大投手・北別府学氏を偲んで | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

広島カープの「黄金期」にエースとして活躍し、カープ一筋に努めて球団最高記録の213勝を挙げ、「名球会」入りした北別府学さんが今6月16日午後0時33分、入院して治療を続けていた広島市内の病院にて享年65歳で御逝去された。 

北別府さんは既に2020年1月に御自分のブログで「成人T細胞白血病」(ATL)を患われている事を公表されていた。 

此の病気は言わば全身を循環する血液の癌であるので、現代の医学を以てしても治療する事が極めて困難である故に、昭和52年以来カープファンである余もいつか悲しい知らせを聞く事になると覚悟を決めていたのだが、其れでも北別府さんには出来る限り苦しむ事無く延命してもらいたいと祈っていた。 

とは言え昨日訃報を聞いて何とも言えない悲痛で寂しき思いに駆られたのである。 

今となっては、かつての彼の現役時代の雄姿を思い出しながら心からの御冥福を祈るばかりである。 

 

此度、北別府さんが御逝去されて、広島カープの「黄金期」(昭和50年~61年)を築き上げた以下の監督、選手の方達が既に7人も御逝去されている事になっているのは往年のカープファンにとっては誠に悲しく寂しい限りである。 

1993年7月、津田恒実さん(享年32歳) 

2009年11月、三村敏之さん(享年61歳) 

2018年4月、衣笠祥雄さん(享年71歳) 

2021年1月、高橋里志さん(享年72歳) 

2021年4月、Adrian Garrettさん(享年78歳) 

2021年11月、古葉竹識さん(享年85歳) 

(同ブログの以下の記事参照)

 

 

 

北別府さんは1957年(昭和32年)7月12日に鹿児島県・曽於郡・末吉町の農家に生まれられた。 

実家が農家であった事から隣の宮崎県の都城農業高校へと進学された。 

其れ以来、毎日実家から県境を越えて学校まで何と20kmもの距離を自転車で通学していたそうである。(しかも3年間無遅刻であった。) 

更に実家に帰宅したら直ぐに制服から私服に着替えて、飼育している牛の世話をしていた。 

「家にいる限りは此れが僕の仕事ですから。」と言って当然の如く家業を手伝いながら野球に打ち込む純朴で直向きな姿勢は感動的であったと、当時を知る報知新聞社の記者であった駒沢悟さんは書き記している。 

 

余も小学校の頃より当時の「プロ野球年鑑」で北別府さんの其の様な経歴を読んで知っていたので、自身がドイツに於ける大学時代(Kunstakademie Dresden 1991~95年)に学校の所在地Dresdenから北東に約17km離れた村 Liegau-Augustusbadに住んだ前半の2年間は、北別府さんを見習って同様に自転車で通学したのであった。 

しかし93年に大家で友人のH.Barthelさん(1938年生まれ)が余の冬休みに帰国していた時に突然の事故で亡くなられてしまった事で、急遽 Dresden市内のStudentwohnheim(学生寮)に転居する事を余儀無くされてしまった。 

DresdenはKessel(盆地)に位置する都市なので、郊外の Liegau-Augustusbadとの間の道には合計約5kmの坂があった。 

当時の余の通学法を知っていた当大学の職員の方は>Es ist so ein Sport !<(其れはまるでスポーツだね!)と感心してくれたのであった。 

当時此の様な事を続けられたのも、北別府さんの「頑張り」を子供の頃から知っていたからである。 

そして「初老」と言われる様な年になった現在でも尚、週5日は実家から6km先にある田舎の別荘まで自転車で走り、ウェイトトレーニングをして再び家に帰る事を通算38年も続けられているのも、往年のカープの偉大なる名選手・衣笠さんと北別府さんの御陰であるとも言えるのである。 

 

北別府さん高校卒業後、1975年ドラフト1位指名で広島カープに入団した。 

奇しくも此の年はカープが球団史上初のリーグ優勝を成し遂げた年であった。 

新人の年であった翌1976年に初勝利を挙げて以来其の頭角を現し、「精密機械」とか「針の穴を通す」と形容される卓越した制球力と多彩な切れのある変化球を武器にして勝ち星を量産して行かれた。

1978年以来11年連続で2桁勝利を記録し、79年には17勝を挙げてチーム初の「日本一」に貢献した。 

1982年には自身初の20勝を挙げて「最多勝」「沢村賞」を獲得、1986年には18勝を挙げてチーム5度目のリーグ優勝の原動力となり、再び「最多勝」「沢村賞」更に「最優秀防御率」「MVP]をも獲得した。 

1992年7月16日、遂に「名球会」の登龍門である通算200勝を挙げられた。 

広島カープ一筋に19年間、其の大部分をエースピッチャーとしてプレーし、1994年に現役を引退された。 

通算成績は515試合登板、213勝、141敗、5セーブ、135完投、28完封、1757奪三振、防御率3.67である。 

 

当時のプロ野球の選手のみならず、野球ファンなら誰もが知っている事だが、北別府さんの投球術とコントロールは誠に無類の物であった。
今日、日本のプロ野球でも150kmの速球を投げられるピッチャーはざらにいるし、アメリカのメジャーリーグでは更に160kmを超える剛速球を投げるピッチャーまでいる状態である。
しかし北別府さん程の制球力を持つピッチャーは日本及びアメリカですら見受けられないのである。
現役時代最も長くバッテリーを組んだ名捕手・達川光男さんが語ってくれた興味深い逸話がある。
「ホームベースの上に3つの空き缶を立てて、「おいペイ(北別府さんの渾名)よ、球ほおってあの空き缶倒してみい。」と言ったら、3球で全部倒してしまったんです。」
其の他、当時対戦した他チームの多くの選手達も北別府さんの制球力と変化球の切れには翻弄され、感服したと言っている。

「球速は決して速くはなかったので、いつか打てるだろうと思っていたら、気が付くと最後まで抑え込まれてしまっていた。」と言うのである。
又、主審判の立場から見れば北別府さんは非常に判定しにくいピッチャーであったらしい。
本人が「僕は現役の頃、ど真ん中に投げた事が無いんです。」と言う様に、彼は相手バッターがまともに打てない様なストライクゾーンのギリギリを突いて投げる事が常であったからである。
野球のルールでは投げられたボールがストライクゾーンに半分以上収まっていれば、ストライクと見なされるからである。
そしてスライダー、シュート、カーブ等の変化球の「切れ」も大変な物であったし、投球に緩急のメリハリを付けて相手打者とのタイミングを外す事も巧みであった。
故に相手バッターは容易に捉える事が出来なかった様である。

 

北別府さんは自分のピッチングについて、「僕は投球の際に最も気を使っているのが「不動心」と「投球フォーム」なんです。」と言っている。
不動心」とはたとえ相手が名だたる強打者であろうと、如何なるピンチに接しようとも、決して精神的に動揺せず「泰然自若」の境地で、粘り強く投球を続けて切り抜けると言う事である。
実に彼は現役時代に対戦したセ・リーグ各球団のクリーンアップ(3,4,5番バッター)を平均被打率1割台に抑え込んでいるのである。
又、北別府さんは「投球フォーム」を試合前から毎回徹底的にチェックしていたらしい。
ほんの僅かでもフォームに狂いがあると彼最大の武器であるコントロールに乱れが生じるからである。
スポーツの分野は違えども余は長年続けてきたウェイトトレーニングや(打撃型)格闘技の練習、並びにドイツの医学大学でも特別受講生として学んだ経験を通じて、フォーム(型)を常に正確に整える事が如何に大事な要素であるかを身を以って知っている。
故に同様にフォームを正確に保持する事に常に注意を払っている。
いずれのスポーツでも間違ったフォームで運動を続けていると、運動機関(筋肉、骨、関節、腱)を鍛えるどころか反(かえ)って痛める事になってしまうからである。
此れは肉体労働に於いても同様で、悪い姿勢で仕事を長期間続けていると、身体を慢性疲労で痛め易いので注意が必要なのである。

広島カープの「黄金期」の主力選手の中では、当時連続試合出場の世界記録を樹立した「鉄人」こと衣笠さんが丈夫な選手の代表格であったが、投手部門では北別府さんが丈夫な選手の代表格であったと言える。
現役19年の間、殆ど故障する事無く試合に登板し続けたからこそ、213勝と言う大記録を成し遂げられたのである。
此れも北別府さんが本来の優秀な体力の上に「投球フォーム」を毎回徹底的にチェックしていた事の賜物であると言える。
 

北別府さんは其の抜群の制球力から「精密機械」と喩えられたが、実際は(鹿児島県人らしく)心も熱く(蟹座らしく)情の深い面倒見の良い人であった。
「カープが強かったから成績を挙げられましたし、チームメイトにも恵まれました。怪我も無かったし、親に感謝したいですね。」と周囲への思いを述べられていた。
現役引退後は「残りの人生で野球界の為に尽力していきたいですね。」と言われた通り65歳の生涯を終えるまで、1995年からは解説者として、2001~04年まではカープのピッチングコーチも務められた。
2012年には「野球殿堂」に競技者表彰のプレイヤーとして選出された。
誠に日本プロ野球の歴史に永遠に残る「エースピッチャー」の称号に相応しい大投手であった。

 

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