新聞小説 「国宝」 (6) 吉田 修一 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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新聞小説 「国宝」  (6) 吉田 修一    5/10(126)~6/3(150)

作:吉田 修一  画:束 芋
レビュー一覧 

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感想
徳次の北海道での顛末と、その後の大部屋俳優との接点が語られる。本当に調子の良さが際立つ男だが、喜久雄に対する想いが変わらないところは好感が持てる。

 

半二郎が事故に遭ったことで露見した俊介と喜久雄の問題。いくら血縁者でも精進しなければ跡目を継ぐことは出来ない。
この問題は会社の経営にも言えること。創業者が自分の子供に後を継がせる事で会社が弱体化して行く。タカタの倒産しかり。

 

それにしても意外だったのは春江。喜久雄について行くと言っていたのが、俊介と一緒に出奔。これからどうなる、俊介。


ただ、ここに来て作者の、読者におもねる様な表現に少し違和感。敬体での表現は別にいいのだが、途中で度々挟まれる「読者の皆様」と言ってしたり顔に説明するくだり。三人称ならそれに徹して作者としての姿は見たくない。これは後に単行本にする場合にも見直さないと「ウザい」小説となるだろう。
また各章がぴったり25回で終わっているのも、いかにも新聞小説然として、これまた「ウザい」。まるで「天声人語」が文字数に支配されて、毎日本末転倒な苦労をしているのを彷彿とさせる。

 

更に言えば挿絵の作者。最初はその独創的な表現に感嘆したが、こう毎回やられては「お前、人の顔が描けないのかよ」とでも言いたくなってしまう。

ああ、いけない。映画評みたいに辛口が出てしまった・・・・・

 

あらすじ

第六章  曽根崎の森の道行
大見得を切って弁天と共に北海道の旅立った徳次。実は出発からわずかひと月で大阪に舞い戻っていた。
徳次らが頼ったのは釜ヶ崎の手配師。北海道に楽な仕事がある、と騙されて未開地の道路掘削の現場に放り込まれた。
いくら抗議しても通る相手ではなく、給金も先延ばしで手元に来ない。

 

こんな所に長居は無用、と弁天と二人で逃げ出した。追っ手からは逃れたが、その日の昼飯代もない。だがそんな二人を助ける者がいた。農婦、トラック運転手等々。
青函連絡船の前では、戦後の引き揚げで世話になった事がある、と連絡船の切符を買ってくれた人までいた。

そうして人々の好意に助けられてなんとか大阪に辿り着いた徳次と弁天。だが半二郎宅には戻らず、悪徳手配師に何とか仕返しをしようと、労働福祉センターへ陳情に乗り込んだ。
そのセンターでたまたまドキュメンタリー映画の撮影中だったため、徳次らが興奮して陳情する姿は、そのままカメラに収められた。この監督の清田誠は、三友興業の映画部出身だった。
陳情自体は、北海道の現場でも前金が払われており、結局ムダ足。

 

清田が撮ったドキュメンタリー映画「青春の墓場」がTV放映になると、これが反響を呼び、次いで小劇場ながら全国数ケ所で上映された。特に大阪の映画館では連日の満席。
そんな事があり、清田が低予算の実験的な映画に徳次を主役で抜擢。驚くほどの芝居勘の良さで徳次は好演。この映画も注目を集めた。

徳次はその後順調に俳優への道が拓け、とは行かなかったが、その噂が喜久雄の耳にも入った。春江に尋ねると、口止めされていたが、大阪にはずっと前に戻っていたとの事。
早速喜久雄が会いに行き、半二郎の所へ連れ帰った。話の早い半二郎はさっそく「三友」に口を利き、徳次を大部屋俳優の一人として雇い入れてもらった。

 

ある日芸人横丁を訪れる喜久雄。そこには弁天と徳次が漫才師の沢田西洋を立たせようとしていた。彼の生まれて初めてのTV収録の日。弁天は縁あってこの西洋に弟子入りしていた。相方で妻の沢田花菱が二階から降りて来て、西洋に構わず先に出掛ける。あわてて立ち上がる西洋。

 

収録時刻の迫る中、電車で局まで向かう一行。喜久雄まで見学に。
若いディレクターにせかされて芸を始める西洋。調子が乗って来たが、TVの尺には収まらず、短くしろ、いやだめだの押し問答の末、西洋がキレて蝶ネクタイを毟り取った。だが弱い立場を思い出し、詫びを入れての再収録。

 

そんな時にスタジオ内が騒がしくなる。花井半二郎が交通事故にあったとの情報。あわてて公衆電話から家に電話を入れる喜久雄。 入院先の天馬総合病院にタクシーで乗り付けた喜久雄ら。源さんを見つけて様子を聞くと、命に別状はないが、両足骨折とのこと。
喜久雄がつぶやく「あ、来週、初日や」。大阪中座での公演。出し物は「曾根崎心中」で半二郎が主役のお初。

 

半二郎の骨折騒ぎの翌日。母親の帰りを待つ俊介と喜久雄。帰って来た幸子は、半二郎が泣いていたという。二歳で初舞台を踏んでから一度も舞台に穴をあけた事はなかった。俊介に心の準備をしておく様にと伝える幸子。
半二郎は二人に、予感があったと思えるほど、今回の「曾根崎心中」の稽古を毎日見せていた。大抜擢やな、と俊介に話す喜久雄。

その後三友の梅木社長から電話があり、出た幸子がその話を受けた。社長の言うには、半二郎の代役は喜久雄で行くとの事で、それを決めたのは半二郎自身だという。

 

旧い話の挿入。江戸時代、近松門左衛門が「曾根崎心中」を書き上げた頃、関西で人気を博した初代坂田藤十郎。自分が亡くなる時、シンボルの「紙子」を弟子に授けたという。彼が重きを置いたのは世襲ではなく実力。

 

幸子、俊介、喜久雄の三人で病院まで行き、幸子が質問攻めをした後、半二郎が「決めたことや」と言った事で全てが決まった。
真っ先に部屋を出た俊介を追う喜久雄。突然俊介が「泥棒と一緒や」と言って喜久雄の胸倉を掴む。だがそれはポーズ。実の息子より部屋子の方が上手い、と言うのがあの花井半二郎なら仕方がない。代役が勤まるよう助ける、と俊介。

 

 

舞台稽古まであと三日。喜久雄は半二郎の病室に通い詰めて指導を受ける。容赦なく喜久雄を締め上げる半二郎。醤油問屋の手代、徳兵衛と愛し合う遊女お初の悲恋物語。
世間では喜久雄を抜擢した事で、隠し子ではないかとの噂まで立ち、それでチケットがはけて行くのも確かだった。

 

三日間はあっという間に過ぎ、座頭の徳兵衛役、生田庄左衛門による舞台稽古が始まった。庄左衛門の厳しさは有名で、以前グループサウンズを引きあいにして揶揄したのも彼だった。
稽古は二場面目まで滞りなく過ぎ、そこで庄左衛門が休憩を入れた。喜久雄に声を掛け、初役の割りには良く入っている、との褒め言葉。ただ、今回もらえる拍手は子役がもらうそれと同じもの。二度目はない、と。

 

袖から稽古を見ていた俊介の前で、弟子たちが容赦のない物言い。二人道成寺でも東一郎の方が華がある、この際丹波屋の若旦那がどっかに行ってくれたら話が早い、とまで。

 

こうして始まった大阪中座での公演。昼の部では俊介との「二人道成寺」。称賛を受けるのは喜久雄ばかり。必死で演じる俊介には容赦ない野次が飛ぶ。また夜の部では「曾根崎心中」のお初を徳兵衛役の庄左衛門と演じる喜久雄。
極限状態を続けて二十一日間。終わってみれば劇評は絶賛、東一郎が表紙を飾った週刊誌まで発売され、東一郎ブームとなった。

 

千秋楽の夜、三友の梅木社長の御馳走を受けた帰り「無事に終わって良かったな」と喜久雄をねぎらう俊介。

 

翌朝、喜久雄が俊介を起こしに部屋へ行くが、姿が見えない。枕元には置手紙「父上様 探さないで下さい 俊介」。
俊介はこのまま行方不明となり、数年が流れた。俊介の出奔でもう一つ判ったこと。その日に春江も姿を消していた。当時春江は北新地でも有名なクラブの雇われマダムとなっており、喜久雄は俊介を連れて何度か訪れていたが、二人の仲を全く疑った事がなかった。