自分思考型人間と他人思考型人間  | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

1966年に制作された”Macaroni Wesrern”(イタリア製西部劇)の傑作 “The Good, the Bad and the Ugly” (日本の公開名「続・夕陽のガンマン」)の中に以下の興味深い台詞がある。 

「世の中には2通りの人間がいる。首に縄をかけるヤツと(其れを)切るヤツ。」(捕まるヤツと其れを助けるヤツ)
「世の中には2通りの人間がいる。友達の多いヤツと孤独なヤツ。」 

「世の中には2通りの人間がいる。ドアから出入りするヤツと窓から出入りするヤツ。」(まともなヤツとまともじゃないヤツ)
「世の中には2通りの人間がいる。弾の入った銃を持つヤツとスコップで土を掘るヤツ。」(命令するヤツと服従するヤツ。)
心理学の分野でも人間を2種類に大別すると、「自分志向型人間」(又は「内部志向型人間」)と「他人志向型人間」となる。 

 

アメリカの社会学者David Riesman(1909~2002)は、西洋社会の長い歴史に対応して、それぞれの時代に於ける社会通念を以下の3つに分類している。 

前近代(中世~15世紀):伝統志向型 

近代(16世紀~第二次世界大戦):内部志向型 

現代(第二次世界大戦後~今日):他人志向型 

更に日本の心理学者・南博先生は其の著書「心理学がわかる事典」の中で、上記の3つの志向型(Mentalität)を次の様に解説されている。 

伝統志向型」:人々の行動の原理が専ら伝統とか習慣とか言う既存の価値観に求められていた事を示しています。「封建時代」に代表される前近代の人々の同調様式の特徴はこう言う物でした。 

内部志向型」:近代になりますと、人々は自分達の行動を律する指針として、「神」とか「良心」とか言う内面化された価値を選ぶ様になりました。 彼らは丁度自分の中にジャイロスコープ(羅針盤)を持っている様な者で、その針の指し示す方向に自分の行動を向けて行った訳です。 

他人志向型」:それに対して、現代人と言うのは行動の原理として周囲の他人の意見とか他人の反応、価値等を手掛かりにする様になりました。  詰まり、あたかもアンテナやレーダーを張り巡らして、それによって他人がどう考え、行動するかを素早くキャッチして自分の行動を調節する様になったと言う訳です。 

 

参考に日本の内閣府が2009年に公表した「世界青年意識調査」(18歳から24歳が対象)では、「他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由だ。」と考える人の割合は以下の通りの統計が出ている。 

アメリカ: そう思う;約49%、どちらかと言えばそう思う;約32% 合計:81% 

イギリス: そう思う;約61%、どちらかと言えばそう思う;約30% 合計:91% 

フランス: そう思う;約66%、どちらかと言えばそう思う;約27% 合計:93% 

此の様に欧米人の大多数の人々が「個人の自由」を肯定しているのとは逆に日本では、そう思わないが約41%、どちらかと言えばそう思わないが約28% 合計:69%が「個人の自由」を否定しているのである。 

此の事から西洋人(白人)は断然「自分思考型」の人間が多いのだが、其れとは対照的に日本人は「他人志向型」の人間が過半数をゆうに占めているのが判る。

 

参考に「自分に満足している」と言う人の割合は以下の通りである。 

日本: 約45%

アメリカ: 約87% 

イギリス: 約80% 

フランス: 約85%

更に「自分の意志や決断力に自信を持っている」と言う人の割合は以下の通りである。 

日本: 約42%

アメリカ: 約86% 

イギリス: 約82% 

フランス: 約85%

これ等の統計からも日本人は欧米人に比べて「自己肯定感」の低い国民である事も判然としている。
 

因みに余自身は日本人としては珍しく、「非道徳、非合法でなければ何をしようとも個人の勝手(自由)だ!」と確信する、完全な「自分思考型人間」なのである。 

余がとことんまでに「自分思考型人間」である原因を自己分析してみると、先ず余が清和源氏の流れを汲む「士族」の家柄の出身である故、少年時代より「自分は庶民、平民と同類であってはいけない!」と言うAnachlonistischer Stolz(時代錯誤的な誇り、又は高慢)を抱いている事がある。 

次に自分がKünstler(芸術家)と言う強烈なIndividualität(個性)、 Identität(自分らしさ)そして Eigenschaft(独自性)を必要とされる特別な仕事を志し、就いてしまった事がある。 

これ等のElement(要素)無くして「芸術家」の人生は成り立たないと言っても過言ではない。 

そして前述の「自分思考型」の人間が圧倒的に多いヨーロッパの中央に位置する国ドイツに学業と仕事で足掛け13年も住んだ事である。 

此の国で生活して、余の「自分思考型」の Mentalität(志向型、又は思考型)は更に強まり、此の事が正しいと確信したからである。 

 

自分思考型人間」はMentalität(志向、又は思考)の軸が「自分自身」にあるので、外界や社会や他人が如何なる状況であろうと、これ等から余り影響を受ける事が無く、独自の判断、そして独立した行動が出来る。
一方で、其の思考、判断、そして行動が社会通念から逸脱していると、場合によっては異端者、奇人、変人とも見なされる事すらある。


ドイツの高名な精神科医で心理学者のErnst Kretschmer先生(1888~1964)は人間のCharakter(性格)をPykniker(躁鬱質)、Leptsomer(分裂質)、Athletiker(スポーツマン質)、 Nervös(神経質)、 Paranoische(過信質)、そしてHysterische(ヒステリー質)の6種類に分類し、これ等の人間のCharakter(性格)がKonstitution(体形)と密接な関連がある事を提唱し、理論と実例に基づき証明したのである。
又、Kretschmer先生は特に「天才」と言われる人間を高く評価し、彼等の独特のPersönlichkeit(人格、人間性)について研究し、其の内容を大著書"Die Genie"(天才)の中で克明に書き記されている。
其の中でKretschmer先生も、天才とは極端なまでに「自分思考型人間」である事を実証する事例をいくつも記述されているのである。
余も個人的な研究で、「天才」、「偉人」、「英雄」そして「人傑」と呼ばれる人々のBiographie(人物伝記)を数多く読んで来たが、これ等の人物達はKretschmer先生が提唱されている通り、卓抜した才能、知能を有するだけでなく、強烈なIndividualität(個性)、とSelbstbewußtsein(自己認識)を持っており、其の思考、判断、行動に於いて他人や外界から影響を受ける事が一般の凡人より遥かに少なかった様である。

 

其の様な意味では社会的に多数派を占める「他人志向型人間」は前記の、「天才」、「偉人」、「英雄」そして「人傑」と比べて、平凡、無個性であるとも言える。
しかしながら「他人志向型人間」は社会が平和で安定して裕福な時には、社会通念も比較的、理性的で良心的なので、人間も他者に対する思いやりや配慮も出来るので、「集団の力」によって良い方向へと発展して行くのである。
一方で「他人志向型人間」の悪質な例を挙げると、社会の異常事態(例:戦争、動乱、自然災害、経済、又は食糧危機)が到来した時、周囲の人間が生活に困窮して、窃盗や詐欺等の犯罪を働いているから自分も同様にする「模倣犯」と言うのがある。
此の様に「他人志向型」と言うのは社会や周囲の人間が道徳や法律や秩序を守った行動を取っていれば正しく作用するのだが、逆に周囲の人間が其の反対の悪質な行動を取ると、大変危険で有害なMentalität(志向、又は思考) になり得るのである。
又、幾人かの心理学者や社会学者やフィナンシャルプランナーの方々が述べられている事だが、知能の高い人や高学歴の人、そして「富裕層」の人には思考に於けるVielfältigkeit(多様性)があり、 Inprovisations fähigkeit(臨機応変の能力)にも秀でているのである。
逆に低能、低学歴や臆病者、そして「貧困層」の輩(やから)程、思考が短慮、低俗で、尚且つ「同調圧力」に屈し易い傾向があるそうである。
増してや世界中の人間が呆れる程、日本国内ではびこる「同調圧力」に対しては、余は武力(暴力)を行使してでも撃退したいと思うし、諺の「出る杭は打たれる」の如く、人を抑え込もうとする者は頭を殴り割ってやりたいし、又は「足を引っ張る」者は踏み潰してやりたいと思う程、激しい拒否感を感じるのである!

 

日本人の一般的なMentalität(志向、又は思考)では「世の中の人間が皆悉く「自分思考型人間」ばかりになっては、自分勝手な人間だけが横行して、社会が支離滅裂になってしまうのではないか?」と思えるかも知れない。
其れとは逆に、余は極端な「自分思考型人間」として、世の中の人間が誰も彼も似たり寄ったりでは、あたかもSF小説や映画に出て来るAndroidや Clone人間の様になってしまい、Individualität(個性)もEigenschaft(独自性)もInteresse(面白味)すら無い無味乾燥な世の中になってしまうと思えるのである。
諺の「人の振り見て我が振り直せ」の如く、特に優良な人物を「手本」として見習い、劣悪な人物を「反面教師」として見習う事は成程良き事ではある。
しかし、人間個人個人にとって自分の人生は、お釈迦様の御言葉「天上天下唯我独尊」の如く、此の世で唯一無二の存在なのである。
だからこそ単なる他人のCopyや模倣で終わるのではなく、Menschenwürde(人間の尊厳)の元素となるIndividualität(個性)、Identität(自分らしさ)そしてEigenschaft(独自性)も形成して保持する事も必要なのである。

あるÄsthetiker(美学者)や Kunsthistoriker(美術史家)は「どこにでもある様な絵や、誰にでも描ける様な絵には価値が無い。」と主張している。
即ち「非凡」又は「類稀」(たぐいまれ)な人物や物にこそ高い価値があるのである。
此れは芸術の分野のみならず、人間社会に於ける他の様々な分野でも同様の事が言える。
(例:人間では天才、秀才、美男、美女。 金属では貴金属。 石では宝石。 製品では限定生産品。)
日本人に多く見受けられるMentalität(志向、又は思考)の1つとして、(大多数の)他人と同じ物を持っている、ないしは同じ事をしていると安心する、と言うのがある。
しかしながら前述の美学上の理論、定義の上では、大多数の人々が持っている物や、行為は言い換えれば其れは平凡で有り触れていて価値が少ないと言う事になる。
更に手厳しい表現をするなら、其の様な価値の少ない物や行為で満足する人も同様に価値が少ないとも考えられるのである。

余も此の理論、定義にはKunstmaler(画家)になる事を決心した時から共感しているので、自分の作品は誰にも真似の出来ない、他の追随を許さない程の品質、内容でなければならないと心得て制作している。
そして平凡な画家では及ばない様な他の芸術分野、即ち文学、哲学、デザイン、建築、等の分野でも作品を制作して来ている。
 

余談として書くのだが、余は幼少の頃より他人(又は凡人)と同じ事をする(又は真似をする)事は凡下な行いであるとして軽蔑していたし、集団の中で群れる事も弱者の行いであるとして見下していた。
例えば余の少年時代の男子の髪型とは大抵、所謂「スポーツ刈り」か「毬栗(イガグリ)頭」であったが、余は1人だけかつてのイギリスのバンドグループ"Beatles"の様な髪形であった。(❖今では女の子の様な"Bob Hairstyle"。)

当時の男子が皆白いシャツを着ていても、余は1人だけ「服」であった。(❖此れは今でも変わらない。其れどころか下着までになっている。)
又、当時の男子が半ズボンだったのが、余は此れ又1人だけ長ズボンを履いていた。(❖ところが今では女物のShort Pantsを愛用している。)
其の他、高校生の頃から18KのNecklessとPendantを着用している。(❖今では自分の誕生石Saphirの付いたGold、White Gold、Platina製のPendantを12個も持っている。)

つい最近では新型コロナウィルスが大流行した2020年から現在に至るまで、(生理的に受け付けないので)マスクを全く着用していない。
其のくせ親しい者の家以外の場所に外出する時には、必ず手袋を着用して行く。(❖実は手足にのNail Colourをしているのを他人に見られたくないからである。)
此の様に一人だけ周囲と異なる髪形、服装をして、集団に属さない"Einzelgänger"(一匹狼)又は "Sonderling"(変わり者)であった。
にも拘らず余は家柄や財産、そして容姿の美しさに加えて、「お絵描き」と「暴力」だけは無類に長けていたので、苛めに遭う事は無かった。
普通の日本人が此れを読めば、「風変わりな人だ!」とか「社会に適応出来ないんじゃないの?」と思われるかも知れない。
其れでも余は自ら誇れる事として、少年時代から「自分を偽らない」、「望みと目的は必ず成し遂げる」、「弱い者を苛めない」、「意地汚い卑劣な事をしない」と言う項目(又は誓い)は今でも尚守り続けているのである。

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