守破離と序破急はともに芸事に関する言葉でありながら、その構成を示す序破急と規矩性の変化を指す守破離とで随分と違います。
序破急は物語が完成するための構成要素として三段構成を示す言葉です。
現在は起承転結の四段構成が中心ですが、日本的な構成はこの三段構成の方がなじみます(俳諧なども五・七・五)。
序破急
序破急は雅楽から生まれた言葉で、「序」が無拍子かつ低速度で展開され、太鼓の拍数のみを定めて自由に奏され、「破」から拍子が加わり、「急」で加速が入り一曲三部構成を成すことを示します。
これは芸事の習い方の基本でもあり、習い始めは多くのことを教えず、基礎をじっくりと教え(序)、徐々に変化をつけ(棚物や炉風炉の変化)て特殊な扱いを教え(破)、最終的に一連の流れ(通し稽古)をやらせるようにする(急)ということにもつながります。
好く耳にするのは「最近の人は、飽きっぽいからいろいろ教えないといけない」ということですが、私はそうは思いません。基本をしっかり教え、面白いことが先に待っていると見せてあげることが肝腎であり、やらせることがよいことではないと思います。
最初の二年ぐらいはみっちり風炉の平点前を仕込み、徐々に炉の平点前、濃茶、運び点前へと進むのが好いのではないでしょうかね。
守破離
守破離は能から生まれた言葉で、「守」が先人(師匠)から習ったことを守ること、「破」が先人(師匠)から習ったことの間違いを正すこと、「離」が基本から外れずに新しい規矩性を見出すことを示します。
序破急が習い方・教え方であるのに対して、守破離は生き方というか、自分の修行の段階を示しています。
私の見解としては、守ができていないのに破や離に進むのは間違っています。
つまり、破や離とは「習うことが無くなって初めて進む道」であると思うのです。そして、離は破をおろそかにしてしていいことではないし、先人たちがなぜそうしたのかを解き明かしてからでなければ正してはいけません。
師が明らかに間違っているとき、それは直さねばなりません。
師が絶対ではあっても、絶対ではなく、それを踰えなければならないのが弟子なのです。
序破急・守破離。
日本の芸事の世界でこれを古臭い!と思うのであれば、それは違うのではないかと。時代にそぐわないと思うのであれば、その世界に入ることはないと思います。伝統を大事に思うのであれば、まずはその世界を知りつくし、その上で変革を求めて行けば好いのではないでしょうか。
序破急は物語が完成するための構成要素として三段構成を示す言葉です。
現在は起承転結の四段構成が中心ですが、日本的な構成はこの三段構成の方がなじみます(俳諧なども五・七・五)。
序破急
序破急は雅楽から生まれた言葉で、「序」が無拍子かつ低速度で展開され、太鼓の拍数のみを定めて自由に奏され、「破」から拍子が加わり、「急」で加速が入り一曲三部構成を成すことを示します。
これは芸事の習い方の基本でもあり、習い始めは多くのことを教えず、基礎をじっくりと教え(序)、徐々に変化をつけ(棚物や炉風炉の変化)て特殊な扱いを教え(破)、最終的に一連の流れ(通し稽古)をやらせるようにする(急)ということにもつながります。
好く耳にするのは「最近の人は、飽きっぽいからいろいろ教えないといけない」ということですが、私はそうは思いません。基本をしっかり教え、面白いことが先に待っていると見せてあげることが肝腎であり、やらせることがよいことではないと思います。
最初の二年ぐらいはみっちり風炉の平点前を仕込み、徐々に炉の平点前、濃茶、運び点前へと進むのが好いのではないでしょうかね。
守破離
守破離は能から生まれた言葉で、「守」が先人(師匠)から習ったことを守ること、「破」が先人(師匠)から習ったことの間違いを正すこと、「離」が基本から外れずに新しい規矩性を見出すことを示します。
序破急が習い方・教え方であるのに対して、守破離は生き方というか、自分の修行の段階を示しています。
私の見解としては、守ができていないのに破や離に進むのは間違っています。
つまり、破や離とは「習うことが無くなって初めて進む道」であると思うのです。そして、離は破をおろそかにしてしていいことではないし、先人たちがなぜそうしたのかを解き明かしてからでなければ正してはいけません。
師が明らかに間違っているとき、それは直さねばなりません。
師が絶対ではあっても、絶対ではなく、それを踰えなければならないのが弟子なのです。
序破急・守破離。
日本の芸事の世界でこれを古臭い!と思うのであれば、それは違うのではないかと。時代にそぐわないと思うのであれば、その世界に入ることはないと思います。伝統を大事に思うのであれば、まずはその世界を知りつくし、その上で変革を求めて行けば好いのではないでしょうか。
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