「人生」と言うDramaの中で主人公は自分自身 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

過去に世界の何人もの有名な哲学者、思想家、文学作家、映画監督、実業家、其の他の芸術家達が今回の題目と似た様な事を述べられている。
例:イギリスの劇作家、詩人のW.Shakespeare(1564~1616)、オーストリアの劇作家のFranz Grillparzer(1791~1872)、アメリカの映画監督のAlfred.J.Hitchcock(1899~1980)、日本の実業家の松下幸之助(1894~1989)、科学者の江崎玲於奈(1925~)其の他。

余は本来、芸術家であって芸能界の人間ではないので、

Dramatik(劇作法)やDramaturgie(演劇論)の専門知識は無いので詳しい事は述べられない。
しかしながらDrama(演劇)に於いて主人公を演じる為には、ただ容姿が美しいとか、強烈な個性があるとか、演技力がずば抜けているだけでなく、更には面接や試験や厳しい審査にも合格しなければならない事位は存じている。
場合によっては芸能界に大きな伝手や人脈を持っていなければならない事もある。
此の様に芸能界ではDrama(演劇)又は映画で主人公を演じられる人になると、役者の中でも相当制限されて来る、所謂「狭き門」なのである。
そこまで辿り着くのは至難の業と言っても良いのではなかろうか。
しかし本来人間は誰でも「此の世」に生を受けた時から「自分の人生」に於いては自分が主人公なのである!
其の為には、前記の様な美しい容姿も、才能も、試験も、審査も一切必要無いのである。
そうではなくて、ただ「我が人生では自分自身が主人公なのだ!」と言う意志や自覚があれば其れで良いのである。
又、「自分の人生」と言うDramaが何も魅力的とか、華やかであるとか、劇的であるとか、非凡であるとか、そんな事は一切必要無いのである。
たとえ平凡でも、地味でも、多くの人々に注目、評価されなくとも、あくまで「自分の人生」では自らが主人公なのである!

だからこそ此の世で一度しかない唯一の「自分の人生」と言うDramaを一生懸命演じ切らなければならないのである!
にも拘らず嘆かわしい事に世の中には、他人の意見に振り回されたり、他人から支配されるだけで、自分の意志や考えすら持てない者もいる。
又、有名な芸能人やプロスポーツ選手、等に現(うつつ)を抜かして夢中になり、自分を全く見つめられていない者もいる。
こう言った者共は「自分の人生」に於いて主人公に成れていないのである。
其れどころか他人に人生を振り回されているだけの、ちんけな脇役に成り下がっているのである。
(見下した言い方になるが)「自分の人生」の中で主人公にもなれない人間等、奴隷にも劣る惨めな者の様に思えるのである。

18世紀頃までのヨーロッパのLiteratur(文学)やDrama(演劇)ないしOpera(歌劇)では、主人公と言えば、王侯貴族か英雄、又は其の他の「特権階級」に属する人達ばかりであった。
中世(10世紀~14世紀)から18世紀までは、王侯貴族や僧侶、等の「支配階級」が政治、経済、文化、全てに於いて絶対的権力を持っていたのであるから無理もない。
余が個人的に読んで来た実例を挙げると、以下の通りである。

William Shakespeare (1564~1616)

(シェイクスピア):
Richard.Ⅲ,  The Taming of Shrew,  A Midsummer Night's Dream,  Marchant of Venice,  As You kike it,  Henry.Ⅳ and Ⅴ,  Romeo and Juliet,  King Lear,  Othello,  Macbeth, 等

Jochann Wolfgang von Goethe (1749~1832)

(ゲーテ):
Die natürliche Tochter,  Egmont,  Faust,  Götz von Berlichingen,  Hermann und Dorothea,  Iphgenie auf Tauris,  Torquato Tasso,  等

Friedrich Schiller (1759~1805)(シラー):
Die Räuber,  Don Carlos,  Die Jungfrau von Orleans,  Kavale und Liebe,  Maria Stuart,  Tourandot,  Wallenstein,  Die Braut von Messia,  Demetrius,  等

Heinrich von Kleist (1777~1811)(クライスト):
Die Hermannschlacht,  Prinz Friedrich von Homburg,  Der zerbrochene Krug,  Das Käthchen von Heilbronn,  Die Famile Schroffenstein,  Penthesilea, 等

 

これ等の作品は作者の時代に本として出版、劇場で上演されただけでなく、後世には映画、ドラマ化されている物もある位である。
しかし時代は変わって最近のドラマの中には、一見平凡な職業の人、例:(元・刑事の)タクシードライバー、(元・判事の)清掃員、探偵、又は税務調査官、保険調査員、旅行記者、観光旅行ガイド、万引きGメン等が主人公を務めて人気を博している物がある位である。

 

余は歴史に名と作品を残している「偉人」「英雄」「天才」「人傑」と称される人達のBiographie(伝記)やKarriere(経歴)を数多く読んで来た。
其の中でも余と同じ「芸術家」のBiographie(伝記)やKarriere(経歴)は特に興味深き物であった。
そして彼等にはある共通点が有る事に気付いたのである。
其れは彼らの家柄や出生が大抵は「上流階級」ないしは「富裕層」に属している事、そうでなければこれ等の社会階層に属する人が、生活を保障してくれるPatron(経済的支援者)になってくれていた事なのである。(希に例外もあるが・・・・・)

これ等いずれかの条件を満たしていなければ、たとえ優れた才能や希望や思想を持ち合わせていても、「芸術家」として立身出世する事は到底不可能だったのである。

同様に各芸術家の実家又は親の職業の例を挙げると以下の通りである。


貴族Jochann Wolfgang v. Goethe(1749~1832 ドイツの文学作家)、Heinrich v. Kleist(1777~1811ドイツの文学作家・軍人)、George Gordon Byron(1788~1824 イギリスの詩人)、Pierre Puvis de Chavannes( 1824~1898 フランスの画家)、 Henri de Toulouse-Lautrec (1864~1901 フランスの画家)
大地主Gustave Courbet(1819~1877 フランスの画家)
銀行家Felix Mendelssohn(1809~1847 ドイツの作曲家)、Edgar Degas(1834~1917 フランスの画家)、Paul Cézanne(1834~1906 フランスの画家)
政治家(議員):Eugène Delacroix(1798~1863 フランスの画家)
実業家(自営業): Molière(Jean-Baptiste Poquelin 1622~73 フランスの劇作家)

Théodore Rousseau(1812~1868 フランスの画家)、Claude Monet(1840~1926 フランスの画家) 
医者Friedrich Schiller(1759~1805 ドイツの文学作家)  、Hector Berlioz(1803~1869 フランスの作曲家)、  Herbert v.Karajan(1908~1989 オーストリアの指揮者)
司法者(弁護士、裁判官): Franz Grillparzer(1791~1872 オーストリアの劇作家)、Edward Manet(1832~1883 フランスの画家)、Paul Delvaux (1897~1994 ベルギーの画家)

:同ブログに登場する人物、:登場していない人物)

Pierre Puvis de Chavannes :  Patriotism (1893)

因みに上記のフランスの画家Pierre Puvis de Chavannesの作品は岡山県・倉敷市の大原美術館が3点を所蔵しているし、余は

2014年にも島根県立美術館で彼の作品展を観ている。

Paul Delvaux :  Crysis  (1967)
更にベルギーの画家Paul Delvaux の作品は兵庫県・姫路市の姫路市立美術館に多数所蔵されている。
余はこれ等以外にも、1990年に同美術館で彼の作品展をを観ている。


イギリスの男爵で詩人のLord George Gordon Byron(バイロン)は>True is stranger than Fiction.<(事実は作り話(小説)よりも奇也。)と言う名言を残してる様に、現実とは時として(作り話の)Dramaよりも思いがけない事や、奇想天外な事や、摩訶不思議な事が起きているのである。
人類の歴史を振り返って読んで見ても、何と数多くの奇跡的な事が起きているかを教えられるのである。
正にイタリア映画”Nuovo Cinema Paradiso”(1988年)の中の「幾つもの奇跡によって歴史は作られている。」と言う台詞其の物である。
個人的な事を書くと、幸運な事に余自身も自らの人生に於いて何度もmirakulöse「奇跡的」と言える程の機会や成功と勝利を獲得して来た。(同ブログの「プロフィール」参照 

其れを今振り返って見ると、此れだけの事を成し遂げられた一番の理由は、自分の能力や可能性を信じ抜いて、最後まで諦めなかった事である。

かつてのフランス王国の"Le Roi Soleil" (太陽王)と称された Louis ⅩⅣ世 (1638~1715)は>L'État, c'est moi .<(国家は余に有り)と仰せられているし、大人気を博したアメリカの戦争アクション映画"First Blood"(ランボー)の中で S.Stalloneが演じる主人公の歴戦の勇士 John Ramboは「ジャングルの中では俺が掟だ。」と言う台詞を発している位である。
そして余も同様に「己の芸術の世界では、余自らが『万物の創造主』、即ち『神』である。」と思う位の意気込みで制作しているのである。(いつもの様に自惚れる様だが・・・・・)
何故なら芸術や芸能の世界では、自分に「劣等感」や「疑い」を持っていては続けられないからである。

(因みにLouis ⅩⅣ世陛下と余は、誕生日が同じで、器量美しく、黒髪が女性より多く、誇り高く、そしてこよなく「美」と「芸術」を愛好している事が共通点である。)
 

此れは日本でも欧米各国でもよくある事なのだが、学校で先生が生徒達に「皆さんは将来、大人になったら何に成りたいですか?」と言う質問をすると、生徒達が各自それぞれ自分の将来の希望について答えるのである。
とは言え成人して「少年時代」の希望を確実に叶えられる人は極限られている事も事実である。
更に、今度は報道機関のキャスターが(子供の頃の希望を実現している)人気の芸能人や主力のプロスポーツ選手、等に対し「もし貴方が今の仕事に就けていなかったら、どうしていましたか?」と尋ねた処、彼等の答えを聞いてみると、以外にも平凡な内容なのである。
例: 実家の業務を継ぐ、技術者、サービス業、サラリーマン、然もなくばどうなっていたか分からない、等
これ等の答えから考察してみると、彼等は自分の子供の頃からの希望以外、生きる道(可能性)は無いと思っていたからこそ、自分の希望に向かって一心不乱に学習と研究と努力を続けられたのではないかと推測されるのである。
此の質問は印象深かったので、余も此れに関し自問自答してみた。

前記の歴史に名前と作品を残す「巨匠」の方々と同様に余も(清和源氏の流れを汲む)士族の家系で、今でも尚「富裕層」の家に生まれた事が、自分の大きな幸福や成功の根本になっていると確信している。
先ず親父殿が一種の「英才教育」をしてくれたのが凡人とは異なるMentalität(感受性、指向性、思考回路)を育成し、そして母上が我がPatron(経済的支援者)でいてくれた事によって、「芸術家」等と言う営利を度外視して自分の理想を実現する仕事が出来ているのである!
此の事に関しては余は常に自分の両親のみならず先祖にも心よりの感謝をしている次第である。

 

(馬鹿げた想像なのだが、)もし余が氏も素性も低い財産も無い貧しい家に生まれ、天賦の才能も無く芸大に進めず、芸術家にも成り損なっていたらどうなっていただろう? と考えてみた。
其の様に仮定すると、余は他人に服従する事やこき使われる事が大嫌いであるし、御世辞や媚びへつらいも苦手であるし、「同調圧力」に対しては暴力を行使してでも撃退したい様な性分なので、社会でサラリーマンや労働者に等、とてもではないが成れない(成る気も毛頭無い)のである。
詰まり余は彫の深い美人顔と鍛え上げた超筋肉質の肉体だけが取り柄の男と言う事になる。

(同ブログの記事「久方振りにウェイトトレーニングに復帰した事、及び我が容姿について」参照)

余はウェイトトレーニング、格闘技等の練習を週5日のペースで通算38年続けて来たので体力(PowerとSpeed)には絶対的な自信こそあるが、プロスポーツ選手に成る程の意気込みや根性は無い。
さすれば残された可能性と言ったら、芸術を目指した関係でプロの芸術家の為のヌードモデルにでも成るか、芸能界に進もうにも余は「演技力」も「歌唱力」も全く無いし、其れでいて「爆乳美人」が大好きなので、挙句の果てにはPorno男優にでも成るしか道が無かったかも知れない・・・・・

此れではたとえ欲望を満たせても、惨めで見下げ果てた人生になっていただろうと思われるのである。
此の様に想像してみても、余は氏・素性も財産にも恵まれた家に生まれられた事から、自分の両親のみならず先祖にも心よりの感謝が出来るのである。
(最後になって「士族出身者」にあるまじき下卑た事を書く様だが、其れで居てしょっちゅう「爆乳美人」と交われるPorno男優の仕事を羨ましく思う今日此の頃である。 
「無い物ねだり」をしてもしょうがないのだが・・・・・)

 

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