザイン、設計されているので、左手では使い勝手が悪い場合、止むを得ず右手で操作する事が度々あるらしい。

此の事から「左利き」の人は左右両方の手を使う事によって「運動神経」の伝達の本元である大脳の左右両側が「右利き」の人より発達するのである。

因みに余の友人に兵庫県出身の「左利き」の郵便局長がいるのだが、彼は学生時代に野球をしていた時には「左投げ、左打ち」だったし、現在趣味でゴルフをするのもクラブは左打ち用を使っている。

又、彼は食事の時に1人で食べる時は箸を左手で使うのだが、複数の人と一緒に食事をする時には右手で食べるのだそうである。

とう言うのは左手で箸を使っていると、時々他人から奇妙な目で見られる事があるからだそうである。

 

特殊な道具の例として「ピストル」を挙げるのだが、此れ又例外無くRevolver式、 Magazin式、全てが右利き用に造られている。

         Mugnum 357 (Revolver  Type)

             Luger P08  (Magazin Type)

          Walther P38 (Magazin Type)

17世紀の終わりに発明され、18世紀から1830年頃まで使用されていた銃(英語:Flintlock 、  独語: Steinschloß )

も全て右手で操作する様に造られている。 

  Gewehrsammlung  18~20Jh  Spandauer Zitadelle Berlin

参考までに此のSteinschloß式の銃の撃ち方について説明するのだが、先ず銃本体のHahn(火打石を固定したハンマー) を後ろに引っ張って、 Pulverhülse(火薬と弾丸が入った紙製の鞘)の先端を千切って Zündpanne(火皿)に少量の火薬を注ぎ、 Laufmündung(銃口) から残りの火薬と弾丸を注ぎ込む。

引き続き銃身の下に仕舞い込んでいるLadestock(押し込み棒)を取り出し、Laufmündung(銃口) から差し込んで火薬と弾丸を奥まで押し込む。 

そして標的を狙って Abzug(引き金)を引いて弾丸を発射する、と言った具合である。

 

かつて余がドイツの地元Berlin, Brandenburgに住んでいた頃の1994年、Berlin西部にあるSpandauer Zitadelle(砦)の中庭で歴史的な祭りがあったので見に行った時、「出し物」として18~19世紀のPreußen王国時代の軍服を着た人達が当時のSteinschloß式の銃や大砲を(弾丸無しで)撃つのを披露してくれていた。

余が此の人達に自分のPreußen王国への愛国心や歴史的知識を語ると、兵士に扮した人達が>Kannst Du mal das Schießen !<(君も此れを撃ってみるかい!)と言って余に銃を貸してくれた。 

余が手慣れた様に撃つと、>Weiter nochmal !<(引き続き撃ってみよう!)と言ってくれたので、更に2発も撃たせてもらった。

周りの見物人の人々の一部から>Er ist Profi !<(彼はプロだね!)と拍手してもらえたのを今でも覚えている。

 普通、「右利き」の人がSteinschloß式の銃を操作する時には銃を左手に持ち、全ての行程を右手で行い、銃を右手に持ち替えて発射する。

一方、余が此れを打つ場合、本来「左利き」なので、操作が終わると即座に左手で撃つ事が出来るので、其の分だけSchießabfolge(射撃の行程)が「右利き」の人より早いのである。

(最も平和な今の時代では銃の「早撃ち」等、何の自慢にも取り柄にもならないのだか・・・)

 

扨、此れも同様に医学的統計により証明されているのだが、「天才」「秀才」や手先の器用な人に「左利き」が多く見受けられるのも事実である。

其の原因として前記の通り、世の中の道具が大抵右利き用に造られている関係で、左手で使い勝手が悪い場合、右手で操作する事が度々ある。

此の事から「左利き」の人は左右両方の手を使う事によって「運動神経」の伝達の本元である大脳の左右両側が「右利き」の人より発達するからである。

参考に「左利き」の偉人、天才、英雄、有名人を以下の通り挙げて置く。

*Alexander Magnus (Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)(BC,355~322、マケドニア(ギリシャ)の国王)

*Julius Caesar (BC,100~44、古代ローマの執政官)

*Leonardo da Vinci(1452~1519、イタリア、ルネッサンス期の芸術家、科学者)

*Michelangelo(1475~1564、イタリア、ルネッサンス期の芸術家)

*I.Newton(1643~1727、イギリスの科学、物理学者)

*J.W.v.Goethe(1749~1832、ドイツの文学作家)

*J.S.Bach(1685~1750、ドイツの作曲家)

*W.A.Mozart(1756~91、オーストリアの作曲家)

*L.v.Beethoven(1770~1827、ドイツの作曲家)

*Napoleon(1769~1821、フランスの皇帝)

*M.Twain(1835~1910、アメリカの文学作家)

*Th.Edison(1847~1937、アメリカの発明家)

*E.Munch(1863~1944、ノルウェーの画家)

*A.Einstein(1879~1955、ドイツの物理学者)

*P.Picaso(1881~1973、スペインの画家)

*M.Escher(1898~1972、オランダの画家)

更に以下のアメリカの大統領も左利きである。

*第40代、R.W.Reagan(1911~2004)

*第41代、G.W.Bush(1946~)

*第42代、W.J.Clinton(1946~)

*第44代、B.H.Obama(1961~)

其の他、有名な映画俳優では、Robert Redford(1936~2025)、S.Stallone(1946~)等が認められる。

 

因みにフランスの画家R.Dufy(1877~1953)が左手で絵を描いていたのは作品の筆跡を見ても判るのだが、実際の処Dufyは本来「右利き」であった。

彼は独自の芸術理念から、技巧的な絵を描く事を憚(はばか)り、意図的に左手で描いていたのである。

「天才」「秀才」や手先の器用な人に「左利き」が多く見受けられる反面、「左利き」には「異常者」や「変質者」や「人格障害者」が少なくないのも事実である。

諺に「天才とキチガイは紙一重」と言うのがあるし、古代ローマの哲学者Seneca先生(BC,1~AD,6)も「狂人染みた処の無い天才はいない。」とまで言われている位である。

又、ドイツの心理学者で精神科医のE.Kretschmer先生(1888~1964)も「天才」の性格や精神に独特の異常性が多々認められる事を書き記されている。

此の様に良きにつけ、悪しきにつけ「左利き」は「個性的」「風変わり」又は「非凡な人物」である割合が高いと言う事である。

詰まり肯定的に言えば社会に於いて「希少価値の有る貴重な存在であると言えるのである。

 

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