第二次世界大戦(1939~45)とロシア・ウクライナ戦争(2022)との比較 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

かつてのオーストリア帝国は君主Habsburg家の統治の下、17世紀にトルコ帝国のヨーロッパ侵略を撃退して以来ハンガリー、クロアチア、トランシルバニア(ルーマニア)、セルビア、ボスニア、等に領土を次々と拡大し、ヨーロッパ屈指の大帝国として繁栄していた。

しかし第一次世界大戦(1914~18年)に敗れた結果、オーストリア=ハンガリー帝国(1867年以来)は解体され、皇室Habsburg家の支配した各地方は独立し、かくしてオーストリアは内陸の小国にまで縮小し、かつての勢力を失ってしまった。

1933年1月30日以来、ドイツで独裁政権を掌握したNazis党首で国家総統のAdolf Hitlerは元々、ドイツ国境のオーストリアの町Braunauの出身である事から、大多数のオーストリア国民は同じゲルマン民族でドイツ語を話し、そして前の世界大戦で同盟国であったドイツに吸収合併される事を望んだ。

此れを好機としたHitler総統は1938年3月12日にドイツ軍を率いてオーストリアに入り国民からの熱狂的な歓迎を受け、翌日同国のドイツへの併合を宣言した。

 

チェコスロヴァキアは第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国より独立した工業国家であった。

其の中のドイツとオーストリアと国境を接するSudetenland(地方)では、約332万人のドイツ系住民がチェコ人やスロヴァキア人と比べて不利な雇用条件による生活を余儀無くされていた事に不満を抱いていた。

此れを理由にHitler総統はSudetenland(地方)に居住するドイツ系住民が迫害を受けているのを保護する為に、当地方のドイツへの割譲をチェコスロヴァキア政府に要求した。

チェコスロヴァキアの後ろ盾としてイギリスのChamberlain首相はHitler総統にドイツに招かれ、1938年9月30日Münchenに於いて会談し、Hitler総統に此れ以上の領土要求はしない事を約束にSudetenlandのドイツへの割譲を認める事に依って協定を締結させた。

München協定に依って平和が保証されたとヨーロッパ全国が安堵したにも拘らず、其の1年後には平和はあえなく破られてしまった。

1939年9月1日、Hitler総統は「※国境のポーランド兵がドイツ国土に対し銃撃を加えて来た。我が軍は爆撃を以て報復する。」と国民に説明して、ドイツ軍をポーランドに進行させた。

(※実際にはポーランドからのドイツへの銃撃は無かった。)   

此れに対し2日後イギリス、フランス両国がドイツに対し「最終通告」をしたが、ドイツ軍は此れを無視して攻撃を続行した。

そして英仏両国がドイツに対し宣戦布告した事より第二次世界大戦が始まったのである。

とは言え英仏両国は前の大戦の傷がまだ癒え切っていない事と、2度目の世界大戦を出来るだけ回避したい意図から、ポーランドを援助する為に西側からドイツを攻撃する事は無かった。

ドイツの2個航空軍(約1600機)による空からの奇襲攻撃を受けた(旧式な)ポーランド空軍は2日間で全滅し、制空権はドイツ軍に完全に掌握された。

又、地上戦に於いてもポーランド軍の主力は未だに歩兵と騎兵と旧式な砲兵であったので、新型の戦車、(3466両)、装甲車(718両)を装備したドイツ軍に対しては為す術も無かった。

更に同月17日には此のポーランドの危機に付け込み、ソヴィエト軍が東からポーランドに侵入した。

同月27日にはドイツ軍の新兵器と圧倒的な兵力の前に首都Warszawaが陥落、そしてポーランド軍もドイツに対し全面降伏した。

翌日ポーランドはドイツとソヴィエトによって2分割されて占領されるのである。

 

翌1940年4月9日にドイツ軍はノルウェーの港に駐屯しているイギリス海軍を撃退する戦略から、デンマークとノルウェーを攻撃した。

ノルウェーの細長く山の多い、半分が海に面する地理的事情から、ドイツ軍は大軍を動員せず、8700人の陸上部隊と5500人の空挺部隊で攻略に掛かった。

圧倒的なドイツ軍に対し勝ち目は無いと見たデンマークは戦わずして降伏した。                                      ノルウェーもイギリスからの協力を受けたものの、デンマーク及びスウェーデン(中立)を通過して侵攻して来るドイツ軍に依って制圧され、同月30日に降伏した。

 

更に同年5月10日、ドイツ軍は西部戦線に於いて総攻撃、所謂 ”Britzkrieg”(電撃戦)を開始、中立国であるオランダ、ベルギー、ルクセンブルクにも侵攻した。

当時のドイツ軍の総兵力は軽戦車2770台、中戦車670台、自走砲168台、航空機 約2800機。

此の時のドイツ軍は3つのHeersgruppe A,B,C(軍団)に分けられ、Heersgruppe Bがベルギー、オランダ方面の攻撃を担当し、フランスのMaginot要塞の攻略をHeersgruppe Cが担当し、Heersgruppe Aは両軍団の間の戦線を担当した。

兵力の欠乏の上、不意を突かれたオランダは早くも開戦5日目の15日に降伏した。

此の西部戦線に於いてドイツ軍最大の相手であるフランスの一番の頼みはMaginot要塞である。

フランスは前の大戦でドイツ軍に攻め込まれ自国が主戦場になった教訓から、此の要塞線を1930年から7年をかけて、スイス国境からベルギー国境にまで至る全長140kmにまで及ぶ大規模な軍事施設として構築した。

ドイツ側からは正に難攻不落と思われたが、ベルギーとの国境に広がるArdenneの森にまでは要塞が及んでいなった。

此の森をドイツ軍は難無く突破し、5月14日Maginot要塞の防備の手薄な背後に回って攻撃し、半日で此れを突破したのである。

Maginot要塞に依存し過ぎていたフランス軍は総崩れになり、20日にドイツ軍は英仏連合軍を両国の海峡に包囲して追い詰めた。

28日にはベルギーが力尽きて降伏した。

6月4日にイギリス軍がDunkirkから本国に向けて敗退した。

6月5日よりドイツ軍は更にフランス戦線で”Britzkrieg”(電撃戦)の大攻勢を展開する。

先ずJagdfrieger(戦闘機)が敵機を撃ち落として制空権を握る。

次にSTUKA(Sturzkampfflugzeug=急降下爆撃機)が敵の地上部隊に攻撃を仕掛ける。

そしてPanzerkampfwagen(戦車)とMechanisierte Infantarie(機械化歩兵)が補給部隊を同行させて敵陣に突入するのである。                   

14日には首都Parisが陥落し、ドイツ軍が無血入城を果たす。

3日後の17日にフランスはドイツに休戦調停を要請して降伏した。

 

其の後、同年8月8日よりドイツ空軍がイギリスに対し空襲を開始する。 所謂”Battle of Britain”の始まりである。

ドイツ空軍は軍用機約3500機の大兵力で侵攻したのに対し、イギリスの軍用機は960機であったので、イギリスの滅亡は時間の問題だと、世界中が疑わなかった。

此れまでの戦闘でドイツ軍の主力戦闘機Messerschmitt Me109は世界最強の性能を実証して来たが、其の航続距離は660kmしかなかった。(イギリスの戦闘機も似たり寄ったりである。)

ところが補助の燃料タンクを携行していなかったのでイギリス上空に滞在出来る時間は精々20分程度であった。

イギリス軍は新型のレーダーでドイツ空軍の襲来をいち早く察知し、ドイツ軍の戦闘機が飛び去るまで持ち堪え、護衛の無くなったドイツの爆撃機に一気に襲い掛かった。

爆撃機は機体が大きい上、大量の爆弾と燃料を積んでいるので、戦闘機に比べて運動性が遥かに劣る。

故に戦闘機隊による攻撃には脆かったのである。

此の戦いでドイツ空軍は首都Londonを始めとするイギリス南部の各都市に爆撃を繰り返したが、自軍もまた手痛い損害を受けるに至った。

イギリス占領とまでは至らなかったが、攻撃は9月15日まで続けた。

此の戦いの後、イギリスのChurchill首相は「此れまでの歴史の中で、かも多くの人々が、かも少ない人々に、かも多くの事を委ねた事は無かった。」と言っている。

 

1941年4月6日にはドイツ軍が同盟国イタリア軍を援助する為、ユーゴスラビアとギリシャに侵攻を開始する。 

同月17日にはユーゴスラビアが降伏、23日にはギリシャもまた降伏した。

開戦以来僅か1年と7カ月の間にドイツ軍は敵国の合計147個師団を壊滅させる驚異的な戦果を上げたのである!

 

同年6月22日、西部戦線で大勝利を挙げたHitler総統は遂に前年の12月18日以来計画していた対ソヴィエト戦争の”Barbarossa作戦“を実行に移した。

ドイツ全軍(400万人)の約の約76%である300万の大軍をHeersgruppe(軍団)-Nord(北方)、-Mitte(中央)、-Süd(南方)の3方面に分けてソヴィエト戦線に動員し、冬の到来までに首都Moskvaを占領し、北のArkhangelisk、中央のGorikij、そして南のRostovまでの地域を征服して、ソヴィエト政府を解体し、ロシアをドイツの植民地として支配すると云う(途方も無い)大計画である。

此の戦いにドイツ軍が動員した兵力の内訳は、陸軍では機甲師団20個(戦車:約3600台)、機械化歩兵師団15個(軍事車両:約60万台)、歩兵師団101個、そして空軍では全体の約67%の第1,2,4,5航空軍の軍用機約4500機と言う途轍も無い軍勢である。

対するソヴィエト軍は西部の国境に全軍の約87%に当たる280万、陸軍216個師団、航空機約6000機を保有していたが、其の兵器や装備は旧式な物が多く、ドイツ軍の兵器に比べて性能が劣っていた。

更にドイツ軍に奇襲攻撃をかけられた為、各方面でたちまち崩壊して大損害を蒙った。

開戦1年目にドイツ軍は目覚ましい戦果を上げた。

7月16日、Smolensk占領。31日、占領地域がNovgorodに到達。 8月2日ウクライナ方面で圧勝。

5日よりOdessaを包囲(10月16日占領)。 

9月8日よりLeningradを包囲(44年1月末まで)。

9日よりKiyevを包囲(19日占領)。

ソヴィエト南西方面軍壊滅、捕虜約65万人。 

10月12日Vyazma、Bryansk付近で2大包囲戦を敢行し、ソヴィエト西方面軍主力を撃破、捕虜約60万人を取る。

ドイツ軍3方向より首都Moskvaに迫る。

10月末、Moskva第1防衛線を突破。 

12月1日、ドイツ軍Moskva郊外25kmまで迫る。

此の頃までは順調に進んでいたのだが、冬の到来により約-30度にまでなる厳寒と泥沼化した地面の上でドイツ軍は動きが鈍り、此れを機に12月5日からソヴィエト軍が大反撃に転じた。

厳寒とソヴィエト軍の反撃によりドイツ軍は大損害を受け、130kmも押し戻されるのである。

Hitler総統によるソヴィエトの莫大な国力、及びロシアの厳しい気候に関する情報収集、計算、予測は余りに楽観的であった為、現地の状況を正しく把握出来ていなっかったのである。

そして此の人類史上例を見ない程の大規模な戦争は、予定の6カ月以内に勝利で終わるどころか、「泥沼の長期戦」へとドイツ側の予想に反する展開をし、遂には絶望的な状況へと追い込まれるのである。

此の独ソ戦に依って殺害されたロシア人は1800万~2000万人位と計算されている。

戦争最後の年1945年4月にはドイツは西から米英連合軍、東からソヴィエト軍に追い詰められ、30日にはHitler総統が自決し、Nazis政権は崩壊。 

5月7日、ドイツは連合国に対し無条件降伏したのである。

古代中国の兵法書「孫子」に「絶対避けるべき戦三つ有り。即ち、勝ち目無き戦、長引く戦、利益無き戦。」 とあるが、時代を超えても正に至言也と言える。

 

歴史を考察する際、「たら・れば」と仮定をしても虚しいのだが、余の個人的な考えではドイツは1940年6月の時点で西ヨーロッパ最大の国フランス、其の他の欧州諸国を征服しているので、ソヴィエトとは1939年8月23日に締結された(上辺だけの)”Deutsch-sowietischer Freundschafts u, Nichtangriffspakt”(独ソ友好不可侵条約)を戦略的利益の上で保ち、イギリスとの戦争に専念し、イギリスと友好関係にある※アメリカが参戦する以前にイギリスを屈服させれば良かったのである。

(※当時のアメリカでは国民の大多数が戦争反対であったし、ドイツと提携する複数の大企業やドイツ系アメリカ人達で構成される極右組織もあったので、アメリカ政府はドイツとの戦争を回避したかった。)

実にアメリカの参戦以前、イギリスはドイツとの戦争で滅亡寸前まで追い詰められていた。

ドイツがフランスとイギリスを征服したなら、両国の保有するアフリカ、アジア、其の他の地域に於ける広大な植民地(先の大戦後に失ったドイツの植民地を含む)を全てKriegentschädigung(戦争賠償)の名目で差し押さえる事が出来た筈である。

さすればドイツは世界中に広大な植民地と莫大な資源を領有して、アメリカ、ソ連の様な大国と互角の国力を獲得出来たのである。

 

第二次世界大戦が終結して76年の時が流れたが、戦後直後に組織されたUnited Nations(国際連合)、North Atrantic Treaty Organisation(北大西洋条約機構)、そしてEuropean Union(ヨーロッパ共同体)の東ヨーロッパへの拡大に依って、最早ヨーロッパに於いて戦争は起こらないだろうと信じられていた。

ところが今年2022年2月24日、ロシア軍が隣国のウクライナへ侵入したことに依ってヨーロッパに於ける戦争が再発してしまったのである!

余は此の事態に関する報道を読み聞きして、ロシアの大統領(事実上の独裁者)プーチンの政策、戦略がどうしても前記のHitler総統による政策、戦略と類似していると思われてならないのである。

例:

・ウクライナのCrimea半島の住民の多数がロシアへの帰化を望んでいるとこじ付け、2014年3月18日、当半島を無理やり併合した。 (かつてドイツは1938~39年にかけてオーストリアとチェコをドイツ系住民を救済すると言う理由で併合した。)

・Putinは今年2月からの侵攻の理由として、「ロシアに国境を接するDonbass地方のロシア系住民が迫害されている。」「ウクライナが先にロシア国土に攻撃を仕掛けて来た事への報復だ。」と国民に偽りの発表をして軍を投入した。 

(Hitler総統は「国境のポーランド兵がドイツ国土に対し銃撃を加えて来た。」と国民に説明し、其の報復として、ドイツ軍をポーランドに進行させた。)

・占領した地域の住民を洗脳してロシア化を推し進めている。 等

 

1917年10月25日に「ロシア革命」が起き、ロシア皇帝Nikolai.Ⅱ世の退位と其の帝国政府が崩壊して、世界史上初の社会主義国家ソヴィエト連邦が成立した。

此の新国家の中にウクライナも「バルト3国」(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)と同様に編入された。

1929年頃からStalinの独裁政権になって以来、ウクライナではソ連からの弾圧、粛正を受け、大部分の国民が貧困状態に陥り、大量の人々が「反政府分子」として逮捕、処刑された。

ソヴィエト政府に不満や恐怖を抱いていたウクライナ国民は1941年にドイツ軍が侵攻して来た時には、彼等が自国を占領したにも拘わらず、ドイツが自分達をソヴィエトの恐怖政治から救い出してくれる「解放者」として受け入れた。

そしてドイツ軍に抵抗するどころか、寧ろドイツに対して協力的な態度を示したのであった。

此れはウクライナ国民がFaschismus(全体主義)を一方的に肯定したのではなく、ソヴィエトの支配から脱出し、独立する事が主な目的だったのである。

其れは丁度、同時代にフィンランド(1917年12月6日、ロシアより独立)が自国を侵略して来たソヴィエト軍を撃退し、独立を守る為にドイツと同盟を結んで”Achsenmächte”(枢軸国)としてソヴィエトと戦ったのと似ている。

 

当初此のニュースを聞いて、余はロシアの身勝手で理不尽な侵略に対し憤りを覚えたと同時に、気の毒ながらウクライナは2週間程で征服されてしまうだろうと予想していた。
ところがロシアがウクライナに戦争を仕掛けて以来、既に4カ月が経過するのだが、ウクライナ軍と国民は今でも祖国防衛の為、必至の覚悟で圧倒的な兵力のロシア軍に対し善戦している姿は誠に感動に至るのである! (其れに対しロシア軍は士気が低く、失策も多い。)

兵力で遥かに劣るウクライナ軍が善戦し、兵力で勝るロシア軍が苦戦している主な理由として次の事が挙げられる。

・ウクライナ軍は最新技術を西ヨーロッパ諸国、及びアメリカから導入して利用している。

(例:最新兵器、ドローン、コンピューター技術、SNSによる宣伝戦略)

・ロシア軍は時代遅れの戦術を立てている。

・ロシアが国際社会に於いて厳しい批判と経済制裁を受け、軍事的、経済的に孤立している。

そしてSWIFT(国際銀行間通信)からロシアが除外された事、更には北欧のフィンランドとスウェーデンがNATO加盟を申請している事は、本来NATO拡大を阻止したかったロシアにとっては大誤算であった。

 

次にロシアが戦争を止める条件として次の事が挙げられる。

*ロシア軍のウクライナ於ける戦闘での決定的な敗北

*ロシア政府が内部から転覆する事

*ロシア経済の大没落

*大多数のロシア国民の貧困化  

*(場合によっては)Putinを暗殺する

 

しかしながらロシア・ウクライナ戦争が長期化する事によって、世界各国では小麦、其の他の食料品、天然ガス、其の他のエネルギー、燃料の著しい価格高騰が経済に深刻な打撃を与えている。

特に此の現象はロシアと比較的関係の多いヨーロッパ諸国(ドイツ、ポーランド、其の他の東欧諸国)で顕著に見受けられ、各国でデモが起きている。

更には南米、アジア、アフリカ諸国でも物価高騰と食糧危機を理由にデモや暴動が起きている。
ヨーロッパの主要国(ドイツ、フランス、ポーランド、イギリス、等)とアメリカが軍事物資を供給しているとは言え、流石にウクライナ側にも損害や消耗が深刻なまでに達しているのが気掛かりである。

此度の戦争が2年以内にウクライナが優位な状態で、NATOやUN等の国際的交渉によって「短期決戦」で勝負が付くのなら、ウクライナがロシア軍の占領地域を開放し、自国の領土を防衛出来る。

其の反対に「長期戦」に陥った時、欧米諸国の軍事的且つ経済的支援にも停滞や疲弊が現れて来ると、兵の数や物資の量で圧倒的に勝るロシアに有利に傾く事は否み様が無い。

そして此度の戦争が「第3次世界大戦」への火種ともなる事が一部の軍事研究家や社会学者の間で懸念されている。
我々も此の戦争を「他人事」又は「対岸の火事」として捉えず、ウクライナの国民の苦難に理解、同情を示し、其の上「平和の尊さ」を改めて認識し、守り通して行かねばならないのである!

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  All rights reserved