~*源義仲公の肖像画の制作、及び我がNarzissmus*~ | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

 

                奧山実秋 作『旭将軍・源義仲公』 

4月12日に前作『伝教大師・最澄上人肖像』を思いの外早く完成させて、更に引き続き同月14日より「朝日将軍」こと源義仲公の肖像画の制作に取り掛かっている。
我が家の宗教「天台宗」の開祖様の肖像を描いたのだから、歴史的な順序からしても我が奥山家の大昔の祖先と言い伝えられて来た源義仲公の雄姿を描くのが当然の経緯となった次第である。
前回も書いた様に日本画の肖像では大抵の場合、人物を人形的な表現で描写する事、そして背景を描かず無地のまま残す事が伝統的通例になっている様だが、此度の肖像画も背景を写実的且つ細密に描く、余の独自の様式を採る事にしている。
其の理由は最澄大師の肖像画と同様に出来るだけPsychologie(心理学)及びPhysiognomik(人相学)の知識を元に推理しながら、現実味のある肖像画を描き上げたいからである。
此の作品の制作進行の上で先ず背景から描く方が能率良く合理的と判断したので、背景には義仲公の地元・木曽福島から見た秋の紅葉と雪化粧をした御嶽山の風景を採用している。
何故なら無地ないしは漠然とした背景を描くより、彼の地元の山岳風景を背景として描く方が彼のEigenschaft(特性、主体性)、Identität(独自性)を明確に表現出来るからである。

同月24日の時点で背景が全て描き終わり、翌日より義仲公の姿を描きに掛かっている。
彼の出で立ちは有名な『平家物語』の巻第九「木曽の最期の事」の語り文に「木曽殿、其の日の装束(しょうぞく)には赤地の錦の直垂(ひたたれ)()に、唐綾縅(からあやおどし)の鎧着て、厳物(いかもの)造りの太刀をはき、鍬形打ったる兜の緒を締め、二十四さいたる石打の矢の、其の日の軍に射て少々残ったるを頭高に負いなし、滋藤(しげどう)の弓の真ん中取って、聞こゆる木曽の鬼蘆毛(おにあしげ)と云う馬に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍を置いて乗ったりける・・・」とある。
勿論此の『平家物語』も源平合戦(1180~85年)の後の鎌倉時代に作成された(文学的性質の強い)軍記物語なので、これ等の記述にどこまで信憑性があるのか確証こそ無いのだが、余は此の記述を参考に自らデザインして描く事にした。
更に義仲公の着用している直垂、甲冑、武具は出来るだけ当時の様式を忠実に再現する為、複数の甲冑、武具の専門書や写真資料を参考に、正確な時代考証をしながら、鎧兜の威糸、直垂の装飾模様、等に至るまで細部まで正確に描いて行っている。
改めて日本の鎧兜を観察して、其の芸術性と技術の高さには誠に感心させられるのである。
我ながら此の義仲公の装束と背景の秋の御嶽山岳風景は見事に色が調和していると思えるのである。


そして肝心の義仲公の御顔は現存する※肖像画を参照した上で、ある程度余の顔に似せて描く事にした。
(※本人を直に見て描いた「寿画」ではないので、同様に信憑性は保証出来ない。)
其の理由は単なる「憧れ」等と言う自分本位ではなく、彼の唯一生き残った身内である妹の『宮菊姫』の流れを我が奥山家が汲んでいる事をVorbedingung(前提)としているからなのである。
我が母上は此の肖像画の制作過程を何度も見ては其の都度「上手い事描けてるじゃないの!」と、いつも以上に褒めてくれた。(当肖像画は5月5日に完成した。)
やはり我が家の大昔の御先祖様であると感じる者があるからなのだろうか?

扨、義仲公は戦の折、自ら先頭に立ち軍を率いたらしいので、重く動きにくかった「大鎧」ではなく、より動き易かった「胴丸」との折衷鎧を着ておられたと余は推測するので、「胴丸鎧」を着た姿で描いている。
「余も此の様な装束を着れたらどんなに幸せであろう。」とつくづく思えるのであるが、「胴丸鎧」「大鎧」の完全レプリカは余りに高価な故、とてもではないが手は出せぬから、此ればかりは夢で終わるであろう。
とは言え源平合戦があった平安時代後期の代表的な甲冑「大鎧」の代用品として、余は個人の「道楽趣味」で我が精神の故郷Königreich Preußen(プロイセン王国)の”Friderizianische Zeit” 即ち18世紀、Friedrich大王陛下時代のDragoner(龍騎兵)将校の軍服の完全レプリカを所有している。

此れはBrandenburg州の都Potsdam にある映画会社DEFA(Deutsches Film Aktien Gesellschaft)に当市創設1000年記念の年1993年の折、当時トップデザイナーであったCh.Dorstさんに頼んで、余の体の寸法を測定した上で特別に仕立てて貰った貴重な品である。
余はどうしようもない”Narzisst”(自惚れ屋)で自分の顔や長年ウェイトトレーニングで鍛え上げた体に毎日見惚れるに飽き足らず、此のPreußenの軍服を着た自分を見ても同様なのである。
但し此の軍服は余にとっては往時の武士の鎧の様な存在なので、滅多に着用せず普段は自分のAtelier(仕事部屋)のTorso(頭、手、足を省略した胴体だけの人形)に着せて保管している。
読者も「本当にどうしようもない自惚れ屋だ!」と思われる事であろう。
言い訳をする様だが、本来「芸術家」とは天性の才能のみならず、多少のNarzissmus(自己愛、自惚れ)が無ければ続けられない仕事なのである。
実に何人もの心理学者が「Genie(天才)の人格には必ずと言って良い程Narzissmus(自己愛、自惚れ)がある。」と指摘、提唱している位である。
しかし、場合によっては此れがNarssistic Personality Disorder (自己愛性人格障害)と見なされる事すらあるので、気を付けなければならない。

    作者が年賀状に描いた『旭将軍・源義仲公』 

 

清和源氏の一族に纏わる話になるのだが、義仲公の従弟に当たる源義経は今日では物語のみならず、映画、ドラマでも女性的な優美さの漂う美男子として描かれているが、実際の義経は反っ歯の小男だった(兄の頼朝が供述している)のに対し、義仲公こそ実に見目麗しき美男の豪傑であったのである。
義仲公、そして京都・神護寺に所蔵される国宝として有名な頼朝の肖像画、即ち源氏の代表者の顔立ちを観察して見ると、其の共通点、類似性として眉毛が所謂「一文字眉」で、目は刃物を思わせる様な鋭く切れ長で、鼻は高く真っ直ぐ筋が通り、唇も凛々しく引き締まっている、と云う正に典型的な武士の人相なのである。
余の顔にもこれ等の源氏武者の典型的な人相が見て取れると、誰もが言ってくれるのだが、如何せん余の顔は日本人離れして彫りが深いが故、あたかもゲルマン民族の一種Goten(ゴート族)の女性の様な雰囲気があるのである。
実に余はドイツに足掛け13年(1989~2003年)住んでいた頃、同国の都市Düsseldorfの美術館内でも、フランスの首都Parisの路上でも、オランダの首都Amsterdam市庁舎前の市場でも、各現地人からフランス人と間違えられた事がある位である。
そして自分自身で我が顔を旧ドイツ領のOstpreußen地方やフランス北部地方の様なGoten(ゴート族)を祖先とする住人の顔と比べて見て、「本当によく似ておるわ!此れでは間違えられても不思議は無い。」と思えるのである。
(※此れで髪の毛や目や肌の色がもう少し薄ければ、余の顔は更に”gotisch” ゴート族らしく見えるであろう。)
余は本来純粋な日本人なのに何故Goten(ゴート族)の様な雰囲気があるのかと言うと、やはり一番の理由は我が両親共に日本人離れした彫の深い顔立ちが遺伝している事であろう。
特に我が母上はあのドイツの往年の名女優Marlene Dietrich(1901~1992年)に似ていると思えるのである。 
此れは決して単なる「身内贔屓」ではなく、余の親しい他の誰にも2人の顔を比べてもらっても、全員其れを(御世辞抜きで)認めてくれるのである。
其の上、2人の誕生日も12月であるし、身長もほぼ同じ163cmで、若き時だけでなく、晩年の姿も顔のみならず、体形も崩れず、姿勢も良い事も共通しているのである!)

 

以前書いた随筆「我がゆかりの天台寺院、成願寺、義仲寺の歴史と、源義仲公の伝記」に書いた内容を繰り返す事になるのだが、源義仲公の生涯については次の様に物語られる。


1154年に帯刀先生(たてわきせんじょう)源義賢公の嫡男として生まれ、幼名を駒王丸と云った。
ところが翌年8月には父・義賢公が甥の「悪源太」こと義平の手勢に館を襲撃され、殺害されてしまった。
此れ故、彼の妻(側室)は我が子を連れて、彼女の故郷・信濃国・木曽宮ノ越の豪族、中原兼遠を頼って行った。
中原兼遠の一族の元で育った駒王丸は1166年に元服し『源義仲』と名乗った。
以仁王の命を受けて1180年9月7日に信濃国に於いて挙兵し、市原、小見、合田の合戦にて平家方の武将・笠原頼直を破り、翌年6月には横田河原(川中島付近)の合戦にて僅か千人以下程の手勢で平家方の武将・城助茂の軍約2万を「赤旗の偽計」にて打ち破り、越後、北陸を制した。
同年9月には平通盛の軍を越前国・水津にて破り、飛騨、美濃をも制した。
此れに対し1183年4月に平家の「北陸派遣軍」10万人が、源氏との決戦の為、京都を出発した。

此の大軍勢の先遣部隊を義仲公は5月9日に越中国・般若野の前哨戦にて破り、11日に野営していた平家軍大手7万を倶利伽羅峠で夜襲攻撃により谷底へ突き落して其の殆どを全滅させた。(此の時有名な「火牛の計」が用いられた?)


更に19日に加賀国・志雄坂、22日に安宅、そして23日には篠原の各合戦でも平家軍搦手3万を次々と打ち破った。
義仲公の軍勢(約数千)に壊滅的敗北を喫した平家は最早反撃どころか防戦さえ覚束無くなり、7月27日には京の都を雪崩が打つが如く、西国へと落ちて行った。
翌28日には早、義仲公の軍勢(約5千に拡大)が入京を果たしたのであった。


しかし生憎当時の京都は昨年以来深刻な飢饉が続いており、彼の軍勢の食料を現地調達する当ては大きく外れてしまった。
其の上、義仲公の軍勢の内訳は地元信濃、美濃以外の兵士達は皆、利害関係だけで着き従って来た所謂「寄せ集め軍団」であったため、彼の命令に従わず洛中で略奪、狼藉を働く者共が続出した。
更に義仲公自身が木曽の山奥育ちであるが故、都の礼儀作法に無頓着なまま、田舎言葉丸出しでに公卿に諧謔(かいぎゃく)を以って接した為、「山出しの田舎侍」として彼等から嘲笑、讒言

(ざんげん)される羽目になった。 

此れに依って彼の評判は一気に悪化し、すっかり都人達を幻滅させる事になってしまった。
其れから間も無く後白河法王は彼に左馬守、越後守、伊予守、そして『朝日将軍』の称号まで与えるが、引き続き西国に落ち延びた平家を追討する事を命じた。
大願の都入りを果たした義仲公として見れば、このまま都に留まりたい処であった。
何故なら自分が留守の間に(策略に長けた)後白河法王が従兄の源頼朝と示し合わせて、京に招き入れる恐れがあったからである。
「糞坊主め!」と内心思ったかも知れないが、勅令には逆らえず義仲公は家臣の樋口兼光を留守居役として残し、同年9月20日、渋々と山陽道へと勢いを盛り返しつつある平家を討ちに出陣して行った。
10月には備前国・福隆寺畷(なわて)、笹ヶ瀬川迫りにて平家を破り、武将瀬尾兼泰を討ち取るが、一方で備中国・水島の合戦にて船戦に慣れない義仲公の別動隊は突然の日食の影響もあって平家軍に初めて大敗を喫した。
更に其の直後、後白河法王が源頼朝に東国行政権を認定した事を知り、義仲公は慌てて京都に戻るのだが、寄せ集めの兵士共は形成不利と見るや、そそくさと逃げ散ってしまっていた。
其の上、法王から疎んじられ、遂には彼が頼朝に義仲を討てとの院宣を出した事に激怒し、11月19日に法住寺殿(仮御所)を襲撃し焼き払い、後白河法王を幽閉した。
翌1184年1月11日には自ら「征夷大将軍」となったのも束の間、頼朝の2人の弟、範頼、義経の率いる関東軍(7万)が押し寄せ1月20日に宇治川の守りが破られ、最も頼りとなる今井兼平、巴御前等の僅かな手勢で近江国まで脱出したが、武運尽きて遂には21日に粟津の松原にて無念の戦死を遂げられたのであった。(享年31歳)



余は幼少の頃より親や祖父母や又は親戚より、我が家も親戚も含め『清和源氏』の流れを汲む家柄であると教えられて育った。
あくまで先祖代々の言い伝えであって、物的証拠等無いのだが、源義仲公の妹であり、彼の唯一生き残った身内である『宮菊姫』が住んだ美濃国・遠山荘に、我が家の祖先が同様に起源を有する事、我が家の姓・奥山が源氏系の苗字である事、我が家の家紋『九枚笹』が『清和源氏』の代表紋である事、我が家の宗教が「清和源氏」以来の天台宗である事、そして縁組をしている家が皆大名又は上級武士の家柄である事からして、まんざら出鱈目でもないらしい。
現代では「判官贔屓」(ほうがんびいき)の言葉の如く、義経ばかりが美男子だの英雄だのと過大評価ないし理想化され、頼朝が「鎌倉幕府」を開設した天下人として歴史の中で重要視されている傾向が著しい。
其の反面、義仲公の存在も功績も過小評価され、此の2人の陰に隠れてしまい、場合によっては「奇人、変人、悪役」扱いされている現状であるのは余としては大変腹立たしい!
余はブログでも、又ドイツの友人達にも木曽殿の事を"Herzog Yoshinaka von Minamoto"と訳し、勿論英雄として紹介している。
何故なら少しでも義仲公の評価を上げたいからである。
日本では前記の様な解釈、風潮が圧倒的に強い中、松尾芭蕉翁、芥川龍之介氏、海音寺潮五郎氏、下出積興氏、畠山次郎氏、丸山政吉氏、小川由秋氏、等の一部の歴史家、文学作家の御仁達が義仲公の事を正しく評価して書き記してくれている事は何よりも有難き救いである!
本来、義仲公の生涯は前記の通り歴史に翻弄され、悲劇的な運命に殉じた物であった。
過去の歴史に「仮定」をしても虚しいのだが、もし義仲公が「源平合戦」に参加せず、木曽の山奥で平穏無事に生活していたら、もっと長生き出来たかもしれないと思えるのである。
しかし、平家討伐は皇族の以仁王の呼びかけで、叔父の源行家からの要請もあって、同族の源氏として、そして父・義賢公の敵・源義朝の嫡男・頼朝と対立する立場から、義理人情に篤い義仲公としてはとても断わり切れなかったのであろう。
余が此度描いた彼の肖像画は悲劇的な運命を全く感じさせない、『朝日将軍』の称号に相応しき華美で威風堂々とした姿で表れている。
何故なら彼本来の「天真爛漫」な性格で、「溢れる希望」、「高き志」、そして「不屈の信念」を持った若き英雄として描いて差し上げる事が、賞賛にも供養にもなると信じるからである。

最後にもう一つ書いて置くが、余はNarzisstらしく自分の血統、家柄には誇りと自覚を持っているが、其れをひけらかして自我拡大や営利目的の為に利用する気は毛頭無い。
何故なら余は自力で芸術家としての業績、名声、地位、人気、等をドイツと日本で築き上げて来たし、(当ブログのプロフィール参照)更に幸いな事に我が家の財産の御蔭で生活には全く不自由が無いからである。

世の中には自分はある名門の家柄の出であるとか、ある有名人、又は大富豪のの親類だ等と事実無根の作り話をして、他人を騙して金銭を奪い取ろうとする見下げ果てた輩もいる。
極端な例では、ロシア帝国Romanov皇室の生き残りだと言った(複数の)女とか、スペインの大画家S.Daliの娘だとか言った女がいたが、いずれも遺産目当ての巧妙な作り話で結局は失敗している。
此の様に金銭、財産が絡んだ血統、家柄の自慢話は必ずと言って良い程虚構である。
真の自分の血統、家柄に誇りと自覚を持っている者なら、此の様な意地汚き振る舞いは断じてしない筈である。
第二次世界大戦後以来、貴族政治、階級制度の撤廃された現代社会では、一般庶民から見れば高貴な血統、名門の家柄、等は単なる自惚れ又は自己満足かも知れない。
しかし余にとってはラテン語の諺 ”NOBLES OBRIGE”(貴族は義務付けられる)とあるが如く、自分の血統、家柄とは、何よりも先ず自分が生きて行く上で先祖や世の中に対して恥じる事の無い様、正しいと信じる道を邁進する為の、言わば「精神の基盤」なのである。

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