”鉄人”・衣笠祥雄氏を偲んで | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

今日、突然かつて広島カープの「黄金期」(1975~1987年)に中心選手として大活躍し、数々の偉大な記録を日本プロ野球史に刻んだ「鉄人」こと衣笠祥雄氏が今月23日、上行結腸癌によって都内の病院でで享年71歳で御逝去されたと言うニュースを見て悲鳴を上げる程愕然とした!
1977年以来40年以上広島カープを応援し続け、衣笠さんの故郷・京都を愛して止まない余にとっては、落胆して泣ける程の悲報であった。
とにかく今は「カープファン」、そして大の「京都びいき」の一人として、心からの哀悼の意を表し、御冥福をお祈り申し上げるしかない。
4月上旬には、我が家が長年取引している広島県・廿日市市の業者「千茶荘」の部長さんと社員の方がわざわざ我が家に挨拶に来てくれたので、余が昭和52年以来のカープファンである事を話し、更に「黄金期」(昭和50年~61年)の主力選手23人から貰っているサインも見せてあ上げたりして、カープの話で盛り上がってから間も無くして、まさか此の様な悲報を聞くとは思ってもいなかった。
余のみならず、其の他多くの長年のカープファンにとっても誠に悲しき御別れではあるが、もう一つ驚いたのは衣笠さんの偉大な記録、業績と共に、素晴らしき御人柄を賞賛する人が何と大勢いるかと言う事である。

衣笠さんの大記録、業績、御人柄、そして余の個人的な思い出について書くのだが、衣笠さんが豪快なスイングでホームランを打つのが、余は爽快感があって大好きだった。

衣笠さんは昭和22年(1947)※1月18日、京都市東山区馬町に生まれられた。

(※余談になるが衣笠さんの誕生日は、かつて1701年の我が精神の故郷Königreich Preußen(プロイセン王国)及び1871年のDeutsches Kaiserreich(ドイツ帝国)両方の建国記念日なので余にとっては特別な意味のある日なのである。)
地元平安高校(野球部)を卒業されて、昭和1965年に広島カープに入団された。

そして現役時代23年間カープ一筋で活躍され、1976年に盗塁王、1984年年には打点王、MVPを獲得され、年間2桁本塁打は20回、其の内1974年、80、81,84年には30本以上を打たれた。

連続試合出場記録:2215、通算安打:2543本、通算塁打4476、通算本塁打:504本、通算打点:1448点、通算得点:1372点、通算二塁打:373,通算盗塁:266等、更に表彰歴は、1984年に最優秀選手、1975,80,84年にベストナイン、1980,84,86年にゴールデングラブ賞、1984年に正力松太郎賞と日本プロスポーツ大賞、1987年に殊勲賞、国民栄誉賞 、広島県民栄誉賞、京都市市民栄誉賞、1996年に野球殿堂競技者表彰、と言ったとてつもない記録を打ち立てた大選手であったが、当時のカープ選手達の話によると、「衣笠さんはプレーだけでなく、精神的な面でも選手達を支えてくれていた。」との事である。
以前あるプロ野球解説者とスポーツ担当記者が「衣笠さんは自分自身が「苦労人」だからこそ、他人の痛みや苦労が分かるのではなかろうか。」と書いていたのを覚えているのだが、心理学的に分析しても彼の慈悲深き御人柄はそこに起因していると思えるのである。

 


又、衣笠さんが執筆した本「限りなき挑戦」も読ませてもらったが、御自分の生い立ち、プロ野球選手としての体験談、思い出だけでなく、実に人生の為になる事も数多く書かれている。

本書の目次を紹介すると以下の通りである。
第一章「’84 ぼくには生涯最良の年だった」
第二章「プロ野球に入るまでのぼく」
第三章「ぼくはナマイキな”突っぱり”選手!
第四章「根本新監督にかける」
第五章「長いドラマが始まる」
第六章「広島初優勝、ぼくの感激」
第七章「”NO.2”の屈辱と悲哀に耐えた」
第八章「”鉄人野球”は前進あるのみだ!」
其の中でも余が特に印象深かったのが、「京都と言えば日本の大都市の中で、唯一空襲を受けなかった古都である。それだけに古い日本の文化、伝統、風俗と言った物を根強く残している。 そんな風光の美しい町、静かなたたずまいの中で(ぼくは)生を受けたのだから、人間として幸せと言うべきかもしれない。」と言うのと、「ぼくはプロ野球選手は、プレーヤーである前に、まず健全な人間であれ!と叫びたいのである。グラウンドでどんな大記録を作っても"人間失格"ではぼくは価値が無いと思う。」と言う言葉である。
現役時代から野生的で逞しい印象の強い御仁であったが、本来は京都御出身なのでいざ直接話をして見ると、其の容姿からは意外と思われる程言葉が優しいのである。

衣笠さんの現役時代にカープを4度のリーグ優勝、3度の「日本一」に導いて「黄金期」を築き上げた名監督・古葉竹識さんも自叙伝「耐えて勝つ」の中で、衣笠さんの事を「外見はエネルギッシュだが、神経は実に敏感だ。人の話に耳をかたむけては、議論するのも得意だ。初めての三塁も立派にこなしてくれた。あの守備には頭が下がる。よく通る声で、ファイトむき出し、ピッチャーを激励してくれた。」と書かれている。
山本浩二さんと共にカープの中軸打者として、そして「黄金期」の立役者として、当時のカープファンに沢山の喜びと感動を与えてくれた事に余は今でも感謝している!

広島カープが球団史上初優勝を成し遂げた1975年は、名将・古葉監督の指揮下で、山本浩二氏、衣笠祥雄氏、三村敏之氏、水谷実雄氏、道原博幸氏、等の主力選手に加えて、地元広島出身の大下剛史氏、外人選手としてG・ホプキンス氏、R・シェーンブラム氏、等を獲得して、一気に12球団一と言える程の強力な打線を組んだ。
而も其の選手達の多くが快足で、盗塁も多く期待出来ると云う強みもあった。
因みに「ヘル」とは今では広島カープの象徴となっているが、実は帽子やヘルメットが濃紺からになったのも1975年からで、此れは此の年から新監督に就任したルーツ氏が「此のチームには情熱が欠けている。情熱を表すをユニフォームに取り入れる事で選手を鼓舞出来る。」との提案によるものである。
衣笠さんの自伝や御話によると、当時の日本の野球ではい帽子など考えもよらなかったので、多くの選手達は此の事にかなりの違和感を抱いていたらしい。
ところが此の年からカープは目覚ましい快進撃を続け、広島県内では男性や子供達の間で此のカープの帽子が大流行し、所謂「ヘル旋風」とか「ヘルブーム」と形容された位であった。
其の後1977年には帽子のみならず、アンダーシャツやユニフォームのロゴや背番号も、従来の濃紺にの縁取りだったのが全てになり、今日に至っている。
「色彩学」に於いては人間に情熱や勇気や決断力を与える心理的効果があるとされているが、誠に此の事でも実証されていると言える。
実は余が此の年からカープファンになった一番の理由は、強くなった事よりもチームカラーが余の最愛の色「」に統一された事なのである。

余も名将・古葉監督指の揮下で1979年、1980年の2年連続リーグ優勝、日本一(2年連続で近鉄バッファローズが相手)、1984年のリーグ優勝、日本一(阪急ブレーブスに75年のお返し)、そして阿南監督の下で1986年の優勝は今でもはっきり覚えているし、当時「黄金時代」の主力選手、監督、コーチ、計23人(古葉竹識氏、山本浩二氏、衣笠祥雄氏、三村敏之氏、道原博幸氏、達川光男氏、高橋慶彦氏、佐野嘉幸氏、A・ギャレット氏、J・ライトル氏、江夏豊氏、大野豊氏、北別府学氏、山根和夫氏、松原明夫氏、阿南準郎氏、其の他)にサインを貰って今でも大事に保存しているし、当時の新聞の切り抜きも保存している位である。
当時のカープは実に完成度の高いチームであったので、毎年優勝争いをして当然と言える程であった。
1991年の優勝は当時余が海外(ドイツ)に住んでいた為、残念ながら直接見る事は出来なかった。
思い起こせば歴代のカープの優勝、及び日本一は決して余裕のある楽な物ではなかった。
例えば1979年の優勝は何と68勝で決めているし、1986年は75勝した巨人に対し73勝(引き分け11個)の勝率で上回っての優勝であった。
又、日本シリーズでも79年、80年、そして84年のいずれも4勝3敗で「日本一」になっている。

NHK製作の特集番組「広島復興を支えた市民たち、鯉昇れ、焦土の空へ!広島カープ創設の物語」及び、1975年(昭和50年)カープの初優勝の記録番組「ヘル旋風」を改めて視聴、録画して、当球団が戦後の広島県民にとって如何程心の支え、及び生き甲斐になっているか、そして衣笠さんが「カープと云う球団は広島県の文化であり、宝である。」と言われる事を改めて思い知らされた。
広島市内に於ける初優勝の祝典パレードには何と30万人を超えるファンが集まって喜びを分かち合っていたし(当寺の広島市の人口が約80万人)、其の中には球団創設(1950年1月15日)以来ずっとカープの優勝を待ち望んだものの、見ずして他界してしまった人達の遺族が、故人の遺影(写真)をパレード行進する選手たちに向けていた光景は誠に感極まる物があった。
これ等の球団創設以来の歴史を振り返って見ると、広島カープと云う球団が如何に地元広島県のファンに愛され、支えられて存続して来たかが程良く解るのである。

此の年の4月30日、NHK総合で「鉄人の闘志、永遠に~追悼、衣笠祥雄さん」と云う特別番組が放送されたので、録画しておいた。
此の中で1986年に放送された「17年間休まなかった男、衣笠祥雄の野球人生」が再放送されていたのが大変懐かしく有り難い思いであった。

此の番組でも紹介されている事だが、衣笠さんは強打者であった上に現役期間も23年と大変長かっただけに、デッドボールも通算161個とプロ野球で3番目に多い記録である。
其れでも衣笠さんは自分にボールを当てた相手ピッチャーに対して怒りをぶつけるどころか、「ほくは大丈夫だよ!」と余裕の態度で一塁へ向かって行く姿勢には、誠に「器の大きさ」を感じさせらるのである。
そして現役時代にはデッドボール以外の怪我や体調不良等もあったかもしれないが、衣笠さんは其れを物ともせず試合に出続け、日本プロ野球史上最高の連続試合出場記録:2215を成し遂げたのである。
正に並外れた強靭な肉体並びに不屈の精神力が共に揃っていなければ出来ない「偉業」であると言うしかない。
此の番組の最後を締め括るアナウンサーの森田美由紀さんの言葉「衣笠さんの人生は、困難を乗り越える事の尊さと喜びを、私達に教えてくれました。」が余には大変印象深く感じられた。
衣笠さんは此の世から来世へ旅立たれたが、来世からも広島カープやカープファンを見守って下さる事、そして彼の野球選手としての偉大な記録、業績、そして強さと慈悲深さを兼ね揃えた素晴らしき御人柄は、此れからも後の世まで語り継がれ讃えられると信じて止まない!


6月の追伸:
其の後、前記の「千茶荘」のオペレーターの方が電話して来てくれた時にもカープの話が出たのであるが、此の方々から話を聞いても、やはり広島県民にとっても日本の球団史に不滅の大記録を残すカープの英雄「鉄人」衣笠さんの早過ぎた御他界は大変残念な事であるし、同時に昭和59年以来の「日本一」を達成して欲しいと云う願望が強い様である。
6月28日は広島市内でマツダスタジアムでの試合に先立って、衣笠さんの「お別れ会」が催され、約3000人が列席したとの事である。
ここでも衣笠さんの偉大な記録、業績と共に、素晴らしき御人柄を賞賛する人が何と大勢いるかと言う事が改めて確認出来たのである。

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