我が家の田んぼの真ん中に立つ祠、そして田と農業の神々について | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

我が家は町(東区)のど真ん中に館(実家)及び庭付きの駐車場(計118坪)を所有する以外に、田舎にある別荘の周りに864坪の※田んぼ、並びに別荘から200m程離れた処にも同様に909坪の※田んぼを所有している。 

(※これ等農地は余の農家の友人に耕作してもらっている。)

其の909坪の田んぼの真ん中に引かれている畦道の上に随分昔より小さな祠(ほこら)が立っている。 

此の祠は老朽化した為、恐らく戦後になって天板以外の部分をコンクリートで新装している。 

美術骨董品の鑑定、修理の出来る余が観察した処、此の祠の石の天板の状態からして、此の小さな祠は元々は今から110年以上前の明治時代(1868~1912年)頃に造られた物と推測される。 

にも拘らず此の祠の中には長きに渡って肝心要の「御神体」が欠けているのである。 

余は幼少の頃より歴史に多大なる興味があったので、此の祠の中には一体どの様な神が祀られていたのだろうか、又、どの様な原因で「御神体」が無くなっているのだろうかと思っていた。 

そしていつか此の祠に相応しい「御神体」を納めなければなるまいと思っていた。 

昨年の3月には別荘の周りに864坪の田んぼを新たに購入して、我が家の米の生産高及び農業収入も倍増しているので、此れからも田んぼを大切にして行こうと言う気持ちになった。

此れを良い機会に、ネットオークションで「御神体」になれるだけの古い「田の神様の偶像」を探して見た処、丁度良い大きさ(高さ約26cm)の真鍮鋳物の「大黒天」の像を見つけて購入した。 

そして7月21日、早速此の「大黒天」の像を我が家の田んぼの中の小さな祠に納めておいたのである。 

とは言え「御神体」を風化させてはならないし、性無き子供や盗人に盗られて骨董屋に売り飛ばされる訳にも行かない故、極単純ではあるが祠の窓の内側に透明のアクリル板を施し、其の後ろから2つのレンガで両側を固定しておいた。 

此れにて我が家の田んぼの祠に長年に渡り留守になっていた「御神体」を納める事が出来たのである。 

(同ブログの記事「3月の我が家に纏わる様々な出来事」参照)

 

扨、何故余が「御神体」に「大黒天」を選んだかと言うと、日本古来の民間信仰に於いて「大黒天」は五穀豊穣と商売繁盛をもたらす福の神だからである。 

しかし此の神は元来古代インドのヒンズー教の神で、サンスクリット語の名は"Mahākāla"と云い、此れは破壊の神Sivaの別名である。 

故に室町時代以前の大黒天像は、鎧を着て右手には「打ち出の小槌」の代わりに「宝棒」を持ち、左手に袋を持つ姿で表現されている。 

「大黒天」の崇拝を日本に初めて広められたのは、我ら天台宗の開祖・最澄大師である。 

其の後室町時代になって此の神様は日本で御馴染みの「七福神」の中に編入されている。

更に他の「七福神」について解説すると、「毘沙門天」も元は古代インドの神で"Vaiśravaṇa"と云い、戦勝、正義、厄除けを司る。 

仏教では多聞天(北)として、持国天(東)、増長天(南)、広目天(西)と共に4つの方角を守護する「四天王」の中の武神とされている。 

弁財天」は"Sarasvatī"と云い、河川、豊穣、生殖、そして芸術を司る女神である。 

我ら天台宗では「如来」「菩薩」「明王」の次に来る「天部」の中に、此の3人の古代インドの神々を編入して祀っている。 

故に天台宗の別格本山以上の寺院には大抵此の3人の天像を安置する御堂がある。 

其の他、財運、招福をもたらす「福禄寿」と健康、長寿をもたらす「寿老人」は古代中国の神で、福徳、家庭円満の利益のある「布袋」は古代中国に実在した僧侶であった。 

実は彼らの中で日本古来の神とは、「事代主命」(ことしろぬしのみこと)即ち「恵比寿様」のみである。 

 因みに余は「大黒様」よりも「恵比寿様」に幼少の頃より愛着があり、少年時代より恵比寿像を収集して、今では明治、大正、そして昭和時代にかけて作られた「九谷焼」、「一位一刀彫」、「讃岐彫」、「黄楊彫」、「高岡銅器」、其の他10数個にまでなってしまった。 

余が何故「恵比寿様」に愛着があるのか、自分でもいささか不思議なのだが、恐らく「恵比寿様」が自分に欠けた要素を持っている事に対する憧れなのかも知れない。 

具体的な例を挙げると、 

「恵比寿様」が天真爛漫な笑顔なのに対し、余は笑顔が苦手で、我がドイツの地元Berlin, Brandenburgでも個展開催の折、各地元新聞社の取材時でさえ、カメラマンに>Bitte etwas lachen !<(幾らか笑顔をして下さい!)と頼まれても、厳めしき顔しか出来なかった。 

「恵比寿様」が開運招福、漁業、商売繁盛を司る神なので、釣りや泳ぎの名人であるのに対し、余は友人と釣りをしても、魚が釣れるどころか魚に見向きもしてもらえない。(魚を食べないからだろうか?)そして余はからっきし不水練(泳げない)である。 

「恵比寿様」の象徴である「釣り竿」には教訓的な意味があって、欲張って何でも取るのではなく、「一本釣り」で鯛の様な最良の物(者)だけを選りすぐって取る事が肝心だと云う事である。 

此の事だけは余も自ら完全に実行出来ているのである。 

興味深き事に東日本では「恵比寿様」を、一方西日本では「大黒様」を「田の神」として祀る傾向が多いそうである。 

余の個人的な見解では「恵比寿様」は釣竿と鯛を持つ井出達から寧ろ「漁業神」、そして米俵の上に立つ(又は座る)「大黒様」こそ「農業神」ないしは「田の神」らしいのではないかと思えるのである。 

 

日本は弥生時代(紀元前9,8世紀から紀元後3世紀頃)より「稲作農業」が主力産業として定着し、国民の生活を安定させた事から古代より「農業神」を祀る習俗があった。
此れに関して8世紀に成立した『日本書紀』や『古事記』にも稲霊(いなだま)すなわち「倉稲魂」(うかのみたま)、「豊受媛神」(とようけびめのかみ)、穀霊神の大歳神(おおとしのかみ)の名が「農業神」として記されている。
此の中で「豊受媛神」は10世紀初頭成立の『延喜式』「大殿祭祝詞」に、稲霊であり、俗に「宇賀能美多麻」」(うかのみたま)と称する註があり、此の事について民俗学者の柳田國男先生は、「稲の霊を祭った巫女が神と融合して祭られる様になり、其れ故に農業神は女神と考えられる様になったのではないか。」と推測されている。
民間では此の様な「農業神」を一般に「田の神」と称して来たが、東北地方では「農神」(のうがみ)、甲信地方(山梨県・長野県)では「作神」(さくがみ)、近畿地方では「作り神」、但馬(兵庫県)や因幡(鳥取県)では「亥(い)の神」、中国・四国地方では「サンバイ(様)」又、瀬戸内海沿岸では「地神」(じじん)等とも称されて来た。

又、起源の異なる他の信仰と結び付いて、東日本では「恵比寿」、西日本では「大黒」をそれぞれ「田の神」と考える地域が多く、更には土地の神(地神)や稲荷神と同一視する事もあり、其の一方で漁業神や福徳神とは明確に区別される神々である。

因みに我が地元は人口約7万人程なのだが、第二次世界大戦中に1度も空襲に遇わなかった故、今でも多数の歴史的な物件が残っている。 

例えば我が館(実家)の北向いに立つ町内会の寄り合い所の前には「毘沙門天」を祀る祠が設置されているし、我が別荘から南へ50m程の処にも前記の「地神」の石碑があり、更に余が実家から別荘まで自転車で走行する約6kmの道程にも同じく「地神」や「稲荷」其の他の神を祀る祠が12件もある。
其の他、川沿いには江戸時代から昭和初期頃まで運航していた「高瀬舟」の港の目印であった常夜燈(石灯籠)が7台も残っており、其の一部には海上交通の守り神である「金毘羅」が祀られている。


令和の時代(2020年代)になっても尚引き続き各町内では毎年定期的にこれ等の宗教的物件に対し祭りの儀式を行っている。

長き時代の流れの中でこれ等の伝統的な習慣を今でも守り続けている事には感心させられるのである。

 

「田の神」の偶像の具体的な特徴は統一された物が無く、一般的に水口に挿した木の枝や其れを束ねた物や花や石、等が象徴的事物とされる事が多く、常設の祠堂を持たないのが全国的な傾向である。
しかし、其の様な中にあって「田の神」の石像が九州地方南部の薩摩、大隅(鹿児島県)、日向(宮崎県)の一部(都城周辺)に限って分布している事は注目に値する。


此の地方では集落毎に「田の神さぁ」(田の神様)と称する石像を田の岸に祀る風習が見られる。
これ等の「田の神」は藁傘を被り杓子や擂粉木(すりこぎ)や飯椀、ないしは鍬を持った昔の百姓(農民)を彷彿させる姿で表現されている。
これ等の石像を形態的に分類すると、「自然石型」、地蔵菩薩を模った「仏像型」、神官を模った「神像型」、そして前記の百姓を模った「農民型」が挙げられる。

これ等「田の神」の石像は18世紀初め頃より造られ始めたと推測され、薩摩藩領にのみ石像が分布しており他の地方では見受けられない。

そう言う意味で、これ等の地方とは遠く離れている本州にある我が家の田んぼに「農業神」の祠が長きに渡って常設されているのは、大変珍しい実例である。
 

昔の日本人は此の様に自然界に神々が存在するのみでなく、人間が造り出した田畑にも神が宿り守ってくれると信じていた。
だからこそ農業を「尊い業務」として大切にする事が出来ていたのである。
其れに引き換え、今日の日本の愚かで利己的で強欲な(糞)政治家共を初め、(本来農業を援助、保持すべき)農協までもが農業を蔑ろにしている誠に嘆かわしき有様である!                      かつて1960年代には日本の食料(農作物)の自給率は約67%もあったのに、今日の其れは僅か37%にまで落ち込んでいるのである!  

米の生産量だけ見ても、ここ50年間に何と40%以上も減少しているのである。         

日本政府や各自治体は「食糧危機」の到来より前以って、大規模な「農業支援」ないしは「農地改革」等と言った何らかの対策を考え出し、実行する必要があったのではなかろうか。

 

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