私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

朝日 新聞小説「夫を亡くして」(8) 作:門井慶喜
レビュー一覧         
教室  1~17  143(3/28)~159(4/13)

感想
下宿人の貫坊らに祝われ、つい月謝をタダにすると言ったミナ。英子の逆鱗に触れた。夫が死ぬ原因を作ったと思っていたユキと暮らす方が良かったという。さすがにショックを受けるミナだが、自分の方がユキよりひどかったと後悔も。
ただ、その後の英子の気持ちが何も描かれない。中途半端やな。
そして最初の授業で、校長から言われていた「第一声」が、
お黙りなさい!」には笑った。校長の返しにも微笑。
 

なお透谷研究をされている、河原ゆかり氏の論文がある。
読み易い様に記事にまとめた。

透谷にかなり強い興味を持ち、作品に対する考察も深い。またその妻美那子についても、他の文献にはない様な記述がある。
これを読むと、小説でのミナの描き方にちょっと違和感を持つ。
まあ、小説は創作物だからいいんだけど・・・

次章は「別れ

あらすじ
教室
143
 3/28
その晩は普段通り家の二階で母のヤマ、娘の英子と三人で食事をしかけたら、階段を上がる音。襖を開けて貫坊が「おばさん」
と経木の包みを開いて見せる。「まあ、まぐろ。どうしたの?」
自分で運命の日よ、武運を祈って頂戴などと言っておいて、と憤慨する貫坊。「ごめんなさいね。いろいろあったものだから」
上首尾だと分かったから、皆で金を出し合って魚殿に頼んだら、問屋から入手してくれたという。それで、今夜だけ皆でお祝いしたいと言う貫坊。決まったも同然、の言葉に同意したのを承諾と受け取り、下宿生の男女各二人が上がって来て膳を並べた。

144 3/29
皆が膳につくと、貫坊が白飯を盛った茶碗を掲げ、
「おばさん、おめでとう」「おめでとう!」と下宿生も唱和。
大ぶりの皿には棹を十きれほどの刺身にしたものが載っている。
ミナは一切れだけ口に入れて、右の子へ皿を渡した。
それは順繰りに回って行った。口腹の喜びは人を饒舌にする。
ミナが師範学校の先生になるというので、塾を閉めてしまうのかと心配する女の子。塾も下宿もこれまで通り、と言うミナ。
山内先生の話では、嘱託の扱いで出勤は週二、三回との事。
貫坊が、府立学校の先生が内職していいのかな、と心配する。
「そんなら月謝をタダにするわ」「賛成だ」皆が笑った。
「冗談じゃないわ!」英子の金切り声で、しんとなった。

145 3/30
「どうしたの、英子」英子は貫坊と同じ十八歳。涙が落ちた娘。
月謝をタダにした後は下宿も間代もタダにする?そんな事をしたら何十人が押し寄せるか、と言う。言葉の綾だと返すミナ。
言葉の綾で何するか分からない人だから言う、と返す英子。
私の身になって考えたことある?と言われ狼狽するミナ。
亡夫・透谷の母ユキの家から引き取って二年近く。大人しいという以上に(影が、薄い)と感じていたが、父親似の細い目の奥に、赤い松明を宿している。機嫌を取る口調になるミナ。
「それは、お前・・お前は英語が嫌いなの?」
以前からあった疑問。英子の身から言えば、まさしく英語のために十三年も親に見放された。だが英子は「馬鹿!」
と言って膳へ箸を投げ出した。

146 3/31
英子は立ったままミナを見下ろす。「本当に分からないの?」
私は小田原で穏やかに暮らしていたのに、急に東京へ連れて来られてキリストの洗礼を受けさせられ、女子学園に毎日通わせられる様になった・・・「小田原にはない学校だわ」痛恨の失言。
「まだわからないの?私は・・ユキお婆様との暮らしの方が幸せだった」「え」絶句するミナ。(お母様のほうが)
「面目ない!」とすっ頓狂な声を上げる貫坊。
自分らが階下で夜更けまでうるさいから落ち着かない。ごめん。
そして「ぱーん」と音を立てて手を合わせ、英子を拝む真似。
「・・・そんな」と小声の英子。そしてミナに向く貫坊。
英子の名は父の透谷史が英語の英を採った、と聞いた話をする。
英語を嫌いなわけがない。「・・・」

147 4/1
返事が出来ないミナの代わりに横の女の子が、毎晩階下でおしゃべりがうるさいと苦言する。貫坊も負けじと、女子だって夜中にしくしく泣くと逆襲。それは先日まで居た三上さん。夢見が悪く、眠りながら泣いていたという。
そんなたわいもない話が解毒剤になり、英子は表情をいくぶん和らげ、しかし口調は鋭く「もういいわ」と言って食事を再開。
他の者も黙って食事。そんな静けさの中で、ミナの頭蓋の内部では轟音の様にさっきの声が響いている。
──私は、ユキお婆様との暮らしのほうが幸せだった。
事もなげな顔をしながらも心の中で(そんなことか)
何かに必死で抗っていた。

148 4/2
姑のユキは、まともな人ではなかった。結婚後のミナは数年の同居で、その言動の数々を間近に見た。一言で言えば──圧政。
家事全般やたばこ屋の切り盛りの有能さはあったが、夫の快蔵や息子の透谷を無能扱いして痛罵。常軌を逸した鋭利さ。
ミナなどは、まだ大事にされた方か。病に伏した透谷に対して痛烈な言葉を投げたユキ。きっと昔からこんな関係だったのだ。
透谷は成長しても自信を持てず、不安の裏返しから自己出張。
それが結局「厭世」なるものに行き着いた。そして実行。
木にぶら下がって揺れる透谷を思い出す。(死因は、母)
あれから十五年を経ても、その思いが頭をよぎる。

149 4/3
ユキは、実の息子の透谷に対してさえ無理解だった。ところが英子は、そんなユキよりミナと暮らす方が不幸せだと言い切った。
(まさか)と同時に(そう言われれば)の思い。ミナ自身も、むしろユキ以上に道を外れた母親ではないのか。
例えば透谷の死因。あれほど躁鬱質になったのは、幼い時両親に置いて行かれたから。両親の快蔵とユキは、生活の糧を得るため祖父母に透谷を預けた。この傷心が彼の死の遠因(又は近因)
そう思いつつ、ミナ自身は英子をユキに預けた。同じこと。
むしろミナは当時の快蔵、ユキよりもっと遠く、長期。
いずれにせよ英子が──見捨てられた。と思わぬ理由は、ない。
その晩の食事は沈黙のまま終わり、大皿に残った二きれの刺身。

150 4/4
翌朝から、ミナは三日間寝込んだ。その後の回復期に豊島師範学校からの通知が来て、正式雇用が決まった。
校舎の完成の都合で、出勤は五月から。
その出勤日に、下宿生たちが門柱に日の丸を掲げた。
そして皆で万歳をした。慌てて抑えるミナ。貫坊との言い合い。
「あ、そうだ」と貫坊が家に戻り、英子を引っ張り出した。
嫌がる英子。「私はいいって、離してちょうだい」
貫坊は無理やり軒の外に出して、ミナの前に立たせた。

151 4/5
立ったまま顔を合わせる母と娘。あの夕食から一か月以上、二人はほとんど口をきかず。「・・・」「・・・」
「英子」と口を開くミナ。「なあに」
あなたと、あなたのお父さんの事を、一日だって忘れた事はないと話すミナ。「わかってるわ」
そう言って庇髪をゆらし、家の中に駆けて行った英子。
「ごめん」と言った貫坊の言葉。
「感謝してるわ。さあさ、行くわよ」足を踏み出すミナ。

152 4/6
ミナが学校に着いたのは、始業の一時間前。以前建てかけだった校舎はすっかり出来上がっていた。「・・・悪くないわね」
職員室に入ると、既に数人の教師が。喫煙者もおり、においが部屋に充満。喫煙習慣のないミナには芳香とは言えず。
入り口で立ちつくしていると「北村先生」「あ、はい」
山内太一と挨拶された。先日の手助けに感謝したミナ。
まだ二十代ではないか。数学を教えているという。ミナの机を指指された。何冊か、英語の教科書が置かれている。
校長は?と訊くと、来たら教えてくれるとのこと。

153 4/7
ミナが自席で教科書を見ていると山内が、校長が来たと言って呼びに来た。校長室に向かう途中で、大束校長の話をする山内。
茨城県の生まれで、東京師範学校を卒業後各地の小学校で勤め、三十代で校長となり、七年勤めた後栄転で辞める時、生徒に撤回を求められたという。「慕われてたんですね」とミナ。
校長室に入ると、大束校長は作業の手を止め、辞令を出し読み上げてミナに渡した。「所信を聞こう」と言う校長。
この仕事は多分私の天職だと言ったミナ。長い人生の道のりだったが、やっと着くべきところに着いた。

154 4/8
そうであるなら、肝心なのは最初の授業だと言う大束校長。
最初の授業の第一声で、その人の、生徒たちへの接し方が決まるという。同意を求められ、何度も首肯する山内。実感がある。
十分考えるよう勧める校長は、ミナを紅一点と言っておきながら、この言葉に違和感があると言った。もっと世に現れて、その言葉自体が古語になればいいと続けた。
彼が、前回会った時も女教師に肯定的だったのを思い出すミナ。
校長に、年齢を重ねていると聞いて五十四だと知ると、その年齢にして柔軟な思考なのはなぜかと問うた。
「・・・褒めてるのかね?」「心から」

155 4/9
婦人問題に対して共感している様に見えるとしたら、雑誌のせいだろうと言う大束校長。それが『女学雑誌』「あっ!」
ミナは、口に手をあてた。実に久しぶりにその名を聞いた。
男女平等、女権拡張を旨とした、亡き夫と関係深かった雑誌。
戦略を以って、あっぱれ掲載となった「厭世詩家と女性」
透谷はあれで多忙になり、家庭内の問題は起こしつつも充実。
脳裏に透谷の笑顔が浮かんで、鼻の奥がつんとした。
当時三十代で東京府高等女学院勤務だったので、毎号目を通し、「厭世詩家と女性」もよく覚えているという。冒頭の一文
「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり」を聞いて、ミナは自分が褒められた様に首をすくめた。

156 4/10
大束校長はしばし透谷の投稿の話を続け、ミナを労わった。
校長の気づかいもありがたいが、俄かに心象が大きくなった。
自分が今ここにいるのは、透谷が寄稿した雑誌を大束という教育界の志士が読み影響を受け、その結果ミナという免許を持たぬ教師が生まれたから。ならば、この円環は何によって完成するか。
ミナは言った。「私、この仕事につくします。夫のように」
校長が驚くが、透谷が一時、三田の普連土女学校で英語を教えたことを話すミナ。そろそろ授業だと口を挟む山内。
緊張したら、窓を見たら富士山が見える、と助言した校長。
ミナは一礼し、山内と共に校長室を出た。

157 4/11
ミナが職員室に戻る時、小使が鳴らす予鈴の鐘が聞こえた。
教科書と、家で用意したノートブックを抱えて職員室を出た。
「第一声、第一声」と念仏の様に唱える。それで生徒らへの接し方が決まるという。具体的な語句が思いつかず、教室に着いた。
本鈴の音と共に扉を開け、中に入った。前には教壇がある。
ミナはそこに乗り、生徒のほうを向いて背すじを伸ばした。

158  4/12
教壇に立つのは(生まれて、はじめて)ミナはそれに気づいた。
我ながら意外だった。今までの教えの場は日本家屋であり、畳の上で正座してのこと。新鮮な、甘酸っぱい感じがする。
彼らはみな机上にノートブックと筆記用具を出している。
皆の顔を見ながら、この風景に(生涯を、捧げる)との思い。
ただそうなると学校で過ごす時間は増える。塾もやめる気はない。他へ向ける時間は少なくなる、(お母様、英子。ごめん)
四十人あまりの真摯な視線が集まる。結局第一声は思いつかず。
つとめて柔らかな調子で、とりあえず「皆さん」
呼びかけた瞬間、どっと笑いが起きた。(えっ)
隣席の友と肩まで叩き合う。何が起きたか、わからない。

159  4/13
教室内は笑いが続く。理解出来ないミナだったが、誰かが、
「いい洒落を」その声で、ようやく分かった。
前もって名を知っていたその「ミナ」が「皆さん」と言ったのを言葉遊びと受け取った。(ばか)
頬の肌が過熱した。「お黙りなさい!」しんとなった。
徽章の由来 撫子の話をし、こんな事で自分を軽くするとは何事か、と。その第一声のあと、ミナは授業の方針を述べた。
これからの英語は聞き、話すのも大事であり、それを考慮すること。その後自身の留学時の逸話をいくつか語った所で終鈴が鳴った。「では」と教室をあとにしたミナ。
優しい声どころではなかった。興奮のせいか自己反省はなし。
校長室で顛末を報告したら、校長は「富士山は見たかね」「あ」
「だと思ったよ。ま、気楽にやりたまえ」