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Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

広島カープの「黄金期」にエースとして活躍し、カープ一筋に努めて球団最高記録の213勝を挙げ、「名球会」入りした北別府学さんが今6月16日午後0時33分、入院して治療を続けていた広島市内の病院にて享年65歳で御逝去された。 

北別府さんは既に2020年1月に御自分のブログで「成人T細胞白血病」(ATL)を患われている事を公表されていた。 

此の病気は言わば全身を循環する血液の癌であるので、現代の医学を以てしても治療する事が極めて困難である故に、昭和52年以来カープファンである余もいつか悲しい知らせを聞く事になると覚悟を決めていたのだが、其れでも北別府さんには出来る限り苦しむ事無く延命してもらいたいと祈っていた。 

とは言え昨日訃報を聞いて何とも言えない悲痛で寂しき思いに駆られたのである。 

今となっては、かつての彼の現役時代の雄姿を思い出しながら心からの御冥福を祈るばかりである。 

 

此度、北別府さんが御逝去されて、広島カープの「黄金期」(昭和50年~61年)を築き上げた以下の監督、選手の方達が既に7人も御逝去されている事になっているのは往年のカープファンにとっては誠に悲しく寂しい限りである。 

1993年7月、津田恒実さん(享年32歳) 

2009年11月、三村敏之さん(享年61歳) 

2018年4月、衣笠祥雄さん(享年71歳) 

2021年1月、高橋里志さん(享年72歳) 

2021年4月、Adrian Garrettさん(享年78歳) 

2021年11月、古葉竹識さん(享年85歳) 

(同ブログの以下の記事参照)

 

 

 

北別府さんは1957年(昭和32年)7月12日に鹿児島県・曽於郡・末吉町の農家に生まれられた。 

実家が農家であった事から隣の宮崎県の都城農業高校へと進学された。 

其れ以来、毎日実家から県境を越えて学校まで何と20kmもの距離を自転車で通学していたそうである。(しかも3年間無遅刻であった。) 

更に実家に帰宅したら直ぐに制服から私服に着替えて、飼育している牛の世話をしていた。 

「家にいる限りは此れが僕の仕事ですから。」と言って当然の如く家業を手伝いながら野球に打ち込む純朴で直向きな姿勢は感動的であったと、当時を知る報知新聞社の記者であった駒沢悟さんは書き記している。 

 

余も小学校の頃より当時の「プロ野球年鑑」で北別府さんの其の様な経歴を読んで知っていたので、自身がドイツに於ける大学時代(Kunstakademie Dresden 1991~95年)に学校の所在地Dresdenから北東に約17km離れた村 Liegau-Augustusbadに住んだ前半の2年間は、北別府さんを見習って同様に自転車で通学したのであった。 

しかし93年に大家で友人のH.Barthelさん(1938年生まれ)が余の冬休みに帰国していた時に突然の事故で亡くなられてしまった事で、急遽 Dresden市内のStudentwohnheim(学生寮)に転居する事を余儀無くされてしまった。 

DresdenはKessel(盆地)に位置する都市なので、郊外の Liegau-Augustusbadとの間の道には合計約5kmの坂があった。 

当時の余の通学法を知っていた当大学の職員の方は>Es ist so ein Sport !<(其れはまるでスポーツだね!)と感心してくれたのであった。 

当時此の様な事を続けられたのも、北別府さんの「頑張り」を子供の頃から知っていたからである。 

そして「初老」と言われる様な年になった現在でも尚、週5日は実家から6km先にある田舎の別荘まで自転車で走り、ウェイトトレーニングをして再び家に帰る事を通算38年も続けられているのも、往年のカープの偉大なる名選手・衣笠さんと北別府さんの御陰であるとも言えるのである。 

 

北別府さん高校卒業後、1975年ドラフト1位指名で広島カープに入団した。 

奇しくも此の年はカープが球団史上初のリーグ優勝を成し遂げた年であった。 

新人の年であった翌1976年に初勝利を挙げて以来其の頭角を現し、「精密機械」とか「針の穴を通す」と形容される卓越した制球力と多彩な切れのある変化球を武器にして勝ち星を量産して行かれた。

1978年以来11年連続で2桁勝利を記録し、79年には17勝を挙げてチーム初の「日本一」に貢献した。 

1982年には自身初の20勝を挙げて「最多勝」「沢村賞」を獲得、1986年には18勝を挙げてチーム5度目のリーグ優勝の原動力となり、再び「最多勝」「沢村賞」更に「最優秀防御率」「MVP]をも獲得した。 

1992年7月16日、遂に「名球会」の登龍門である通算200勝を挙げられた。 

広島カープ一筋に19年間、其の大部分をエースピッチャーとしてプレーし、1994年に現役を引退された。 

通算成績は515試合登板、213勝、141敗、5セーブ、135完投、28完封、1757奪三振、防御率3.67である。 

 

当時のプロ野球の選手のみならず、野球ファンなら誰もが知っている事だが、北別府さんの投球術とコントロールは誠に無類の物であった。
今日、日本のプロ野球でも150kmの速球を投げられるピッチャーはざらにいるし、アメリカのメジャーリーグでは更に160kmを超える剛速球を投げるピッチャーまでいる状態である。
しかし北別府さん程の制球力を持つピッチャーは日本及びアメリカですら見受けられないのである。
現役時代最も長くバッテリーを組んだ名捕手・達川光男さんが語ってくれた興味深い逸話がある。
「ホームベースの上に3つの空き缶を立てて、「おいペイ(北別府さんの渾名)よ、球ほおってあの空き缶倒してみい。」と言ったら、3球で全部倒してしまったんです。」
其の他、当時対戦した他チームの多くの選手達も北別府さんの制球力と変化球の切れには翻弄され、感服したと言っている。

「球速は決して速くはなかったので、いつか打てるだろうと思っていたら、気が付くと最後まで抑え込まれてしまっていた。」と言うのである。
又、主審判の立場から見れば北別府さんは非常に判定しにくいピッチャーであったらしい。
本人が「僕は現役の頃、ど真ん中に投げた事が無いんです。」と言う様に、彼は相手バッターがまともに打てない様なストライクゾーンのギリギリを突いて投げる事が常であったからである。
野球のルールでは投げられたボールがストライクゾーンに半分以上収まっていれば、ストライクと見なされるからである。
そしてスライダー、シュート、カーブ等の変化球の「切れ」も大変な物であったし、投球に緩急のメリハリを付けて相手打者とのタイミングを外す事も巧みであった。
故に相手バッターは容易に捉える事が出来なかった様である。

 

北別府さんは自分のピッチングについて、「僕は投球の際に最も気を使っているのが「不動心」と「投球フォーム」なんです。」と言っている。
不動心」とはたとえ相手が名だたる強打者であろうと、如何なるピンチに接しようとも、決して精神的に動揺せず「泰然自若」の境地で、粘り強く投球を続けて切り抜けると言う事である。
実に彼は現役時代に対戦したセ・リーグ各球団のクリーンアップ(3,4,5番バッター)を平均被打率1割台に抑え込んでいるのである。
又、北別府さんは「投球フォーム」を試合前から毎回徹底的にチェックしていたらしい。
ほんの僅かでもフォームに狂いがあると彼最大の武器であるコントロールに乱れが生じるからである。
スポーツの分野は違えども余は長年続けてきたウェイトトレーニングや(打撃型)格闘技の練習、並びにドイツの医学大学でも特別受講生として学んだ経験を通じて、フォーム(型)を常に正確に整える事が如何に大事な要素であるかを身を以って知っている。
故に同様にフォームを正確に保持する事に常に注意を払っている。
いずれのスポーツでも間違ったフォームで運動を続けていると、運動機関(筋肉、骨、関節、腱)を鍛えるどころか反(かえ)って痛める事になってしまうからである。
此れは肉体労働に於いても同様で、悪い姿勢で仕事を長期間続けていると、身体を慢性疲労で痛め易いので注意が必要なのである。

広島カープの「黄金期」の主力選手の中では、当時連続試合出場の世界記録を樹立した「鉄人」こと衣笠さんが丈夫な選手の代表格であったが、投手部門では北別府さんが丈夫な選手の代表格であったと言える。
現役19年の間、殆ど故障する事無く試合に登板し続けたからこそ、213勝と言う大記録を成し遂げられたのである。
此れも北別府さんが本来の優秀な体力の上に「投球フォーム」を毎回徹底的にチェックしていた事の賜物であると言える。
 

北別府さんは其の抜群の制球力から「精密機械」と喩えられたが、実際は(鹿児島県人らしく)心も熱く(蟹座らしく)情の深い面倒見の良い人であった。
「カープが強かったから成績を挙げられましたし、チームメイトにも恵まれました。怪我も無かったし、親に感謝したいですね。」と周囲への思いを述べられていた。
現役引退後は「残りの人生で野球界の為に尽力していきたいですね。」と言われた通り65歳の生涯を終えるまで、1995年からは解説者として、2001~04年まではカープのピッチングコーチも務められた。
2012年には「野球殿堂」に競技者表彰のプレイヤーとして選出された。
誠に日本プロ野球の歴史に永遠に残る「エースピッチャー」の称号に相応しい大投手であった。

 

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1966年に制作された”Macaroni Wesrern”(イタリア製西部劇)の傑作 “The Good, the Bad and the Ugly” (日本の公開名「続・夕陽のガンマン」)の中に以下の興味深い台詞がある。 

「世の中には2通りの人間がいる。首に縄をかけるヤツと(其れを)切るヤツ。」(捕まるヤツと其れを助けるヤツ)
「世の中には2通りの人間がいる。友達の多いヤツと孤独なヤツ。」 

「世の中には2通りの人間がいる。ドアから出入りするヤツと窓から出入りするヤツ。」(まともなヤツとまともじゃないヤツ)
「世の中には2通りの人間がいる。弾の入った銃を持つヤツとスコップで土を掘るヤツ。」(命令するヤツと服従するヤツ。)
心理学の分野でも人間を2種類に大別すると、「自分志向型人間」(又は「内部志向型人間」)と「他人志向型人間」となる。 

 

アメリカの社会学者David Riesman(1909~2002)は、西洋社会の長い歴史に対応して、それぞれの時代に於ける社会通念を以下の3つに分類している。 

前近代(中世~15世紀):伝統志向型 

近代(16世紀~第二次世界大戦):内部志向型 

現代(第二次世界大戦後~今日):他人志向型 

更に日本の心理学者・南博先生は其の著書「心理学がわかる事典」の中で、上記の3つの志向型(Mentalität)を次の様に解説されている。 

伝統志向型」:人々の行動の原理が専ら伝統とか習慣とか言う既存の価値観に求められていた事を示しています。「封建時代」に代表される前近代の人々の同調様式の特徴はこう言う物でした。 

内部志向型」:近代になりますと、人々は自分達の行動を律する指針として、「神」とか「良心」とか言う内面化された価値を選ぶ様になりました。 彼らは丁度自分の中にジャイロスコープ(羅針盤)を持っている様な者で、その針の指し示す方向に自分の行動を向けて行った訳です。 

他人志向型」:それに対して、現代人と言うのは行動の原理として周囲の他人の意見とか他人の反応、価値等を手掛かりにする様になりました。  詰まり、あたかもアンテナやレーダーを張り巡らして、それによって他人がどう考え、行動するかを素早くキャッチして自分の行動を調節する様になったと言う訳です。 

 

参考に日本の内閣府が2009年に公表した「世界青年意識調査」(18歳から24歳が対象)では、「他人に迷惑をかけなければ、何をしようと個人の自由だ。」と考える人の割合は以下の通りの統計が出ている。 

アメリカアメリカ: そう思う;約49%、どちらかと言えばそう思う;約32% 合計:81% 

イギリスイギリス: そう思う;約61%、どちらかと言えばそう思う;約30% 合計:91% 

フランスフランス: そう思う;約66%、どちらかと言えばそう思う;約27% 合計:93% 

此の様に欧米人の大多数の人々が「個人の自由」を肯定しているのとは逆に日本日本では、そう思わないが約41%、どちらかと言えばそう思わないが約28% 合計:69%が「個人の自由」を否定しているのである。 

此の事から西洋人(白人)は断然「自分思考型」の人間が多いのだが、其れとは対照的に日本人は「他人志向型」の人間が過半数をゆうに占めているのが判る。

 

参考に「自分に満足している」と言う人の割合は以下の通りである。 

日本日本: 約45%

アメリカアメリカ: 約87% 

ドイツドイツ: 約91% 

イギリスイギリス: 約80% 

フランスフランス: 約85%

まじかるクラウンスウェーデン: 約89% 

更に「自分の意志や決断力に自信を持っている」と言う人の割合は以下の通りである。 

日本日本: 約42%

アメリカアメリカ: 約86% 

ドイツドイツ: 約91% 

イギリスイギリス: 約82% 

フランスフランス: 約85%

まじかるクラウンスウェーデン: 約90% 

これ等の統計からも日本人は欧米人に比べて「自己肯定感」の低い国民である事も判然としている。

対照的に欧米人は分相応の考えや希望を持ち、其の中で自信を持っていると言える。                    此の中でも特にドイツドイツまじかるクラウンスウェーデンの「自己肯定感」が高いのが興味深い。
 

因みに余自身は日本人としては珍しく、「非道徳、非合法でなければ何をしようとも個人の勝手(自由)だ!」と確信する、完全な「自分思考型人間」なのである。 

余がとことんまでに「自分思考型人間」である原因を自己分析してみると、先ず余が清和源氏の流れを汲む「士族」の家柄の出身である故、少年時代より「自分は庶民、平民と同類であってはいけない!」と言うAnachlonistischer Stolz(時代錯誤的な誇り、又は高慢)を抱いている事がある。 

次に自分がKünstler(芸術家)と言う強烈なIndividualität(個性)、 Identität(自分らしさ)そして Eigenschaft(独自性)を必要とされる特別な仕事を志し、就いてしまった事がある。 

これ等のElement(要素)無くして「芸術家」の人生は成り立たないと言っても過言ではない。 

そして前述の「自分思考型」の人間が圧倒的に多いヨーロッパの中央に位置する国ドイツに学業と仕事で足掛け13年も住んだ事である。 

此の国で生活して、余の「自分思考型」の Mentalität(志向型、又は思考型)は更に強まり、此の事が正しいと確信したからである。 

 

自分思考型人間」はMentalität(志向、又は思考)の軸が「自分自身」にあるので、外界や社会や他人が如何なる状況であろうと、これ等から余り影響を受ける事が無く、独自の判断、そして独立した行動が出来る。
一方で、其の思考、判断、そして行動が社会通念から逸脱していると、場合によっては異端者、奇人、変人とも見なされる事すらある。


ドイツの高名な精神科医で心理学者のErnst Kretschmer先生(1888~1964)は人間のCharakter(性格)をPykniker(躁鬱質)、Leptsomer(分裂質)、Athletiker(スポーツマン質)、 Nervös(神経質)、 Paranoische(過信質)、そしてHysterische(ヒステリー質)の6種類に分類し、これ等の人間のCharakter(性格)がKonstitution(体形)と密接な関連がある事を提唱し、理論と実例に基づき証明したのである。
又、Kretschmer先生は特に「天才」と言われる人間を高く評価し、彼等の独特のPersönlichkeit(人格、人間性)について研究し、其の内容を大著書"Die Genie"(天才)の中で克明に書き記されている。
其の中でKretschmer先生も、天才とは極端なまでに「自分思考型人間」である事を実証する事例をいくつも記述されているのである。
余も個人的な研究で、「天才」、「偉人」、「英雄」そして「人傑」と呼ばれる人々のBiographie(人物伝記)を数多く読んで来たが、これ等の人物達はKretschmer先生が提唱されている通り、卓抜した才能、知能を有するだけでなく、強烈なIndividualität(個性)、とSelbstbewußtsein(自己認識)を持っており、其の思考、判断、行動に於いて他人や外界から影響を受ける事が一般の凡人より遥かに少なかった様である。

 

其の様な意味では社会的に多数派を占める「他人志向型人間」は前記の、「天才」、「偉人」、「英雄」そして「人傑」と比べて、平凡、無個性であるとも言える。
しかしながら「他人志向型人間」は社会が平和で安定して裕福な時には、社会通念も比較的、理性的で良心的なので、人間も他者に対する思いやりや配慮も出来るので、「集団の力」によって良い方向へと発展して行くのである。
一方で「他人志向型人間」の悪質な例を挙げると、社会の異常事態(例:戦争、動乱、自然災害、経済、又は食糧危機)が到来した時、周囲の人間が生活に困窮して、窃盗や詐欺等の犯罪を働いているから自分も同様にする「模倣犯」と言うのがある。
此の様に「他人志向型」と言うのは社会や周囲の人間が道徳や法律や秩序を守った行動を取っていれば正しく作用するのだが、逆に周囲の人間が其の反対の悪質な行動を取ると、大変危険で有害なMentalität(志向、又は思考) になり得るのである。
又、幾人かの心理学者や社会学者やフィナンシャルプランナーの方々が述べられている事だが、知能の高い人や高学歴の人、そして「富裕層」の人には思考に於けるVielfältigkeit(多様性)があり、 Inprovisations fähigkeit(臨機応変の能力)にも秀でているのである。
逆に低能、低学歴や臆病者、そして「貧困層」の輩(やから)程、思考が短慮、低俗で、尚且つ「同調圧力」に屈し易い傾向があるそうである。
増してや世界中の人間が呆れる程、日本国内ではびこる「同調圧力」に対しては、余は武力(暴力)を行使してでも撃退したいと思うし、諺の「出る杭は打たれる」の如く、人を抑え込もうとする者は頭を殴り割ってやりたいし、又は「足を引っ張る」者は踏み潰してやりたいと思う程、激しい拒否感を感じるのである!

 

日本人の一般的なMentalität(志向、又は思考)では「世の中の人間が皆悉く「自分思考型人間」ばかりになっては、自分勝手な人間だけが横行して、社会が支離滅裂になってしまうのではないか?」と思えるかも知れない。
其れとは逆に、余は極端な「自分思考型人間」として、世の中の人間が誰も彼も似たり寄ったりでは、あたかもSF小説や映画に出て来るAndroidや Clone人間の様になってしまい、Individualität(個性)もEigenschaft(独自性)もInteresse(面白味)すら無い無味乾燥な世の中になってしまうと思えるのである。
諺の「人の振り見て我が振り直せ」の如く、特に優良な人物を「手本」として見習い、劣悪な人物を「反面教師」として見習う事は成程良き事ではある。
しかし、人間個人個人にとって自分の人生は、お釈迦様の御言葉「天上天下唯我独尊」の如く、此の世で唯一無二の存在なのである。
だからこそ単なる他人のCopyや模倣で終わるのではなく、Menschenwürde(人間の尊厳)の元素となるIndividualität(個性)、Identität(自分らしさ)そしてEigenschaft(独自性)も形成して保持する事も必要なのである。

あるÄsthetiker(美学者)や Kunsthistoriker(美術史家)は「どこにでもある様な絵や、誰にでも描ける様な絵には価値が無い。」と主張している。
即ち「非凡」又は「類稀」(たぐいまれ)な人物や物にこそ高い価値があるのである。
此れは芸術の分野のみならず、人間社会に於ける他の様々な分野でも同様の事が言える。
(例:人間では天才、秀才、美男、美女。 金属では貴金属。 石では宝石。 製品では限定生産品。)
日本人に多く見受けられるMentalität(志向、又は思考)の1つとして、(大多数の)他人と同じ物を持っている、ないしは同じ事をしていると安心する、と言うのがある。
しかしながら前述の美学上の理論、定義の上では、大多数の人々が持っている物や、行為は言い換えれば其れは平凡で有り触れていて価値が少ないと言う事になる。
更に手厳しい表現をするなら、其の様な価値の少ない物や行為で満足する人も同様に価値が少ないとも考えられるのである。

余も此の理論、定義にはKunstmaler(画家)になる事を決心した時から共感しているので、自分の作品は誰にも真似の出来ない、他の追随を許さない程の品質、内容でなければならないと心得て制作している。
そして平凡な画家では及ばない様な他の芸術分野、即ち文学、哲学、デザイン、建築、等の分野でも作品を制作して来ている。
 

余談として書くのだが、余は幼少の頃より他人(又は凡人)と同じ事をする(又は真似をする)事は凡下な行いであるとして軽蔑していたし、集団の中で群れる事も弱者の行いであるとして見下していた。
例えば余の少年時代の男子の髪型とは大抵、所謂「スポーツ刈り」か「毬栗(イガグリ)頭」であったが、余は1人だけかつてのイギリスのバンドグループ"Beatles"の様な髪形であった。(❖今では女の子の様な"Bob Hairstyle"。)

当時の男子が皆白いシャツを着ていても、余は1人だけ「服」であった。(❖此れは今でも変わらない。其れどころか下着までになっている。)
又、当時の男子が半ズボンだったのが、余は此れ又1人だけ長ズボンを履いていた。(❖ところが今では女物のShort Pantsを愛用している。)
其の他、高校生の頃から18KのNecklessとPendantを着用している。(❖今では自分の誕生石Saphirの付いたGold、White Gold、Platina製のPendantを12個も持っている。)

つい最近では新型コロナウィルスが大流行した2020年から現在に至るまで、(生理的に受け付けないので)マスクを全く着用していない。
其のくせ親しい者の家以外の場所に外出する時には、必ず手袋を着用して行く。(❖実は手足にのNail Colourをしているのを他人に見られたくないからである。)
此の様に一人だけ周囲と異なる髪形、服装をして、集団に属さない"Einzelgänger"(一匹狼)又は "Sonderling"(変わり者)であった。
にも拘らず余は家柄や財産、そして容姿の美しさに加えて、「お絵描き」と「暴力」だけは無類に長けていたので、苛めに遭う事は無かった。
普通の日本人が此れを読めば、「風変わりな人だ!」とか「社会に適応出来ないんじゃないの?」と思われるかも知れない。
其れでも余は自ら誇れる事として、少年時代から「自分を偽らない」、「望みと目的は必ず成し遂げる」、「弱い者を苛めない」、「意地汚い卑劣な事をしない」と言う項目(又は誓い)は今でも尚守り続けているのである。

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ドイツや其の他のキリスト教のヨーロッパ諸国では、1年で最大の祝祭は何と言っても 12月25日のChristmas(クリスマス:

ドイツ語では Weihnachten 、フランス語では Noël)である。 

一方日本では言うまでも無く、1月1日の「正月」である。 

両国の各祝日には各家庭や各事業所、其の他の施設で、日本では所謂「お飾り」、そしてドイツでは

”Weihnachtsdekoration”(クリスマスの飾り)が入口や窓辺に設置される。 

年末年始を通じて両方の文化を比較して、ふと思いついた事を書いて行く。 

先ずは題名の日本の「お飾り」の代表格として「門松」が挙げられる。 

門松の歴史を書くと、平安時代に唐の国から正月に、神が宿る新しい生命の象徴である松の枝を門に飾る風習が伝わったのが由来とと言われている。
又、当時の宮中で貴族が正月の日に外出して、松の木の枝を引き抜いて館に持ち帰って飾る所謂「小松引き」と言う遊びがあり、此れが「門松」へと進化したと推察される。

最初は松の枝を飾るだけであったが、鎌倉時代になって現在の様な竹が付け加えられた。
伝統的風習では此の門松やお飾りは神を家に招き入れる目印として新年毎に新調していた。 

日本では此の様に多くの物品や生活道具が何年か経年すると、処分して新しい物を作り直したり、買い換えたりするのが一般的傾向である。 

しかし今日では門松を何年も再利用する家庭も少なくないとの事である。

余も個人的には(ドイツ人的感覚で)折角職人が手で作った品物を僅か10日ないしは2週間程度の期間展示しただけで焼却するなど「勿体ない」と同時に作った職人の仕事を冒涜する様に思えるので、門松を何年も再利用する様にしている。 

其の際、門松(約65cm)を我が母上方の祖父が経営していた事業所で使っていた火鉢(恐らく美濃焼)の上に乗せるので高さが約82cm程になる。
而も此の火鉢には我が家の家紋の「笹」が描かれているので大変縁起が良い。

 

一方ドイツでは大抵の物品や生活道具は余程状態が悪い物以外は、Reparatur(修理)、Umgestaltung(改造)Verbesserung(改良)等を施して使い続けるのである。 

此れは”Weihnachtsfiguren”(クリスマスの置物)に関しても同様で、其の代表格格 ”Nußknacker”(くるみ割り人形) 、 “Kerzenhaus” od, “Lichthaus”(蠟燭の家、又は光の家)、  “Räuchermann” od, “Räuchermännchen”(タバコを吸う人)も同様に長い年月を通じて再利用している。 

極端な例を挙げると20世紀の初頭や19世紀後半頃の 

Weihnachtsfigur”を所蔵している博物館や個人もいる位である。 

Nußknacker”(くるみ割り人形)の発祥は18世紀の現在のドイツSachsen州のチェコとの国境に伸びるEerzgebirge(エルツ山脈)である。
此の地方では何か特産物を生産して地元の経済を豊かにする事を余儀無くされていた。
当時、此の地方のある村に裕福だが孤独な地主が住んでいた。
彼はクリスマスにクルミをより楽しく割って食べる方法を考えた人に報酬を出すと言う御触れを出した。
何人かの候補の中でPuppenschnitzer(人形職人)の素晴らしき案が採用された。
木製(Kiefer=松、Fichte=ドイツトウヒ、Buche=ブナ)の人形に背面にレバーを付け、此れを引き上げて口を開けて、そこにクルミを挟んで割る仕掛けを作り、人形の体は此の地方の民族衣装の様に複数の鮮やかな色を塗るのである。
其の後19世紀の前半に”Nußknacker” は ”Weihnachtsfigur”(クリスマスの置物)としてドイツ全土に広まり、様々なデザイン(例:König=王様、Ritter=騎士、Soldat=兵士、Bergmann=山国の住人、Förster=森の番人、等)が考案されて行った。

余が所蔵している ”Nußknacker”(H:35cm)はOtto Mertens Kunstgewerbeの工房で制作された物で、大学時代の1991年にドイツ現地でWeihnachtenが始まる時期に入手した。
其の後、余にとって幸運の象徴である※聖騎士"St.Roland"像として、自分好みに何か所も改造を施している。

(※聖騎士"St.Roland"像はかつてHanse商業同盟に属した都市のMarktplatz(市場)に市の守り神として建てられている。 例:Bremen、 Brandenburg/H、 Gardelegen、 Perlberg、Stendal、等)


   Heinrich Gustav:  Die Rolandsäule zu Stendal

例えば、兜の上の赤いFederaufsatz(羽飾り)は手芸店で購入した物を取り付け、兜のVisier(目の防具)は薄いプラスチックの板に塗料を塗って作成した。
Lanze(騎士の槍)とSchwert(刀)はドイツの ”Weihnachtsfigur”の専門店で購入した木製部品で作成し、Schild(盾)とSchulerblatt(肩の防具)とSpange(ベルトの留め金)の上のMärkischer Adler(ブランデンブルクの赤鷲)は塗料で描き上げた。
そして背中には赤い布でマントを取り付けた。
更に上腕部と膝のLederschmuck(革製の飾り)は使い古した靴の飾りを利用して作成した。

 

因みにドイツのOstpreußen出身の文学作家にして作曲家であったE.T.A.Hoffmann(1776~1822)の書いた小説 

"Nußknacker und Mausekönig"(くるみ割り人形とネズミの王様)は彼独特の愛らしいFantasie(幻想)が生き生きと描かれた名作である。
主人公の少女Marieの夢の中で、彼女のお気に入りのNußnackerがネズミの王様が率いる悪いネズミの集団と戦って一旦敗れてしまう。
Marieは知り合いのHandwerker(工芸品職人)のおじさんに、どうすればNußknackerが悪いネズミを退治出来るだろうかと相談すると、HandwerkerのおじさんはNußknackerの為に刀を作ってくれた。
家に帰ったMarieがNußknackerに刀を取り付けてやると、Nußknackerは見事に悪いネズミの集団を退治したのである。
更にMarieの夢の中でNußknackerはPuppenreich(人形の帝国)の王子様として現れ、御礼に彼女を自分の国に連れて行くのであった。

 

Kerzenhaus”又は “Lichthaus”は名前の如く、家を模った置物の中に火の付いた蝋燭ないしは三角錐型の線香を入れる。
日本でも御馴染みの瓢箪(ひょうたん)の中身を刳り貫いて、其の中に蝋燭を立てる所謂「瓢箪ランプ」と類似している。
大抵の“Kerzenhaus”又は“Lichthaus”は素焼きの陶器製で部分的にGlasur(釉薬)や顔料で着色されている。
此の“Kerzenhaus”又は “Lichthaus”はドイツ国内に存在する様々なBaustil(建築様式)を模っているので歴史的建築を研究している者には大変興味深い物がある。
余が所有しているのは北ドイツに多く見られるFachwerkhaus(木骨家屋)とBauerhaus mit Schilfdach(茅葺屋根の農家)である。
 

  “Räuchermann” 又は “Räuchermännchen”(タバコを吸う人)は大抵の場合木製で、其の体は上半身と下半身に分けられる。
下半身から上半身を取って、人形の腹の中に三角錐型の線香を入れる。
そして再び上半身を被せると、あたかも煙草を吸っている様に人形の口から煙が出て来るのである。
此の人形も様々な職業の人を模っているのが面白い。
余が所有しているのはKoch(料理人)である。
同様に日本文化で類似した例を挙げると、丁度「蚊やり器」と言った処であろう。

 

扨、以上の様に日本の「正月飾り」とドイツの ”Weihnachtsdekoration””(クリスマスの飾り)を主題にして、両国の文化を比較してみると、日本は"Renovierende Kultur(「一新」の文化)、ドイツはKonservierende Kultur(「保守」の文化)と表現する事が出来る。
両国の文化で其の他の例を挙げると、日本では家財道具が古くなったら廃棄処分して、改良した新しい物を作ったり、購入する事が主流である。
例えば住居や施設等の建造物でも大抵の場合30年ないしは50年経年すると、解体して新しい物を建てるのである。
故に日本では家財道具の「保証期限」が切れた物は、本体どころか其の部品の製造も終了するので、古い物を修理するのが容易ではない。
一方ドイツでは家財道具を安易に廃棄せず、親、祖父母ないしは其れ以前の先祖の代より手入れ、修理をしながら受け継いでいる。
同様に建造物の場合、100年以上前に建てられた物件を安易に解体したりせず、破損、老朽した部分のみ修理して、更に時代に適合した設備を追加する等して全体的に保持して行くのである。
故にドイツでは半世紀以上前から作られた物の部品でも製造したり修理する技術も残しているので、古い物を確実に保持出来るのである。
成程それぞれの文化には一長一短があるし、日本人には「日本式概念と方針」が常識として慣れているのかも知れないが、余は個人的には断然 "Deutsche Konzept u,Methode"(ドイツ式概念と方針)の方が好みに合うのである。
何故なら物事の価値を決めるのは、古いか新しいかではなく、有益か無益か、又は有意義か無意味かであると考えるからである。
即ち古より価値の有る物は守り続け、価値無き物は抹殺すれば良いのである。
「古い物」は何でも切り捨ててしまう等と言う考えは正に「愚の骨頂」であり、良き物、価値ある物はたとえ古くとも守り続け、後世の世まで残して行かねばならないのである!

 

日本では文化財と貴重品以外は大部分の古い物を壊して捨てるので、其の分だけ新しい物を大量に製造して販売する。
故に業者の儲けは多いが、其の反面無駄が多いし、ごみの処理に手間や費用が多くかかってしまう。
ドイツでは大抵は古い物でもReparatur(修理)、Pflege(手入れ)、Wiedergabe(再生)、Wiederverwendung(再利用)によって保持するので、新しい物を適当な量だけ製造して済ます。
故に業者の儲けは日本程ではないが、無駄が遥かに少ないし、

ごみの処理に掛かる手間や費用も遥かに少ないのである。
両国のKonzept(概念)とMethode(方針)を野球チームに喩えると、日本は得点力は高いが、失策や失点も多いチームである。
ドイツは得点力は日本程ではないが、失策や失点を最小限に抑えているチームである。
因みに大抵のプロ野球解説者は「野球の勝敗は6割以上が投手力(失点を抑える力)で決まる。」と言っている。
又、日本で複数のフィナンシャルプランナーが100人近くの「富裕層」(資産1億円以上)の人々に「資産を増やす為には、収入を増やす事と、無駄な出費を抑える事のどちらが効果的ですか?」と言う質問をした処、殆どの「富裕層」の人々が「無駄な出費を抑える事の方が大事だ。」と回答したそうである。
又、両国の政府の財政を比較しても、ドイツは1990年10月3日の"Deutsche Einheit"(国家統一)以来、旧・東ドイツを西ドイツ並みの社会水準にまで到達させる為に莫大な費用が掛かり、其れが国家の巨額な負債になっていたが、2010年までに此れを全て返済してしまっている。
其れに対し、今日の日本国政府や各地方自治体の抱える負債は天文学的な金額で、近い将来行き詰まり破綻するのではないかと危惧される程の状況である。

そして此の30年間、アメリカ経済は約2倍に発展、ヨーロッパの主要国(ドイツ、フランス、イギリス)も約1.5倍に発展しているが、他方で日本とイタリアだけが取り残された様に殆ど経済成長出来ず、税金、物価、エネルギー費のみが上昇している有様である。
詰まりこれ等の結果からも、"Deutsche Konzept u, Methode"(ドイツ式概念と方針)の方が合理的な正解であると言わざるを得ない。

 

新年の「縁起担ぎ」に因んで書くのだが、日本でも今だに存在が確認されていない神を信じたり、詐欺まがいの占い師の戯言を信じる、あたかもMentality(精神構造)が原始人並みの人がいる。
今日の様な「高度文明社会」に於いても尚、存在もしない「神」や、科学や医学等の学術的根拠の無い占いを信じる者がいるのには誠に呆れ返るしかない。
(大変高慢な表現になるが)この様な者共は「愚者」か「無能者」か「貧乏人」と相場は決まっている。
何故ならこう言った者共は自分に何一つ突出した「知恵」も「能力」も「財産」も無いから、自力を信じられず他力に依存するのである。
単なる「縁起担ぎ」の神頼みや、遊び半分の占い程度なら問題無いのだが、こんな他愛の無い物に毎回金銭までつぎ込む様になっては、人生観を誤っているとしか言い様がない。
一方、ドイツでは10世紀以来ずっとキリスト教一筋である。
そしてキリスト教はMonothaismus(一神教)の代表格であるし、当宗教の"Die Zehn Gebote" (十戒)の中の1つに「汝、唯一の神のみを信ずるべし」と言うのがある。
故に余程の事が無い限り、キリスト教以外の宗教に入信する事はあり得ないのである。(此の事は其の他のヨーロッパ諸国でも同様である。)
しかし、キリスト教以外には所謂 "Heroismus"(英雄崇拝)の思想は社会でも顕著に見受けられる。
其の証拠として、ドイツや其の他のヨーロッパ諸国では、日本や他のアジア諸国に比べて、英雄、天才、偉人、人傑の肖像画や彫像が大量に制作されて、美術館、博物館、城、公共施設、そして公園、市場、等に常設展示されている。

古の時代より「天才」「英雄」「偉人」「人傑」と言われた人は、自分の能力を信じて、高い目標、理想を持って、学習、努力を続ける事によって、自ら運を切り開いて大事を成し遂げたから、歴史に其の名前と業績を永遠に残せるのである!
即ち「自力」を信ずる者は、自分の人生に於いて自らが「神」(絶対的及び全能の存在)となれるのである!

凡人でも少なくとも自分の人生は自分自身で考え選択する、もしくは自分をよく知っている親しい人に相談する位の事をしなければ、「正しい人生」を歩めないのではなかろうか。

 

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2週間前に誕生日を迎えて、余は今9月も引き続きウェイトトレーニングを続けているのだが、毎週真中の※水曜日(※因みにドイツ語で水曜日=MittwochとはMitte der Wocheの短縮で「週の真ん中」の意味)にはトレーニング場である我がボロ別荘の前の狭い道を50m往復する事で、100m走の練習をしている。

何故なら余は小学校の頃より短距離走には絶対的な自信があったから、其の能力を保持したいからである。

毎年運動会の時には200mリレーで2人も3人も追い抜いて先頭でゴールインするのを大変心地良く感じていた。 

其れでも走る直前には胸が高鳴っていた事を今でも鮮明に覚えている。

高校時代には全校生徒約1100人の中でも余は一番走るのが速かった様である。

3年生の時の体育祭の時、予選では他を突き放しての1位だったので、「此れで俺の優勝は間違いないぞ。」とタカを括っていた。

ところが其の慢心から当時サイズが大き目の運動靴を履いて出た為、いざ決勝でスタートした途端に靴が半分脱げてしまい、先頭グループから5m位遅れてしまった。

其れでも、足が再び靴に収まったので、其のまま追い上げ、胴体1.5個程度の差で3位となってしまった。

靴が脱げなければ間違い無く余裕で優勝出来ていたであろうし、もしくはもう1m走っていたら確実に全員追い越しただろうにと思えた。

高校の体育祭の結果等、成人すれば愚にも付かない事かも知れないが、短距離走には絶対的な自信がある余としては今でも悔いの残る思い出である。

其の苦い経験以来、余は短距離走には必ず足にぴったり合ったランニングシューズを履く様にしている。

 

其の後25歳頃になって、我が家から100m程の近所に住む家族ぐるみで親しい歳森さん(1922年生まれ)に余が走る時のフォームを見てもらった。

と言うのは歳森さんは第二次世界大戦直前に※東京工科大学で学ばれていた時、陸上競技部に所属されて短距離走(100m+200m)も走られ、其の上当時のみ行われていた競技「手榴弾投げ」にも参加されていた事を当時の写真と共に語ってくれたのである。

(※同校で「工学博士号」を取得されている)

余が自分が高校時代の100m走の最高記録が12秒00であったと言うと、歳森さんは「実秋ちゃん、そりゃ女の子の記録だぞ。」「わしが大学生時代には100mを10秒台半ばで走ってたぞ。」とあっさり言われて、一気に落胆してしまった。

そこで歳森さんに「では、どうすればもっと速く走れる様になれるでしょうか?」と尋ねると、「ちょっと(家の)前の道を走ってみろよ。」と言われたので、余が30m程走るのを見てもらった。

すると歳森さんは「実秋ちゃん、其れは素人の走り方だぞ。」と言われてしまった。

余は愕然として「ではプロの走り方とはどんな物ですか?」と尋ねると、「君は走る時に踵から着地してるだろ。 そうじゃなくて爪先から着地するんだ。」「地面に足を着ける時間が長い程、タイム(記録)が落ちるんだよ。」「其れからもう少し腕を振った方が良いぞ。」と教えてくれた。

又、歳森さんは「100m走を10秒代で走るのには、練習だけではなく天性の才能がいるぞ。」とも言われていた。

其れ以来これ等の歳森さんからの助言を参考に余は我がボロ別荘の前の狭い道で100m走の練習を今でも続けている。

そして其の結果、余は20代後半になって初めて100mを最高記録10秒5で走れる程、飛躍的に成績を上げる事が出来たのである!

此の事を歳森さんに報告すると、いつも彼は辛口評価なのに「そりゃ大した者だ。」と褒めて下さったので、余はとても嬉しかった。

高校生(16歳)以来のウェイトトレーニングと自転車(スポーツ車)での走行(12km×週5回)を続ける事で、脚力が次第に向上しているのが一番の理由であろうが、更に走り方のコツと適切な靴を履く事でこうも100m走の成績が格段に上がるのだろうかと我ながら驚いている。

歳森さんも既に御他界して10年以上になるが、今でも彼の貴重な指導には感謝している。

 

短距離走は一見すると足だけで走っている様見受けられるが、実際は全身の筋力で走っているのである。

其れが証拠に「オリンピック」や「世界陸上」に参加している短距離ランナーの体は下半身だけでなく上半身の筋肉もしっかりと発達しているのである。

余も強力な上半身の筋力も利用する事で100m走のタイムを上げる事が出来ているのである。

本来、余が一番重点を置いているスポーツ種目はウェイトトレーニングと打撃型格闘技(例:キックボクシング、空手)なので、余の筋力は短距離ランナーとしては強過ぎるのと、体格(スリーサイズはB:105、W:68、H:93(cm)、身長:173cm、上腕周り:37cm)も筋肉が着き過ぎなのである。

(更に詳しくは同ブログの記事「久方振りにウェイトトレーニングに復帰した事, 及び我が容姿について」)参照)

そこで余は100mないしは200mを走る時はウェイトトレーニングの時の様に100%の力を出すのではなく、約75%位の力で走る様にしている。

何故なら走る時に力み過ぎるとスピードが落ちるからである。

此れを自動車のギアに譬えるならば、出だしに使う「ローギア」は力が最大だがスピードが出ない。

其れに対し高速で走る時に使う「トップギア」はローギア程の力は出ないのと似ている。

上記の通り「100m走は約75%位の力で走るべし。」と頭で言い聞かせていても、つい心で「速く走らなければならない!」と言うZwangvorstellung(強迫観念)が作用して、今でもつい力んで走ってしまう事が時々ある。

 

「100m走」とはただ走るだけなら幼児でも出来る事である。

しかし極めて短い時間内に走り抜く事は決して容易な事ではない。

可能な限りタイムを縮めるには一挙一足の失敗も許されない、言わば始めから最後まで完璧を求められるスポーツなのである。

其の為には繊細な心配りが必要とされるのだが、其れでも余り神経質になり過ぎると、精神的に緊張し過ぎて実力が出せなくなる。

故に余は100mを走る時には心の中で「」「」「」と言う漢字を思い描く様にしている。

即ち「心を軽やかに、安らかに、そして楽しい気持ちで走る。」と言う事である。

此れが余の100m走の為の秘訣である。

因みに1943年ギリシャ生まれの音楽家Vangelis が1981年のイギリス映画“Chariots of Fire”で音楽を担当し、Academy賞を授与されている。

此の映画は1924年のParis Olympicに於いて2人のイギリス出身のランナーが金メダルを取った実録の物語である。

此れ以降、Vangelisの此の作品は世界中でCDが発売されたり、テレビ番組のBGMとして度々利用されている。

余も本来はKlassik音楽(ドイツ、オーストリアの作曲家中心)しか聞かないのだが、Vangelisの音楽だけは、此の“Chariot of Fire”の音楽に自らが短距離ランナーとして魅せられて以来、CD10枚で彼の作品を所蔵している。

此のVangelisの映画音楽を走る直前まで思い出すのも心を「軽」「安」「楽」の境地に持ち込む方法にしているし、同時に走る際に大層Motivation(意気込み)を上げてくれる効果もある。

 

本来ならば自転車競技や短距離走をするなら、体に密着したスポーツウェアーを身に着ける処なのだが、余があくまで重点を置いているスポーツ種目はウェイトトレーニングと打撃型格闘技なので、これ等のトレーニングには普段着で十分だと思っているので、ワイシャツと長ズボンとランニングシューズを身に着けた井出達で自転車で走り、100m走の練習をしている。

とは言え速度を競う競技では物理学的に考えても、出来るだけ体の「空気抵抗」を少なくする方が良い結果が出るのは自明の理である。

扨、9月の半ばになると余が自転車で走ってボロ別荘でウェイトトレーニングを始める午後6時頃には流石に日が沈みかかっている。

そして今週の火曜日に突然以下の事を思い付いた。

「もし服を着ずに短い水着とランニングシューズを身に着けた殆ど裸の状態で走ったら、「空気抵抗」がかなり軽減されてより短いタイムで走れるのではないか?」

3月初めから其れまでは日照時間が長いので、屋外では普段着を着て走っている。

何故なら短距離走専用のスポーツウェアーを身に着けて走るのも仰々しいし、殆ど裸の状態で走ったら、其れを見た人にキチガイか変質者と勘違いされかねないからである。

しかし日が暮れてからなら人目にも付かないし、此の思い付きを実験してみる良い機会だと思い、いざ短い水着とランニングシューズを身に着けた殆ど裸の状態で50mを走ってみた。

何と自分でも面白い程にスピードが出たのである!

やはり余の思った通り明らかに「空気抵抗」が軽減されていた。

次の日にはいつも通り50m往復する事で100mを走ってみたが、やはり昨日同様に面白い程スピードが出たのである!

此れならば最早初老の歳にもなっても、新記録が出せるのではないかと思える程である。

 

100m走に於いて此の様な素晴らしき結果が出せた原因として、自己分析してみると前記の「物理的要因」と並んで、「心理的要因」も大きく作用しているのではないかと思われるのである。

其れは他の記事にも書いている事だが、余はどうしようもない 

”Narzisst”(自惚れ屋)で、自分の彫の深い端正な美人顔や長年ウェイトトレーニングで鍛え上げた超筋肉質の裸体に毎日見惚ているのである。

おまけに余は幼少の頃より「」と云う色に異常な愛着があって、少年時代よりい服ばかり着ているだけでなく、家の外装、室内の調度品、生活道具、乗り物に至るまで全てないしは系の色で揃えている有様である。

故にウェイトトレーニングもい短い水着といリストバンドだけを着用して行っている次第である。

詰まり自分が最も愛着のある慣れた井出達で行った事で、服を着ている時よりBefreiendes Gefühl(開放感)やNarzißtische Lust(自己愛的快感)がより高まった事でいつも以上に良好な精神状態で走れたのである。

心理学の研究でも人間は何か行動する時、自分が最も愛着のある慣れた条件や環境で実行すれば最高の成果を出せる事が証明されている。

そういう意味では”Narzißmus”(自己愛、自惚れ)と「」と云う色が余にとっては人生に於ける我が心の2つの大きな支えなのである。

もし自分が美しい容姿に恵まれていなかったら、もし此の世に「」と云う色が存在しなかったら、もしくは「色盲」でが識別出来なかったら、たとえ何不自由無く生きられる「富裕層」の家に生まれていても、恐らく余は生きる気力すら失っていただろうと思えるのである。

人間は誰しも自分の人生に於いて何らかのGeistige Unterstützung心の支え)を持つ必要がある。

其れがあるのと無いのでは人生の幸福や成功に於いて格段の差が生まれのではないかと、今回の経験でも改めて思えるのである。

 

医学的調査では人間の下半身の衰えは上半身の衰えより2.5~3倍早いと云う統計が出ている。

其れに対し余は全く衰える事も無く(最高に体力の充実した)30代頃の体力を維持しているのである。

其の証拠に100m走だけでなく自転車で(片道)6kmの道程を相変わらず約15分で走り抜くし、ウェイトトレーニングでも30代頃と全く同じMenu(種目)と重量と回数をこなしているし、40代になって寧ろMenu(種目)を増やしている位である。

とは言え人間は誰しも「初老」にもなれば、どこかは衰える者である。

余の場合は「筋力」が充実している反面、歯に関しては大部分が虫歯や歯槽膿漏になって、其の都度近所の掛かり付けの歯医者さんに治療してもらっている。 

(此れは絵の制作の時間の為、歯の手入れを怠った余の自己責任である。)                     

因みに健全な歯の多い人程、寿命も長いと云う統計が出ている。

又、最近では本業の絵を描く時の「集中力」も著しく落ちている。

ウェイトトレーニングは1日に3時間なので今でも十分に集中出来るのだが、以前の様に1日に10~12時間も絵を描き続ける事が出来ていない。

今まで十分過ぎる位大量に絵を描いて(油彩画だけで828点)、ドイツと日本で通算20回も(公共事業としての)個展を開催し、両国の偉大な歴史のある文化価値の高い美術館、博物館、教会、寺院に大量の作品(約360点)を寄贈して来た事(同ブログのプロフィール参照)からのBefriedigenheit(満足感)、Erfühllungs Gefühl(達成感)が十分過ぎる位ある事、そして最近、家事、雑用が増えたのも其の原因なのだが、これ等が一段落してから絵の制作時間は少しづつではあるが増やせている様である。

我が母上は「今まで沢山描いて来たんだし、今は以前みたいに個展を開く訳でもないんだから、そんなに急いだり無理をして描かなくても良いのに。」と言ってくれる事には有り難く思っている。

 

(此れで前記の我が心の2つの大きな支え以外にも余の大好きな貴族出身の「爆乳美人」を我が正室に迎え、モデルにもなってくれれば、一層Mut in Arbeit(制作意欲)もLebenslust(生きる喜び)も高めてくれるのだが・・・・・)

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  All rights reserved

 

 

今から10年程前の穏やかな夏の日曜日、不快な事に腐れ外道の新興宗教の手先共が、我が館の郵便受けにキチガイ染みた内容の勧誘パンフレットを投函していたので、即座に引き裂いてゴミ箱に捨てておいたのを今でも覚えている。
その後近所に住む親類や友人、更に我が家の事業所の従業員にも此の事を尋ねてみると、我が家と同じくこれ等のキチガイ・パンフレットが投函されていたらしい。
この事からどうやらこいつらは我らの町内のあちこちの家庭に同様の迷惑行為を働いていた様子である。
更にその内容とは、我が館の近所の公営施設「ふれあいセンター」でこの腐れ外道の新興宗教が近々講演会を開くと言うのである。
本来なら公務員はこいつらの悪評と正体位知っている筈なのに、何故こんな有害な輩に講演会を許可するのだろうか?
いくら自治体の予算が少ないからと言って、多額の金さえ払えば何でも許可すると云う、諺の「地獄の沙汰も金次第」の様な処置をしているのでは、社会に悪影響や災難が及ぶ事を認識するべきである!

余は家族、親類、友人には常日頃から、新興宗教は「洗脳詐欺」なので絶対に信じない様に注意を促しているので心配は無いのだが、どうにも気持ちが悪いので何か宗教の訪問勧誘を確実に撃退する方法はないだろうかと思案してみた。

そこで思い付いたのが、京都市や滋賀県・大津市の民家でよく見かける寺院ないしは神社の「御札」を玄関に貼り付けている習慣を手本として、こいつらを寄せ付けない「厄除け」と云う事で仏壇に祀っている我らの総本山・比叡山延暦寺の護摩札をコピーして玄関に貼り付けて置いた。

此れは決して「おまじない」等ではなく、「我が家は天台宗也。他の宗教は受け付けない!」と言う意思表示をする事に依って、他宗教の勧誘を諦めさせる狙いなのである。

以前汚らしい「エホバカの証人」の手先共(見るからに貧乏人)が来た時には、余がベランダから大声で罵倒して追い払った御蔭で、二度とこの害虫共は我が家の近辺には現れない。

やはり直接罵倒して撃退するのが一番効果的である。

(こいつらの輸血を厳禁するだの、親が子を又は我が身を鞭で叩く等、あたかも「変態SMクラブ」の様な狂信的習慣には吐き気を催すのである!)

 

事もあろうに2009年「幸福の科学」は名ばかりの政党(実際はただの政治集団)を結成して、国会にまで干渉しようと言う身の程知らずの「暴挙」に出て来ている。

(案の定、先の議会選挙に続き「箸にも棒にも掛からぬ」全員落選だった。 因みに他の選挙区に比べて我が地元ではこいつらに投票したアホ馬鹿は殆どいなかった。)

常識のある者から見れば、これは「笑止千万」の愚行かもしれないが、この様な「荒唐無稽の偽善」を本気で支持する所謂「目あき目くら」の輩がいるのがいささか目に付く。

こんな新興宗教の教祖か総裁を名乗る腐れ外道の「洗脳詐欺」を信じていると幸福はおろか、かえって不幸になる事は必定である。

こいつらの「化けの皮」を剥がし、醜い正体を暴く為、そしてこいつらに洗脳されている哀れな人々の目を覚ます為にもこの記事を認めた次第である。

 


時は流れて2020年7月8日、午11時30分頃、安倍晋三元総理(67歳)が奈良市のJR大和西大寺駅前で街頭演説中、同市在住の無職の男(41歳)に背後から約3mの至近距離から2発銃撃され、心肺停止の重体に陥られた。

犯人はこの凶行の直後にSPに取り押さえられ、奈良県警に「殺人未遂」の罪状で逮捕された。

約20分後に安倍元総理は、ヘリコプターで奈良県立医大病院に救急搬送され、同病院内の救命センターにて医師達に依って懸命の蘇生措置が行われたが、残念ながら午後5時3分に亡くなられてしまった。

安倍元総理の治療に当たった奈良県立医大病院の会見によると、頸部に2カ所の銃創があり、弾丸による傷は心臓にまで達していて、心臓及び大血管の損傷があったという事で、 死因は此の銃撃による失血死であった。

警察の取り調べによると、此度の許されざる凶行の原因は、犯人の母親が奸国に本部のある極悪新興宗教「統一チョン教会」に洗脳され財産を巻き上げられて破産した事、そして安倍元総理がこの新興宗教と近しい関係であると言う事実無根の妄想を勝手に抱いて犯行に及んだと言うのである。

余は安倍元総理の予期せぬ突然の御最期を知って悲痛な思いに駆られたと同時に、凶悪犯罪者と人間を不幸に陥れる悪質極まりない新興宗教に一層の怒りと憎悪を感じたのである。

 

欧米諸国はキリスト教、中近東諸国はイスラム教と言う様に、それぞれ単一の神を信じる国民に比べて、全く日本と云う国には何と新興宗教が多いのかと呆れ返ってしまうのである。

この様な馬鹿げた物が多々存在する主な原因は以下の通りであると推察される。

*日本人の宗教に対する「寛容」(裏返して云えば「無節操」「無頓着」である。)

*現代の日本人の「個性」「主体性」「自主性」の欠如

*複雑化する現代社会に於ける「人間関係」から来る諸問題(軋轢(あつれき)悶着(もんちゃく)ストレス)の増加

*ヨーロッパ諸国の様な新興宗教を取り締まる法律が、日本では制定されていない

そもそも仏教又はキリスト教ないしはイスラム教等を「単一宗教」としている世界各国ではこんな社会現象自体有り得ないし考えも付かない。
これは日本国内でのみ起きる「怪奇現象」と言っても差し支え無いのではなかろうか。
とにかくこの洗脳詐欺である新興宗教家.の書いた本やその他の文章内容と言ったら「偽善者」「キチガイ」その者ので、出鱈目三百、嘘八百、そして矛盾だらけである!(一説によると代理の書き手がいるとの事)

例:・自分は「釈迦」(如来)の生まれ変わりだとほざいている。(事物的証拠等ある筈が無い!)

・世界の4大聖人(紀元前の人物)であるキリストや孔子とも話をしたとほざいている。

・日本全国に信者が1千万人いる?(日本の総人口約一億二千三百万から計算してみれば、国民10人に1人が信者の訳が無い! 

こんな計算の出来ないアホ共もいるのだから呆れてしまう。)
この滑稽千万の内容には下手な「爆笑漫画」よりも笑わされてしまうのである!
もし欧米でこんな事を供述しようが者なら、精神病のPseudologia Fantastica(空想性虚言症)又はWahnsinnige Schizophrenie(妄想性分裂病)と診断されてキチガイ病院に放り込まれるか、Geistliche Betrügerei「宗教詐欺」として刑務所にぶち込まれるのが落ちである。
全くEuropäische Mentalität (ヨーロッパ人の感覚)からすれば>So ein Quatsch!<「全く馬鹿々々しい!」の一言である!

 

余が心理学を学んでいるので特に主張したいのだが、「知能犯」と言う輩は必ずと言って良い程、この心理学を悪用して、巧みに人をその気にさせたり、信じさせたり、隙を突いて悪事を働くのである。
その折には人間の理性より寧ろ本能、欲望又は不安、恐怖に訴え掛けて騙す場合が多い。

故に如何に己の本能、欲望(又は煩悩)を理性で抑えるかが大切なのである。
そして善良な人達もある程度この心理学による"Trick"「騙し術」について知って置いた方が安全である。
現在では心理学に関する安価で読み易い小型冊子も大量に出回っているので容易く購読出来る。
「知識」とは銃刀と同じで、一度悪人が身に着けると「凶器」になるのである。
たとえ「知識」を所有していても、其の人が「理性」「良心」「道徳心」を持っていれば間違いは決して起きない。

その他、知能犯は上辺だけの同情、同調をする事で、善人又は味方を装って人の心に取り入ろうとする。

即ち全てに於いて御世辞や奇麗事を言う者、又は不安や恐怖を煽る者は要注意である。 
又「肩書き」を偽装している事が多い。  

例えば会社、組織、学歴、免許等、大抵の場合「架空」もしくは、他からの「盗用」である。

同様に今回取り上げている「新興宗教」も一種の「知能犯」の輩である。
こいつらは宗教的な偽善を説く事によって、人生に深刻な悩み、苦しみ、問題(例:自身の不治の病気、家庭の不和、職場での人間関係、経済的困窮、等)を抱えている人々の心に付け込み勧誘して、偽善と甘言によって入信させ、最後には完全に「洗脳」して(騙された)信者の心を乗っ取り、思いのままに操り、大金をくすね盗っているのである!

そして、ある信者が新興宗教団体に属して信じる事が大間違いだと気付いて脱会しようとするなら、「お前は不幸になる」だの「破滅する」だの「地獄に堕ちる」だのと脅して信者の不安を募るのである。

もっと酷い例では複数の信者共によって「集団ストーカー」をされたり、法外な金額の「脱会料」を請求する事もあるそうである。

 

参考に「宗教にはまり易い人」の特徴を以下の通り記しておく。

注意*真面目で直向きな人  注意*純粋な世間知らず  注意*理想、願望、正義感が強い  注意*占い、迷信を信じ易い  注意*暗示にかかり易い  注意*思い込みが激しい 注意 *良き理解者、友達がいない  注意*承認欲求が強い  注意*信じる物が無い  注意*親からの何らかの影響 注意*何かにすがりたい気持ちが強い  注意*精神的に不安定  注意*人生に何か深刻な悩みがある 注意*科学的思考が出来ない

上記の特徴に該当項目の多い人は新興宗教の腐れ外道に付け込まれない様に要注意である! 

更にこいつらが標的にしているのは、高齢者と富裕層なので該当者は同様に注意が必要である。
何故なら、高齢者は若年層に比べて「信仰心」が強い一方で情報収集力に乏しく、其の上財産に恵まれている一方で、健康や人間関係に恵まれない事が多い。
又、富裕層は言うまでも無く多大な財産を所有している上、比較的高学歴で向上心の強い人が多いので、一度洗脳してしまえば延々と大金をむしり取る事が可能だからである。

 

新興宗教の教祖を始めとする上層部の腐れ外道共は、ある時は人を幸せにするだの、苦しみから救済するだの、全ての人間が平等だとか言った、歯が浮く様な、片腹(かたはら)が痛くなる様な綺麗事を並べ立て、又ある時はハルマゲドンかズルムゲドンか知らないが、所謂「此の世の最期」が来る等と恐怖や不安を煽り立てて、あたかも自分たちが「此の世の救世主」の様に思い込ませるのである。

(余は500年前の人間でもこんな虚言、妄言には騙されないと思うのだが、Mentality(精神構造)の幼稚な人は騙されるのだろうか?)

この様にして全国不特定多数の(愚かな)人々を(たら)()()込み洗脳して、(法に触れない様に)「寄付」「献金」と言う名目で法外で高額な金銭、物品を彼らから奪い取り、自分たちだけが肥え太って高笑いしているのである。

この腐れ外道共は、信者の幸福や救済等、微塵も考えてはいないし、多くの人々を洗脳して騙し続けて、金銭を巻き上げる事(洗脳詐欺)に呵責の念や罪の意識すら全く無いのである。

そう言う意味では新興宗教は暴力団やヤクザよりも悪質である!

これ等の被害者の数が増えている事に呼応して、最近では各新興宗教に対して反発、批判する団体も幾つも結成されていて、新興宗教の悪辣な手口を暴露して、法的にこいつらを摘発し処罰しようと努めているそうである。
余が一々説明するよりこれ等サイトを読めば、この新興宗教とは名ばかりの「洗脳詐欺」が如何に巧妙且つ悪質な手口で人を欺いて、金銭を巻き上げているかが克明に記されている。

 

余は実家が平安時代より天台宗(仏教)である事、そして自らがドイツBrandenburgの教会から大恩を受け3人の牧師とも友達である事から、こいつらの様に仏教とキリスト教を自己流に改竄(かいざん)、人生に深刻な悩み、苦しみ、問題を抱えている人々の弱みに付け込んで、騙しては大金をくすね盗ると言う天人共に許さざる罰当たりな悪行を許す事は出来ない!

古来、宗教の本質的役割とは神又は仏の教えを衆生(世の中の人々)に布教する事によって、彼らの人生の為になる良き事を教え諭す事(此れを仏教用語では「」)、並びに彼らの心の苦しみを取り除いてやる事(此れを仏教用語では「」)であった。
又、其れ等の「慈悲」の教えと行為は無報酬、無所得で為されるのが基本であった。
詰まり、人を欺く悪質業者の如き勧誘をしたり、「御布施」等と言って、信者に法外な金銭を要求して巻き上げる行為自体、最早それは宗教を騙る「洗脳詐欺」なのである。
この様にして私腹を肥やすに飽き足らず、「宗教法人」として一応公式に認可してもらい、「法律の網」をくぐって税金を免れているのだから余計に質が悪い!(この事については是非とも法改正が必要である!)
余がこの洗脳詐欺共の勧誘を見ていると、さながらヨーロッパの伝説の中に出て来るVampir (吸血鬼)が思い出されてならない。
と言うのは新興宗教の教祖(吸血鬼の親玉)に洗脳されている者が、他人を勧誘して自分達の新興宗教に引きずり込んで行く悪循環は、「吸血鬼」に血を吸われた者も同じく吸血鬼と化し、次々と他人の血を吸って行く話に酷似している。
しかし吸血鬼には太陽光線と銀の十字架が致命的な弱点である様に、人間が心の中に太陽や銀の十字架に相当する「正しい教えや知識」を有していれば、こんな洗脳詐欺の腐れ外道共の勧誘など簡単に撃退出来るのである。
新興宗教を信じる事は人生で落とし穴に落ちる事を意味し、更にそれにのめり込む事は破滅への道であると知るべきである!

 

因みに前記の通り余は「天台宗徒」である事かから、天台宗専用の「平数珠」を当然持っているが、Brandenburgの教会から大恩を受けた事とDeutscher Ritterorden(ドイツ騎士団)への憧れがある事、そしてサファイヤが自分の誕生石であり、キリスト教では修道士の「純潔」「貞操」「忠節」の象徴であり、「魔除け」でもある事から、サファイヤ、金、白金、プラチナ製の十字架十字架の首飾りをいつも身に着けている。

滑稽な事を書くのだが、余が「初老」と言われる年になっても、今だに30代前半と見紛われる程の卓抜した健康と体力と美しい容姿を保持している事から、親類や一部の友人から「本当は人間じゃなくてVampir (吸血鬼) じゃないの?」とと戯言(ざれごと)を言われる事がある。

(※ヨーロッパの伝説ではVampir は容姿端麗で、人の生血を吸う事で不老不朽の体を保てるとある。

例:男ではDracula伯爵、女ではCamila、そしてアメリカの漫画Vampirellaが有名)

ついでに書くと此の“Vampir”の名詞は今日ではヨーロッパ諸国で共通の表現であるが、その語源はセルビア・クロアチア語なのである。

又、”Vamp”(男を誑(たら)し込む魔性の女)と言う表現もこのVampir が語源である。

(余がもしVampirだったら、前記のサファイヤ、金、白金、プラチナ製の十字架の首飾りをいつも身に着けたりしないし、太陽光線が無いと体がだるく感じる等と言う事は無いであろう。

それに余はいくら「い物」が大好きだからと言って、間違っても人の生血を吸ったりしないし、貧乏人から搾取した事等一度も無い。) 

 

最後に世界的に有名な過去の天才、偉人達の「善と悪」に関する格言を記して結びとする。

*「巧言令色少仁」(人によって調子の良い事を言ったり、態度を変える者は真心の無い人である)(孔子)

*「最悪の悪人とは善人の仮面を被っている。」(W.Shakespeare)
*「悪魔は最初に人を甘い言葉で誘って、最期に人を欺く。」(W.Shakespeare, 戯曲"Macbeth"より)
*「悪魔でも自分の(悪い)目的の為に聖書を見る事が出来る。」
(W.Shakespeare, 戯曲"Marchant of Venice"「ヴェニスの商人」より)
*「善人による犯罪は悪人による犯罪よりずっと悪質である。」
 (F.Nietzsche, "Jenseits von Gut und Böse"「善悪の彼岸」より)
*「偽善の放つ悪臭より不快な物は無い。」(H.D.Thoreau)

 

12月の追伸:
旧・統一チョン教会、等の悪質な新興宗教による「被害者救済法案」を巡り、対応が注目されていた立憲民主党が賛成する方針を確認した事によって、此の法案は会期末の12月10日に可決・成立する見通しである。
其れでも尚、野党が「実効性が無い。」等として、政府・与党側と断続的に協議し、修正が重ねられているし、同党内には「未だ内容が不十分」だとして反対する声も一部上がっている。
憲法に於ける「宗教の自由」を悪用して、今までやりたい放題であった腐れ外道の新興宗教団体に規制、制限を与える事で幾分はこいつらの悪行の制御にはなると思われる。
しかしながら余は個人的にはヨーロッパ諸国の様な新興宗教を取り締まる法律を制定してもらいたかった処である。
何故なら前にも書いている様に、新興宗教団体は一種の「知能犯罪集団」だからである。
さながら錠前屋が新しい鍵を作れば、盗人は此れを破る手段を考えるが如く、こいつら新興宗教団体は性懲りも無く新しい法律の網を潜って悪事を続行する疑いがあるからである。
農業に喩えるなら、雑草の枝葉をもぎ取るだけではなく、根こそぎ駆除しなければ、また再生する。
ドブネズミを駆除するだけでなく、其の侵入経路も塞がなければ、また侵入するのである。

 

2023年の追伸:
文科相は10月12日の午後に会見を行い、極悪新興宗教・旧統一チョン教会が高額献金等を通し、信者や其の親族に甚大な財産的、且つ精神的犠牲を払わせた犯罪行為に対し、同教団(洗脳詐欺集団)への解散命令の請求を決定した事を明らかにした。
此れに呼応して最高裁判所が、同教団(洗脳詐欺集団)が法令に反し宗教団体の目的を著しく逸脱した行為があったと認定すれば、同教団(洗脳詐欺集団)に対し解散命令を下せるのである。
更に同教団(洗脳詐欺集団)への総額22億円の損害賠償が請求される。(これ等は間違い無く実現するであろう。)
此れにて日本国内から「オウム真理教」、「法の華」、「明覚寺」に続き、また一つ人を不幸にする「洗脳詐欺」が消滅するのかと思うと、何とも清々しい思いである。
余は個人的には旧統一チョン教会のドンの糞ババアの首を鋸で引き切って剝製(はくせい)にして、狂信者共の前で晒し物にしてやれば良いと思う位である。

何よりも先ずこいつらに騙されて財産を奪われたり、家庭を壊された犠牲者の方々に正しい損害賠償が成され、今後一切悪質な「洗脳詐欺」によって騙される人が出ない事、そして新興宗教を取り締まる法律が日本で制定される事を祈るばかりである!

 

2024年の追伸:

この文科相が過去に旧・統一チョン教会から政治支援(推薦状、献金、等)を受けていた事で、野党から厳しい追及をされているのは浅ましい事実である。

これは正に安倍総理亡き後の自民党の堕落、腐敗を象徴していると言える。

 

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2020年7月8日、午前11時30分頃、安倍晋三元総理(67歳)が奈良市のJR大和西大寺駅前で街頭演説中、同市在住の無職の男(41歳)に背後から約3mの至近距離から2発銃撃され、心肺停止の重体に陥られた。

犯人はこの凶行の直後にSPに取り押さえられ、奈良県警に「殺人未遂」の罪状で逮捕された。

約20分後に安倍元総理は、ヘリコプターで奈良県立医大病院に救急搬送され、同病院内の救命センターにて医師達に依って懸命の蘇生措置が行われたが、残念ながら午後5時3分に亡くなられてしまった。

安倍元総理の治療に当たった奈良県立医大病院の会見によると、頸部に2カ所の銃創があり、弾丸による傷は心臓にまで達していて、心臓及び大血管の損傷があったという事で、 死因は此の銃撃による失血死であった。

警察の取り調べによると、此度の許されざる凶行の動機は、犯人の母親が極悪新興宗教「世界平和統一家庭連合」(統一チョン教会)に洗脳され財産を巻き上げられて破産した事、そして安倍元総理が此の新興宗教と近しい関係であると言う妄想を勝手に抱いて犯行に及んだと言うのである。

余は安倍元総理の予期せぬ突然の御最期を知って悲痛な思いに駆られたと同時に、凶悪犯罪者と人間を不幸に陥れる悪質極まりない新興宗教に一層の怒りと憎悪を感じたのである。

 

2日後の「参議院選挙」を控えての選挙活動の真っ最中に、まして世界的に治安維持力の高い日本で元内閣総理大臣が突然殺害されると云う事件は余りにも衝撃的であった!

此の緊急ニュースは大多数の日本国民を震撼させたのみならず、瞬時に海外に於いてもニュースで報じられ、世界中の人々が驚愕している。

既に自民党及び其の他の与野党の政治家達が、政党や政治理念を超えて、安倍元総理が此の様な凶行によって亡くなられた事への悲しみ、無念、そして哀悼の意を表すると同時に、此の凶行を「民主主義」に対する挑戦として絶対に許してはならず、断固非難・究明する事を表明している。

其の上、世界各国の首脳からも安倍元総理の予期せぬ御最期を悼む声明や、彼の政治家としての偉大なる業績を讃える言葉が相次いで述べられている。

又、安倍晋三氏を「個人」として知っている御家族、政治家、資本家、ジャーナリスト、其の他の友人、知人方の話を聞いても、彼の真面目で直向きな、そして他人を思いやる優しい人柄を皆で褒めていた。

中でも特に同じ自民党で山口県出身の高村正彦・副総裁は安倍元総理の人柄を「安倍さんは自分と政治理念や思想観念の異なる政治家(外国人を含む)とも表面上は衝突する事なく、和やかに話の出来る人だった。それでいて自分の考え(政治理念や思想観念)がぶれる事は決して無かった。正に「和して同ぜず」の言葉に相応しい人だった。」と評価している。

日本の民間にに於ける安倍総理に関する評価は「賛否両論」が著しいが、史上最長となる3188日(8年8カ月)もの間、総理大臣を御務めになられた事から、有能で偉大な政治家であった事は否み様が無い。

又、日本経済で問題となっていた「デフレ」からの脱却、及び社会と国民の富の拡大を目指しての経済政策「アベノミクス」を展開させ、社会での雇用を増化させ、停滞していた景気を上方修正した事、そして自民党政権下で、「安全保障関連法案」や「特定秘密保護法案」等を成立させた事等は歴史に残る立派な業績である。

 

政権与党の自民党にとって、党全体の指導者的存在であった安倍元総理が突然御他界された事は正に「青天の霹靂」どころか「突然の大地震」程の衝撃、そして取り返しの付かない程の損失であると推察される。

此の事は10日の「参議院選挙」の投票に影響するのみでなく、今後の自民党の勢力関係、更には国会、そして全国の地方議会にまで影響を及ぼす物と見られる。

日本では親族、知人、同じ町内のある家庭に不幸(死亡者)があった場合、御悔みを込めて葬式代を援助する「香典」を贈る独特の習慣がある。

此の様な習慣のある日本人の国民性から考えると、安倍元総理の突然の御不幸に御悔みを込めて「香典」の代わりとして自民党に投票する人がかなり多くなるのではないかと推測される。

其れにも増して御遺族の方々の衝撃や悲しみは誠に察して余る程である!

余も同様に安倍元首相に今までの内閣総理大臣としての御勤めと業績に敬意を表すると同時に、御遺族である御母上の洋子様、妻の昭恵夫人、実弟の岸信夫・防衛相に心からの御悔みと哀悼の意を表させて頂きたい!

 

此度の驚愕すべき襲撃事件が起きた原因として、地元警察の警護の緩慢を指摘する人もいるが、社会心理学の観点から推察すると、根本的な原因は現代社会にはびこる「世知辛さ」、「絶望感」、「不平不満」、「閉塞感」、「無気力」、等の「病的な社会通念」ではないかと思われてならない。

即ち社会が病んでいるから、そこに住む人間も(精神的に)病んでしまうと云う構図である。

これ等のNegatives Element(負の要素)は平成時代から続く経済格差と不景気、2020年初めから続くコロナウィルスの大流行による社会の封鎖と停滞、そして今年の2月下旬より勃発した「ロシア・ウクライナ戦争」による食料品等の物価、エネルギー代、燃料代の上昇、等が更に増長させているのである。

これ等の「社会の闇」を駆逐出来る様なPositives Element(正の要素)や、効果的な解決策は未だ見出せていない状況である。

 

安倍元総理の御逝去から間も無く、彼の功績を讃えて今年の9月に国葬を行う事が自民党で決議された。

ところが其れ以来、安倍元総理の事を激しく非難、中傷誹謗したり、反対デモに参加する輩まで出てくる始末である。

余は此の連中を見ていて、2015年9月に成立した「安全保障関連法案改正」に対して国会前で反対デモを行っていた輩を思い出し、こやつらに共通している事に改めて気付いた。
其れはこの連中の大部分が自分の生活(人生)に何らかの不満を抱えていると言う事である。
(例:仕事、経済、家庭、人間関係、其の他)
「自分の生活(人生)が上手く行っていないのは社会のせいだ!とどの詰まりは政府のせいだ!」と、所謂「理論のすり替え」(逆恨み)をしている様に見受けられる。
又、普段社会での自分の存在感が希薄な故、こんな時に徒党を組んで「自己顕示」をしようとしている心理も読み取る事が出来る。
大抵の人間には、人だかりのある所に何があるのか、好奇心を持って近付く習性がある。
其れによって集まった群衆は、往々にして感情的になっていて、理性的な思考が出来ていないのである。

(そこへデマが流れ込むと、一気に動揺、又は混乱する危険がある。)

 

因みにドイツ語のPöbelと云う単語のDeutsches Wörterbuch (ドイツ国語辞典)による説明を直訳すると、<無教養で、凡庸で、粗雑な人、考え方や行いが低級で、自分に原因、動機を持たず、同じ感覚を持つ人々と集団を形成して、社会で愚行や暴動を起こす人。>とある。 

此れを独和辞典では「下層庶民」「愚民」「賤民」と訳している。
見下した言い方ではあるが、此の様な無意味な反対デモに参加する者共に相応しい表現であると思われてならない。

(彼らの一部は腐れ外道の左翼に洗脳されているか、又は端金(はしたがね)で雇われている操り人形との噂すらある。)
本当に人格、品格のある者なら、たとえ戦争(殺し合い)をしている敵国の優れた軍人が戦死しても喜んだりせず、其れどころか其の人の功績、能力を評価して哀悼の意を表する位の度量があるのである。

まして自国の戦後最も長い期間に渡り総理大臣を勤め上げた「人傑」を非難、中傷誹謗するとは何事であろうか!と思えるのである。

(綺麗事を書く様だが)

世の中を1人の人間だけで変えて行く事は到底不可能である。

其れでも尚、せめて人間1人1人が、人生に於いて決して希望を失わない事、何か目的ないしは生き甲斐を持つ事、心身を共に健康に保つ事、位は守って行かなければならない。

 

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2023年12月14日の追伸:

安倍元総理の死後、自民党内では党員の不祥事が相次ぎ、所謂「辞職ドミノ」と形容される程の辞任が相次いだ。

今回も東京地検特捜部は政治資金規正法違反(不記載・虚偽記入)の疑いで同党の安倍派に属する政府要職にある者10人を調査している。

今後調査を進めると、「芋蔓式」に違反者が発覚するのではないかと推測される。

そして本日、前記の内4人が辞表を提出した。

安倍元総理と言う「重鎮」が亡くなって以来、「安倍派」を中心に自民党の腐敗そして崩壊が始まるのではないかと懸念していたが、悪い予感が的中してしまった!


美術史を学んでいる芸術家の余としては、今日の日本の行政を観察していると、Renaissance時代のスイス文学作家Sebastian Brantの物語を元に同時代Nederland(現オランダ)の画家Hieronymus Bosch(1450~1516年)の描いた名作“Der Narren schiff”(愚か者の船)を思い起こしてしまうのである。 民衆の堕落と社会の腐敗を象徴する此の船の末路は、当然の如く座礁か沈没かのいずれかである。
実に嘆かわしき事ではあるが、此の無能で利己的な政治家に愚民共が従うと云うお粗末な状況を改善するのは最早不可能とまで思えるのである。

往年の名作映画「明治天皇と日露大戦争」(1957)の中で嵐寛寿郎さんの演じる明治天皇の以下の印象的な御言葉がある。
政治家は辞職さえすれば一切の責任から免れる事が出来るが、 天皇に辞職は無いぞ!」(「最後まで責務を全うせよ!」の意味)
こう云う時に余が度々好例として引き合いに出すのが明治時代の政治家達である。
彼らは江戸時代の鎖国に依って文明の立ち遅れた日本を、欧米列強に対抗出来るまでの近代国家に作り変える事に「熱意」を以って粉骨砕身の「努力」を費やした。
そして18世紀終わりの"Industrial Revolution"(産業革命)以来、欧米諸国が約100年かけて成し遂げた近代化を、僅か40年足らずで見事に実現したのであった!
(此の「実行力」には欧米諸国の政治家、学者達も驚嘆している。)
其の一方で、当時の(島国としての)日本の国力の限界を認識していたので、「慎みの精神」をも併せ持っていたのである。
此の様に、奉仕・貢献の精神」を以って私利、党利を忘れて、国家と国民の為に有益な政治を成し遂げた明治時代の政治家達は尊敬も信頼も出来る御歴々であった。
余は士族出身者として今日の政治屋共にはとうに幻滅して、当時の政治家達、「貴族院」の存在にただ憧れるばかりである。

 

我が親類の幼馴染は「最近の糞政治家共は金に困ったら国民から搾り取りゃええ位に思いやがっとんじゃ! 国民も皆「いつまでも騙して、金を搾り取れると思っとたら大間違いぞ!」と言う意思表示をせにゃあおえんで。」と言っている。
此の言葉は正に日本国民の本音を象徴していると思えてならない。
同様に今日では圧倒的多数の国民が政治・経済ニュースのコメント欄に、無能で腐った政治家共に対する厳しい批判や激しい怒り、不満を書き込んでいる。
余は個人的には「このままじゃ将来、日本でまともに生活出来るのは富裕層だけになるんじゃないか?」と書き込まれていたのが印象に残っている。

自民党はしばしば「富裕層優遇の政党」と形容される事があるが、この様なあさましき現状では、富裕層ですら幻滅し、愛想尽かしをするのでななかろうか?
現在、自民党への国民からの支持率は遂に10%代にまで落ち込んでしまった。

あるマスコミが「最も信用出来ない職業とは何か?」と言う問いに対し、圧倒的に多かった答えが「政治家」であった。
(此の結果は当然、又は然るべきと言えば其れまでかも知れない。)
一方で各野党も小粒になってしまい、自民党に代わって政権与党に成れる程の理念も実行力も見受けられない現状である。

「戦国時代」に有力な国主が逝去する事によって、其の大名家及び支配する国が没落、滅亡して行く事例が何個もあったが、今の自民党はまるで「滅びゆく大名家」の様に思えてならない。

 

E.Delacroix La Liberté guidant le peuple 

とは言え多くの日本人は如何せん権力に従順過ぎるので政府に対する抵抗力、反発力が無いのである。

かつて1789年7月14日に勃発した”La Révolution française”(フランス革命)に於いては、国民が王政に対し怒りと不満を爆発させ、La prise de la Bastille(牢獄)の襲撃に始まり、首都Parisの各王立省庁を占拠し、捕らえた120人程の貴族をPlace de la Concorde(広場)で公開処刑した程であった。
(余が1987年にParisを訪ねた折、此の歴史の詳細を知った時は、流石に士族出身者としても身の毛がよだつ思いであった。)
日本国民も此れに習い国会を襲撃、占拠して無能で腐った糞政治家共を袋叩きにして、溝(ドブ)河に放り込んでやる位の事はしても良いのではと思える位である。
戦後、長年に渡り政権与党を担って来た大政党が腐敗、崩壊するに事よって、日本国までもが没落する事だけは絶対に避けなければならない!

以前にも書いた事だが、「明治時代」の様な、私利私欲を度外視してでも国家や国民の為に努められる政治家が出現しない限り、今日の日本を立て直す事は難しいのではなかろうか。

 

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かつてのオーストリア帝国は君主Habsburg家の統治の下、17世紀にトルコ帝国のヨーロッパ侵略を撃退して以来ハンガリー、クロアチア、トランシルバニア(ルーマニア)、セルビア、ボスニア、等に領土を次々と拡大し、ヨーロッパ屈指の大帝国として繁栄していた。

しかし第一次世界大戦(1914~18年)に敗れた結果、オーストリア=ハンガリー帝国(1867年以来)は解体され、皇室Habsburg家の支配した各地方は独立し、かくしてオーストリアは内陸の小国にまで縮小し、かつての勢力を失ってしまった。

1933年1月30日以来、ドイツで独裁政権を掌握したNazis党首で国家総統のAdolf Hitlerは元々、ドイツ国境のオーストリアの町Braunauの出身である事から、大多数のオーストリア国民は同じゲルマン民族でドイツ語を話し、そして前の世界大戦で同盟国であったドイツに吸収合併される事を望んだ。

此れを好機としたHitler総統は1938年3月12日にドイツ軍を率いてオーストリアに入り国民からの熱狂的な歓迎を受け、翌日同国のドイツへの併合を宣言した。

 

チェコスロヴァキアは第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国より独立した工業国家であった。

其の中のドイツとオーストリアと国境を接するSudetenland(地方)では、約332万人のドイツ系住民がチェコ人やスロヴァキア人と比べて不利な雇用条件による生活を余儀無くされていた事に不満を抱いていた。

此れを理由にHitler総統はSudetenland(地方)に居住するドイツ系住民が迫害を受けているのを保護する為に、当地方のドイツへの割譲をチェコスロヴァキア政府に要求した。

チェコスロヴァキアの後ろ盾としてイギリスのChamberlain首相はHitler総統にドイツに招かれ、1938年9月30日Münchenに於いて会談し、Hitler総統に此れ以上の領土要求はしない事を約束にSudetenlandのドイツへの割譲を認める事に依って協定を締結させた。

München協定に依って平和が保証されたとヨーロッパ全国が安堵したにも拘らず、其の1年後には平和はあえなく破られてしまった。

1939年9月1日、Hitler総統は「※国境のポーランド兵がドイツ国土に対し銃撃を加えて来た。我が軍は爆撃を以て報復する。」と国民に説明して、ドイツ軍をポーランドに進行させた。

(※実際にはポーランドからのドイツへの銃撃は無かった。)   

此れに対し2日後イギリス、フランス両国がドイツに対し「最終通告」をしたが、ドイツ軍は此れを無視して攻撃を続行した。

そして英仏両国がドイツに対し宣戦布告した事より第二次世界大戦が始まったのである。

とは言え英仏両国は前の大戦の傷がまだ癒え切っていない事と、2度目の世界大戦を出来るだけ回避したい意図から、ポーランドを援助する為に西側からドイツを攻撃する事は無かった。

ドイツの2個航空軍(約1600機)による空からの奇襲攻撃を受けた(旧式な)ポーランド空軍は2日間で全滅し、制空権はドイツ軍に完全に掌握された。

又、地上戦に於いてもポーランド軍の主力は未だに歩兵と騎兵と旧式な砲兵であったので、新型の戦車、(3466両)、装甲車(718両)を装備したドイツ軍に対しては為す術も無かった。

更に同月17日には此のポーランドの危機に付け込み、ソヴィエト軍が東からポーランドに侵入した。

同月27日にはドイツ軍の新兵器と圧倒的な兵力の前に首都Warszawaが陥落、そしてポーランド軍もドイツに対し全面降伏した。

翌日ポーランドはドイツとソヴィエトによって2分割されて占領されるのである。

 

翌1940年4月9日にドイツ軍はノルウェーの港に駐屯しているイギリス海軍を撃退する戦略から、デンマークとノルウェーを攻撃した。

ノルウェーの細長く山の多い、半分が海に面する地理的事情から、ドイツ軍は大軍を動員せず、8700人の陸上部隊と5500人の空挺部隊で攻略に掛かった。

圧倒的なドイツ軍に対し勝ち目は無いと見たデンマークは戦わずして降伏した。                                      ノルウェーもイギリスからの協力を受けたものの、デンマーク及びスウェーデン(中立)を通過して侵攻して来るドイツ軍に依って制圧され、同月30日に降伏した。

 

更に同年5月10日、ドイツ軍は西部戦線に於いて総攻撃、所謂 ”Britzkrieg”(電撃戦)を開始、中立国であるオランダ、ベルギー、ルクセンブルクにも侵攻した。

当時のドイツ軍の総兵力は軽戦車2770台、中戦車670台、自走砲168台、航空機 約2800機。

此の時のドイツ軍は3つのHeersgruppe A,B,C(軍団)に分けられ、Heersgruppe Bがベルギー、オランダ方面の攻撃を担当し、フランスのMaginot要塞の攻略をHeersgruppe Cが担当し、Heersgruppe Aは両軍団の間の戦線を担当した。

兵力の欠乏の上、不意を突かれたオランダは早くも開戦5日目の15日に降伏した。

此の西部戦線に於いてドイツ軍最大の相手であるフランスの一番の頼みはMaginot要塞である。

フランスは前の大戦でドイツ軍に攻め込まれ自国が主戦場になった教訓から、此の要塞線を1930年から7年をかけて、スイス国境からベルギー国境にまで至る全長140kmにまで及ぶ大規模な軍事施設として構築した。

ドイツ側からは正に難攻不落と思われたが、ベルギーとの国境に広がるArdenneの森にまでは要塞が及んでいなった。

此の森をドイツ軍は難無く突破し、5月14日Maginot要塞の防備の手薄な背後に回って攻撃し、半日で此れを突破したのである。

Maginot要塞に依存し過ぎていたフランス軍は総崩れになり、20日にドイツ軍は英仏連合軍を両国の海峡に包囲して追い詰めた。

28日にはベルギーが力尽きて降伏した。

6月4日にイギリス軍がDunkirkから本国に向けて敗退した。

6月5日よりドイツ軍は更にフランス戦線で”Britzkrieg”(電撃戦)の大攻勢を展開する。

先ずJagdfrieger(戦闘機)が敵機を撃ち落として制空権を握る。

次にSTUKA(Sturzkampfflugzeug=急降下爆撃機)が敵の地上部隊に攻撃を仕掛ける。

そしてPanzerkampfwagen(戦車)とMechanisierte Infantarie(機械化歩兵)が補給部隊を同行させて敵陣に突入するのである。                   

14日には首都Parisが陥落し、ドイツ軍が無血入城を果たす。

3日後の17日にフランスはドイツに休戦調停を要請して降伏した。

 

其の後、同年8月8日よりドイツ空軍がイギリスに対し空襲を開始する。 所謂”Battle of Britain”の始まりである。

ドイツ空軍は軍用機約3500機の大兵力で侵攻したのに対し、イギリスの軍用機は960機であったので、イギリスの滅亡は時間の問題だと、世界中が疑わなかった。

此れまでの戦闘でドイツ軍の主力戦闘機Messerschmitt Me109は世界最強の性能を実証して来たが、其の航続距離は660kmしかなかった。(イギリスの戦闘機も似たり寄ったりである。)

ところが補助の燃料タンクを携行していなかったのでイギリス上空に滞在出来る時間は精々20分程度であった。

イギリス軍は新型のレーダーでドイツ空軍の襲来をいち早く察知し、ドイツ軍の戦闘機が飛び去るまで持ち堪え、護衛の無くなったドイツの爆撃機に一気に襲い掛かった。

爆撃機は機体が大きい上、大量の爆弾と燃料を積んでいるので、戦闘機に比べて運動性が遥かに劣る。

故に戦闘機隊による攻撃には脆かったのである。

此の戦いでドイツ空軍は首都Londonを始めとするイギリス南部の各都市に爆撃を繰り返したが、自軍もまた手痛い損害を受けるに至った。

イギリス占領とまでは至らなかったが、攻撃は9月15日まで続けた。

此の戦いの後、イギリスのChurchill首相は「此れまでの歴史の中で、かも多くの人々が、かも少ない人々に、かも多くの事を委ねた事は無かった。」と言っている。

 

1941年4月6日にはドイツ軍が同盟国イタリア軍を援助する為、ユーゴスラビアとギリシャに侵攻を開始する。 

同月17日にはユーゴスラビアが降伏、23日にはギリシャもまた降伏した。

開戦以来僅か1年と7カ月の間にドイツ軍は敵国の合計147個師団を壊滅させる驚異的な戦果を上げたのである!

 

同年6月22日、西部戦線で大勝利を挙げたHitler総統は遂に前年の12月18日以来計画していた対ソヴィエト戦争の”Barbarossa作戦“を実行に移した。

ドイツ全軍(400万人)の約の約76%である300万の大軍をHeersgruppe(軍団)-Nord(北方)、-Mitte(中央)、-Süd(南方)の3方面に分けてソヴィエト戦線に動員し、冬の到来までに首都Moskvaを占領し、北のArkhangelisk、中央のGorikij、そして南のRostovまでの地域を征服して、ソヴィエト政府を解体し、ロシアをドイツの植民地として支配すると云う(途方も無い)大計画である。

此の戦いにドイツ軍が動員した兵力の内訳は、陸軍では機甲師団20個(戦車:約3600台)、機械化歩兵師団15個(軍事車両:約60万台)、歩兵師団101個、そして空軍では全体の約67%の第1,2,4,5航空軍の軍用機約4500機と言う途轍も無い軍勢である。

対するソヴィエト軍は西部の国境に全軍の約87%に当たる280万、陸軍216個師団、航空機約6000機を保有していたが、其の兵器や装備は旧式な物が多く、ドイツ軍の兵器に比べて性能が劣っていた。

更にドイツ軍に奇襲攻撃をかけられた為、各方面でたちまち崩壊して大損害を蒙った。

開戦1年目にドイツ軍は目覚ましい戦果を上げた。

7月16日、Smolensk占領。31日、占領地域がNovgorodに到達。 8月2日ウクライナ方面で圧勝。

5日よりOdessaを包囲(10月16日占領)。 

9月8日よりLeningradを包囲(44年1月末まで)。

9日よりKiyevを包囲(19日占領)。

ソヴィエト南西方面軍壊滅、捕虜約65万人。 

10月12日Vyazma、Bryansk付近で2大包囲戦を敢行し、ソヴィエト西方面軍主力を撃破、捕虜約60万人を取る。

ドイツ軍3方向より首都Moskvaに迫る。

10月末、Moskva第1防衛線を突破。 

12月1日、ドイツ軍Moskva郊外25kmまで迫る。

此の頃までは順調に進んでいたのだが、冬の到来により約-30度にまでなる厳寒と泥沼化した地面の上でドイツ軍は動きが鈍り、此れを機に12月5日からソヴィエト軍が大反撃に転じた。

厳寒とソヴィエト軍の反撃によりドイツ軍は大損害を受け、130kmも押し戻されるのである。

Hitler総統によるソヴィエトの莫大な国力、及びロシアの厳しい気候に関する情報収集、計算、予測は余りに楽観的であった為、現地の状況を正しく把握出来ていなっかったのである。

そして此の人類史上例を見ない程の大規模な戦争は、予定の6カ月以内に勝利で終わるどころか、「泥沼の長期戦」へとドイツ側の予想に反する展開をし、遂には絶望的な状況へと追い込まれるのである。

此の独ソ戦に依って殺害されたロシア人は1800万~2000万人位と計算されている。

戦争最後の年1945年4月にはドイツは西から米英連合軍、東からソヴィエト軍に追い詰められ、30日にはHitler総統が自決し、Nazis政権は崩壊。 

5月7日、ドイツは連合国に対し無条件降伏したのである。

古代中国の兵法書「孫子」に「絶対避けるべき戦三つ有り。即ち、勝ち目無き戦、長引く戦、利益無き戦。」 とあるが、時代を超えても正に至言也と言える。

 

歴史を考察する際、「たら・れば」と仮定をしても虚しいのだが、余の個人的な考えではドイツは1940年6月の時点で西ヨーロッパ最大の国フランス、其の他の欧州諸国を征服しているので、ソヴィエトとは1939年8月23日に締結された(上辺だけの)”Deutsch-sowietischer Freundschafts u, Nichtangriffspakt”(独ソ友好不可侵条約)を戦略的利益の上で保ち、イギリスとの戦争に専念し、イギリスと友好関係にある※アメリカが参戦する以前にイギリスを屈服させれば良かったのである。

(※当時のアメリカでは国民の大多数が戦争反対であったし、ドイツと提携する複数の大企業やドイツ系アメリカ人達で構成される極右組織もあったので、アメリカ政府はドイツとの戦争を回避したかった。)

実にアメリカの参戦以前、イギリスはドイツとの戦争で滅亡寸前まで追い詰められていた。

ドイツがフランスとイギリスを征服したなら、両国の保有するアフリカ、アジア、其の他の地域に於ける広大な植民地(先の大戦後に失ったドイツの植民地を含む)を全てKriegentschädigung(戦争賠償)の名目で差し押さえる事が出来た筈である。

さすればドイツは世界中に広大な植民地と莫大な資源を領有して、アメリカ、ソ連の様な大国と互角の国力を獲得出来たのである。

 

第二次世界大戦が終結して76年の時が流れたが、戦後直後に組織されたUnited Nations(国際連合)、North Atrantic Treaty Organisation(北大西洋条約機構)、そしてEuropean Union(ヨーロッパ共同体)の東ヨーロッパへの拡大に依って、最早ヨーロッパに於いて戦争は起こらないだろうと信じられていた。

ところが今年2022年2月24日、ロシア軍が隣国のウクライナへ侵入したことに依ってヨーロッパに於ける戦争が再発してしまったのである!

余は此の事態に関する報道を読み聞きして、ロシアの大統領(事実上の独裁者)プーチンの政策、戦略がどうしても前記のHitler総統による政策、戦略と類似していると思われてならないのである。

例:

・ウクライナのCrimea半島の住民の多数がロシアへの帰化を望んでいるとこじ付け、2014年3月18日、当半島を無理やり併合した。 (かつてドイツは1938~39年にかけてオーストリアとチェコをドイツ系住民を救済すると言う理由で併合した。)

・Putinは今年2月からの侵攻の理由として、「ロシアに国境を接するDonbass地方のロシア系住民が迫害されている。」「ウクライナが先にロシア国土に攻撃を仕掛けて来た事への報復だ。」と国民に偽りの発表をして軍を投入した。 

(Hitler総統は「国境のポーランド兵がドイツ国土に対し銃撃を加えて来た。」と国民に説明し、其の報復として、ドイツ軍をポーランドに進行させた。)

・占領した地域の住民を洗脳してロシア化を推し進めている。 等

 

1917年10月25日に「ロシア革命」が起き、ロシア皇帝Nikolai.Ⅱ世の退位と其の帝国政府が崩壊して、世界史上初の社会主義国家ソヴィエト連邦が成立した。

此の新国家の中にウクライナも「バルト3国」(リトアニア、ラトヴィア、エストニア)と同様に編入された。

1929年頃からStalinの独裁政権になって以来、ウクライナではソ連からの弾圧、粛正を受け、大部分の国民が貧困状態に陥り、大量の人々が「反政府分子」として逮捕、処刑された。

ソヴィエト政府に不満や恐怖を抱いていたウクライナ国民は1941年にドイツ軍が侵攻して来た時には、彼等が自国を占領したにも拘わらず、ドイツが自分達をソヴィエトの恐怖政治から救い出してくれる「解放者」として受け入れた。

そしてドイツ軍に抵抗するどころか、寧ろドイツに対して協力的な態度を示したのであった。

此れはウクライナ国民がFaschismus(全体主義)を一方的に肯定したのではなく、ソヴィエトの支配から脱出し、独立する事が主な目的だったのである。

其れは丁度、同時代にフィンランド(1917年12月6日、ロシアより独立)が自国を侵略して来たソヴィエト軍を撃退し、独立を守る為にドイツと同盟を結んで”Achsenmächte”(枢軸国)としてソヴィエトと戦ったのと似ている。

 

当初此のニュースを聞いて、余はロシアの身勝手で理不尽な侵略に対し憤りを覚えたと同時に、気の毒ながらウクライナは2週間程で征服されてしまうだろうと予想していた。
ところがロシアがウクライナに戦争を仕掛けて以来、既に4カ月が経過するのだが、ウクライナ軍と国民は今でも祖国防衛の為、必至の覚悟で圧倒的な兵力のロシア軍に対し善戦している姿は誠に感動に至るのである! (其れに対しロシア軍は士気が低く、失策も多い。)

兵力で遥かに劣るウクライナ軍が善戦し、兵力で勝るロシア軍が苦戦している主な理由として次の事が挙げられる。

・ウクライナ軍は最新技術を西ヨーロッパ諸国、及びアメリカから導入して利用している。

(例:最新兵器、ドローン、コンピューター技術、SNSによる宣伝戦略)

・ロシア軍は時代遅れの戦術を立てている。

・ロシアが国際社会に於いて厳しい批判と経済制裁を受け、軍事的、経済的に孤立している。

そしてSWIFT(国際銀行間通信)からロシアが除外された事、更には北欧のフィンランドとスウェーデンがNATO加盟を申請している事は、本来NATO拡大を阻止したかったロシアにとっては大誤算であった。

 

次にロシアが戦争を止める条件として次の事が挙げられる。

*ロシア軍のウクライナ於ける戦闘での決定的な敗北

*ロシア政府が内部から転覆する事

*ロシア経済の大没落

*大多数のロシア国民の貧困化  

*(場合によっては)Putinを暗殺する

 

しかしながらロシア・ウクライナ戦争が長期化する事によって、世界各国では小麦、其の他の食料品、天然ガス、其の他のエネルギー、燃料の著しい価格高騰が経済に深刻な打撃を与えている。

特に此の現象はロシアと比較的関係の多いヨーロッパ諸国(ドイツ、ポーランド、其の他の東欧諸国)で顕著に見受けられ、各国でデモが起きている。

更には南米、アジア、アフリカ諸国でも物価高騰と食糧危機を理由にデモや暴動が起きている。
ヨーロッパの主要国(ドイツ、フランス、ポーランド、イギリス、等)とアメリカが軍事物資を供給しているとは言え、流石にウクライナ側にも損害や消耗が深刻なまでに達しているのが気掛かりである。

此度の戦争が2年以内にウクライナが優位な状態で、NATOやUN等の国際的交渉によって「短期決戦」で勝負が付くのなら、ウクライナがロシア軍の占領地域を開放し、自国の領土を防衛出来る。

其の反対に「長期戦」に陥った時、欧米諸国の軍事的且つ経済的支援にも停滞や疲弊が現れて来ると、兵の数や物資の量で圧倒的に勝るロシアに有利に傾く事は否み様が無い。

そして此度の戦争が「第3次世界大戦」への火種ともなる事が一部の軍事研究家や社会学者の間で懸念されている。
我々も此の戦争を「他人事」又は「対岸の火事」として捉えず、ウクライナの国民の苦難に理解、同情を示し、其の上「平和の尊さ」を改めて認識し、守り通して行かねばならないのである!

 

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今年の3月8日、大阪の古美術商から余の最愛の浮世絵師・安藤広重殿原作「東海道五十三次」の内、第17番「由井・薩埵嶺」並びに第19番「江尻・美保遠望」の手摺りの版画が届けられた。

此の2点の作品は「東海道五十三次」の中でも特に余が気に入っている駿河の山水のある美しい眺望を描いた風景画である。

 

更に同月10日には同様に第1番「日本橋・朝之景」と第55番「京師・三条大橋」が届けられた。

第1番は「東海道五十三次」の中で最も有名な作者の地元・江戸の風景で、55番は東海道の大尾(締め括り)の京都を描いている。

尚、これ等の作品は題名こそ「五十三次」となっているが、実際の作品数は計55点ある。

余は此の作品の紙の保存状態からして平成時代の初期頃に制作されていると推定するのだが、これ等の制作法は絵師・広重殿の(江戸)時代とほぼ同じ手法、即ち「絵師」が原画を描き、其れを元に「彫師」が木版を造り、其れを「摺師」が顔料を載せて「ばれん」で摺って印刷する手順で仕上げている。

流石に江戸時代以来の伝統の手摺の版画は、機械で印刷した画像とは全く異なる天然顔料の「色合い」、独特の深みのある「味わい」、そして手作りの「温もり」がはっきりと感じられる。

又、此の4点の版画の表面を触ってみると、紙を版木に押し付けて摺る事によって出来る凹凸が認められるのである。

余は広重殿の画集「東海道五十三次」、「木曽街道六十九次」、「名所江戸百景」(全て集英社)、「富士三十六景」(二玄社)、及び絵葉書「近江八景」を所蔵している。

いつもの好奇心で此度入手した版画と此の画集の同画像4点とを比べて見ると、色や細部に僅かに違いがあるが、広重殿の原画を忠実且つ見事に再現していると評価出来るのである。

 

余が広重殿の作品を初めて知り、興味を持ったのは早くも7歳の頃である。

其のきっかけと言うのは、何とあの「永谷園」が製造販売しているインスタント茶づけ(ふりかけ)に同封されていた「東海道五十三次」のカードなのである。

流石に余も当時は小学校1年生であったので、後に習得する美術理論、歴史、地理、等の学術的知識はまだ無かったが、少年なりの感性でこれ等の小さなカード(14.3×6.3cm)に印刷された広重殿の作品を見て興味、感銘を受けて集めていたのを今でもはっきりと覚えている。

僅か3歳の頃より絵を描き始めて天性の才能を発揮していた余が広重殿の作品を斯(か)くも早く知り、彼の作品が余を画家への道へ誘(いざな)い()、そして後の余の代表作Berlin, Brandenburg, Ost,West-Preußen, Pommern地方の名所・文化財の連作を生み出すInspiration(ひらめき)の原点にまでなったのである。

因みにこれ等のカードは「永谷園」が1965年に初版を発行して以来、高い人気を得て、「浮世絵シリーズ」(安藤広重、葛飾北斎、喜多川歌麿、東洲斎写楽)のみならず洋画の「印象派シリーズ」(E.Manet, P.Cézanne, E.Degas, G.Seurat, A.Renoir, V.v.Goch, P.Gauguin)、「竹久夢二」、「日本の祭り」までもが発行され、実に1997年まで続いた多種多様な大変息の長い「おまけ」であった。

そして民間からの要望に応えて、2016年11月より広重殿の「東海道五十三次」のみが再発行されている。

此れ以外にも郵便分野に於いて特殊切手「国際文通週間」の図柄として、広重殿の「東海道五十三次」の図柄が採用されているので、余も切手コレクターの1人として約30枚所有している。

 

扨、是より原作者の絵師・安藤広重殿の生涯について書き記して行く。

広重殿は寛政9年(1797)に江戸の八代()河岸定火消()同心(やよすがしじょうびけしどうしん)・安藤源右衛門の長男として生まれた。 本名は安藤重右衛門と称した。

文化6年(1809)2月、母上が御逝去され、同月に父上が隠居されて、僅か数え13歳になった時に家職を継ぐ事になるが、同年12月には父上までもが御逝去された。

幼少の頃より絵がお好きで才能を表し、絵師・歌川豊広(1774~1829年)の元に入門される。

翌年(1812)に師匠の苗字(芸名)と自分の名をそれぞれ採って「歌川広重」の名を与えられ、文政元年(1818)に一遊斎の号を称して絵師として世に出られた。                

文政4年(1821)には同じく江戸の火消同心・岡部弥左衛門の娘と御結婚された。               

文政6年(1823)には、養祖父(安藤家方の)嫡子・仲次郎に家督を譲り、御自身は「鉄蔵」と改名し其の後見となられたが、まだ仲次郎が若干8歳であったので引き続き火消同心職の代番を勤められた。 

本業の絵画制作に於いては先ず「役者絵」から始め、やがて「美人画」も手掛ける様になるが、文政11年(1828)師匠の豊廣の没後は彼の根幹主題となる「風景画」を主に制作する様になられた。

天保元年(1830)画号「一遊斎」から「一幽斎廣重」と改められ、「花鳥図」をも描かれる様になる。                         天保3年(1832)、家督を継がせた仲次郎が17歳で元服したので正式に同心職を譲り、絵師に専念する事が出来る様になった。

此れを機に「一立齋」(いちりゅうさい)と画号を改め、又は「立斎」とも号した。                                       入門から20年以来、師匠は豊廣だけであったが、此の頃大岡雲峰に就いて「南画」を修めている此の天保3年(1832)に公用で東海道を旅し、絵を描いたと伝えられる。

(現在の研究では此の事は疑問視されている。)                                            翌、天保4年(1833)から代表作「東海道五十三次」を発表され、江戸にて大人気を博される。 

此れにて広重殿の風景画家としての名声は決定的な物となった。                     翌年以降も種々の「東海道」シリーズを発表された。

天保6年(1835)には「近江八景」を発表。                         天保9年(1838)から翌年にかけて「木曽街道六十九次」の制作を進められたが、途中より1841年頃まで一時中止の時期はあったものの天保13年(1842)に完成させた。

 第46番の1・ 中津川

(此の画集の内45点が広重殿による作品である。)                                    安政元年(1854)に発生した「安政東海地震」、更に立て続けに、翌、安政2年(1855)に発生した「安政江戸地震」によって江戸の町は壊滅的な損害を被った。  

此の大惨事により江戸の住人達が困窮と絶望に打ちひしがれていたのを目の当たりにした広重殿は、地元の人々を勇気付けようと安政3年(1856)に「名所江戸百景」を制作し発表された。

 第11番・上野不忍ノ池(春)

 第49番・増上寺塔赤羽根(夏)

 第78番・鉄砲洲築地門跡(秋)

 第99番・浅草金竜山(冬)

此の翌年以降も各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けられており晩年の代表作となった。    

更には短冊版の「花鳥画」に於いても優れた作品を出し続けられ、其の他、肉筆画(肉筆浮世絵)、歴史画、張交絵、戯画、玩具絵、摺物、団扇絵、双六、絵封筒、そして絵本、合巻や狂歌本等の挿絵も制作されている。  

これ等の肉筆画、印刷された作品を合わせると総数で約2万点にも及ぶと言われている。 

安政5年(1858)には最後の作品集「富士三十六景」を発表され、同年の旧暦9月6日(新暦10月12日)享年62歳で其の生涯を閉じられた。 

死因はコレラであったと伝えられている。                  

広重殿の墓所は東京都足立区伊興町の「東岳寺」にあり、法名は「顕功院徳翁立斎居士」と称する。

 

興味深き事に画家としての広重殿と余を比較してみると、実に多くの共通点が見出されるのである。

第1に互いに「士族」出身の長男である事: 広重殿は江戸の定火消同心・安藤家の生まれ、余は源義仲公の実の妹・宮菊姫の流れを汲む奧山家の生まれ、親族にも、讃岐の国の大名・蓮井家、松平家高松藩の家老職・市森家、等がある。

第2に幼少の時に父親が他界している事: 即ち広重殿は13歳の折、余は10歳の折である。

第3に御互いに一国の首都で活躍した事: 広重殿は江戸(現在の東京)、余はBerlin(ドイツの首都)である。

第4に根幹主題が風景画である事: 広重殿は江戸を中心とした日本各地の名所の連作、余はBerlin, Brandenburg, Ost,West-Preußen、 Pommern地方、其の他ドイツ各地のの名所・文化財の連作をそれぞれ描いている。

第5に御互いに使っている絵の具に共通の顔料がある事: 其の名は広重殿の時代には「べろ藍」、余の油絵の具はドイツ語で”Preußisch Blau”と呼ばれる。

実は広重殿が空や水の表現に使っていた此の「べろ藍」は元々Berlin(当時は”Preußen王国の首都)で発明された藍色の顔料の事で、日本に初めて輸入された時には「ベルリン藍」を短縮して「ベル藍」、更に此れがもじれて「べろ藍」となった次第である。

 

実際の言い伝えによると、広重殿の人柄は教養豊かにして、行儀良く、言葉丁寧で、謙虚で人当たり良く、几帳面で、節度ある規則正しい生活を営まれたていたそうである。

此れに対し同世代の浮世絵師・葛飾北斎が傲慢で不摂生でだらしない(場合によっては淫らな)不安定な生活をしていたらしい。

要するに此の2人の「天才」は人格に於いても生活態度に於いても正に対照的であったと言える。

本来なら医学的理論からは、広重殿の様な生活習慣を採っている方が長生き出来るのだが、実際の処、北斎は放蕩生活をしていたにも拘わらず、何と89歳まで生き延びたのであった。

「人間(人生)五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如く也」と言った時代からすれば、驚異的な「大往生」であったと言える。

此れ又言い伝えによると、広重殿が北斎の才能と作品に感銘を受けて、自ら本人を訪ねて行った時、広重殿が丁寧に挨拶と自己紹介をすると、無礼にも北斎はいきなり広重殿に筆を投げ付けたそうである。

此の北斎の広重殿に対する態度を心理学的に分析してみると、37歳も年下であった広重殿を見下したのではなく、其の才能に脅威を感じていたのかも知れない。

 

芸術家を評価するに於いて、其の作品は最も大事である事は言うまでもない。

しかし芸術家の人柄や生き方も大事な要素であると余は思うのである。

絵は人也」(絵画は作者の人格を反映する)と言う格言がある様に、Kunstpsychologie(芸術心理学)と云う芸術作品に秘められた芸術家のPsyche(心理)、Persönlichkeit(人格)、Idee, Meinung(思想)、Emotion(情念)、其の他を分析、解析する学問がある位である。

此の学術を習得する事によって、芸術作品をVisuelles Element(視覚的要素)だけで観察するのみならず、Geistiges od, spirituales Element(精神的要素)も一緒に把握出来るのである。

余自身も我が母上から「人間の能力も大事だけれど、人柄はもっと大事よ。」と何度も教えられているし、かつて広島カープの「黄金期」の主力選手で「国民栄誉賞」受賞者である衣笠祥雄氏も、其の著書「限りなき挑戦」の中で「ぼくはプロ野球選手は、プレーヤーである前に、まず健全な人間であれ!と叫びたいのである。グラウンドでどんな大記録を作っても"人間失格"ではぼくは価値が無いと思う。」と書かれている位である。

では、此の様な事を書く余の人柄とは如何なる物かと言うと、「高慢な自惚れ屋」である事以外は、人柄や生き方に於いても広重殿と共通しているのである。

 

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此度は全く個人的な3月の「近況報告」の様な記事を書いて行く事となる。

余は健康管管理の為と気分転換と幾分のNarzißmus(自己愛)から、ウェイトトレーニング、格闘技等の練習を週5日のペースで続けており、今年で通算37年になる。

以前は冬の間もウェイトトレーニングを続けていたのだが、ここ3年以来ウェイトトレーニングの場所である(ボロ)別荘の老朽化が急激に進み、屋根や壁から冷たい隙間風が入る様になった為、石油ストーブ1台、電気ヒーター2台で暖房をしても、十分に温度が上がらない。

其の上、余が冬でも短い水着とリストバンドだけを着用して運動する事にこだわっているので、止むを得ず「冬休み」を採る事にしている。

此の「冬休み」に出来た時間を利用して、昨年の12月には我が館(実家)の色褪せた台所の窓の格子、並びに玄関の窓の格子に着いている多数の小さな発疹の様な傷を、自ら調合した塗料で修理した。

そして毎年の如く、我が家の駐車場の庭に生える木々(欅、柘榴(ざくろ)百日紅(さるすべり)、薔薇、葡萄、木瓜(ぼけ)、紅葉、山法師、老鴉(ろうやかき)、等)の大量の落ち葉の処理をして、剪定をしておいた。

(当ブログの記事「我が家の駐車場の庭に咲く野薔薇とドイツ文化の中の薔薇」並びに「我が家の駐車場に生える葡萄の木と文化史の中の葡萄」参照)

更に今年の2月には我が館の事業所の入り口の天井の塗装、バルコンの目地の修理、玄関前のタイル縁のコンクリートの修理、室内の壁紙の一部の貼り付け、3月には館の西側の金属製屋根の錆取りと塗装、そして玄関口の照明器具の和紙を張り替え、更には我が家の車庫の金属部の塗装、駐車場の地面の白線の修理、等の作業を全て余1人で完了した。

普通の人ならば此れだけの作業は専門業者に委託するのだが、そこへ行くと余は芸大で絵画/グラフィック及び建築をも学んでいる画家であり、美術工芸品、骨董品の鑑定、収集、修理も行っているだけに、自分自身でいとも簡単に成し遂げられるのである。

 

今年になって昨日3月7日より初めてウェイトトレーニングを再開した。

4カ月振りに実家から自転車で(ボロ)別荘までの道のり(6km)をつい力んでスピードを出し過ぎたせいか、3分の2程走った処で、少々息切れしそうになったが、後は根性で走り切った。

(ボロ)別荘に着いて20分程一服してウェイトトレーニングを始めたのだが、無事本日全てのメニューを完了する事が出来た。

久方振りのトレーニングを終えて帰宅して夜中になっても、(昨年の5月3日同様に)肉体的には軽い筋肉痛と疲労感がある程度で、寧ろ精神的には安心感と満足感に満たされている。

そしていつもの様に自分の美しい顔や裸体を鏡で見ながらうっとり見惚れている有様である。

プロスポーツマンですら長期休養した後に現場に復帰すると、鈍った感覚を取り戻すのに幾分時間がかかるとの事である。

まして普通の人間なら1か月以上も普段続けているスポーツを休むと、体が鈍(なま)る()のが当然である。

ところが余は何とも不思議な事に、常人離れした回復力を持っている。                         (此れ又昨年同様に)「よくぞ斯(か)くも長きに渡ってを続けて来たもだ!」と我ながら感心している。

其れでも町(東区)のど真ん中に立つ館に住んでいる余にとっては、道中で見える大河と山の風景、そして別荘の周りの広々とした田園風景を見て、ウェイトトレーニングと格闘技の練習をしたり、庭に生える草木を見る事が、何よりの気分転換になるのである。

又、「人間は体で年を取るのではなく心で年を取る。」と言う格言があるが、余も此の格言には同感出来るのである。

余が「初老」と呼ばれる程の年になっても尚、誰からも容姿、体力共に30代前半と認識されるのは、ただ医学知識を元に徹底して健康管理をするだけでなく、やはり自分の人生に於いて確固たる目的や、全身全霊を以て取り組める物事(仕事)があるからではないかと思われる。

3月11日に週5日の最後のメニューを終えて、今年初めてのウェイトトレーニングを完了した。

ドイツと日本を毎年行き来していた時代(1989~2003年)と同様に、ウェイトトレーニング再開第1週目が一番緊張するし、此れを完了すると一番安心感と満足感に満たされるのである。

(更に詳しくは同ブログの記事「久方振りにウェイトトレーニングに復帰した事, 及び我が容姿について」)参照)

 

我が家の別荘には特に我が親父殿と隣に住んでいた母上方の祖母の思い出が沢山ある故、老朽化しても余が自分で時折修理を施して今まで持ち堪えて来たのだが、最近では前記の通り悲惨なまでに老朽化しているので、遂に新築する事を決心した次第である。

(建築資金も既に用意してある。)

ところが我が家の別荘前の道は自動車が通りぬける事が出来ない程狭い故、「建築基準法」を満たしていない事が、我が館を(余のデザイン・設計を元に)新改築してくれた建築会社の調査で判明した。

即ち別荘を新築する為には、我が家の別荘の敷地に建築業者の車両が出入り出来る道筋を確保しなければならないのである。

そこで別荘前の道に平行に流れる用水を跨いで向こう側の道路に橋を架ける事を建築業者が提案してくれたのだが、橋を架ける費用は思いの外高く、普段使わない橋の為に其の様な出費をするのは非合理であると思えた。

そこで余は別荘の北と東を囲む農地(田んぼ)を買い取り、道に面した部分を40~50cm程埋めて、道を拡張する以外に選択肢は無いと思ったのである。

其の為今年の1月半ば頃より我が家の別荘に隣接する農地(田んぼ)を買い取る事を、我が家の既存の農地(約1000坪)を耕作してくれている友人の鶴海さんに相談してみた。

何と鶴海さんは親切な事に此の法的な手続きの為に自分の親戚である司法書士さんを紹介してくれたのである。

又、鶴海さんは地元の町内会長も務めている関係で、我が家の別荘に隣接する農地(田んぼ)の持ち主さんをも知っていたので、余の代理人として此の話を進めてくれたのである。

すると田んぼの持ち主さんは快く田んぼを余に譲渡してくれるとの事である。

余は鶴海さんと此の田んぼの持ち主さんが到着する前に、我が館の近所にある司法書士さんの事務所を訪ねて御互いに自己紹介をした処、何と彼も我が家と同じ(天台宗)成願寺が菩提寺である上、寺と同じ地区に実家があり、現住職の兄上と元同級生であるとの事である。

此の事から一気に仲良くなり、其の後到着した鶴海さんと農地(田んぼ)の持ち主さんと4人で農地売買の件で話し合い、各手続きは司法書士さんが行ってくれる事になった。

其れ以来此の事は順調に進展し、予定では3月20日頃には法的に譲渡が成立する見込みである。

 

実を言うと余は子供の頃より此の農地(田んぼ)で稲が無い時期にはよく遊んでいた事、其の他にも我が別荘の庭でエンドウやメロンや瓜を育てる時に使う藁を田んぼから貰っていた事、更に別荘と田んぼの境に大量に群生するアヤメ、カキツバタ、菖蒲の花を摘んで母上の趣味の生け花の為に家に持ち帰っていた等の多くの思い出がある。

故に「いつの日か此の農地(田んぼ)を買い取って我が家の私有地に出来ないだろうか。」と言うのが我が少年時代からの願いであった。

「今では農地価格が所謂「バブル経済期」に比べて大幅に下落しとるし、其れでいて将来この辺の農地は地価が上がる見込みやから、買い取るには良い機会なんや。」と鶴海さんも言ってくれているし、獲得後此の田んぼも同様に鶴海さんが耕作してくれるのである。

鶴海さんには今までの我が家の農地(田んぼ)の耕作のみならず、新たな田んぼの獲得にまで協力して頂き誠に有り難き限りである。

御礼として彼の生まれ故郷の徳島県の伝統工芸「大谷焼」の茶器揃えを進呈しておいた。

かくして我が家の所有する農地は合計約1850坪になり、米の生産高も約2倍にまで増えるのである。

そして我が家の別荘の新築への重要な第1歩を踏み出せたのである!

 

昨年2021年3月10日に我が親父殿(1921~1980

年)の生誕100年を迎えた。

大日本帝国時代、此の日は「陸軍記念日」であった。
此れは1905年(明治38年)の日露戦争の折、3月10日の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天(現在の瀋陽)を占領して奉天城に入城した日に因んでいる。
そして第二次世界大戦中、我が親父殿は暗号解読官(少尉)であった。

余は此れを機に、親父殿の位牌の金と黒漆を新たに塗り直してあげようと思い、行きつけの仏壇店に見積もりをしてもらった処、最近の金相場の高騰(2000年頃に比べて6倍以上)が影響して、位牌を新調するより高くつくとの事であった。

ならば位牌を新調すれば良いのでは?とも考えられるのだが、余としては親父殿の本来の位牌を処分せず大事に仏壇に納めて供養して行きたいので、塗り直しは取りやめにする事にした。

ところが3月15日にあるドラマを見ていると、其の中に墓参りをする場面があって、墓碑銘に金を入れた墓石が見て取れた。

此れを見て位牌の塗り直しをしなかった代わりとして、我が家の先祖墓の墓碑銘と家紋(丸に九枚笹)そして霊標の題名に金箔を施す事を思い付いたのである。

早速、余が親しい仏壇店の店員さんに此の事を相談してみると、余の予想より遥かに安価に出来る様なので、丁度「彼岸会」も近いので此れを業者に実行してもらう事にした。

一部の人が見れば、先祖墓を金箔で飾り付ける等、見栄や道楽に思われるかも知れないが、余は我が家の清和源氏の流れを汲む家柄と家紋に誇りを持っている事から、どうしても一般庶民と同じ墓では満足が行かないのである。

 

早稲田大学・考古学・谷川章雄教授によると、「18世紀ごろから家を強く意識し始めたことを背景として、各家で墓標を造立することが広がり、この時期に院号・居士・大姉など上位の戒名を持てない家では夫婦、兄弟姉妹、親子など家族をまとめ1基の墓標にまつることが多くなる。(中略) 一方、院号・居士・大姉などの戒名を持つ(名)家では、18世紀初頭ごろから家族が個人の墓標を造立することの方が一般的であった。 言い換えれば、こうした墓標のあり方が家の格式の表徴であった。」との事である。

参考に我が家の先祖墓では今も尚、明治~昭和初期にかけての個人の墓標が10基も残っている。

又、先祖墓の墓碑銘と家紋、等に金箔を施す習慣は全国的には大変珍しいのだが、九州の北西部、特に長崎県では多く見受けられる。

其の原因とは当県が江戸時代より所謂「出島」によって清国(中国)と交易をしていた事で、此の国の文化が伝承され、先祖に敬意を持って供養する意味で「高貴」を象徴する金箔を墓に施す様になった。

 

余は自分の家柄に誇りを持つ分だけ、普段より人一倍先祖を敬い供養しているつもりである。

此度、先祖墓を綺麗にして改めて明治元年(1868)以来伝わる我が家の「奧山家過去帳」を閲覧して、そこに記入されている先祖の俗名、戒名を墓地にある先祖個人の墓標に刻まれている物と比べて見た。

そして直接は御目にかかる事の無かった御先祖様方へ、遥かなる思いを寄せて引き続き敬い供養させて頂こうと思った次第である。

我が奧山家は元々美濃の国「遠山荘」に起源を有しており、明治維新より前の「過去帳」が残されていない事から、江戸時代の終わり頃までは現地を拠点として住んでいたのだと推測される。

いずれ自分が臨終した後はここに我が遺骨が納められる事も考えれば、ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家)にまでなり、其の作品と名前を未来永劫に残せる者として、其れに相応しいだけの墓にしておきたいのである。

 

追伸:

2020年以来、新型コロナウィルスが世界中に蔓延し、今年2022年3月4日の時点で全世界の通算感染者数は4億4206万人以上、同じく死者数は598万人以上と驚異的な数値が確認されている。

そして今年の2月24日以来、ロシア軍がウクライナを侵略し、同国の民間人の死者は2000人以上、難民の数は100万人以上のまで上り、地元に残るウクライナ国民は今でも生命と財産を脅かされている状況である。 (此れに対しにロシア軍の死者は5000人以上、反戦デモ逮捕者は1万人以上)

更に此の戦争が影響して原油価格の高騰、株価の下落、両国からの小麦の輸出の停止、等が世界経済に深刻な打撃を与えている。

これ等の悲惨な出来事で世界中で多くの人々が感染症や貧困に苦しむ中、以上の様な事を書いていると、「全く士族出身の富裕層と来たら、毎年労働もせずに株や証券や不動産で儲けて、私有地を広げて、資産物品(美術工芸品、骨董品)を買い集めて、自分の姿に自惚れてるんだからいい気なもんだ! 他人の難儀を何とも思わんのか! 人の心があるのか?」と妬まれたり、非難されるかも知れない。

あるイギリスの貴族の言った言葉>Every Words from Nobility take a low fellow how irony.<(貴族のどんな言葉も下衆には嫌味に聞こえる。)は正に至言也と思える。

とは言え余も自慢をしている訳でも、困窮者を無視している訳でもない。

故に「ロシア、ウクライナ戦争」については後程、人の為になる事を真摯に書いて行く所存である。

 

其の後、16日午後11時36分、宮城、福島両県で最大震度6強の地震があり、9県に渡り死者3人、怪我人220人が出ているとの事である。

此の事には取り急ぎ御見舞い申したい!

一部の被災地では過去に起きた地震と同様に、建造物の破損、断水、停電、交通の遮断、等の損害を被っている様である。

被災者の方々は暫くの間不自由な生活を余儀なくされるかも知れないが、一日でも早く復旧が進み、本来の日常生活を取り戻される事を願って止まない。

 

Kunstmarkt von Heinrich Gustav   All rights reserved

今年11月12日、広島カープの監督として1975年から85年まで11年間指揮を取り、チームをリーグ優勝4度、日本一3度に導いた古葉竹識氏が享年85歳で御逝去された。

昨日ウェブ上の此のニュースで知り、驚愕したと同時に記事を読みながら深い悲しみに襲われた。

何よりも先ず心よりの哀悼の意を表すると同時に、来世での御冥福を御祈りしたい!

 

古葉さんは1936年4月22日に熊本市西区に御生まれになった。

御父上が鋳物会社を経営されていたので裕福な家庭であったが、第二次世界大戦後に戦後不況の煽りを受けて御父上の会社が倒産してしまい、裕福な暮らしが一転してしまった。

心理学的に考察すると、此の少年時代の甘苦共に経験された事は後の古葉さんの人生に大きな影響と教訓を与えたのではないかと思われる。

実に余は多くの偉人、英雄、人傑の伝記を読んだり、生い立ちを調べて来たが、大抵の場合歴史に其の名と偉業を残せる御仁達は少年時代に「甘」「苦」共に経験されている事が多いのである。

即ち人生には(時代劇「水戸黄門」の主題歌の様だが)「楽」ありゃ「苦」もあると言う事、更に「成功」と「失敗」、「勝利」と「敗北」そして「喜び」と「悲しみ」もある事を幼少の頃より経験しているからこそ、”Persönlichkeit”(人格、人間性)を早期に熟成出来たのだと考えられる。

「幸福な場合」と「不幸な場合」、それぞれ如何に振る舞うかに依って其の人の度量が計り知れるのである。

即ち、幸福な時には有頂天にならず、不幸な時には絶望しないと言う事である。

又、古葉さんは広島カープの球団史上最高の名監督であるのみならず、彼の生年月日は余の大恩人にして親友である我がドイツの地元・首都Berlinの都議会議長であり国家最高勲章

”Bundeskreuz”の叙勲者であるWolfgang Mellwig閣下(1936~2013年)、並びに我が最愛の”Paris Collection”の天才ファッションデザイナーYves Saint Laurent氏(1936~2008年)と同い年である事、そして我が尊敬するPreußen王国出身の天才哲学者Immanuel Kant先生(1724~1804年)と同じ誕生日である事も、余にとっては特別な存在なのである。

 

古葉さんの「野球人」としての経歴を振り返って見ると、熊本県立済々(せいせい)黌高校を卒業後1955年に専修大学に進学された。          

其の後、日鉄二瀬の濃人渉監督から日鉄鉱業への入社を勧められ、専修大学を中退し日鉄鉱業に入社された。     

(社会人野球チーム)日鉄二瀬では1956年から都市対抗野球に2年連続出場された。

1958年に広島カープに入団。

3年目の1960年、61年には打率でリーグ5位に入る等、2番打者として年々成績を向上させられた。1963年には巨人の長嶋茂雄氏とシーズン最後まで首位打者を競われた。

1964年、68年と2度の盗塁王を獲得し、 オールスターにも3度出場され、2度もMVPを獲得された。

1969年は入団以来最少の68試合出場に終わった。

1970年、野村克也選手兼監督 に請われて南海ホークスに移籍し、翌年には現役を引退された。

72年73年には同球団の走塁コーチを務められた

1974年には大学の先輩且つ広島同期入団の森永勝也監督の要請で、古巣・広島に一軍守備コーチとして復帰される。

 

そして1975年には15試合で帰国したジョー・ルーツ監督の後を継いで5月に監督に就任された。

広島カープが球団史上初優勝を成し遂げた此の年は、古葉監督の指揮下で、山本浩二氏、衣笠祥雄氏、三村敏之氏、水谷実雄氏、道原博幸氏、等の主力選手に加えて、地元広島出身の大下剛史氏、外人選手としてG・ホプキンス氏、R・シェーンブラム氏、等を獲得して、一気に12球団一と言える程の強力な打線を組んだ。
而も其の選手達の多くが快足で、盗塁も多く期待出来ると云う強みもあった。
因みに「ヘル」とは今では広島カープの象徴となっているが、実は帽子やヘルメットが濃紺からになったのも1975年からで、此れは此の年から(古葉監督の前任として)新監督に就任したルーツ氏が「此のチームには情熱が欠けている。情熱を表すをユニフォームに取り入れる事で選手を鼓舞出来る。」との提案によるものである。
衣笠さんの自伝や御話によると、当時の日本の野球ではい帽子など考えもよらなかったので、多くの選手達は此の事にかなりの違和感を抱いていたらしい。
ところが此の年からカープは目覚ましい快進撃を続け、広島県内では男性や子供達の間で此のカープの帽子が大流行し、所謂「ヘル旋風」とか「ヘルブーム」と形容された位であった。
其の後1977年には帽子のみならず、アンダーシャツやユニフォームのロゴや背番号も、従来の濃紺にの縁取りだったのが全てになり、今日に至っている。
「色彩学」に於いては人間に情熱や勇気や決断力を与える心理的効果があるとされているが、誠に此の事でも実証されていると言える。
実は余が此の年からカープファンになった一番の理由は、強くなった事よりもチームカラーが余の最愛の色「」に統一された事なのである。



余も名将・古葉監督の指揮下で1979年、1980年の2年連続リーグ優勝、日本一(2年連続で近鉄バッファローズが相手)、1984年のリーグ優勝、日本一(阪急ブレーブスに75年のお返し)、そして阿南監督の下で1986年の優勝は今でもはっきり覚えているし、当時「黄金時代」の主力選手、監督、コーチ、計23人(古葉竹識氏、山本浩二氏、衣笠祥雄氏、三村敏之氏、道原博幸氏、達川光男氏、高橋慶彦氏、佐野嘉幸氏、A・ギャレット氏、J・ライトル氏、江夏豊氏、大野豊氏、北別府学氏、山根和夫氏、松原明夫氏、阿南準郎氏、其の他)にサインを貰って今でも大事に保存しているし、当時の新聞の切り抜きも保存している位である。
当時のカープは実に完成度の高いチームであったので、毎年優勝争いをして当然と言える程であった。
1991年の優勝は当時余が海外(ドイツ)に住んでいた為、残念ながら直接見る事は出来なかった。
思い起こせば歴代のカープの優勝、及び日本一は決して余裕のある楽な物ではなかった。
例えば1979年の優勝は何と68勝で決めているし、1986年は75勝した巨人に対し73勝(引き分け11個)の勝率で上回っての優勝であった。
又、日本シリーズでも79年、80年、そして84年のいずれも4勝3敗で「日本一」になっている。

余の親父殿(1921~1980年)は大抵の場合、何にでも比較的辛口の評価をする人であった。

しかし当時の古葉監督に関しては、「古葉は小賢しさと辛抱強さ両方を持ち合わせている男だ! そして優れた選手を育てるのも上手だ。 今の広島(カープ)が強いのは、あの古葉と云う「やり手」の監督がいるからだぞ。」と、手放しで絶賛していたのを今でもはっきり覚えている。

余も我が親父殿の古葉監督への評価は全く的中していると思えるのである。

当時のカープ選手であった木下富雄氏も「古葉監督は調子が悪い選手が少しでも良くなると、すかさず「いいじゃないか」と声を掛けられてました。」「一番選手が見え易い所から見て、他人が気付かない所までお見通しでした。野球に厳しい反面、繊細な目で人を包み込む指導力に(私達は)何度も助けられました。」と言っている。

同じくカープ選手であった山崎隆造氏も「私にとってプロ野球界で生き延びるきっかけの1つとなったのが、スイッチヒッターへの挑戦でした。それを提言してくれたのが古葉さんでした。そしてもう1つ私と言う選手が生かされたのが、内野手から外野手にコンバートされた事です。1980年代当時、複数ポジションを守れるユーティリティープレーヤーは余りいなかったのですが、発想力の豊かさが物凄くある方でした。」と言っている。

 

古葉監督の座右の銘「耐えて勝つ」及び「言いたい事を言って、やりたい事をやって、悔いの残らない様にしよう」は正に彼の人生観、野球の方針を象徴していると言える。

(※此の座右の銘「耐えて勝つ」を題名にした自叙伝を古葉さんが御執筆されている本を、余も購入して読ませてもらっている。)

日常生活の中では古葉さんは大層温厚で人当たりの良い御人柄であった。

しかし一度(ひとたび)本職の野球の中に入ると人が変わったかの様な監督になった。

選手に対しては情熱的に厳しく指導し、他球団以上に練習もさせた。 

そして不細工な失策をした選手にはゲンコツや蹴りまで入れる事もあったと、当時の選手達が語っている。

其の理由として「御両親から預かった選手を一人前のプロにしないといけないから厳しくしたんです。」と言われている事からも、古葉監督がチームの成績だけでなく選手個人の人生も大事にされていた事が分かるのである。

チーム方針である「緻密な野球」を実践する為、カープに於ける11年間の就任期間(約1500試合)の中で、一度たりともボールの行方を見逃す事は無かったと言われるのである。

「二遊間の選手は捕手のサインに応じて動いたり、ベースカバー、バックアップ、カットマン、更には投手へのアドバイス等、様々な役割があるんです。」と古葉監督は言われている。

試合中、体が半分しか見えない程ベンチの隅に立つ姿も古葉監督の特徴の一つであったが、此れも「投手がどんな球を投げて、内野手がどんな動きをしたか、あの位置なら全て見渡す事が出来たんです。」との事である。

又、攻撃面では「強力打線」に物を言わせて試合終盤で3、4点リードして勝利が濃厚でも、気を抜く事無く点を捕りに行く采配をされていた。

「バッターがしっかりと打ってくれるので、ピッチャーからしたら「1,2点取られたって取り返してくれる」と思うとピッチングが全然違って来るんです。 逆に「1点でもやったらいかん」と思ったら、真ん中に投げて撃たれるんですよね。 でも、「なーに、1点位取らたっていいんだから」と思って投げると、良い処にボールが行って抑えられるんですよね。」と古葉監督は言われている。

そして古葉監督の野球方針の象徴でもある「機動力野球」では、「山本浩二さん、衣笠さん、等の中軸の強打者にも長打(二塁打以上の安打)を打ちまくるだけでなく、盗塁も積極果敢にさせていたし、更にはレギュラーシーズンのみならず「日本シリーズ」に於いても、相手チームの意表を突く様なダブルスチールを敢行したりもした。

一番打者の大下さんが相手の意表を突く様なバントや、守備の時の「隠し球」をした事、更には相手チームの失策に付け込んで点を取って行く事も古葉監督の「狡賢さ」が反映しているのである。

 

NHK製作の特集番組「広島復興を支えた市民たち、鯉昇れ、焦土の空へ!広島カープ創設の物語」及び、1975年(昭和50年)カープの初優勝の記録番組「ヘル旋風」を改めて視聴、録画して、当球団が戦後の広島県民にとって如何程心の支え、及び生き甲斐になっているか、そして衣笠さんが「カープと云う球団は広島県の文化であり、宝である。」と言われる事を改めて思い知らされた。
広島市内に於ける初優勝の祝典パレードには何と30万人を超えるファンが集まって喜びを分かち合っていたし(当寺の広島市の人口が約80万人)、其の中には球団創設(1950年1月15日)以来ずっとカープの優勝を待ち望んだものの、見ずして他界してしまった人達の遺族が、故人の遺影(写真)をパレード行進する選手たちに向けていた光景は誠に感極まる物があった。

此の時の事を古葉さんは思い出して感涙しながら生き生きと語ってくれた事は何とも感銘深き物であった!

広島カープは前記の通り1950年に日本で唯一親会社を持たない「市民球団」として創設したのだが、著しい資金不足が原因で不本意にも毎年Bクラスに低迷して来た。

古葉さんは此の球団を初めて優勝にまで導いた監督として、此れ程多くの地元・広島県民に喜びと感動を与え、彼等から多大な感謝を受け賜ったのだから、彼の人生に於いても最高の幸せであったのだろう。
これ等の球団創設以来の歴史を振り返ってみると、広島カープと云う球団が如何に地元広島県、及び他県ののファンに愛され、支えられて存続して来たかが程良く解るのである。

決して経済力はないが、巨人や犯珍の様に「銭の力」で選手を採って、いらなくなれば紙屑のように捨てる、所謂「金満球団」とは異なり、選手を粘り強く育て大切にする球団の方針は広島県民のみならず、他県でも多くの人達の感銘、共感を呼び、今では広島県外でもカープファンが増えていると云う現象が著しい。
かつてジャーナリストでキャスターであった故・筑紫哲也氏(彼もカープファン)が巨人のオーナーが「企業野球」等と云う傲慢な言葉を発した時、以下の様に反論していたのを覚えている。
「野球の好きな人々は夢と感動を求めて野球場に行くのであって、野球までもが金銭の力によって勝ちや優勝が決まる様では、夢と感動も無くなってしまうのではないでしょうか。」
そう云う意味でもカープは野球の好きな人々に夢と感動を与えていると言える。

そして古葉さんの監督としての「偉業」と「方針」は永遠にカープの選手やファンのみならず、他球団の監督や野球愛好家の間でも称賛され、手本にされ続ける事であると確信している。

 

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