Kunstmarkt von Heinrich Gustav   -2ページ目

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

2週間前に誕生日を迎えて、余は今9月も引き続きウェイトトレーニングを続けているのだが、毎週真中の※水曜日(※因みにドイツ語で水曜日=MittwochとはMitte der Wocheの短縮で「週の真ん中」の意味)にはトレーニング場である我がボロ別荘の前の狭い道を50m往復する事で、100m走の練習をしている。

何故なら余は小学校の頃より短距離走には絶対的な自信があったから、其の能力を保持したいからである。

毎年運動会の時には200mリレーで2人も3人も追い抜いて先頭でゴールインするのを大変心地良く感じていた。 

其れでも走る直前には胸が高鳴っていた事を今でも鮮明に覚えている。

高校時代には全校生徒約1100人の中でも余は一番走るのが速かった様である。

3年生の時の体育祭の時、予選では他を突き放しての1位だったので、「此れで俺の優勝は間違いないぞ。」とタカを括っていた。

ところが其の慢心から当時サイズが大き目の運動靴を履いて出た為、いざ決勝でスタートした途端に靴が半分脱げてしまい、先頭グループから5m位遅れてしまった。

其れでも、足が再び靴に収まったので、其のまま追い上げ、胴体1.5個程度の差で3位となってしまった。

靴が脱げなければ間違い無く余裕で優勝出来ていたであろうし、もしくはもう1m走っていたら確実に全員追い越しただろうにと思えた。

高校の体育祭の結果等、成人すれば愚にも付かない事かも知れないが、短距離走には絶対的な自信がある余としては今でも悔いの残る思い出である。

其の苦い経験以来、余は短距離走には必ず足にぴったり合ったランニングシューズを履く様にしている。

 

其の後25歳頃になって、我が家から100m程の近所に住む家族ぐるみで親しい歳森さん(1922年生まれ)に余が走る時のフォームを見てもらった。

と言うのは歳森さんは第二次世界大戦直前に※東京工科大学で学ばれていた時、陸上競技部に所属されて短距離走(100m+200m)も走られ、其の上当時のみ行われていた競技「手榴弾投げ」にも参加されていた事を当時の写真と共に語ってくれたのである。

(※同校で「工学博士号」を取得されている)

余が自分が高校時代の100m走の最高記録が12秒00であったと言うと、歳森さんは「実秋ちゃん、そりゃ女の子の記録だぞ。」「わしが大学生時代には100mを10秒台半ばで走ってたぞ。」とあっさり言われて、一気に落胆してしまった。

そこで歳森さんに「では、どうすればもっと速く走れる様になれるでしょうか?」と尋ねると、「ちょっと(家の)前の道を走ってみろよ。」と言われたので、余が30m程走るのを見てもらった。

すると歳森さんは「実秋ちゃん、其れは素人の走り方だぞ。」と言われてしまった。

余は愕然として「ではプロの走り方とはどんな物ですか?」と尋ねると、「君は走る時に踵から着地してるだろ。 そうじゃなくて爪先から着地するんだ。」「地面に足を着ける時間が長い程、タイム(記録)が落ちるんだよ。」「其れからもう少し腕を振った方が良いぞ。」と教えてくれた。

又、歳森さんは「100m走を10秒代で走るのには、練習だけではなく天性の才能がいるぞ。」とも言われていた。

其れ以来これ等の歳森さんからの助言を参考に余は我がボロ別荘の前の狭い道で100m走の練習を今でも続けている。

そして其の結果、余は20代後半になって初めて100mを最高記録10秒5で走れる程、飛躍的に成績を上げる事が出来たのである!

此の事を歳森さんに報告すると、いつも彼は辛口評価なのに「そりゃ大した者だ。」と褒めて下さったので、余はとても嬉しかった。

高校生(16歳)以来のウェイトトレーニングと自転車(スポーツ車)での走行(12km×週5回)を続ける事で、脚力が次第に向上しているのが一番の理由であろうが、更に走り方のコツと適切な靴を履く事でこうも100m走の成績が格段に上がるのだろうかと我ながら驚いている。

歳森さんも既に御他界して10年以上になるが、今でも彼の貴重な指導には感謝している。

 

短距離走は一見すると足だけで走っている様見受けられるが、実際は全身の筋力で走っているのである。

其れが証拠に「オリンピック」や「世界陸上」に参加している短距離ランナーの体は下半身だけでなく上半身の筋肉もしっかりと発達しているのである。

余も強力な上半身の筋力も利用する事で100m走のタイムを上げる事が出来ているのである。

本来、余が一番重点を置いているスポーツ種目はウェイトトレーニングと打撃型格闘技(例:キックボクシング、空手)なので、余の筋力は短距離ランナーとしては強過ぎるのと、体格(スリーサイズはB:105、W:68、H:93(cm)、身長:173cm、上腕周り:37cm)も筋肉が着き過ぎなのである。

(更に詳しくは同ブログの記事「久方振りにウェイトトレーニングに復帰した事, 及び我が容姿について」)参照)

そこで余は100mないしは200mを走る時はウェイトトレーニングの時の様に100%の力を出すのではなく、約75%位の力で走る様にしている。

何故なら走る時に力み過ぎるとスピードが落ちるからである。

此れを自動車のギアに譬えるならば、出だしに使う「ローギア」は力が最大だがスピードが出ない。

其れに対し高速で走る時に使う「トップギア」はローギア程の力は出ないのと似ている。

上記の通り「100m走は約75%位の力で走るべし。」と頭で言い聞かせていても、つい心で「速く走らなければならない!」と言うZwangvorstellung(強迫観念)が作用して、今でもつい力んで走ってしまう事が時々ある。

 

「100m走」とはただ走るだけなら幼児でも出来る事である。

しかし極めて短い時間内に走り抜く事は決して容易な事ではない。

可能な限りタイムを縮めるには一挙一足の失敗も許されない、言わば始めから最後まで完璧を求められるスポーツなのである。

其の為には繊細な心配りが必要とされるのだが、其れでも余り神経質になり過ぎると、精神的に緊張し過ぎて実力が出せなくなる。

故に余は100mを走る時には心の中で「」「」「」と言う漢字を思い描く様にしている。

即ち「心を軽やかに、安らかに、そして楽しい気持ちで走る。」と言う事である。

此れが余の100m走の為の秘訣である。

因みに1943年ギリシャ生まれの音楽家Vangelis が1981年のイギリス映画“Chariots of Fire”で音楽を担当し、Academy賞を授与されている。

此の映画は1924年のParis Olympicに於いて2人のイギリス出身のランナーが金メダルを取った実録の物語である。

此れ以降、Vangelisの此の作品は世界中でCDが発売されたり、テレビ番組のBGMとして度々利用されている。

余も本来はKlassik音楽(ドイツ、オーストリアの作曲家中心)しか聞かないのだが、Vangelisの音楽だけは、此の“Chariot of Fire”の音楽に自らが短距離ランナーとして魅せられて以来、CD10枚で彼の作品を所蔵している。

此のVangelisの映画音楽を走る直前まで思い出すのも心を「軽」「安」「楽」の境地に持ち込む方法にしているし、同時に走る際に大層Motivation(意気込み)を上げてくれる効果もある。

 

本来ならば自転車競技や短距離走をするなら、体に密着したスポーツウェアーを身に着ける処なのだが、余があくまで重点を置いているスポーツ種目はウェイトトレーニングと打撃型格闘技なので、これ等のトレーニングには普段着で十分だと思っているので、ワイシャツと長ズボンとランニングシューズを身に着けた井出達で自転車で走り、100m走の練習をしている。

とは言え速度を競う競技では物理学的に考えても、出来るだけ体の「空気抵抗」を少なくする方が良い結果が出るのは自明の理である。

扨、9月の半ばになると余が自転車で走ってボロ別荘でウェイトトレーニングを始める午後6時頃には流石に日が沈みかかっている。

そして今週の火曜日に突然以下の事を思い付いた。

「もし服を着ずに短い水着とランニングシューズを身に着けた殆ど裸の状態で走ったら、「空気抵抗」がかなり軽減されてより短いタイムで走れるのではないか?」

3月初めから其れまでは日照時間が長いので、屋外では普段着を着て走っている。

何故なら短距離走専用のスポーツウェアーを身に着けて走るのも仰々しいし、殆ど裸の状態で走ったら、其れを見た人にキチガイか変質者と勘違いされかねないからである。

しかし日が暮れてからなら人目にも付かないし、此の思い付きを実験してみる良い機会だと思い、いざ短い水着とランニングシューズを身に着けた殆ど裸の状態で50mを走ってみた。

何と自分でも面白い程にスピードが出たのである!

やはり余の思った通り明らかに「空気抵抗」が軽減されていた。

次の日にはいつも通り50m往復する事で100mを走ってみたが、やはり昨日同様に面白い程スピードが出たのである!

此れならば最早初老の歳にもなっても、新記録が出せるのではないかと思える程である。

 

100m走に於いて此の様な素晴らしき結果が出せた原因として、自己分析してみると前記の「物理的要因」と並んで、「心理的要因」も大きく作用しているのではないかと思われるのである。

其れは他の記事にも書いている事だが、余はどうしようもない 

”Narzisst”(自惚れ屋)で、自分の彫の深い端正な美人顔や長年ウェイトトレーニングで鍛え上げた超筋肉質の裸体に毎日見惚ているのである。

おまけに余は幼少の頃より「」と云う色に異常な愛着があって、少年時代よりい服ばかり着ているだけでなく、家の外装、室内の調度品、生活道具、乗り物に至るまで全てないしは系の色で揃えている有様である。

故にウェイトトレーニングもい短い水着といリストバンドだけを着用して行っている次第である。

詰まり自分が最も愛着のある慣れた井出達で行った事で、服を着ている時よりBefreiendes Gefühl(開放感)やNarzißtische Lust(自己愛的快感)がより高まった事でいつも以上に良好な精神状態で走れたのである。

心理学の研究でも人間は何か行動する時、自分が最も愛着のある慣れた条件や環境で実行すれば最高の成果を出せる事が証明されている。

そういう意味では”Narzißmus”(自己愛、自惚れ)と「」と云う色が余にとっては人生に於ける我が心の2つの大きな支えなのである。

もし自分が美しい容姿に恵まれていなかったら、もし此の世に「」と云う色が存在しなかったら、もしくは「色盲」でが識別出来なかったら、たとえ何不自由無く生きられる「富裕層」の家に生まれていても、恐らく余は生きる気力すら失っていただろうと思えるのである。

人間は誰しも自分の人生に於いて何らかのGeistige Unterstützung心の支え)を持つ必要がある。

其れがあるのと無いのでは人生の幸福や成功に於いて格段の差が生まれのではないかと、今回の経験でも改めて思えるのである。

 

医学的調査では人間の下半身の衰えは上半身の衰えより2.5~3倍早いと云う統計が出ている。

其れに対し余は全く衰える事も無く(最高に体力の充実した)30代頃の体力を維持しているのである。

其の証拠に100m走だけでなく自転車で(片道)6kmの道程を相変わらず約15分で走り抜くし、ウェイトトレーニングでも30代頃と全く同じMenu(種目)と重量と回数をこなしているし、40代になって寧ろMenu(種目)を増やしている位である。

とは言え人間は誰しも「初老」にもなれば、どこかは衰える者である。

余の場合は「筋力」が充実している反面、歯に関しては大部分が虫歯や歯槽膿漏になって、其の都度近所の掛かり付けの歯医者さんに治療してもらっている。 

(此れは絵の制作の時間の為、歯の手入れを怠った余の自己責任である。)                     

因みに健全な歯の多い人程、寿命も長いと云う統計が出ている。

又、最近では本業の絵を描く時の「集中力」も著しく落ちている。

ウェイトトレーニングは1日に3時間なので今でも十分に集中出来るのだが、以前の様に1日に10~12時間も絵を描き続ける事が出来ていない。

今まで十分過ぎる位大量に絵を描いて(油彩画だけで828点)、ドイツと日本で通算20回も(公共事業としての)個展を開催し、両国の偉大な歴史のある文化価値の高い美術館、博物館、教会、寺院に大量の作品(約360点)を寄贈して来た事(同ブログのプロフィール参照)からのBefriedigenheit(満足感)、Erfühllungs Gefühl(達成感)が十分過ぎる位ある事、そして最近、家事、雑用が増えたのも其の原因なのだが、これ等が一段落してから絵の制作時間は少しづつではあるが増やせている様である。

我が母上は「今まで沢山描いて来たんだし、今は以前みたいに個展を開く訳でもないんだから、そんなに急いだり無理をして描かなくても良いのに。」と言ってくれる事には有り難く思っている。

 

(此れで前記の我が心の2つの大きな支え以外にも余の大好きな貴族出身の「爆乳美人」を我が正室に迎え、モデルにもなってくれれば、一層Mut in Arbeit(制作意欲)もLebenslust(生きる喜び)も高めてくれるのだが・・・・・)

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  All rights reserved

 

 

今から10年程前の穏やかな夏の日曜日、不快な事に腐れ外道の新興宗教の手先共が、我が館の郵便受けにキチガイ染みた内容の勧誘パンフレットを投函していたので、即座に引き裂いてゴミ箱に捨てておいたのを今でも覚えている。
その後近所に住む親類や友人、更に我が家の事業所の従業員にも此の事を尋ねてみると、我が家と同じくこれ等のキチガイ・パンフレットが投函されていたらしい。
この事からどうやらこいつらは我らの町内のあちこちの家庭に同様の迷惑行為を働いていた様子である。
更にその内容とは、我が館の近所の公営施設「ふれあいセンター」でこの腐れ外道の新興宗教が近々講演会を開くと言うのである。
本来なら公務員はこいつらの悪評と正体位知っている筈なのに、何故こんな有害な輩に講演会を許可するのだろうか?
いくら自治体の予算が少ないからと言って、多額の金さえ払えば何でも許可すると云う、諺の「地獄の沙汰も金次第」の様な処置をしているのでは、社会に悪影響や災難が及ぶ事を認識するべきである!

余は家族、親類、友人には常日頃から、新興宗教は「洗脳詐欺」なので絶対に信じない様に注意を促しているので心配は無いのだが、どうにも気持ちが悪いので何か宗教の訪問勧誘を確実に撃退する方法はないだろうかと思案してみた。

そこで思い付いたのが、京都市や滋賀県・大津市の民家でよく見かける寺院ないしは神社の「御札」を玄関に貼り付けている習慣を手本として、こいつらを寄せ付けない「厄除け」と云う事で仏壇に祀っている我らの総本山・比叡山延暦寺の護摩札をコピーして玄関に貼り付けて置いた。

此れは決して「おまじない」等ではなく、「我が家は天台宗也。他の宗教は受け付けない!」と言う意思表示をする事に依って、他宗教の勧誘を諦めさせる狙いなのである。

以前汚らしい「エホバカの証人」の手先共(見るからに貧乏人)が来た時には、余がベランダから大声で罵倒して追い払った御蔭で、二度とこの害虫共は我が家の近辺には現れない。

やはり直接罵倒して撃退するのが一番効果的である。

(こいつらの輸血を厳禁するだの、親が子を又は我が身を鞭で叩く等、あたかも「変態SMクラブ」の様な狂信的習慣には吐き気を催すのである!)

 

事もあろうに2009年「幸福の科学」は名ばかりの政党(実際はただの政治集団)を結成して、国会にまで干渉しようと言う身の程知らずの「暴挙」に出て来ている。

(案の定、先の議会選挙に続き「箸にも棒にも掛からぬ」全員落選だった。 因みに他の選挙区に比べて我が地元ではこいつらに投票したアホ馬鹿は殆どいなかった。)

常識のある者から見れば、これは「笑止千万」の愚行かもしれないが、この様な「荒唐無稽の偽善」を本気で支持する所謂「目あき目くら」の輩がいるのがいささか目に付く。

こんな新興宗教の教祖か総裁を名乗る腐れ外道の「洗脳詐欺」を信じていると幸福はおろか、かえって不幸になる事は必定である。

こいつらの「化けの皮」を剥がし、醜い正体を暴く為、そしてこいつらに洗脳されている哀れな人々の目を覚ます為にもこの記事を認めた次第である。

 


時は流れて2020年7月8日、午11時30分頃、安倍晋三元総理(67歳)が奈良市のJR大和西大寺駅前で街頭演説中、同市在住の無職の男(41歳)に背後から約3mの至近距離から2発銃撃され、心肺停止の重体に陥られた。

犯人はこの凶行の直後にSPに取り押さえられ、奈良県警に「殺人未遂」の罪状で逮捕された。

約20分後に安倍元総理は、ヘリコプターで奈良県立医大病院に救急搬送され、同病院内の救命センターにて医師達に依って懸命の蘇生措置が行われたが、残念ながら午後5時3分に亡くなられてしまった。

安倍元総理の治療に当たった奈良県立医大病院の会見によると、頸部に2カ所の銃創があり、弾丸による傷は心臓にまで達していて、心臓及び大血管の損傷があったという事で、 死因は此の銃撃による失血死であった。

警察の取り調べによると、此度の許されざる凶行の原因は、犯人の母親が奸国に本部のある極悪新興宗教「統一チョン教会」に洗脳され財産を巻き上げられて破産した事、そして安倍元総理がこの新興宗教と近しい関係であると言う事実無根の妄想を勝手に抱いて犯行に及んだと言うのである。

余は安倍元総理の予期せぬ突然の御最期を知って悲痛な思いに駆られたと同時に、凶悪犯罪者と人間を不幸に陥れる悪質極まりない新興宗教に一層の怒りと憎悪を感じたのである。

 

欧米諸国はキリスト教、中近東諸国はイスラム教と言う様に、それぞれ単一の神を信じる国民に比べて、全く日本と云う国には何と新興宗教が多いのかと呆れ返ってしまうのである。

この様な馬鹿げた物が多々存在する主な原因は以下の通りであると推察される。

*日本人の宗教に対する「寛容」(裏返して云えば「無節操」「無頓着」である。)

*現代の日本人の「個性」「主体性」「自主性」の欠如

*複雑化する現代社会に於ける「人間関係」から来る諸問題(軋轢(あつれき)悶着(もんちゃく)ストレス)の増加

*ヨーロッパ諸国の様な新興宗教を取り締まる法律が、日本では制定されていない

そもそも仏教又はキリスト教ないしはイスラム教等を「単一宗教」としている世界各国ではこんな社会現象自体有り得ないし考えも付かない。
これは日本国内でのみ起きる「怪奇現象」と言っても差し支え無いのではなかろうか。
とにかくこの洗脳詐欺である新興宗教家.の書いた本やその他の文章内容と言ったら「偽善者」「キチガイ」その者ので、出鱈目三百、嘘八百、そして矛盾だらけである!(一説によると代理の書き手がいるとの事)

例:・自分は「釈迦」(如来)の生まれ変わりだとほざいている。(事物的証拠等ある筈が無い!)

・世界の4大聖人(紀元前の人物)であるキリストや孔子とも話をしたとほざいている。

・日本全国に信者が1千万人いる?(日本の総人口約一億二千三百万から計算してみれば、国民10人に1人が信者の訳が無い! 

こんな計算の出来ないアホ共もいるのだから呆れてしまう。)
この滑稽千万の内容には下手な「爆笑漫画」よりも笑わされてしまうのである!
もし欧米でこんな事を供述しようが者なら、精神病のPseudologia Fantastica(空想性虚言症)又はWahnsinnige Schizophrenie(妄想性分裂病)と診断されてキチガイ病院に放り込まれるか、Geistliche Betrügerei「宗教詐欺」として刑務所にぶち込まれるのが落ちである。
全くEuropäische Mentalität (ヨーロッパ人の感覚)からすれば>So ein Quatsch!<「全く馬鹿々々しい!」の一言である!

 

余が心理学を学んでいるので特に主張したいのだが、「知能犯」と言う輩は必ずと言って良い程、この心理学を悪用して、巧みに人をその気にさせたり、信じさせたり、隙を突いて悪事を働くのである。
その折には人間の理性より寧ろ本能、欲望又は不安、恐怖に訴え掛けて騙す場合が多い。

故に如何に己の本能、欲望(又は煩悩)を理性で抑えるかが大切なのである。
そして善良な人達もある程度この心理学による"Trick"「騙し術」について知って置いた方が安全である。
現在では心理学に関する安価で読み易い小型冊子も大量に出回っているので容易く購読出来る。
「知識」とは銃刀と同じで、一度悪人が身に着けると「凶器」になるのである。
たとえ「知識」を所有していても、其の人が「理性」「良心」「道徳心」を持っていれば間違いは決して起きない。

その他、知能犯は上辺だけの同情、同調をする事で、善人又は味方を装って人の心に取り入ろうとする。

即ち全てに於いて御世辞や奇麗事を言う者、又は不安や恐怖を煽る者は要注意である。 
又「肩書き」を偽装している事が多い。  

例えば会社、組織、学歴、免許等、大抵の場合「架空」もしくは、他からの「盗用」である。

同様に今回取り上げている「新興宗教」も一種の「知能犯」の輩である。
こいつらは宗教的な偽善を説く事によって、人生に深刻な悩み、苦しみ、問題(例:自身の不治の病気、家庭の不和、職場での人間関係、経済的困窮、等)を抱えている人々の心に付け込み勧誘して、偽善と甘言によって入信させ、最後には完全に「洗脳」して(騙された)信者の心を乗っ取り、思いのままに操り、大金をくすね盗っているのである!

そして、ある信者が新興宗教団体に属して信じる事が大間違いだと気付いて脱会しようとするなら、「お前は不幸になる」だの「破滅する」だの「地獄に堕ちる」だのと脅して信者の不安を募るのである。

もっと酷い例では複数の信者共によって「集団ストーカー」をされたり、法外な金額の「脱会料」を請求する事もあるそうである。

 

参考に「宗教にはまり易い人」の特徴を以下の通り記しておく。

注意*真面目で直向きな人  注意*純粋な世間知らず  注意*理想、願望、正義感が強い  注意*占い、迷信を信じ易い  注意*暗示にかかり易い  注意*思い込みが激しい 注意 *良き理解者、友達がいない  注意*承認欲求が強い  注意*信じる物が無い  注意*親からの何らかの影響 注意*何かにすがりたい気持ちが強い  注意*精神的に不安定  注意*人生に何か深刻な悩みがある 注意*科学的思考が出来ない

上記の特徴に該当項目の多い人は新興宗教の腐れ外道に付け込まれない様に要注意である! 

更にこいつらが標的にしているのは、高齢者と富裕層なので該当者は同様に注意が必要である。
何故なら、高齢者は若年層に比べて「信仰心」が強い一方で情報収集力に乏しく、其の上財産に恵まれている一方で、健康や人間関係に恵まれない事が多い。
又、富裕層は言うまでも無く多大な財産を所有している上、比較的高学歴で向上心の強い人が多いので、一度洗脳してしまえば延々と大金をむしり取る事が可能だからである。

 

新興宗教の教祖を始めとする上層部の腐れ外道共は、ある時は人を幸せにするだの、苦しみから救済するだの、全ての人間が平等だとか言った、歯が浮く様な、片腹(かたはら)が痛くなる様な綺麗事を並べ立て、又ある時はハルマゲドンかズルムゲドンか知らないが、所謂「此の世の最期」が来る等と恐怖や不安を煽り立てて、あたかも自分たちが「此の世の救世主」の様に思い込ませるのである。

(余は500年前の人間でもこんな虚言、妄言には騙されないと思うのだが、Mentality(精神構造)の幼稚な人は騙されるのだろうか?)

この様にして全国不特定多数の(愚かな)人々を(たら)()()込み洗脳して、(法に触れない様に)「寄付」「献金」と言う名目で法外で高額な金銭、物品を彼らから奪い取り、自分たちだけが肥え太って高笑いしているのである。

この腐れ外道共は、信者の幸福や救済等、微塵も考えてはいないし、多くの人々を洗脳して騙し続けて、金銭を巻き上げる事(洗脳詐欺)に呵責の念や罪の意識すら全く無いのである。

そう言う意味では新興宗教は暴力団やヤクザよりも悪質である!

これ等の被害者の数が増えている事に呼応して、最近では各新興宗教に対して反発、批判する団体も幾つも結成されていて、新興宗教の悪辣な手口を暴露して、法的にこいつらを摘発し処罰しようと努めているそうである。
余が一々説明するよりこれ等サイトを読めば、この新興宗教とは名ばかりの「洗脳詐欺」が如何に巧妙且つ悪質な手口で人を欺いて、金銭を巻き上げているかが克明に記されている。

 

余は実家が平安時代より天台宗(仏教)である事、そして自らがドイツBrandenburgの教会から大恩を受け3人の牧師とも友達である事から、こいつらの様に仏教とキリスト教を自己流に改竄(かいざん)、人生に深刻な悩み、苦しみ、問題を抱えている人々の弱みに付け込んで、騙しては大金をくすね盗ると言う天人共に許さざる罰当たりな悪行を許す事は出来ない!

古来、宗教の本質的役割とは神又は仏の教えを衆生(世の中の人々)に布教する事によって、彼らの人生の為になる良き事を教え諭す事(此れを仏教用語では「」)、並びに彼らの心の苦しみを取り除いてやる事(此れを仏教用語では「」)であった。
又、其れ等の「慈悲」の教えと行為は無報酬、無所得で為されるのが基本であった。
詰まり、人を欺く悪質業者の如き勧誘をしたり、「御布施」等と言って、信者に法外な金銭を要求して巻き上げる行為自体、最早それは宗教を騙る「洗脳詐欺」なのである。
この様にして私腹を肥やすに飽き足らず、「宗教法人」として一応公式に認可してもらい、「法律の網」をくぐって税金を免れているのだから余計に質が悪い!(この事については是非とも法改正が必要である!)
余がこの洗脳詐欺共の勧誘を見ていると、さながらヨーロッパの伝説の中に出て来るVampir (吸血鬼)が思い出されてならない。
と言うのは新興宗教の教祖(吸血鬼の親玉)に洗脳されている者が、他人を勧誘して自分達の新興宗教に引きずり込んで行く悪循環は、「吸血鬼」に血を吸われた者も同じく吸血鬼と化し、次々と他人の血を吸って行く話に酷似している。
しかし吸血鬼には太陽光線と銀の十字架が致命的な弱点である様に、人間が心の中に太陽や銀の十字架に相当する「正しい教えや知識」を有していれば、こんな洗脳詐欺の腐れ外道共の勧誘など簡単に撃退出来るのである。
新興宗教を信じる事は人生で落とし穴に落ちる事を意味し、更にそれにのめり込む事は破滅への道であると知るべきである!

 

因みに前記の通り余は「天台宗徒」である事かから、天台宗専用の「平数珠」を当然持っているが、Brandenburgの教会から大恩を受けた事とDeutscher Ritterorden(ドイツ騎士団)への憧れがある事、そしてサファイヤが自分の誕生石であり、キリスト教では修道士の「純潔」「貞操」「忠節」の象徴であり、「魔除け」でもある事から、サファイヤ、金、白金、プラチナ製の十字架十字架の首飾りをいつも身に着けている。

滑稽な事を書くのだが、余が「初老」と言われる年になっても、今だに30代前半と見紛われる程の卓抜した健康と体力と美しい容姿を保持している事から、親類や一部の友人から「本当は人間じゃなくてVampir (吸血鬼) じゃないの?」とと戯言(ざれごと)を言われる事がある。

(※ヨーロッパの伝説ではVampir は容姿端麗で、人の生血を吸う事で不老不朽の体を保てるとある。

例:男ではDracula伯爵、女ではCamila、そしてアメリカの漫画Vampirellaが有名)

ついでに書くと此の“Vampir”の名詞は今日ではヨーロッパ諸国で共通の表現であるが、その語源はセルビア・クロアチア語なのである。

又、”Vamp”(男を誑(たら)し込む魔性の女)と言う表現もこのVampir が語源である。

(余がもしVampirだったら、前記のサファイヤ、金、白金、プラチナ製の十字架の首飾りをいつも身に着けたりしないし、太陽光線が無いと体がだるく感じる等と言う事は無いであろう。

それに余はいくら「い物」が大好きだからと言って、間違っても人の生血を吸ったりしないし、貧乏人から搾取した事等一度も無い。) 

 

最後に世界的に有名な過去の天才、偉人達の「善と悪」に関する格言を記して結びとする。

*「巧言令色少仁」(人によって調子の良い事を言ったり、態度を変える者は真心の無い人である)(孔子)

*「最悪の悪人とは善人の仮面を被っている。」(W.Shakespeare)
*「悪魔は最初に人を甘い言葉で誘って、最期に人を欺く。」(W.Shakespeare, 戯曲"Macbeth"より)
*「悪魔でも自分の(悪い)目的の為に聖書を見る事が出来る。」
(W.Shakespeare, 戯曲"Marchant of Venice"「ヴェニスの商人」より)
*「善人による犯罪は悪人による犯罪よりずっと悪質である。」
 (F.Nietzsche, "Jenseits von Gut und Böse"「善悪の彼岸」より)
*「偽善の放つ悪臭より不快な物は無い。」(H.D.Thoreau)

 

12月の追伸:
旧・統一チョン教会、等の悪質な新興宗教による「被害者救済法案」を巡り、対応が注目されていた立憲民主党が賛成する方針を確認した事によって、此の法案は会期末の12月10日に可決・成立する見通しである。
其れでも尚、野党が「実効性が無い。」等として、政府・与党側と断続的に協議し、修正が重ねられているし、同党内には「未だ内容が不十分」だとして反対する声も一部上がっている。
憲法に於ける「宗教の自由」を悪用して、今までやりたい放題であった腐れ外道の新興宗教団体に規制、制限を与える事で幾分はこいつらの悪行の制御にはなると思われる。
しかしながら余は個人的にはヨーロッパ諸国の様な新興宗教を取り締まる法律を制定してもらいたかった処である。
何故なら前にも書いている様に、新興宗教団体は一種の「知能犯罪集団」だからである。
さながら錠前屋が新しい鍵を作れば、盗人は此れを破る手段を考えるが如く、こいつら新興宗教団体は性懲りも無く新しい法律の網を潜って悪事を続行する疑いがあるからである。
農業に喩えるなら、雑草の枝葉をもぎ取るだけではなく、根こそぎ駆除しなければ、また再生する。
ドブネズミを駆除するだけでなく、其の侵入経路も塞がなければ、また侵入するのである。

 

2023年の追伸:
文科相は10月12日の午後に会見を行い、極悪新興宗教・旧統一チョン教会が高額献金等を通し、信者や其の親族に甚大な財産的、且つ精神的犠牲を払わせた犯罪行為に対し、同教団(洗脳詐欺集団)への解散命令の請求を決定した事を明らかにした。
此れに呼応して最高裁判所が、同教団(洗脳詐欺集団)が法令に反し宗教団体の目的を著しく逸脱した行為があったと認定すれば、同教団(洗脳詐欺集団)に対し解散命令を下せるのである。
更に同教団(洗脳詐欺集団)への総額22億円の損害賠償が請求される。(これ等は間違い無く実現するであろう。)
此れにて日本国内から「オウム真理教」、「法の華」、「明覚寺」に続き、また一つ人を不幸にする「洗脳詐欺」が消滅するのかと思うと、何とも清々しい思いである。
余は個人的には旧統一チョン教会のドンの糞ババアの首を鋸で引き切って剝製(はくせい)にして、狂信者共の前で晒し物にしてやれば良いと思う位である。

何よりも先ずこいつらに騙されて財産を奪われたり、家庭を壊された犠牲者の方々に正しい損害賠償が成され、今後一切悪質な「洗脳詐欺」によって騙される人が出ない事、そして新興宗教を取り締まる法律が日本で制定される事を祈るばかりである!

 

2024年の追伸:

この文科相が過去に旧・統一チョン教会から政治支援(推薦状、献金、等)を受けていた事で、野党から厳しい追及をされているのは浅ましい事実である。

これは正に安倍総理亡き後の自民党の堕落、腐敗を象徴していると言える。

 

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2020年7月8日、午前11時30分頃、安倍晋三元総理(67歳)が奈良市のJR大和西大寺駅前で街頭演説中、同市在住の無職の男(41歳)に背後から約3mの至近距離から2発銃撃され、心肺停止の重体に陥られた。

犯人はこの凶行の直後にSPに取り押さえられ、奈良県警に「殺人未遂」の罪状で逮捕された。

約20分後に安倍元総理は、ヘリコプターで奈良県立医大病院に救急搬送され、同病院内の救命センターにて医師達に依って懸命の蘇生措置が行われたが、残念ながら午後5時3分に亡くなられてしまった。

安倍元総理の治療に当たった奈良県立医大病院の会見によると、頸部に2カ所の銃創があり、弾丸による傷は心臓にまで達していて、心臓及び大血管の損傷があったという事で、 死因は此の銃撃による失血死であった。

警察の取り調べによると、此度の許されざる凶行の動機は、犯人の母親が極悪新興宗教「世界平和統一家庭連合」(統一チョン教会)に洗脳され財産を巻き上げられて破産した事、そして安倍元総理が此の新興宗教と近しい関係であると言う妄想を勝手に抱いて犯行に及んだと言うのである。

余は安倍元総理の予期せぬ突然の御最期を知って悲痛な思いに駆られたと同時に、凶悪犯罪者と人間を不幸に陥れる悪質極まりない新興宗教に一層の怒りと憎悪を感じたのである。

 

2日後の「参議院選挙」を控えての選挙活動の真っ最中に、まして世界的に治安維持力の高い日本で元内閣総理大臣が突然殺害されると云う事件は余りにも衝撃的であった!

此の緊急ニュースは大多数の日本国民を震撼させたのみならず、瞬時に海外に於いてもニュースで報じられ、世界中の人々が驚愕している。

既に自民党及び其の他の与野党の政治家達が、政党や政治理念を超えて、安倍元総理が此の様な凶行によって亡くなられた事への悲しみ、無念、そして哀悼の意を表すると同時に、此の凶行を「民主主義」に対する挑戦として絶対に許してはならず、断固非難・究明する事を表明している。

其の上、世界各国の首脳からも安倍元総理の予期せぬ御最期を悼む声明や、彼の政治家としての偉大なる業績を讃える言葉が相次いで述べられている。

又、安倍晋三氏を「個人」として知っている御家族、政治家、資本家、ジャーナリスト、其の他の友人、知人方の話を聞いても、彼の真面目で直向きな、そして他人を思いやる優しい人柄を皆で褒めていた。

中でも特に同じ自民党で山口県出身の高村正彦・副総裁は安倍元総理の人柄を「安倍さんは自分と政治理念や思想観念の異なる政治家(外国人を含む)とも表面上は衝突する事なく、和やかに話の出来る人だった。それでいて自分の考え(政治理念や思想観念)がぶれる事は決して無かった。正に「和して同ぜず」の言葉に相応しい人だった。」と評価している。

日本の民間にに於ける安倍総理に関する評価は「賛否両論」が著しいが、史上最長となる3188日(8年8カ月)もの間、総理大臣を御務めになられた事から、有能で偉大な政治家であった事は否み様が無い。

又、日本経済で問題となっていた「デフレ」からの脱却、及び社会と国民の富の拡大を目指しての経済政策「アベノミクス」を展開させ、社会での雇用を増化させ、停滞していた景気を上方修正した事、そして自民党政権下で、「安全保障関連法案」や「特定秘密保護法案」等を成立させた事等は歴史に残る立派な業績である。

 

政権与党の自民党にとって、党全体の指導者的存在であった安倍元総理が突然御他界された事は正に「青天の霹靂」どころか「突然の大地震」程の衝撃、そして取り返しの付かない程の損失であると推察される。

此の事は10日の「参議院選挙」の投票に影響するのみでなく、今後の自民党の勢力関係、更には国会、そして全国の地方議会にまで影響を及ぼす物と見られる。

日本では親族、知人、同じ町内のある家庭に不幸(死亡者)があった場合、御悔みを込めて葬式代を援助する「香典」を贈る独特の習慣がある。

此の様な習慣のある日本人の国民性から考えると、安倍元総理の突然の御不幸に御悔みを込めて「香典」の代わりとして自民党に投票する人がかなり多くなるのではないかと推測される。

其れにも増して御遺族の方々の衝撃や悲しみは誠に察して余る程である!

余も同様に安倍元首相に今までの内閣総理大臣としての御勤めと業績に敬意を表すると同時に、御遺族である御母上の洋子様、妻の昭恵夫人、実弟の岸信夫・防衛相に心からの御悔みと哀悼の意を表させて頂きたい!

 

此度の驚愕すべき襲撃事件が起きた原因として、地元警察の警護の緩慢を指摘する人もいるが、社会心理学の観点から推察すると、根本的な原因は現代社会にはびこる「世知辛さ」、「絶望感」、「不平不満」、「閉塞感」、「無気力」、等の「病的な社会通念」ではないかと思われてならない。

即ち社会が病んでいるから、そこに住む人間も(精神的に)病んでしまうと云う構図である。

これ等のNegatives Element(負の要素)は平成時代から続く経済格差と不景気、2020年初めから続くコロナウィルスの大流行による社会の封鎖と停滞、そして今年の2月下旬より勃発した「ロシア・ウクライナ戦争」による食料品等の物価、エネルギー代、燃料代の上昇、等が更に増長させているのである。

これ等の「社会の闇」を駆逐出来る様なPositives Element(正の要素)や、効果的な解決策は未だ見出せていない状況である。

 

安倍元総理の御逝去から間も無く、彼の功績を讃えて今年の9月に国葬を行う事が自民党で決議された。

ところが其れ以来、安倍元総理の事を激しく非難、中傷誹謗したり、反対デモに参加する輩まで出てくる始末である。

余は此の連中を見ていて、2015年9月に成立した「安全保障関連法案改正」に対して国会前で反対デモを行っていた輩を思い出し、こやつらに共通している事に改めて気付いた。
其れはこの連中の大部分が自分の生活(人生)に何らかの不満を抱えていると言う事である。
(例:仕事、経済、家庭、人間関係、其の他)
「自分の生活(人生)が上手く行っていないのは社会のせいだ!とどの詰まりは政府のせいだ!」と、所謂「理論のすり替え」(逆恨み)をしている様に見受けられる。
又、普段社会での自分の存在感が希薄な故、こんな時に徒党を組んで「自己顕示」をしようとしている心理も読み取る事が出来る。
大抵の人間には、人だかりのある所に何があるのか、好奇心を持って近付く習性がある。
其れによって集まった群衆は、往々にして感情的になっていて、理性的な思考が出来ていないのである。

(そこへデマが流れ込むと、一気に動揺、又は混乱する危険がある。)

 

因みにドイツ語のPöbelと云う単語のDeutsches Wörterbuch (ドイツ国語辞典)による説明を直訳すると、<無教養で、凡庸で、粗雑な人、考え方や行いが低級で、自分に原因、動機を持たず、同じ感覚を持つ人々と集団を形成して、社会で愚行や暴動を起こす人。>とある。 

此れを独和辞典では「下層庶民」「愚民」「賤民」と訳している。
見下した言い方ではあるが、此の様な無意味な反対デモに参加する者共に相応しい表現であると思われてならない。

(彼らの一部は腐れ外道の左翼に洗脳されているか、又は端金(はしたがね)で雇われている操り人形との噂すらある。)
本当に人格、品格のある者なら、たとえ戦争(殺し合い)をしている敵国の優れた軍人が戦死しても喜んだりせず、其れどころか其の人の功績、能力を評価して哀悼の意を表する位の度量があるのである。

まして自国の戦後最も長い期間に渡り総理大臣を勤め上げた「人傑」を非難、中傷誹謗するとは何事であろうか!と思えるのである。

(綺麗事を書く様だが)

世の中を1人の人間だけで変えて行く事は到底不可能である。

其れでも尚、せめて人間1人1人が、人生に於いて決して希望を失わない事、何か目的ないしは生き甲斐を持つ事、心身を共に健康に保つ事、位は守って行かなければならない。

 

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2023年12月14日の追伸:

安倍元総理の死後、自民党内では党員の不祥事が相次ぎ、所謂「辞職ドミノ」と形容される程の辞任が相次いだ。

今回も東京地検特捜部は政治資金規正法違反(不記載・虚偽記入)の疑いで同党の安倍派に属する政府要職にある者10人を調査している。

今後調査を進めると、「芋蔓式」に違反者が発覚するのではないかと推測される。

そして本日、前記の内4人が辞表を提出した。

安倍元総理と言う「重鎮」が亡くなって以来、「安倍派」を中心に自民党の腐敗そして崩壊が始まるのではないかと懸念していたが、悪い予感が的中してしまった!


美術史を学んでいる芸術家の余としては、今日の日本の行政を観察していると、Renaissance時代のスイス文学作家Sebastian Brantの物語を元に同時代Nederland(現オランダ)の画家Hieronymus Bosch(1450~1516年)の描いた名作“Der Narren schiff”(愚か者の船)を思い起こしてしまうのである。 民衆の堕落と社会の腐敗を象徴する此の船の末路は、当然の如く座礁か沈没かのいずれかである。
実に嘆かわしき事ではあるが、此の無能で利己的な政治家に愚民共が従うと云うお粗末な状況を改善するのは最早不可能とまで思えるのである。

往年の名作映画「明治天皇と日露大戦争」(1957)の中で嵐寛寿郎さんの演じる明治天皇の以下の印象的な御言葉がある。
政治家は辞職さえすれば一切の責任から免れる事が出来るが、 天皇に辞職は無いぞ!」(「最後まで責務を全うせよ!」の意味)
こう云う時に余が度々好例として引き合いに出すのが明治時代の政治家達である。
彼らは江戸時代の鎖国に依って文明の立ち遅れた日本を、欧米列強に対抗出来るまでの近代国家に作り変える事に「熱意」を以って粉骨砕身の「努力」を費やした。
そして18世紀終わりの"Industrial Revolution"(産業革命)以来、欧米諸国が約100年かけて成し遂げた近代化を、僅か40年足らずで見事に実現したのであった!
(此の「実行力」には欧米諸国の政治家、学者達も驚嘆している。)
其の一方で、当時の(島国としての)日本の国力の限界を認識していたので、「慎みの精神」をも併せ持っていたのである。
此の様に、奉仕・貢献の精神」を以って私利、党利を忘れて、国家と国民の為に有益な政治を成し遂げた明治時代の政治家達は尊敬も信頼も出来る御歴々であった。
余は士族出身者として今日の政治屋共にはとうに幻滅して、当時の政治家達、「貴族院」の存在にただ憧れるばかりである。

 

我が親類の幼馴染は「最近の糞政治家共は金に困ったら国民から搾り取りゃええ位に思いやがっとんじゃ! 国民も皆「いつまでも騙して、金を搾り取れると思っとたら大間違いぞ!」と言う意思表示をせにゃあおえんで。」と言っている。
此の言葉は正に日本国民の本音を象徴していると思えてならない。
同様に今日では圧倒的多数の国民が政治・経済ニュースのコメント欄に、無能で腐った政治家共に対する厳しい批判や激しい怒り、不満を書き込んでいる。
余は個人的には「このままじゃ将来、日本でまともに生活出来るのは富裕層だけになるんじゃないか?」と書き込まれていたのが印象に残っている。

自民党はしばしば「富裕層優遇の政党」と形容される事があるが、この様なあさましき現状では、富裕層ですら幻滅し、愛想尽かしをするのでななかろうか?
現在、自民党への国民からの支持率は遂に10%代にまで落ち込んでしまった。

あるマスコミが「最も信用出来ない職業とは何か?」と言う問いに対し、圧倒的に多かった答えが「政治家」であった。
(此の結果は当然、又は然るべきと言えば其れまでかも知れない。)
一方で各野党も小粒になってしまい、自民党に代わって政権与党に成れる程の理念も実行力も見受けられない現状である。

「戦国時代」に有力な国主が逝去する事によって、其の大名家及び支配する国が没落、滅亡して行く事例が何個もあったが、今の自民党はまるで「滅びゆく大名家」の様に思えてならない。

 

E.Delacroix La Liberté guidant le peuple 

とは言え多くの日本人は如何せん権力に従順過ぎるので政府に対する抵抗力、反発力が無いのである。

かつて1789年7月14日に勃発した”La Révolution française”(フランス革命)に於いては、国民が王政に対し怒りと不満を爆発させ、La prise de la Bastille(牢獄)の襲撃に始まり、首都Parisの各王立省庁を占拠し、捕らえた120人程の貴族をPlace de la Concorde(広場)で公開処刑した程であった。
(余が1987年にParisを訪ねた折、此の歴史の詳細を知った時は、流石に士族出身者としても身の毛がよだつ思いであった。)
日本国民も此れに習い国会を襲撃、占拠して無能で腐った糞政治家共を袋叩きにして、溝(ドブ)河に放り込んでやる位の事はしても良いのではと思える位である。
戦後、長年に渡り政権与党を担って来た大政党が腐敗、崩壊するに事よって、日本国までもが没落する事だけは絶対に避けなければならない!

以前にも書いた事だが、「明治時代」の様な、私利私欲を度外視してでも国家や国民の為に努められる政治家が出現しない限り、今日の日本を立て直す事は難しいのではなかろうか。

 

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かつてのオーストリア帝国は君主Habsburg家の統治の下、17世紀にトルコ帝国のヨーロッパ侵略を撃退して以来ハンガリー、クロアチア、トランシルバニア(ルーマニア)、セルビア、ボスニア、等に領土を次々と拡大し、ヨーロッパ屈指の大帝国として繁栄していた。

しかし第一次世界大戦(1914~18年)に敗れた結果、オーストリア=ハンガリー帝国(1867年以来)は解体され、皇室Habsburg家の支配した各地方は独立し、かくしてオーストリアは内陸の小国にまで縮小し、かつての勢力を失ってしまった。

1933年1月30日以来、ドイツで独裁政権を掌握したNazis党首で国家総統のAdolf Hitlerは元々、ドイツ国境のオーストリアの町Braunauの出身である事から、大多数のオーストリア国民は同じゲルマン民族でドイツ語を話し、そして前の世界大戦で同盟国であったドイツに吸収合併される事を望んだ。

此れを好機としたHitler総統は1938年3月12日にドイツ軍を率いてオーストリアに入り国民からの熱狂的な歓迎を受け、翌日同国のドイツへの併合を宣言した。

 

チェコスロヴァキアは第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国より独立した工業国家であった。

其の中のドイツとオーストリアと国境を接するSudetenland(地方)では、約332万人のドイツ系住民がチェコ人やスロヴァキア人と比べて不利な雇用条件による生活を余儀無くされていた事に不満を抱いていた。

此れを理由にHitler総統はSudetenland(地方)に居住するドイツ系住民が迫害を受けているのを保護する為に、当地方のドイツへの割譲をチェコスロヴァキア政府に要求した。

チェコスロヴァキアの後ろ盾としてイギリスのChamberlain首相はHitler総統にドイツに招かれ、1938年9月30日Münchenに於いて会談し、Hitler総統に此れ以上の領土要求はしない事を約束にSudetenlandのドイツへの割譲を認める事に依って協定を締結させた。

München協定に依って平和が保証されたとヨーロッパ全国が安堵したにも拘らず、其の1年後には平和はあえなく破られてしまった。

1939年9月1日、Hitler総統は「※国境のポーランド兵がドイツ国土に対し銃撃を加えて来た。我が軍は爆撃を以て報復する。」と国民に説明して、ドイツ軍をポーランドに進行させた。

(※実際にはポーランドからのドイツへの銃撃は無かった。)   

此れに対し2日後イギリス、フランス両国がドイツに対し「最終通告」をしたが、ドイツ軍は此れを無視して攻撃を続行した。

そして英仏両国がドイツに対し宣戦布告した事より第二次世界大戦が始まったのである。

とは言え英仏両国は前の大戦の傷がまだ癒え切っていない事と、2度目の世界大戦を出来るだけ回避したい意図から、ポーランドを援助する為に西側からドイツを攻撃する事は無かった。

ドイツの2個航空軍(約1600機)による空からの奇襲攻撃を受けた(旧式な)ポーランド空軍は2日間で全滅し、制空権はドイツ軍に完全に掌握された。

又、地上戦に於いてもポーランド軍の主力は未だに歩兵と騎兵と旧式な砲兵であったので、新型の戦車、(3466両)、装甲車(718両)を装備したドイツ軍に対しては為す術も無かった。

更に同月17日には此のポーランドの危機に付け込み、ソヴィエト軍が東からポーランドに侵入した。

同月27日にはドイツ軍の新兵器と圧倒的な兵力の前に首都Warszawaが陥落、そしてポーランド軍もドイツに対し全面降伏した。

翌日ポーランドはドイツとソヴィエトによって2分割されて占領されるのである。

 

翌1940年4月9日にドイツ軍はノルウェーの港に駐屯しているイギリス海軍を撃退する戦略から、デンマークとノルウェーを攻撃した。

ノルウェーの細長く山の多い、半分が海に面する地理的事情から、ドイツ軍は大軍を動員せず、8700人の陸上部隊と5500人の空挺部隊で攻略に掛かった。

圧倒的なドイツ軍に対し勝ち目は無いと見たデンマークは戦わずして降伏した。                                      ノルウェーもイギリスからの協力を受けたものの、デンマーク及びスウェーデン(中立)を通過して侵攻して来るドイツ軍に依って制圧され、同月30日に降伏した。

 

更に同年5月10日、ドイツ軍は西部戦線に於いて総攻撃、所謂 ”Britzkrieg”(電撃戦)を開始、中立国であるオランダ、ベルギー、ルクセンブルクにも侵攻した。

当時のドイツ軍の総兵力は軽戦車2770台、中戦車670台、自走砲168台、航空機 約2800機。

此の時のドイツ軍は3つのHeersgruppe A,B,C(軍団)に分けられ、Heersgruppe Bがベルギー、オランダ方面の攻撃を担当し、フランスのMaginot要塞の攻略をHeersgruppe Cが担当し、Heersgruppe Aは両軍団の間の戦線を担当した。

兵力の欠乏の上、不意を突かれたオランダは早くも開戦5日目の15日に降伏した。

此の西部戦線に於いてドイツ軍最大の相手であるフランスの一番の頼みはMaginot要塞である。

フランスは前の大戦でドイツ軍に攻め込まれ自国が主戦場になった教訓から、此の要塞線を1930年から7年をかけて、スイス国境からベルギー国境にまで至る全長140kmにまで及ぶ大規模な軍事施設として構築した。

ドイツ側からは正に難攻不落と思われたが、ベルギーとの国境に広がるArdenneの森にまでは要塞が及んでいなった。

此の森をドイツ軍は難無く突破し、5月14日Maginot要塞の防備の手薄な背後に回って攻撃し、半日で此れを突破したのである。

Maginot要塞に依存し過ぎていたフランス軍は総崩れになり、20日にドイツ軍は英仏連合軍を両国の海峡に包囲して追い詰めた。

28日にはベルギーが力尽きて降伏した。

6月4日にイギリス軍がDunkirkから本国に向けて敗退した。

6月5日よりドイツ軍は更にフランス戦線で”Britzkrieg”(電撃戦)の大攻勢を展開する。

先ずJagdfrieger(戦闘機)が敵機を撃ち落として制空権を握る。

次にSTUKA(Sturzkampfflugzeug=急降下爆撃機)が敵の地上部隊に攻撃を仕掛ける。

そしてPanzerkampfwagen(戦車)とMechanisierte Infantarie(機械化歩兵)が補給部隊を同行させて敵陣に突入するのである。                   

14日には首都Parisが陥落し、ドイツ軍が無血入城を果たす。

3日後の17日にフランスはドイツに休戦調停を要請して降伏した。

開戦以来僅か10カ月の間にドイツ軍は敵国の合計147個師団を壊滅させる驚異的な戦果を上げたのである!

 

其の後、同年8月8日よりドイツ空軍がイギリスに対し空襲を開始する。 所謂”Battle of Britain”の始まりである。

ドイツ空軍は軍用機約3500機の大兵力で侵攻したのに対し、イギリスの軍用機は960機であったので、イギリスの滅亡は時間の問題だと、世界中が疑わなかった。

此れまでの戦闘でドイツ軍の主力戦闘機Messerschmitt Me109は世界最強の性能を実証して来たが、其の航続距離は660kmしかなかった。(イギリスの戦闘機も似たり寄ったりである。)

ところが補助の燃料タンクを携行していなかったのでイギリス上空に滞在出来る時間は精々20分程度であった。

イギリス軍は新型のレーダーでドイツ空軍の襲来をいち早く察知し、ドイツ軍の戦闘機が飛び去るまで持ち堪え、護衛の無くなったドイツの爆撃機に一気に襲い掛かった。

爆撃機は機体が大きい上、大量の爆弾と燃料を積んでいるので、戦闘機に比べて運動性が遥かに劣る。

故に戦闘機隊による攻撃には脆かったのである。

此の戦いでドイツ空軍は首都Londonを始めとするイギリス南部の各都市に爆撃を繰り返したが、自軍もまた手痛い損害を受けるに至った。

イギリス占領とまでは至らなかったが、攻撃は9月15日まで続けた。

此の戦いの後、イギリスのChurchill首相は「此れまでの歴史の中で、かも多くの人々が、かも少ない人々に、かも多くの事を委ねた事は無かった。」と言っている。

 

1941年4月6日にはドイツ軍が同盟国イタリア軍を援助する為、ユーゴスラビアとギリシャに侵攻を開始する。 

同月17日にはユーゴスラビアが降伏、23日にはギリシャもまた降伏した。

 

同年6月22日、西部戦線で大勝利を挙げたHitler総統は遂に前年の12月18日以来計画していた対ソヴィエト戦争の”Barbarossa作戦“を実行に移した。

ドイツ全軍(400万人)の約の約76%である300万の大軍をHeersgruppe(軍団)-Nord(北方)、-Mitte(中央)、-Süd(南方)の3方面に分けてソヴィエト戦線に動員し、冬の到来までに首都Moskvaを占領し、北のArkhangelisk、中央のGorikij、そして南のRostovまでの地域を征服して、ソヴィエト政府を解体し、ロシアをドイツの植民地として支配すると云う(途方も無い)大計画である。

此の戦いにドイツ軍が動員した兵力の内訳は、陸軍では機甲師団20個(戦車:約3600台)、機械化歩兵師団15個(軍事車両:約60万台)、歩兵師団101個、そして空軍では全体の約67%の第1,2,4,5航空軍の軍用機約4500機と言う途轍も無い軍勢である。

対するソヴィエト軍は西部の国境に全軍の約87%に当たる280万、陸軍216個師団、航空機約6000機を保有していたが、其の兵器や装備は旧式な物が多く、ドイツ軍の兵器に比べて性能が劣っていた。

更にドイツ軍に奇襲攻撃をかけられた為、各方面でたちまち崩壊して大損害を蒙った。

開戦1年目にドイツ軍は目覚ましい戦果を上げた。

7月16日、Smolensk占領。31日、占領地域がNovgorodに到達。 8月2日ウクライナ方面で圧勝。

5日よりOdessaを包囲(10月16日占領)。 

9月8日よりLeningradを包囲(44年1月末まで)。

9日よりKiyevを包囲(19日占領)。

ソヴィエト南西方面軍壊滅、捕虜約65万人。 

10月12日Vyazma、Bryansk付近で2大包囲戦を敢行し、ソヴィエト西方面軍主力を撃破、捕虜約60万人を取る。

ドイツ軍3方向より首都Moskvaに迫る。

10月末、Moskva第1防衛線を突破。 

12月1日、ドイツ軍Moskva郊外25kmまで迫る。

此の頃までは順調に進んでいたのだが、冬の到来により約-30度にまでなる厳寒と泥沼化した地面の上でドイツ軍は動きが鈍り、此れを機に12月5日からソヴィエト軍が大反撃に転じた。

厳寒とソヴィエト軍の反撃によりドイツ軍は大損害を受け、130kmも押し戻されるのである。

Hitler総統によるソヴィエトの莫大な国力、及びロシアの厳しい気候に関する情報収集、計算、予測は余りに楽観的であった為、現地の状況を正しく把握出来ていなっかったのである。

そして此の人類史上例を見ない程の大規模な戦争は、予定の6カ月以内に勝利で終わるどころか、「泥沼の長期戦」へとドイツ側の予想に反する展開をし、遂には絶望的な状況へと追い込まれるのである。

此の独ソ戦に依って殺害されたロシア人は1800万~2000万人位と計算されている。

戦争最後の年1945年4月にはドイツは西から米英連合軍、東からソヴィエト軍に追い詰められ、30日にはHitler総統が自決し、Nazis政権は崩壊。 

5月7日、ドイツは連合国に対し無条件降伏したのである。

古代中国の兵法書「孫子」に「絶対避けるべき戦三つ有り。即ち、勝ち目無き戦、長引く戦、利益無き戦。」 とあるが、時代を超えても正に至言也と言える。

 

歴史を考察する際、「たら・れば」と仮定をしても虚しいのだが、余の個人的な考えではドイツは1940年6月の時点で西ヨーロッパ最大の国フランス、其の他の欧州諸国を征服しているので、ソヴィエトとは1939年8月23日に締結された(上辺だけの)”Deutsch-sowietischer Freundschafts u, Nichtangriffspakt”(独ソ友好不可侵条約)を戦略的利益の上で保ち、イギリスとの戦争に専念し、イギリスと友好関係にある※アメリカが参戦する以前にイギリスを屈服させれば良かったのである。

(※当時のアメリカでは国民の大多数が戦争反対であったし、ドイツと提携する複数の大企業やドイツ系アメリカ人達で構成される極右組織もあったので、アメリカ政府はドイツとの戦争を回避したかった。)

実にアメリカの参戦以前、イギリスはドイツとの戦争で滅亡寸前まで追い詰められていた。

ドイツがフランスとイギリスを征服したなら、両国の保有するアフリカ、アジア、其の他の地域に於ける広大な植民地(先の大戦後に失ったドイツの植民地を含む)を全てKriegentschädigung(戦争賠償)の名目で差し押さえる事が出来た筈である。

さすればドイツは世界中に広大な植民地と莫大な資源を領有して、アメリカ、ソ連の様な大国と互角の国力を獲得出来たのである。

 

第二次世界大戦が終結して76年の時が流れたが、戦後直後に組織されたUnited Nations(国際連合)、North Atrantic Treaty Organisation(北大西洋条約機構)、そしてEuropean Union(ヨーロッパ共同体)の東ヨーロッパへの拡大に依って、最早ヨーロッパに於いて戦争は起こらないだろうと信じられていた。

ところが今年2022年2月24日、ロシア軍が隣国のウクライナへ侵入したことに依ってヨーロッパに於ける戦争が再発してしまったのである!

余は此の事態に関する報道を読み聞きして、ロシアの大統領(事実上の独裁者)プーチンの政策、戦略がどうしても前記のHitler総統による政策、戦略と類似していると思われてならないのである。

例:

・ウクライナのCrimea半島の住民の多数がロシアへの帰化を望んでいるとこじ付け、2014年3月18日、当半島を無理やり併合した。 (かつてドイツは1938~39年にかけてオーストリアとチェコをドイツ系住民を救済すると言う理由で併合した。)

・Putinは今年2月からの侵攻の理由として、「ロシアに国境を接するDonbass地方のロシア系住民が迫害されている。」「ウクライナが先にロシア国土に攻撃を仕掛けて来た事への報復だ。」と国民に偽りの発表をして軍を投入した。 

(Hitler総統は「国境のポーランド兵がドイツ国土に対し銃撃を加えて来た。」と国民に説明し、其の報復として、ドイツ軍をポーランドに進行させた。)

・占領した地域の住民を洗脳してロシア化を推し進めている。 等

 

1917年10月25日に「ロシア革命」が起き、ロシア皇帝Nikolai.Ⅱ世の退位と其の帝国政府が崩壊して、世界史上初の社会主義国家ソヴィエト連邦が成立した。

此の新国家の中にウクライナも「バルト3国」(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)と同様に編入された。

1929年頃からStalinの独裁政権になって以来、ウクライナではソ連からの弾圧、粛正を受け、大部分の国民が貧困状態に陥り、大量の人々が「反政府分子」として逮捕、処刑された。

ソヴィエト政府に不満や恐怖を抱いていたウクライナ国民は1941年にドイツ軍が侵攻して来た時には、彼等が自国を占領したにも拘わらず、ドイツが自分達をソヴィエトの恐怖政治から救い出してくれる「解放者」として受け入れた。

そしてドイツ軍に抵抗するどころか、寧ろドイツに対して協力的な態度を示したのであった。

此れはウクライナ国民がFaschismus(全体主義)を一方的に肯定したのではなく、ソヴィエトの支配から脱出し、独立する事が主な目的だったのである。

其れは丁度、同時代にフィンランド(1917年12月6日、ロシアより独立)が自国を侵略して来たソヴィエト軍を撃退し、独立を守る為にドイツと同盟を結んで”Achsenmächte”(枢軸国)としてソヴィエトと戦ったのと似ている。

 

当初此のニュースを聞いて、余はロシアの身勝手で理不尽な侵略に対し憤りを覚えたと同時に、気の毒ながらウクライナは2週間程で征服されてしまうだろうと予想していた。
ところがロシアがウクライナに戦争を仕掛けて以来、既に4カ月が経過するのだが、ウクライナ軍と国民は今でも祖国防衛の為、必至の覚悟で圧倒的な兵力のロシア軍に対し善戦している姿は誠に感動に至るのである! (其れに対しロシア軍は士気が低く、失策も多い。)

兵力で遥かに劣るウクライナ軍が善戦し、兵力で勝るロシア軍が苦戦している主な理由として次の事が挙げられる。

・ウクライナ軍は最新技術を西ヨーロッパ諸国、及びアメリカから導入して利用している。

(例:最新兵器、ドローン、コンピューター技術、SNSによる宣伝戦略)

・ロシア軍は時代遅れの戦術を立てている。

・ロシアが国際社会に於いて厳しい批判と経済制裁を受け、軍事的、経済的に孤立している。

そしてSWIFT(国際銀行間通信)からロシアが除外された事、更には北欧のフィンランドとスウェーデンがNATO加盟を申請している事は、本来NATO拡大を阻止したかったロシアにとっては大誤算であった。

 

次にロシアが戦争を止める条件として次の事が挙げられる。

*ロシア軍のウクライナ於ける戦闘での決定的な敗北

*ロシア政府が内部から転覆する事

*ロシア経済の大没落

*大多数のロシア国民の貧困化  

*(場合によっては)Putinを暗殺する

 

しかしながらロシア・ウクライナ戦争が長期化する事によって、世界各国では小麦、其の他の食料品、天然ガス、其の他のエネルギー、燃料の著しい価格高騰が経済に深刻な打撃を与えている。

特に此の現象はロシアと比較的関係の多いヨーロッパ諸国(ドイツ、ポーランド、其の他の東欧諸国)で顕著に見受けられ、各国でデモが起きている。

更には南米、アジア、アフリカ諸国でも物価高騰と食糧危機を理由にデモや暴動が起きている。
ヨーロッパの主要国(ドイツ、フランス、ポーランド、イギリス、等)とアメリカが軍事物資を供給しているとは言え、流石にウクライナ側にも損害や消耗が深刻なまでに達しているのが気掛かりである。

此度の戦争が2年以内にウクライナが優位な状態で、NATOやUN等の国際的交渉によって「短期決戦」で勝負が付くのなら、ウクライナがロシア軍の占領地域を開放し、自国の領土を防衛出来る。

其の反対に「長期戦」に陥った時、欧米諸国の軍事的且つ経済的支援にも停滞や疲弊が現れて来ると、兵の数や物資の量で圧倒的に勝るロシアに有利に傾く事は否み様が無い。

そして此度の戦争が「第3次世界大戦」への火種ともなる事が一部の軍事研究家や社会学者の間で懸念されている。
我々も此の戦争を「他人事」又は「対岸の火事」として捉えず、ウクライナの国民の苦難に理解、同情を示し、其の上「平和の尊さ」を改めて認識し、守り通して行かねばならないのである!

 

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今年の3月8日、大阪の古美術商から余の最愛の浮世絵師・安藤広重殿原作「東海道五十三次」の内、第17番「由井・薩埵嶺」並びに第19番「江尻・美保遠望」の手摺りの版画が届けられた。

此の2点の作品は「東海道五十三次」の中でも特に余が気に入っている駿河の山水のある美しい眺望を描いた風景画である。

更に同月10日には同様に第1番「日本橋・朝之景」と第55番「京師・三条大橋」が届けられた。

第1番は「東海道五十三次」の中で最も有名な作者の地元・江戸の風景で、55番は東海道の大尾(締め括り)の京都を描いている。

尚、これ等の作品は題名こそ「五十三次」となっているが、実際の作品数は計55点ある。

余は此の作品の紙の保存状態からして平成時代の初期頃に制作されていると推定するのだが、これ等の制作法は絵師・広重殿の(江戸)時代とほぼ同じ手法、即ち「絵師」が原画を描き、其れを元に「彫師」が木版を造り、其れを「摺師」が顔料を載せて「ばれん」で摺って印刷する手順で仕上げている。

流石に江戸時代以来の伝統の手摺の版画は、機械で印刷した画像とは全く異なる天然顔料の「色合い」、独特の深みのある「味わい」、そして手作りの「温もり」がはっきりと感じられる。

又、此の4点の版画の表面を触ってみると、紙を版木に押し付けて摺る事によって出来る凹凸が認められるのである。

余は広重殿の画集「東海道五十三次」、「木曽街道六十九次」、「名所江戸百景」(全て集英社)、「富士三十六景」(二玄社)、及び絵葉書「近江八景」を所蔵している。

いつもの好奇心で此度入手した版画と此の画集の同画像4点とを比べて見ると、色や細部に僅かに違いがあるが、広重殿の原画を忠実且つ見事に再現していると評価出来るのである。

 

余が広重殿の作品を初めて知り、興味を持ったのは早くも7歳の頃である。

其のきっかけと言うのは、何とあの「永谷園」が製造販売しているインスタント茶づけ(ふりかけ)に同封されていた「東海道五十三次」のカードなのである。

流石に余も当時は小学校1年生であったので、後に習得する美術理論、歴史、地理、等の学術的知識はまだ無かったが、少年なりの感性でこれ等の小さなカード(14.3×6.3cm)に印刷された広重殿の作品を見て興味、感銘を受けて集めていたのを今でもはっきりと覚えている。

僅か3歳の頃より絵を描き始めて天性の才能を発揮していた余が広重殿の作品を斯(か)くも早く知り、彼の作品が余を画家への道へ誘(いざな)い()、そして後の余の代表作Berlin, Brandenburg, Ost,West-Preußen, Pommern地方の名所・文化財の連作を生み出すInspiration(ひらめき)の原点にまでなったのである。

因みにこれ等のカードは「永谷園」が1965年に初版を発行して以来、高い人気を得て、「浮世絵シリーズ」(安藤広重、葛飾北斎、喜多川歌麿、東洲斎写楽)のみならず洋画の「印象派シリーズ」(E.Manet, P.Cézanne, E.Degas, G.Seurat, A.Renoir, V.v.Goch, P.Gauguin)、「竹久夢二」、「日本の祭り」までもが発行され、実に1997年まで続いた多種多様な大変息の長い「おまけ」であった。

そして民間からの要望に応えて、2016年11月より広重殿の「東海道五十三次」のみが再発行されている。

此れ以外にも郵便分野に於いて特殊切手「国際文通週間」の図柄として、広重殿の「東海道五十三次」の図柄が採用されているので、余も切手コレクターの1人として約30枚所有している。

 

扨、是より原作者の絵師・安藤広重殿の生涯について書き記して行く。

広重殿は寛政9年(1797)に江戸の八代()河岸定火消()同心(やよすがしじょうびけしどうしん)・安藤源右衛門の長男として生まれた。 本名は安藤重右衛門と称した。

文化6年(1809)2月、母上が御逝去され、同月に父上が隠居されて、僅か数え13歳になった時に家職を継ぐ事になるが、同年12月には父上までもが御逝去された。

幼少の頃より絵がお好きで才能を表し、絵師・歌川豊広(1774~1829年)の元に入門される。

翌年(1812)に師匠の苗字(芸名)と自分の名をそれぞれ採って「歌川広重」の名を与えられ、文政元年(1818)に一遊斎の号を称して絵師として世に出られた。                

文政4年(1821)には同じく江戸の火消同心・岡部弥左衛門の娘と御結婚された。               

文政6年(1823)には、養祖父(安藤家方の)嫡子・仲次郎に家督を譲り、御自身は「鉄蔵」と改名し其の後見となられたが、まだ仲次郎が若干8歳であったので引き続き火消同心職の代番を勤められた。 

本業の絵画制作に於いては先ず「役者絵」から始め、やがて「美人画」も手掛ける様になるが、文政11年(1828)師匠の豊廣の没後は彼の根幹主題となる「風景画」を主に制作する様になられた。

天保元年(1830)画号「一遊斎」から「一幽斎廣重」と改められ、「花鳥図」をも描かれる様になる。                         天保3年(1832)、家督を継がせた仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専念する事が出来る様になった。

此れを機に「一立齋」(いちりゅうさい)と画号を改め、又は「立斎」とも号した。                                       入門から20年以来、師匠は豊廣だけであったが、此の頃大岡雲峰に就いて「南画」を修めている此の天保3年(1832)に公用で東海道を旅し、絵を描いたと伝えられる。

(現在の研究では此の事は疑問視されている。)                                            翌、天保4年(1833)から代表作「東海道五十三次」を発表され、江戸にて大人気を博される。 

此れにて広重殿の風景画家としての名声は決定的な物となった。                     翌年以降も種々の「東海道」シリーズを発表された。

天保6年(1835)には「近江八景」を発表。                         天保9年(1838)から翌年にかけて「木曽街道六十九次」の制作を進められたが、途中より1841年頃まで一時中止の時期はあったものの天保13年(1842)に完成させた。

 第46番の1・ 中津川

(此の画集の内45点が広重殿による作品である。)                                    安政元年(1854)に発生した「安政東海地震」、更に立て続けに、翌、安政2年(1855)に発生した「安政江戸地震」によって江戸の町は壊滅的な損害を被った。  

此の大惨事により江戸の住人達が困窮と絶望に打ちひしがれていたのを目の当たりにした広重殿は、地元の人々を勇気付けようと安政3年(1856)に「名所江戸百景」を制作し発表された。

 第11番・上野不忍ノ池(春)

 第49番・増上寺塔赤羽根(夏)

 第78番・鉄砲洲築地門跡(秋)

 第99番・浅草金竜山(冬)

此の翌年以降も各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けられており晩年の代表作となった。    

更には短冊版の「花鳥画」に於いても優れた作品を出し続けられ、其の他、肉筆画(肉筆浮世絵)、歴史画、張交絵、戯画、玩具絵、摺物、団扇絵、双六、絵封筒、そして絵本、合巻や狂歌本等の挿絵も制作されている。  

これ等の肉筆画、印刷された作品を合わせると総数で約2万点にも及ぶと言われている。 

安政5年(1858)には最後の作品集「富士三十六景」を発表され、同年の旧暦9月6日(新暦10月12日)享年62歳で其の生涯を閉じられた。 

死因はコレラであったと伝えられている。                  

広重殿の墓所は東京都足立区伊興町の「東岳寺」にあり、法名は「顕功院徳翁立斎居士」と称する。

 

興味深き事に画家としての広重殿と余を比較してみると、実に多くの共通点が見出されるのである。

第1に互いに「士族」出身の長男である事: 広重殿は江戸の定火消同心・安藤家の生まれ、余は源義仲公の実の妹・宮菊姫の流れを汲む奧山家の生まれ、親族にも、讃岐の国の大名・蓮井家、松平家高松藩の家老職・市森家、等がある。

第2に幼少の時に父親が他界している事: 即ち広重殿は13歳の折、余は10歳の折である。

第3に御互いに一国の首都で活躍した事: 広重殿は江戸(現在の東京)、余はBerlin(ドイツの首都)である。

第4に根幹主題が風景画である事: 広重殿は江戸を中心とした日本各地の名所の連作、余はBerlin, Brandenburg, Ost,West-Preußen、 Pommern地方、其の他ドイツ各地のの名所・文化財の連作をそれぞれ描いている。

第5に御互いに使っている絵の具に共通の顔料がある事: 其の名は広重殿の時代には「べろ藍」、余の油絵の具はドイツ語で”Preußisch Blau”と呼ばれる。

実は広重殿が空や水の表現に使っていた此の「べろ藍」は元々Berlin(当時は”Preußen王国の首都)で発明された藍色の顔料の事で、日本に初めて輸入された時には「ベルリン藍」を短縮して「ベル藍」、更に此れがもじれて「べろ藍」となった次第である。

 

実際の言い伝えによると、広重殿の人柄は教養豊かにして、行儀良く、言葉丁寧で、謙虚で人当たり良く、几帳面で、節度ある規則正しい生活を営まれたていたそうである。

此れに対し同世代の浮世絵師・葛飾北斎が傲慢で不摂生でだらしない(場合によっては淫らな)不安定な生活をしていたらしい。

要するに此の2人の「天才」は人格に於いても生活態度に於いても正に対照的であったと言える。

本来なら医学的理論からは、広重殿の様な生活習慣を採っている方が長生き出来るのだが、実際の処、北斎は放蕩生活をしていたにも拘わらず、何と89歳まで生き延びたのであった。

「人間(人生)五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如く也」と言った時代からすれば、驚異的な「大往生」であったと言える。

此れ又言い伝えによると、広重殿が北斎の才能と作品に感銘を受けて、自ら本人を訪ねて行った時、広重殿が丁寧に挨拶と自己紹介をすると、無礼にも北斎はいきなり広重殿に筆を投げ付けたそうである。

此の北斎の広重殿に対する態度を心理学的に分析してみると、37歳も年下であった広重殿を見下したのではなく、其の才能に脅威を感じていたのかも知れない。

 

芸術家を評価するに於いて、其の作品は最も大事である事は言うまでもない。

しかし芸術家の人柄や生き方も大事な要素であると余は思うのである。

絵は人也」(絵画は作者の人格を反映する)と言う格言がある様に、Kunstpsychologie(芸術心理学)と云う芸術作品に秘められた芸術家のPsyche(心理)、Persönlichkeit(人格)、Idee, Meinung(思想)、Emotion(情念)、其の他を分析、解析する学問がある位である。

此の学術を習得する事によって、芸術作品をVisuelles Element(視覚的要素)だけで観察するのみならず、Geistiges od, spirituales Element(精神的要素)も一緒に把握出来るのである。

余自身も我が母上から「人間の能力も大事だけれど、人柄はもっと大事よ。」と何度も教えられているし、かつて広島カープの「黄金期」の主力選手で「国民栄誉賞」受賞者である衣笠祥雄氏も、其の著書「限りなき挑戦」の中で「ぼくはプロ野球選手は、プレーヤーである前に、まず健全な人間であれ!と叫びたいのである。グラウンドでどんな大記録を作っても"人間失格"ではぼくは価値が無いと思う。」と書かれている位である。

では、此の様な事を書く余の人柄とは如何なる物かと言うと、「高慢な自惚れ屋」である事以外は、人柄や生き方に於いても広重殿と共通しているのである。

 

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此度は全く個人的な3月の「近況報告」の様な記事を書いて行く事となる。

余は健康管管理の為と気分転換と幾分のNarzißmus(自己愛)から、ウェイトトレーニング、格闘技等の練習を週5日のペースで続けており、今年で通算37年になる。

以前は冬の間もウェイトトレーニングを続けていたのだが、ここ3年以来ウェイトトレーニングの場所である(ボロ)別荘の老朽化が急激に進み、屋根や壁から冷たい隙間風が入る様になった為、石油ストーブ1台、電気ヒーター2台で暖房をしても、十分に温度が上がらない。

其の上、余が冬でも短い水着とリストバンドだけを着用して運動する事にこだわっているので、止むを得ず「冬休み」を採る事にしている。

此の「冬休み」に出来た時間を利用して、昨年の12月には我が館(実家)の色褪せた台所の窓の格子、並びに玄関の窓の格子に着いている多数の小さな発疹の様な傷を、自ら調合した塗料で修理した。

そして毎年の如く、我が家の駐車場の庭に生える木々(欅、柘榴(ざくろ)百日紅(さるすべり)、薔薇、葡萄、木瓜(ぼけ)、紅葉、山法師、老鴉(ろうやかき)、等)の大量の落ち葉の処理をして、剪定をしておいた。

(当ブログの記事「我が家の駐車場の庭に咲く野薔薇とドイツ文化の中の薔薇」並びに「我が家の駐車場に生える葡萄の木と文化史の中の葡萄」参照)

更に今年の2月には我が館の事業所の入り口の天井の塗装、バルコンの目地の修理、玄関前のタイル縁のコンクリートの修理、室内の壁紙の一部の貼り付け、3月には館の西側の金属製屋根の錆取りと塗装、そして玄関口の照明器具の和紙を張り替え、更には我が家の車庫の金属部の塗装、駐車場の地面の白線の修理、等の作業を全て余1人で完了した。

普通の人ならば此れだけの作業は専門業者に委託するのだが、そこへ行くと余は芸大で絵画/グラフィック及び建築をも学んでいる画家であり、美術工芸品、骨董品の鑑定、収集、修理も行っているだけに、自分自身でいとも簡単に成し遂げられるのである。

 

今年になって昨日3月7日より初めてウェイトトレーニングを再開した。

4カ月振りに実家から自転車で(ボロ)別荘までの道のり(6km)をつい力んでスピードを出し過ぎたせいか、3分の2程走った処で、少々息切れしそうになったが、後は根性で走り切った。

(ボロ)別荘に着いて20分程一服してウェイトトレーニングを始めたのだが、無事本日全てのメニューを完了する事が出来た。

久方振りのトレーニングを終えて帰宅して夜中になっても、(昨年の5月3日同様に)肉体的には軽い筋肉痛と疲労感がある程度で、寧ろ精神的には安心感と満足感に満たされている。

そしていつもの様に自分の美しい顔や裸体を鏡で見ながらうっとり見惚れている有様である。

プロスポーツマンですら長期休養した後に現場に復帰すると、鈍った感覚を取り戻すのに幾分時間がかかるとの事である。

まして普通の人間なら1か月以上も普段続けているスポーツを休むと、体が鈍(なま)る()のが当然である。

ところが余は何とも不思議な事に、常人離れした回復力を持っている。                         (此れ又昨年同様に)「よくぞ斯(か)くも長きに渡ってを続けて来たもだ!」と我ながら感心している。

其れでも町(東区)のど真ん中に立つ館に住んでいる余にとっては、道中で見える大河と山の風景、そして別荘の周りの広々とした田園風景を見て、ウェイトトレーニングと格闘技の練習をしたり、庭に生える草木を見る事が、何よりの気分転換になるのである。

又、「人間は体で年を取るのではなく心で年を取る。」と言う格言があるが、余も此の格言には同感出来るのである。

余が「初老」と呼ばれる程の年になっても尚、誰からも容姿、体力共に30代前半と認識されるのは、ただ医学知識を元に徹底して健康管理をするだけでなく、やはり自分の人生に於いて確固たる目的や、全身全霊を以て取り組める物事(仕事)があるからではないかと思われる。

3月11日に週5日の最後のメニューを終えて、今年初めてのウェイトトレーニングを完了した。

ドイツと日本を毎年行き来していた時代(1989~2003年)と同様に、ウェイトトレーニング再開第1週目が一番緊張するし、此れを完了すると一番安心感と満足感に満たされるのである。

(更に詳しくは同ブログの記事「久方振りにウェイトトレーニングに復帰した事, 及び我が容姿について」)参照)

 

我が家の別荘には特に我が親父殿と隣に住んでいた母上方の祖母の思い出が沢山ある故、老朽化しても余が自分で時折修理を施して今まで持ち堪えて来たのだが、最近では前記の通り悲惨なまでに老朽化しているので、遂に新築する事を決心した次第である。

(建築資金も既に用意してある。)

ところが我が家の別荘前の道は自動車が通りぬける事が出来ない程狭い故、「建築基準法」を満たしていない事が、我が館を(余のデザイン・設計を元に)新改築してくれた建築会社の調査で判明した。

即ち別荘を新築する為には、我が家の別荘の敷地に建築業者の車両が出入り出来る道筋を確保しなければならないのである。

そこで別荘前の道に平行に流れる用水を跨いで向こう側の道路に橋を架ける事を建築業者が提案してくれたのだが、橋を架ける費用は思いの外高く、普段使わない橋の為に其の様な出費をするのは非合理であると思えた。

そこで余は別荘の北と東を囲む農地(田んぼ)を買い取り、道に面した部分を40~50cm程埋めて、道を拡張する以外に選択肢は無いと思ったのである。

其の為今年の1月半ば頃より我が家の別荘に隣接する農地(田んぼ)を買い取る事を、我が家の既存の農地(約1000坪)を耕作してくれている友人の鶴海さんに相談してみた。

何と鶴海さんは親切な事に此の法的な手続きの為に自分の親戚である司法書士さんを紹介してくれたのである。

又、鶴海さんは地元の町内会長も務めている関係で、我が家の別荘に隣接する農地(田んぼ)の持ち主さんをも知っていたので、余の代理人として此の話を進めてくれたのである。

すると田んぼの持ち主さんは快く田んぼを余に譲渡してくれるとの事である。

余は鶴海さんと此の田んぼの持ち主さんが到着する前に、我が館の近所にある司法書士さんの事務所を訪ねて御互いに自己紹介をした処、何と彼も我が家と同じ(天台宗)成願寺が菩提寺である上、寺と同じ地区に実家があり、現住職の兄上と元同級生であるとの事である。

此の事から一気に仲良くなり、其の後到着した鶴海さんと農地(田んぼ)の持ち主さんと4人で農地売買の件で話し合い、各手続きは司法書士さんが行ってくれる事になった。

其れ以来此の事は順調に進展し、予定では3月20日頃には法的に譲渡が成立する見込みである。

 

実を言うと余は子供の頃より此の農地(田んぼ)で稲が無い時期にはよく遊んでいた事、其の他にも我が別荘の庭でエンドウやメロンや瓜を育てる時に使う藁を田んぼから貰っていた事、更に別荘と田んぼの境に大量に群生するアヤメ、カキツバタ、菖蒲の花を摘んで母上の趣味の生け花の為に家に持ち帰っていた等の多くの思い出がある。

故に「いつの日か此の農地(田んぼ)を買い取って我が家の私有地に出来ないだろうか。」と言うのが我が少年時代からの願いであった。

「今では農地価格が所謂「バブル経済期」に比べて大幅に下落しとるし、其れでいて将来この辺の農地は地価が上がる見込みやから、買い取るには良い機会なんや。」と鶴海さんも言ってくれているし、獲得後此の田んぼも同様に鶴海さんが耕作してくれるのである。

鶴海さんには今までの我が家の農地(田んぼ)の耕作のみならず、新たな田んぼの獲得にまで協力して頂き誠に有り難き限りである。

御礼として彼の生まれ故郷の徳島県の伝統工芸「大谷焼」の茶器揃えを進呈しておいた。

かくして我が家の所有する農地は合計約1850坪になり、米の生産高も約2倍にまで増えるのである。

そして我が家の別荘の新築への重要な第1歩を踏み出せたのである!

 

昨年2021年3月10日に我が親父殿(1921~1980

年)の生誕100年を迎えた。

大日本帝国時代、此の日は「陸軍記念日」であった。
此れは1905年(明治38年)の日露戦争の折、3月10日の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日に因んでいる。
そして第二次世界大戦中、我が親父殿は暗号解読官(少尉)であった。

余は此れを機に、親父殿の位牌の金と黒漆を新たに塗り直してあげようと思い、行きつけの仏壇店に見積もりをしてもらった処、最近の金相場の高騰(2000年頃に比べて6倍以上)が影響して、位牌を新調するより高くつくとの事であった。

ならば位牌を新調すれば良いのでは?とも考えられるのだが、余としては親父殿の本来の位牌を処分せず大事に仏壇に納めて供養して行きたいので、塗り直しは取りやめにする事にした。

ところが3月15日にあるドラマを見ていると、其の中に墓参りをする場面があって、墓碑銘に金を入れた墓石が見て取れた。

此れを見て位牌の塗り直しをしなかった代わりとして、我が家の先祖墓の墓碑銘と家紋(丸に九枚笹)そして霊標の題名に金箔を施す事を思い付いたのである。

早速、余が親しい仏壇店の店員さんに此の事を相談してみると、余の予想より遥かに安価に出来る様なので、丁度「彼岸会」も近いので此れを業者に実行してもらう事にした。

一部の人が見れば、先祖墓を金箔で飾り付ける等、見栄や道楽に思われるかも知れないが、余は我が家の清和源氏の流れを汲む家柄と家紋に誇りを持っている事から、どうしても一般庶民と同じ墓では満足が行かないのである。

 

早稲田大学・考古学・谷川章雄教授によると、「18世紀ごろから家を強く意識し始めたことを背景として、各家で墓標を造立することが広がり、この時期に院号・居士・大姉など上位の戒名を持てない家では夫婦、兄弟姉妹、親子など家族をまとめ1基の墓標にまつることが多くなる。(中略) 一方、院号・居士・大姉などの戒名を持つ(名)家では、18世紀初頭ごろから家族が個人の墓標を造立することの方が一般的であった。 言い換えれば、こうした墓標のあり方が家の格式の表徴であった。」との事である。

参考に我が家の先祖墓では今も尚、明治~昭和初期にかけての個人の墓標が10基も残っている。

又、先祖墓の墓碑銘と家紋、等に金箔を施す習慣は全国的には大変珍しいのだが、九州の北西部、特に長崎県では多く見受けられる。

其の原因とは当県が江戸時代より所謂「出島」によって清国(中国)と交易をしていた事で、此の国の文化が伝承され、先祖に敬意を持って供養する意味で「高貴」を象徴する金箔を墓に施す様になった。

 

余は自分の家柄に誇りを持つ分だけ、普段より人一倍先祖を敬い供養しているつもりである。

此度、先祖墓を綺麗にして改めて明治元年(1868)以来伝わる我が家の「奧山家過去帳」を閲覧して、そこに記入されている先祖の俗名、戒名を墓地にある先祖個人の墓標に刻まれている物と比べて見た。

そして直接は御目にかかる事の無かった御先祖様方へ、遥かなる思いを寄せて引き続き敬い供養させて頂こうと思った次第である。

我が奧山家は元々美濃の国「遠山荘」に起源を有しており、明治維新より前の「過去帳」が残されていない事から、江戸時代の終わり頃までは現地を拠点として住んでいたのだと推測される。

いずれ自分が臨終した後はここに我が遺骨が納められる事も考えれば、ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家)にまでなり、其の作品と名前を未来永劫に残せる者として、其れに相応しいだけの墓にしておきたいのである。

 

追伸:

2020年以来、新型コロナウィルスが世界中に蔓延し、今年2022年3月4日の時点で全世界の通算感染者数は4億4206万人以上、同じく死者数は598万人以上と驚異的な数値が確認されている。

そして今年の2月24日以来、ロシア軍がウクライナを侵略し、同国の民間人の死者は2000人以上、難民の数は100万人以上のまで上り、地元に残るウクライナ国民は今でも生命と財産を脅かされている状況である。 (此れに対しにロシア軍の死者は5000人以上、反戦デモ逮捕者は1万人以上)

更に此の戦争が影響して原油価格の高騰、株価の下落、両国からの小麦の輸出の停止、等が世界経済に深刻な打撃を与えている。

これ等の悲惨な出来事で世界中で多くの人々が感染症や貧困に苦しむ中、以上の様な事を書いていると、「全く士族出身の富裕層と来たら、毎年労働もせずに株や証券や不動産で儲けて、私有地を広げて、資産物品(美術工芸品、骨董品)を買い集めて、自分の姿に自惚れてるんだからいい気なもんだ! 他人の難儀を何とも思わんのか! 人の心があるのか?」と妬まれたり、非難されるかも知れない。

あるイギリスの貴族の言った言葉>Every Words from Nobility take a low fellow how irony.<(貴族のどんな言葉も下衆には嫌味に聞こえる。)は正に至言也と思える。

とは言え余も自慢をしている訳でも、困窮者を無視している訳でもない。

故に「ロシア、ウクライナ戦争」については後程、人の為になる事を真摯に書いて行く所存である。

 

其の後、16日午後11時36分、宮城、福島両県で最大震度6強の地震があり、9県に渡り死者3人、怪我人220人が出ているとの事である。

此の事には取り急ぎ御見舞い申したい!

一部の被災地では過去に起きた地震と同様に、建造物の破損、断水、停電、交通の遮断、等の損害を被っている様である。

被災者の方々は暫くの間不自由な生活を余儀なくされるかも知れないが、一日でも早く復旧が進み、本来の日常生活を取り戻される事を願って止まない。

 

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今年11月12日、広島カープの監督として1975年から85年まで11年間指揮を取り、チームをリーグ優勝4度、日本一3度に導いた古葉竹識氏が享年85歳で御逝去された。

昨日ウェブ上の此のニュースで知り、驚愕したと同時に記事を読みながら深い悲しみに襲われた。

何よりも先ず心よりの哀悼の意を表すると同時に、来世での御冥福を御祈りしたい!

 

古葉さんは1936年4月22日に熊本市西区に御生まれになった。

御父上が鋳物会社を経営されていたので裕福な家庭であったが、第二次世界大戦後に戦後不況の煽りを受けて御父上の会社が倒産してしまい、裕福な暮らしが一転してしまった。

心理学的に考察すると、此の少年時代の甘苦共に経験された事は後の古葉さんの人生に大きな影響と教訓を与えたのではないかと思われる。

実に余は多くの偉人、英雄、人傑の伝記を読んだり、生い立ちを調べて来たが、大抵の場合歴史に其の名と偉業を残せる御仁達は少年時代に「甘」「苦」共に経験されている事が多いのである。

即ち人生には(時代劇「水戸黄門」の主題歌の様だが)「楽」ありゃ「苦」もあると言う事、更に「成功」と「失敗」、「勝利」と「敗北」そして「喜び」と「悲しみ」もある事を幼少の頃より経験しているからこそ、”Persönlichkeit”(人格、人間性)を早期に熟成出来たのだと考えられる。

「幸福な場合」と「不幸な場合」、それぞれ如何に振る舞うかに依って其の人の度量が計り知れるのである。

即ち、幸福な時には有頂天にならず、不幸な時には絶望しないと言う事である。

又、古葉さんは広島カープの球団史上最高の名監督であるのみならず、彼の生年月日は余の大恩人にして親友である我がドイツの地元・首都Berlinの都議会議長であり国家最高勲章

”Bundeskreuz”の叙勲者であるWolfgang Mellwig閣下(1936~2013年)、並びに我が最愛の”Paris Collection”の天才ファッションデザイナーYves Saint Laurent氏(1936~2008年)と同い年である事、そして我が尊敬するPreußen王国出身の天才哲学者Immanuel Kant先生(1724~1804年)と同じ誕生日である事も、余にとっては特別な存在なのである。

 

古葉さんの「野球人」としての経歴を振り返って見ると、熊本県立済々(せいせい)黌高校を卒業後1955年に専修大学に進学された。          

其の後、日鉄二瀬の濃人渉監督から日鉄鉱業への入社を勧められ、専修大学を中退し日鉄鉱業に入社された。     

(社会人野球チーム)日鉄二瀬では1956年から都市対抗野球に2年連続出場された。

1958年に広島カープに入団。

3年目の1960年、61年には打率でリーグ5位に入る等、2番打者として年々成績を向上させられた。1963年には巨人の長嶋茂雄氏とシーズン最後まで首位打者を競われた。

1964年、68年と2度の盗塁王を獲得し、 オールスターにも3度出場され、2度もMVPを獲得された。

1969年は入団以来最少の68試合出場に終わった。

1970年、野村克也選手兼監督 に請われて南海ホークスに移籍し、翌年には現役を引退された。

72年73年には同球団の走塁コーチを務められた

1974年には大学の先輩且つ広島同期入団の森永勝也監督の要請で、古巣・広島に一軍守備コーチとして復帰される。

 

そして1975年には15試合で帰国したジョー・ルーツ監督の後を継いで5月に監督に就任された。

広島カープが球団史上初優勝を成し遂げた此の年は、古葉監督の指揮下で、山本浩二氏、衣笠祥雄氏、三村敏之氏、水谷実雄氏、道原博幸氏、等の主力選手に加えて、地元広島出身の大下剛史氏、外人選手としてG・ホプキンス氏、R・シェーンブラム氏、等を獲得して、一気に12球団一と言える程の強力な打線を組んだ。
而も其の選手達の多くが快足で、盗塁も多く期待出来ると云う強みもあった。
因みに「ヘル」とは今では広島カープの象徴となっているが、実は帽子やヘルメットが濃紺からになったのも1975年からで、此れは此の年から(古葉監督の前任として)新監督に就任したルーツ氏が「此のチームには情熱が欠けている。情熱を表すをユニフォームに取り入れる事で選手を鼓舞出来る。」との提案によるものである。
衣笠さんの自伝や御話によると、当時の日本の野球ではい帽子など考えもよらなかったので、多くの選手達は此の事にかなりの違和感を抱いていたらしい。
ところが此の年からカープは目覚ましい快進撃を続け、広島県内では男性や子供達の間で此のカープの帽子が大流行し、所謂「ヘル旋風」とか「ヘルブーム」と形容された位であった。
其の後1977年には帽子のみならず、アンダーシャツやユニフォームのロゴや背番号も、従来の濃紺にの縁取りだったのが全てになり、今日に至っている。
「色彩学」に於いては人間に情熱や勇気や決断力を与える心理的効果があるとされているが、誠に此の事でも実証されていると言える。
実は余が此の年からカープファンになった一番の理由は、強くなった事よりもチームカラーが余の最愛の色「」に統一された事なのである。



余も名将・古葉監督の指揮下で1979年、1980年の2年連続リーグ優勝、日本一(2年連続で近鉄バッファローズが相手)、1984年のリーグ優勝、日本一(阪急ブレーブスに75年のお返し)、そして阿南監督の下で1986年の優勝は今でもはっきり覚えているし、当時「黄金時代」の主力選手、監督、コーチ、計23人(古葉竹識氏、山本浩二氏、衣笠祥雄氏、三村敏之氏、道原博幸氏、達川光男氏、高橋慶彦氏、佐野嘉幸氏、A・ギャレット氏、J・ライトル氏、江夏豊氏、大野豊氏、北別府学氏、山根和夫氏、松原明夫氏、阿南準郎氏、其の他)にサインを貰って今でも大事に保存しているし、当時の新聞の切り抜きも保存している位である。
当時のカープは実に完成度の高いチームであったので、毎年優勝争いをして当然と言える程であった。
1991年の優勝は当時余が海外(ドイツ)に住んでいた為、残念ながら直接見る事は出来なかった。
思い起こせば歴代のカープの優勝、及び日本一は決して余裕のある楽な物ではなかった。
例えば1979年の優勝は何と68勝で決めているし、1986年は75勝した巨人に対し73勝(引き分け11個)の勝率で上回っての優勝であった。
又、日本シリーズでも79年、80年、そして84年のいずれも4勝3敗で「日本一」になっている。

余の親父殿(1921~1980年)は大抵の場合、何にでも比較的辛口の評価をする人であった。

しかし当時の古葉監督に関しては、「古葉は小賢しさと辛抱強さ両方を持ち合わせている男だ! そして優れた選手を育てるのも上手だ。 今の広島(カープ)が強いのは、あの古葉と云う「やり手」の監督がいるからだぞ。」と、手放しで絶賛していたのを今でもはっきり覚えている。

余も我が親父殿の古葉監督への評価は全く的中していると思えるのである。

当時のカープ選手であった木下富雄氏も「古葉監督は調子が悪い選手が少しでも良くなると、すかさず「いいじゃないか」と声を掛けられてました。」「一番選手が見え易い所から見て、他人が気付かない所までお見通しでした。野球に厳しい反面、繊細な目で人を包み込む指導力に(私達は)何度も助けられました。」と言っている。

同じくカープ選手であった山崎隆造氏も「私にとってプロ野球界で生き延びるきっかけの1つとなったのが、スイッチヒッターへの挑戦でした。それを提言してくれたのが古葉さんでした。そしてもう1つ私と言う選手が生かされたのが、内野手から外野手にコンバートされた事です。1980年代当時、複数ポジションを守れるユーティリティープレーヤーは余りいなかったのですが、発想力の豊かさが物凄くある方でした。」と言っている。

 

古葉監督の座右の銘「耐えて勝つ」及び「言いたい事を言って、やりたい事をやって、悔いの残らない様にしよう」は正に彼の人生観、野球の方針を象徴していると言える。

(※此の座右の銘「耐えて勝つ」を題名にした自叙伝を古葉さんが御執筆されている本を、余も購入して読ませてもらっている。)

日常生活の中では古葉さんは大層温厚で人当たりの良い御人柄であった。

しかし一度(ひとたび)本職の野球の中に入ると人が変わったかの様な監督になった。

選手に対しては情熱的に厳しく指導し、他球団以上に練習もさせた。 

そして不細工な失策をした選手にはゲンコツや蹴りまで入れる事もあったと、当時の選手達が語っている。

其の理由として「御両親から預かった選手を一人前のプロにしないといけないから厳しくしたんです。」と言われている事からも、古葉監督がチームの成績だけでなく選手個人の人生も大事にされていた事が分かるのである。

チーム方針である「緻密な野球」を実践する為、カープに於ける11年間の就任期間(約1500試合)の中で、一度たりともボールの行方を見逃す事は無かったと言われるのである。

「二遊間の選手は捕手のサインに応じて動いたり、ベースカバー、バックアップ、カットマン、更には投手へのアドバイス等、様々な役割があるんです。」と古葉監督は言われている。

試合中、体が半分しか見えない程ベンチの隅に立つ姿も古葉監督の特徴の一つであったが、此れも「投手がどんな球を投げて、内野手がどんな動きをしたか、あの位置なら全て見渡す事が出来たんです。」との事である。

又、攻撃面では「強力打線」に物を言わせて試合終盤で3、4点リードして勝利が濃厚でも、気を抜く事無く点を捕りに行く采配をされていた。

「バッターがしっかりと打ってくれるので、ピッチャーからしたら「1,2点取られたって取り返してくれる」と思うとピッチングが全然違って来るんです。 逆に「1点でもやったらいかん」と思ったら、真ん中に投げて撃たれるんですよね。 でも、「なーに、1点位取らたっていいんだから」と思って投げると、良い処にボールが行って抑えられるんですよね。」と古葉監督は言われている。

そして古葉監督の野球方針の象徴でもある「機動力野球」では、「山本浩二さん、衣笠さん、等の中軸の強打者にも長打(二塁打以上の安打)を打ちまくるだけでなく、盗塁も積極果敢にさせていたし、更にはレギュラーシーズンのみならず「日本シリーズ」に於いても、相手チームの意表を突く様なダブルスチールを敢行したりもした。

一番打者の大下さんが相手の意表を突く様なバントや、守備の時の「隠し球」をした事、更には相手チームの失策に付け込んで点を取って行く事も古葉監督の「狡賢さ」が反映しているのである。

 

NHK製作の特集番組「広島復興を支えた市民たち、鯉昇れ、焦土の空へ!広島カープ創設の物語」及び、1975年(昭和50年)カープの初優勝の記録番組「ヘル旋風」を改めて視聴、録画して、当球団が戦後の広島県民にとって如何程心の支え、及び生き甲斐になっているか、そして衣笠さんが「カープと云う球団は広島県の文化であり、宝である。」と言われる事を改めて思い知らされた。
広島市内に於ける初優勝の祝典パレードには何と30万人を超えるファンが集まって喜びを分かち合っていたし(当寺の広島市の人口が約80万人)、其の中には球団創設(1950年1月15日)以来ずっとカープの優勝を待ち望んだものの、見ずして他界してしまった人達の遺族が、故人の遺影(写真)をパレード行進する選手たちに向けていた光景は誠に感極まる物があった。

此の時の事を古葉さんは思い出して感涙しながら生き生きと語ってくれた事は何とも感銘深き物であった!

広島カープは前記の通り1950年に日本で唯一親会社を持たない「市民球団」として創設したのだが、著しい資金不足が原因で不本意にも毎年Bクラスに低迷して来た。

古葉さんは此の球団を初めて優勝にまで導いた監督として、此れ程多くの地元・広島県民に喜びと感動を与え、彼等から多大な感謝を受け賜ったのだから、彼の人生に於いても最高の幸せであったのだろう。
これ等の球団創設以来の歴史を振り返ってみると、広島カープと云う球団が如何に地元広島県、及び他県ののファンに愛され、支えられて存続して来たかが程良く解るのである。

決して経済力はないが、巨人や犯珍の様に「銭の力」で選手を採って、いらなくなれば紙屑のように捨てる、所謂「金満球団」とは異なり、選手を粘り強く育て大切にする球団の方針は広島県民のみならず、他県でも多くの人達の感銘、共感を呼び、今では広島県外でもカープファンが増えていると云う現象が著しい。
かつてジャーナリストでキャスターであった故・筑紫哲也氏(彼もカープファン)が巨人のオーナーが「企業野球」等と云う傲慢な言葉を発した時、以下の様に反論していたのを覚えている。
「野球の好きな人々は夢と感動を求めて野球場に行くのであって、野球までもが金銭の力によって勝ちや優勝が決まる様では、夢と感動も無くなってしまうのではないでしょうか。」
そう云う意味でもカープは野球の好きな人々に夢と感動を与えていると言える。

そして古葉さんの監督としての「偉業」と「方針」は永遠にカープの選手やファンのみならず、他球団の監督や野球愛好家の間でも称賛され、手本にされ続ける事であると確信している。

 

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本日(アメリカ時間)9月25日、アメリカMajorleague(メジャーリーグ)のSt.Louis Cardinals(セントルイス・カージナルス)が9月11日より始めて15連勝を挙げ、勝ち越し17とした。

此れは当球団の歴史を振り返って見ると、1935年に挙げた球団連勝記録を上回る快挙である!

今年は4月の開幕以来、順調に首位を守っていたのだが、6月に不本意ながら6連敗を喫して以来、大きく勝ち越す事が出来ず、8月末まで勝率5割前後の位置に留まっていた。

流石に余も今年はNational League中地区での優勝はおろか、Wildcard(ワイルドカード)への進出すら無理ではないかと思っていた。

其れだけに此の時期になって15連勝と云う圧倒的な成績を挙げている事は、思いがけない驚きである!

此の15連勝の原動力はやはり強力な打線の担う所が多い。

今まで余が2000年代初期よりCardinalsの試合を当球団のホームページで見て来たが、Cardinalsは10連勝以上の様な大きな連勝をする事は滅多に無いが、大きな連敗をする事無く、「先行逃げ切り」の様な比較的無難な試合運びで、ほぼ毎年Postseason(ポストシーズン)に進出する具合であった。

 

今年仮にPostseasonに進出した場合、先ず同リーグのWildcard首位のチームを破り、更に同リーグの勝率首位のチームと対戦して(先に3勝して)勝ち越し、もう一方の勝率2位と3位のチームで勝ち進んだチームと対戦して(先に4勝して)リーグ優勝が叶う。

そしてもう1つのAmerican Leagueの優勝チームと最終決戦Worldseries(ワールドシリーズ)で対戦し、先に4勝してWorldchampion(ワールドチャンピオン)となるのである。

今年はNational League西地区のGiants とDodgersが大きく勝ち越しており、両球団は既にPostseason進出を早々と決めている。

此の同一リーグ2球団と対戦して勝ち進むのはかなりの難題であると存じているが、其れでも余はCardinals Fanの1人として、何とか2011年の様にWildcardから進出して、解説者や野球ジャーナリストの予想を覆す様な奇跡的な逆転勝利を挙げて通算11回目のWorldchampionになった様に、是非とも可能性有る限り勝ち進んでもらいたい!

Cardinalsの球団史を振り返ると、1892年に創設されて以来1926年、31年、34年、42年、44年、46年、64年、67年、82年、2006年、そして2011年にWorldchampionになっている。                                       尚、メジャーリーグの歴史の中で、通算10回以上Worldchampionになった球団はアメリカ全30球団でNewyork Yankees(27回)とCardinalsだけである。                      経済力に於いて同球団はアメリカ国内の計30球団の中では10番目に位置する位である。                                    

にも拘らず此れだけの輝かしい成績を挙げられている理由は、やはり金銭の力で選手を採るのではなく自前で優秀な選手を育て上げている事、そして歴史ある名門チームとして選手から強い愛着を持たれ、そして地元のファン達からも強力な支持、支援をしてもらっているからであろう。         

余がCardinals Fanになっている理由として、先ずTeam-colour が余の最愛の色「」である事、そして球団名のCardinal(冠鳥)が大好きである事、MLBの中でも特に歴史のある球団である事、そして「金銭の力」で勝利や優勝を目論む所謂「金満球団」を決して好きになれないからである。                                     

(2011年のCardinalsのてWorldchampionについては同ブログの以下の記事参照)

 

個人的な事を書くのだが、今年になって余はSt.Louis CardinalsのCap(帽子)だけでなく、Uniform(ユニフォーム)、Sweatshirt(トレーナー)、Wristband(リストバンド)や2006年にWorldchampionになった時の当球団のMascot(マスコット)"Fredbird"の優勝記念の※ぬいぐるみを購入した。

(※此れは限定で2万個製造されて、余が入手した物にはSerial number:16333が記入されている。)

早速、全てで揃えたCapとUniformとWristbandを着用して鏡で見たのだが、何分余が"Bob-hairstyle" の長髪で、端正で彫の深いフランス風の「美人顔」で、身長も173cmなので、どうしても野球の選手よりも寧ろCheergirl(チアガール)に見えてしまうのである。

因みにCardinalsには"Team Fredbird"(又は"Fredbird-Girls")と言うCheergirl達がいて、彼女らの出で立ちとは上半身はメジャーリーガーと同じCapとUniformを来て、下半身はShortpants(ショートパンツ)を履いているのである。

そこで余も彼女らと同じ様にShortpantsを履いてみると、尚更自分の姿が"Fredbird-Girls"ことCheergirlに見えてしまうのである。

余は今まで素足を家族や親戚以外に見せる事は品性に欠ける行為だと思い憚(はばか)って来たのだが、此れ以来ショートパンツが随分と気に入ってしまい、調子に乗って立て続けに10枚も購入してしまった。

余のスリーサイズはB :105(Cカップ)、W:68、H:93(cm)即ち、ウェストが女性並みの細さで、ヒップは女性並みの大きさなので、女性用のショートパンツのMサイズがぴたりと合うのである。

中でも特にワインレッドのベルベット(天鵞絨)製は最高のお気に入りで、前側の腰紐の先端に金の飾り玉、そして側面の裾に金のボタンを付加してみた。

たとえ大腿部の付け根まで露出するショートパンツを履いても、余は清和源氏の流れを汲む「士族」としての威厳と品性は保ちたいと思うからである。

何故ならヨーロッパではワインレッドのVelvet(ベルベット)の繊維製品は「貴族」を象徴するからである。

其の原点とは王侯貴族が式典に着用する"Thronmantel"(マント)はワインレッドの絹製ベルベットで出来ており、其の襟と裾は白のミンクの毛皮で多数の小さな黒い尻尾の飾りが付いており、そして金色の紐が付けられている。

(※因みにVelvetは英語の表現で、ドイツ語ではSamt、ポルトガル語ではVelludo、スペイン語ではVellude)

余は今まで36年もウェイトトレーニングと格闘技の練習を続けて来てているので、実際体には※オリンピックの選手並みの筋肉(※腕は体操の選手、胸は水泳の選手、脚は短距離走の選手並み)が付いているのだが、で揃えたCardinalsのCapとUniformとShortpantsを着ると、どうしても自分が"Fredbird-Girl"(チアガール)に見えてしまうのである。 

(最早Girl等と呼ばれる様な歳ではないのだが・・・・・)

故に家の中で1人で Cardinalsの試合を生中継で観戦する時に、当球団のCapとUniformを着用したいのだが、此の出で立ちで安易に人前に出る気にはなれない。

もし出たならば、「美人のチアガールさん!」等とからかわれる事必定であろう。

結果的に我がファッションに新しい様式が加わったと言う事になるのであろうが、どうも最近「花柄」(特に薔薇)シャツやショートパンツだのBracelet(ブレスレット)やEarring(イヤリング)やWestchain(ウェストチェーン)と言った「女性趣味」の衣料品や装飾品ばかり購入している。                            ただでさえ少年時代から相変わらず長髪と「赤備え」の服装でJewelry好きなのだから、ともすれば「女装趣味」と勘違いされるかも知れない。

 

P.S: 同月28日、Cardinalsは何と17連勝を挙げ、WildcardでPostseason進出の権利を獲得した。

 

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A.J.Wietz: Rosine a sa toilette (1847)  

ヴィーツ作「化粧するロジーヌ」

 

最近様々なウェブサイト上で「プライドが髙い」等と言った表現を何度も見て、余は個人的に著しい違和感を覚え、そして此の表現に対し疑問を感じている。

現代の若年層が「誇り」と「虚栄心」を混同している傾向が非常に強いのではないかと思われてならない。

そこで此度、余は此の主題に於いて両方の大きな違いについて書き記して行く事にしたのである。

人間誰しも多少なりとも他人から「愛されたい」「認められたい」とか「称賛されたい」「尊敬されたい」ないしは「注目されたい」等と云う欲求はある。

しかし此の人間のNegatives Charakter(負の性分)が度を過ぎてしまうと、真実を偽ったり、捻じ曲げてでも、自分を実際以上に見せたり、騙ったりする様な事態に陥ってしまうのである。

先ず「誇り」と「虚栄心」の語源についてであるが、国語辞典では「誇り」を「自ら名誉とする感情」、そして「虚栄心」を「上辺だけの見栄を張りたがる心」と説明している。

英和辞典では英語の”Pride”は、そして独和辞典ではドイツ語の”Stolz”は、それぞれ「誇り」、場合によっては「高慢」とも訳されている。 

Hieronymus Bosch: "SUPERBIA"(Hochmut) von "Sieben Todsünden"  ボス作「7つの大罪」より「高慢」

 

更にラテン語では「誇り」は”SUPERBIA”と言う。

一方ドイツ語の”Eitelkeit”とは「虚栄心」とも「空虚さ」とも訳されているし、英語の虚栄心=vanityの語源であるラテン語の”VANITAS”とは「空虚」「虚しさ」「虚無」等の意味があり、人間の「虚栄心」とは如何に無意味で無価値であるかを象徴しているのである。

 

次に「誇りのある人」「虚栄心だけの人」の定義として、両者の決定的な違いについて説明して行きたいと思う。

「誇りのある人」は「潔さ」と「廉恥」の心を共有しているのに対し、「虚栄心だけの人」潔さ」と「廉恥」の心が欠けているのである。

又、「誇りのある人」は「向上心」があり、「自己反省」の出来る人で、「虚栄心だけの人」は「向上心」が無く、「自己反省」も出来ない人なのである。

「虚栄心」だけで「誇り」の無い人のよくある傾向として以下の例が挙げられる。

・財力も社会的地位も無い男が分不相応な高級車に乗り回す。

・同様の女が分不相応な高級ブランド品ばかりで着飾る。

・大した知能も学歴も無い者が矢鱈「知ったかぶり」をしたり利口ぶる。

・凡庸な能力しかない者が、脚色、尾鰭を付けた自慢話(ホラ話)を得意げにする。

 等

「貴族」や「富裕層」に非ず、「天才」「秀才」に非ず、「偉人」「英雄」に非ず、「人傑」「エリート」にも非ず、「美男」「美女」に非ず、と言った有象無象の者共が、虚勢や見栄を張ったり、大言壮語をした処で何の功徳も利益も無いのではなかろうか。

寧ろ余は此の様な者共を半分滑稽、半分哀れに思えるのである。

何故なら心理学的に考察すると、凡下な俗物風情が虚勢や見栄を張ったり、大言壮語をする事自体、自らに実力の無い事、そして其の事にKomplex(劣等感)を抱いている事を示唆しているからなのである。

故に余は此の様な輩に対しては「本気で取り合わない」「決して認めない」「なるべく関わらない」、所謂「3ない対応」をする事にしている。

(相手にする事自体、心の無駄、時間の無駄である。)

余は思うに、自分が名門の血筋や富裕層の家に生まれているとか、才能があって高学歴で教養も高いとか、美しい容姿や健康や体力に恵まれている、ないしは立派な業績、名声、地位、特権、等と言った何かしら非凡、又は優秀な要素を持ち合わせていたら、そもそも劣等感も起きないし、虚勢や見栄を張ったり、大言壮語をする事すら必要無いのではなかろうか。

かのドイツの大天才にして大文豪のJ.W.v.Goethe先生

※>Begabter Man muß lieber bescheid und schweigsam sein. Doch seine Begabung wird selbst auffallen.<(能ある者は兎角(とかく)謙虚に黙って居よ。 其れでも其の才能は自(おの)ず()から目立つ。)と言われている位である。 

(※日本の諺「能ある鷹は爪を隠す」の同義語である。 

真逆の意味の諺に「能無しの口叩き」がある。)

 

滑稽で馬鹿げた譬え話になるのだが、つい此の間ある動機で小学校の時に親類の同級生から聞いた「ばばたんご」と言う方言を久し振りに思い出した。

此れは元々大阪の言葉で「肥溜め」ないしは「野壺」の意味があるらしい。

今でこそこれ等は殆ど見かけないのだが、もしある人が不注意で此の中に落ちたとする。

そして地元の農家の人に助け出された時に、どの様に弁明するかによって、其の人の人格、度量が分かると言うものである。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありせん。 私の不注意で落ちてしまいました。 お恥ずかしい限りです。」等と言える人は誇り高き人である。

其れとは逆に「糞ったれ!こんな所に肥溜めなんぞ作った奴が悪いんだ!」等と言う人は虚栄心だけの人である。(※心理学的に診断すると、此の様に考える人は他罰的で身勝手な歪んだ人格であると言わざるを得ない。)

人を家に譬えると、優秀な能力と誇りを兼ね揃えている人は外観、内装共に優れた「豪邸」であり、無能で虚栄心だけある人は、見掛け倒しで中身の劣化した「あばら家」である。

其の他、金属に譬えると、優秀な能力と誇りを兼ね揃えている人は「純金」であり、無能で虚栄心だけある人はメッキをした「ちんけな金属」である。

前記の有象無象の者共がどんなに上辺だけ繕った処で、「貴族」や「富裕層」にも、「天才」「秀才」にも、「偉人」「英雄」にも、「人傑」「エリート」にも、「美男」「美女」にも決して成れないのである。

そう言う意味で誇り」とは、其の人の有する優れた才能能力から起因していると言っても過言ではない。

 

第2次世界大戦の末期、日本でもドイツでも民間で同じ様な以下の言葉を発する人々が増えて来た。

「人間が真実を受け入れる時、場合によっては勇気が必要である。」

>Wenn man die Wahrheit zu nehmen, gegebenenfalls den Mut braucht.<

開戦時から戦局優勢な頃までは、両国民は自国が敗戦する事等、努々(ゆめゆめ)思っていなかったのだから、まして「無条件降伏」と言う悲惨な真実を受け入れる事は、大変な勇気(又は覚悟)を必要としたのではなかろうか。

一番大切な事は「真実」を正しく受け入れる事なのである。

此の真実とは3通りあり、1つ目は「自分の真実」、2つ目は「相手の真実」、そして3つ目は「他者の真実」である。

即ち1つ目は「自分の真実」を潔く受け入れる事、2つ目は「相手の真実」を良く観察して受け入れる事、3つ目は「他者の真実」を十分調べて受け入れる事である。

「真実」(又は現実)が自分にとって美しいとか、愉快とか、有益であるなら、喜び勇んで受け入れる事が出来る。

其れとは逆に「真実」(現実)が自分にとって惨めとか、不快とか、残酷であるなら、受け入れる事には苦痛が伴う。

人間がどんなに意地や強情や見栄を張ろうとも、又は「現実逃避」をしようとも、所詮「真実」(現実)から逃れる事は決して出来ないのである。

だからこそ「真実」(現実)を開き直って受け入れた方が、より早く心を立て直して、新たな希望を抱いて生きて行く事に繋がるのである。

 

扨、筆者自身についてだが、余は他の記事(随筆)にも度々書き記している様にどうしようもない“Hochmütiger Narzisst“(高慢な自惚れ屋)である。

しかしながら、”Stolz”(誇り)だけでなく”Ehre”(名誉)も自覚している故、Eitelkeit(虚栄心)とEifersucht(嫉妬)の感情は持たない様に心掛けている。

何故なら自分を実際以上に見せる為に大言壮語をしたり、脚色した自慢話をした後、他人から「見掛け倒しのホラ吹き」等と云うレッテルを貼られて嘲笑される事を、恥ずべき醜態であると思うからである。

実に此の様な人が陰で知人達から「笑い者」にされているのを目の当たりにした事があるし、此れに類似した人を何人もの人々がウェブサイト上で「物笑いの種」として投稿しているのである。

又、他人を妬む事は自分が其の人より劣っていると内心で認める事によって、心が卑屈になるからである。

其の他、下らない虚栄心や理不尽な欲の為に破滅した大戯け共の話も何件も聞いた事がある。

こう言ったお粗末な輩とは逆に、「富裕層」と呼ばれる人の生活態度は堅実で、無理、無茶をしない、合理的で無駄が少ないと言う事を、多くの経済学者やフィナンシャルプランナーの方々が述べられている。

余は個人的に「富裕層」と呼ばれる人は十分な財産を有するだけでなく、「責任」と「慎み」と「分別」を持っているからこそ、「富裕層」で居られるのだと思っている。

そして、「嘘をつかない事」「見栄を張らない事」「欲張り過ぎない事」も「富裕層」にとって大切な心得であると存じている。

先程も書いている様に、本当に”Stolz”「誇り」のある者とは同時に自分の”Ehre”(名誉)”Würde”(尊厳)を大事にし、決してこれ等を傷付けない様に心掛けているのである。

実に余は自分の長所や得意な事や経歴についてありのままに書くのみでなく、自分の短所(例: 計算が下手、泳げない、正座が苦手、自動車の運転が下手、等)についても平気で打ち明けられる。

 

又、他の記事(随筆)に幾度も書いている様に自分の体のスリーサイズ(B:105、W:68、H:93(cm)、身長:173cm、上腕周り:37cm)でも自信満々で公表している。

そして本来Asket(禁欲主義者)であるにも拘わらず「爆乳美人」(G、H、Iカップ)が大好きであると言った、一般人が逡巡する様な事でも正直に述べられるのである。

何故なら余は虚栄心から自分自身を偽る事をみっともないとして恥じているし、同時に自分について絶対的な自信と愛着があるからなのである!

即ち「虚栄心」から起因する嘘、偽りを示す事によって、自分のEhre(名誉)Würde(尊厳)、並びに”Persönlichkeit”(人格、人間性)を絶対に傷付けたく無いからである!

 

「釈尊」こと御釈迦様は「人間の欲が苦しみの元になっている。欲を捨てる事で心の安息と悟りを得る事が出来る。」と宣われている。

詰まり一部の人間は自分が「愛されたい」「褒められたい」「良く見られたい」「目立ちたい」等の欲求が殆ど満たされていないが為に、虚栄心の強い性格を形成してしまうのである。

其の他方で余が友人として長年に渡りお付き合いさせて頂いている我がドイツの地元である首都Berlinの前・都議会議長にして、国家最高勲章“Bundeskreuz“の叙勲者であるW.Mellwig閣下(1936~2013年)、同じく首都Berlinの都議会議員にして文化局長であったR.Sauter氏(1948~)、Brandenburg/H市の大聖堂のCh.Radeke牧師(1955~)、我が母校Kunstakademie Dresdenの学部長であったC.Weidensdorfer先生(1931~)、そして天台宗総本山・比叡山延暦寺の最高位の大僧正、小林隆彰猊下(1928~)等は、其の高い身分から庶民を見下ろすのではなく、彼等の位置まで降りて来て真摯に話を聞いて下さる、偉大にして慈悲深き御仁達なのである。

正に能力、人格、業績、名声、地位を兼ね揃えられている「偉人」、「人傑」とは、自分の人生が満たされている為、自信満足だけでなく他者を思いやるだけの「心の余裕」を持っておられるのである。

又、釈尊は弟子達に向かって「浅はかな自慢話、他人の悪口(陰口)、愚痴、不満は極力慎みなさい。」と戒められていたと伝えられる。

人間が社会で生活を営んでいると、自分の過去の経験、そして現在の対人関係からどうしても此の3つの「悪癖」に染まってしまう事が往々にしてある様である。

釈尊の此の御言葉を更に展開すると、自慢話、他人の悪口(陰口)、愚痴、不満を慎んでいるのは善良で人格の高い人であると余は思えるのである。

そして余の其の他の友人達も能力や業績は際だってなくとも、此の様な善良で人格の高い人達ばかりである事を誇りに思うのである。

以上の通り「誇りのある人」「虚栄心だけの人」の大きな違いについて書き記して来たが、最後に結論として、「誇りのある人」は意地汚い事や、卑劣な事を決してしない人である。と断言出来るのである!

 

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ビキニ今回は服飾の歴史の中の"Sexy Lingerie"及び”Bikini”の起源について書き記す。
日本で「セクシーランジェリー」の名称で通っている此の種の下着の事を、英語圏では“Erotic Lingerie”とも表現する。

一般人の殆ど全ての人が「こんな下着は20世紀後半の産物だ。

」と思われているかも知れない。
しかし実は紀元前の「古代エジプト」と「古代インド」では既に"Sexy Lingerie"に相当する衣装が日常で着用されていたのである。

然も其れは「下着」と云う概念ではなく、当時の“Fashion“(ファッション)の一環としての装いだった様である。

言うまでも無くエジプトやインドは温暖地域に属する「常夏の国」であるが故、一年を通じて殆ど裸で生活しても健康上の問題は無かった。
日本や中国では古来より肉体を衣服で覆い隠す文化であったのに対し、古代インド、エジプト、ギリシャ、ローマ等の温暖地域の古代文明では、寧ろ「肉体美」に人間の優越性を追求し、其れを誇示する文化であった。

フランスParisのMusée du Louvre、ドイツBerlinのÄgyptisches Museum(上)、そしてオーストリアWienのKunsthistorisches Museum(下)等、ヨーロッパの主要美術館で、余が直接古代エジプトの出土品群に属する彩色された彫刻、レリーフ等を見ても、当時の衣装は腰簑(スカートの様な衣類)か、体の外線がくっきり出る程薄い物であったのが認識出来た。
又はイギリスのテレビ局BBCの衣装担当チーフ・デザイナーのJohn Peacock氏の著書 "The Chronicle of Western Costume"の中で、古代エジプトの衣装の再現図を見ても、体が透けて見える現代のシースルーの様な薄い衣服が殆どで、それどころか王侯貴族の若い女性に至っては乳房を露わにしていた様である。

日本で原始仏教学と古代インドの考古学の権威であり、文化勲章叙勲者でもある中村元先生の著書「古代インド」や「原始仏教・その思想と生活」の中にも、当時彼らは衣服を殆ど持っていなかったと云う事が記述されている。

古代インドでは古代エジプトより更に露出度が高く、王侯貴族の若い女性でも腰簑か褌の様な衣類と宝石、貴金属で作った耳飾り、首飾り、腕輪、足輪、等の装身具だけ身につけて、殆ど裸の出で立ちだった様である。

「肉体美」を誇示する文化であるだけに、古代インドでは当時から日常生活に於いて"Yoga"の体操や薬草の食事を採り入れて、美しい体形を維持する事に専念していたらしい。

当時の証拠として、インドのMathura, Ahicchatora, Pauni, SanchiやスリランカのSigiriya等で発見されている原始仏教の彫刻、レリーフ、壁画には、当時の風俗や服装が正確に表現されている。


これ等の古代文明の”Erotismus"(性的魅力)を含んだ服飾文化は、ヨーロッパで1430年頃に始まった”Renaissance”(文芸復興)から現在に至るまで白人社会にある程度受け継がれ、

長い時代を経て遂には"Sexy Lingerie"のデザインへと進化したと考えられる。
 

ビキニ更にSexy Lingerieに類似した”Bikini”(ビキニ)についても言及するのだが、此の大胆な水着は1946年7月1日のアメリカ軍によるBikini環礁に於ける水素爆弾の実験から4日後の7月5日に、ファッションデザイナーJacques Heimと自動車技師Louis Réardによってフランスで発表された。

其の露出度の高い最新の水着が、水爆の様な衝撃を世間に与えた事から、此の環礁の名が付けられた。

しかし、古代ローマ帝国の服飾文化の歴史を調べてみると、何と紀元前500年頃には、女性の踊り子達が革製のBikiniそっくりの衣装を身に着けて踊っていたのである。

此の情景がイタリアのSicilia島にある”Villa romana del Casale”のモザイク画に描かれている。

 

セーターイギリスの服飾史家James Lavorが其の著書“Taste and Fashion”(1937年)の中で、服装の流行の変遷について以下の法則を提唱している。   

 流行の10年前:indecent(下品)      

流行の5年前:shameless(恥知らず)                                      

流行の1年前:daring(大胆な)      

流行の年:smart(格好良い) 

流行の1年後:dowdy(みすぼらしい)   

流行の10年後:hideous(醜い)   

流行の20年後:ridiculous(滑稽な)    

流行の30年後:amusing(面白い)     

流行の50年後:quaint(古風で趣のある) 

流行の70年後:charming(魅力的な)     

流行の100年後:romantic(ロマンチックな)  

流行の150年後:beautiful(美しい)    

   

                          

ビキニSexy LingerieもBikiniも共に年代が進むに連れてデザインも次第に大胆なまでに露出度が高まり、遂には”G-string”や"Micro Bikini"にまで進化して、愛好家達に認められている。                   詰まり両方共、此の「Lavorの法則」に該当すると言える。                              これ等の欧米諸国(白人)の「肉体美」を誇示するファッション感覚は、古来より「慎み」や「廉恥」を美徳として来た日本人には長い間受け入れ難かったかも知れないが、現在では「肉体美」を見せつける文化は日本でも一般的に認められて来ている様である。

言うまでも無い事だが、人間は地球上で唯一、衣服や装飾品を身に着ける生物である。          

故に人間の生活文化の中でのみ多種多様な衣服、装飾品が 

“Fashion“として長い歴史を通じて発明、発展して行った。  

心理学的に観察しても、衣服や装飾品はこれ等を身に着ける人の

“Persönlichkeit“(人格、人間性)を象徴する品物であると言っても良い程である。   

 

セーター心理学者で千葉大学教授の多湖輝先生は其の著書「深層心理術」の中で、「人間は、裸、つまり本当の自分を隠すために衣服を着ているつもりである。 しかし実は何かを着るという事で、逆に自分をさらけ出す事になっているのである。 と言うのは、その人が自分で選んで身につけた衣服は、裸の肉体からはうかがい知る事が出来ない、その人の心の内側を表現しているからである。」と書き記されている。    

更に多湖先生は同著書の中で、以下の様な「服装による深層心理術の実用例」を挙げている。    

*社会通念に反した服装をする人は、強烈な優越感を持っている。 

*極端に派手な服装をしている人は、自己顕示欲・金銭欲が強く、ヒステリー性格である。     

*地味な服装の人は、体制順応型で主体性に乏しい。  

*自分の嗜好と関わりなく、ひたすら流行を追う人は、自信・個性が無く、孤独感・空虚感がある。     

*流行に全く無頓着な人は、個性は強いが、協調性に乏しい。   

*会う度に服装の好みが変わっている人は、情緒不安定で、現実逃避の願望が強い。                  

*服装の好みが突然変わるのは、心境の変化もしくは新しい決意を抱いている場合が多い。

 

ビキニ其れとは逆にある特別な衣服や装飾品が、身に着ける人の “Persönlichkeit“(人格、人間性)に著しい影響を及ぼす事もある。 

かのフランスの皇帝にまで上り詰めたNapoleonは「人は其の制服通りの人間になる。」とも言っている位である。     

例えば、戦爭中では社会にいる時は虫も殺せない程気の優しい男が一度(ひとたび)()軍服を着て戦場に赴くと、平気で破壊や殺戮をやってのける様になるし、又、平和な時代では肉体は豊満だが恥ずかしがりの女子が、一度(ひとたび)グラビアアイドルとしてBikiniを着て撮影をする様になると、自分の肉体に自信を持って誇示する様にまでなる、と言った具合である。 

Sexy LingerieやBikiniについて更に心理分析すると、これ等を好んで身に着ける人とは、衣服による制限から自分を解放して自由奔放に振る舞いたいと云う欲求、そして殆ど裸に近い姿で異性を魅惑したいと云う目的がある以外に、自分の裸体に見惚れる様な相当にNarzissmus(自己愛)の強い性格である。

又は場合によっては「性的欲求不満」を満たす為にこれ等を着用しているとも推測出来るのである。  

 

ビキニカタログ等でSexy LingerieやBikiniのモデルになっている人を観察すると、これ等の似合う人にはどの様な特徴があるかは一目瞭然である。
先ず男女共に美しい顔である事、そして女は豊満(特に胸や臀部に肉付きの良い)、男は筋肉質な体形である事、其の上肌が綺麗である事である。                                 

詰まりこれ等は、並外れて性的魅力に溢れる容姿の美しい人でなければ着こなせないとも言える。   

余の個人的な美学理論の上では、「真に容姿の美しい人間とは、衣服、装飾品、化粧、等の助けを借りずとも、素顔、素裸の状態で美しい者である。」と断言出来るのである!              

医学的な観点からも人間の容姿には大きな「個人差」があり、生まれつき顔の美しい人、筋肉質な体格の男や豊満な体格の女がいるが、こう言った人達は正に「天性の美」に恵まれていると言える。     

しかしながら人間の肉体とは、だらしない怠惰な日常生活を送っていたり、不摂生、不養生を続けていては、(おの)()から不細工、不健康になるのは必然である。                          

だからこそ、たとえ生まれつき容姿の美しい人でも、油断していると容姿どころか健康まで損なう事にもなりかねないので、日頃からの健康管理は生まれながらにして義務付けられている、と言っても過言ではない。                    

 

カラーパレット万物には多種多様な色がある様に、Sexy Lingerie並びにBikiniにも様々な色がある故、各色が象徴する抽象的意味、並びに人間に与える感情及び生理作用について以下の通り書き記す。

:≪情熱、愛情、積極性、自信、活動、正義感≫ 

活性化、精神的刺激作用が強いので、脈拍を増加させ、興奮させるので衝動性、創造性、攻撃性を増進する。 憂鬱な気持ちを高揚させる効果や、男性生殖腺を刺激する効果がある。

:≪明朗、快活、社交性、賑い、精力、多弁≫ 

情緒的刺激色で、脈拍を僅かに増加させ、活力と注意力を与えるが、過度の刺激は返って不安を招く。

:≪希望、健康、自由、開放感、楽観性、変動性≫ 

気分転換をしたり、浮ついた気分を引き締める効果があるが、

長時間の使用は疲労を招く。

:≪安心、安定、慰安、均整、平和、爽快感≫ 

精神系統に作用して、鎮静、睡眠、鎮痛の効果を与える。 

緊張を解いて、血圧を下げたり、神経痛や頭痛を緩和する。 

更には目の健康にも良い。

:≪理性、冷静、沈着、几帳面、謙虚、受動性≫ 

動脈を収縮させ、血圧を高める。 又、化膿、冷え性、リューマチ、癌腫瘍の悪化をも防ぐが、過度の使用は倦怠、憂鬱を引き起こす。

 

:≪芸術性、神秘性、創造性、感受性、高貴、優美≫ 

心臓、肺、血管に作用して、組織の抵抗力を増進する。 

又、女性生殖腺を刺激する効果がある。

 

:≪現実性、保守性、堅実、自己満足、信頼、責任感≫ 

自分自身や其の環境や状況を変えたくないと云う保守的な考えを持つ人が好んで使う色。 精神的に円熟させる作用がある。 
 

ピンク:≪幸福、愛、温和、可憐、処女性、柔軟性≫ 

興奮や激情を癒し和らげ、安楽感や幸福感を与える効果があるが、場合によっては筋肉に脱力作用をもたらす事もある。

 

白:≪潔白、誠実、清楚、清潔、純粋、神聖≫ 

感性、直感を活性化する作用があるが、反面論理的思考力を鈍化させる。 禅や瞑想に於ける「無我」「無心」の境地を表す色でもある。

 

グレー≪真面目、勤勉、遠慮、節制、従順≫ 

問題や迷いがある時、精神的な落ち着きをもたらす効果があるが、無個性、無情、無関心と見受けられる事がある。


:≪重厚、荘厳、陰気、悪心、反抗性、不満≫ 

精神を落ち着かせ、引き締める効果があるが、其れに対し気分を暗鬱にしたり、他人との意思の伝達を阻害する効果もある。

 

赤、朱、橙、黄、等の色を「暖色」又は「進出色」と名付け、青、藍、紺、等を「寒色」又は「後退色」と名付ける。
緑、紫、等は「中間色」、白、黒は「無彩色」と名付ける。
性別で統計を取って見ると、比較的には男性が「寒色」を好む傾向が強く、女性が「暖色」を好む傾向が強い。
又、地理的に統計を取って見ると、温暖地域の人が「寒色」を好む傾向が強く、寒冷地域の人が「暖色」を好む傾向が強い。

 

ビキニP.S: 本日、2021年7月5日でBikiniが発表されて75周年となる。

余は個人的に此の水着は服飾史に於ける素晴らしき発明であると思っている。

個人的な事を書くと、余はどうしようもない”Narzisst”(自惚れ屋)で、自分の彫の深い端正な美人顔や長年ウェイトトレーニングで鍛え上げた超筋肉質の裸体に毎日見惚ているのである。                   参考に我がスリーサイズはB:105、W:68、H:93(cm)、身長:173cm、上腕周り:37cmを維持している。                                    そして毛髪が(推定で)約15万本と同世代の女性より本数が多く、子供の頃より女性的な髪型をしているが、其の反面、体毛は極めて少ない。                                          上記の通りバストが105cm(Cカップ)、一方ウエストは68cmなので、両サイズの差は37cmもあり、肌は女性の様に肌理(きめ)()細やかで滑らかな所謂「餅肌」なのである。                                    詰まり前記のSexy LingerieやBikiniのモデルになっている人の条件を全て満たしているのである。                          そして余は幼少の頃より「」と云う色に異常な愛着があって、少年時代よりい服ばかり着ているだけでなく、家の外装、室内の調度品、生活道具、乗り物に至るまで全てないしは系の色で揃えている有様である。                              此の際白状するのだが、其れ故に余自らが”Sexy Lingerie”のコレクターで此の色を中心に集めている。

 

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