MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

トランプ大統領の強権的で、しかも予見不能な言動に世界が翻弄されるなか、次なる標的と見なされ、注目されているキューバ。

そのキューバは、国として観たとき、確かに〈米国の理不尽な経済封鎖の被害者〉ですが、国民の立場からすると、さらに〈自国政府の被害者〉でもある、という二重苦を負っている面があります。

 

「2頭の象が争うとき傷つくのは草」という諺が引用されたキューバ人の投稿をこの春FBで見た時、私は改めてこの諺の意味を理解した気がしました。

長引く停電、不足する水・食料・医薬品、交通マヒ、収集されないゴミの山、崩壊の危険のある住居…

 

キューバについて語られるとき、私がいつも失望感を覚えるのは、〈争う象〉の話ばかりで、その足元で踏みにじられる〈草たち〉の痛みや叫びが十分に伝わってこないから…。

キューバ政府を正当化すればするほど、足元の国民の苦難は軽んじられてしまうのです。

 

でも、こちらの新刊書からは、象と草をつなぐ手がかりとなる要素を所どころに感じました。

 

『危機のキューバ 崩れゆく「陽気なキューバ」 

 平田健治(元駐キューバ大使)著 明石書店  

   

 

本書の執筆者、平田健治氏は、2021年から‘24年まで約3年に渡り駐キューバ大使を務めた方。

コロナ禍に赴任され、市民生活の窮状を身をもって体験し、しかも幅広い層のキューバ人の声を拾ったうえで、様々な事象を歴史的に掘り下げ、統計的に分析し、親切な図解も交えて、分かり易く解説してくれています。

 

また、各章の終わりに挟まれた15のコラムでは、歴史的事項が現地の訪問記(豊富な写真入り!)を交えて語られていて、身近に感じられます。

ちなみに、『低開発の記憶』がきっかけでキューバ映画にはまった私は、「ミサイル危機」のコラムから読み始めました。

 

さらに、平田氏はマイアミで総領事を務めた経験もあり、《マイアミのキューバ》と米国政治との関係についても考察されています。

 

本書を読んだ方には、〈キューバ映画の声〉が届きやすくなる気がして、心強く感じると同時に、拙ブログにとっても必要不可欠な事柄の解説が満載でありがたいです。

 

あ、そうだ! 平田氏には私のお薦めキューバ映画をぜひ見て欲しいなぁ。

きっと思い当たるエピソードがたくさん出てくることでしょう(笑)。そんな話も聞いてみたい。

先月始め、トランプ政権を最も率直に批判してきたという、歌手のブルース・スプリングスティーンが「批判的愛国心」を唱える記事を読み、「キューバ映画の精神と同じ」だと思うと同時に、今の日本人に最も求められていると訴えたい。

 

ブルース・スプリングスティーン氏の主張

国を愛することは、国の欠点とも向き合うこと。「批判的愛国心」こそが、愛国者の定義であり、国を深く愛しているからこそ、その現状をありのままに見つめることができる。

真の愛国者こそ自国の欠点を認識すべきであり、国をより良くするよう促し、理想の祖国を常に心に抱き続けるべきだ。

 

この彼の発言の〈愛国者〉という言葉を〈革命家〉に言い換えると、キューバ映画の主張や、現在「変化」を求めるキューバ国民の主張として捉えることができるのでは?

以下は、キューバ映画人のなかで最も重要視されている故トマス・グティエレス・アレア監督の意見。

私は常に批評的(批判的)態度を保持してきた。社会主義の悪いところにチョッカイを出す。「社会主義のシナリオは完ぺきだが、演出にはまだまだ改良の余地がある」という言葉があるが、全く同感だ。だからこそ批判の対象にすべきなのだ。改良への最上の方法だからだ。

 

今この時に映画について話すなら、我々の映画は娯楽であることを基本としたうえで、現実に対する態度や意見を採択する必要がある。現実を批評すると同時に批評される対象となるべきだ。

あらゆる発展のプロセスの根本にあるのは批評(批判)だと私は思う。社会が発展するための唯一の方法は、問題に対し批評的意識をもつことだ。

社会の汚点を隠ぺいするゲームに陥ると、問題は持ち越されてしまう。それは我々に起き得る最悪の事態だ。

キューバは90マイル先の米国と極度の緊張関係にある島国だ。そのせいで「我々の現実を批判することは、敵に武器を与えることだ」と抗議する人が数多くいる。率直に言って私はそうは思わない。批評行為には様々なやり方があり、外からもできるし、中からもできる。敵が我々を批判するのは、我々を潰すためだ。しかし我々が自分たちの現実を批判するのは真逆で、現実をより良くするためなのだ。その態度を受け入れ、批評行為の必要性を意識したとき、今度は自分も批評され、返答される対象であることをわきまえねばならない。

対立があり、争いがあり、最良の場合には対話がある。それは我々に起き得る最も健全なものだと思う。容易ではなかった。理解してくれる人は多くはない。大抵の人は立てこもるか、さもなくば力を行使して批判行為を止めさせようとする。

 

Marysolより

キューバ映画の批評精神を通してキューバを観てきた私には、今の日本が〈キューバに似てきている〉気がして、心配でなりません。だからこそ、「批判的愛国心」の大切さを訴え、表明していきたいと思っています。

 

ちなみに7月1日にセントロ・ハバナで停電に〈カセロラッソ=鍋やふたを叩きながら行う抗議デモ〉に参加した青年が逮捕されたとき、フェルナンド・ペレス監督は、次のようなビデオメッセージをネットで流しました。

「停電の最中、レオナルド・ロメロという若者が逮捕されたという知らせを受けとった。彼は、この国の多くの若者同様、(国の)建設に参加したい、多くのことを変えたいという思いを表明し、逮捕された。彼は刑務所にいるべきではない、と私は思う。多くの若者たちが、意見を聴いてもらえず、参加できない状態が続く間に、キューバは崩壊し、私たちが夢見るキューバではなくなる」

参照:https://www.cibercuba.com/v1/noticias/2026-07-03-u1-e42839-s27061-nid334036-fernando-perez-alza-voz-leonardo-romero-mientras?utm_medium=aryshr&utm_source=facebook&utm_campaign=cibercuba_noticias_cmts

 

公式サイト:映画『大統領のケーキ』公式サイト|7.10(金)新宿ピカデリーほか全国公開

 

イラクと聞いて思い浮かぶのは、もう40年も前の「イラン・イラク戦争」やフセイン大統領くらいで、あとは砂漠のイメージ。

未知の世界への興味と作品の高評価に背中を押され観に行ったところ、いきなり水上生活の光景が展開し、びっくり!

しかも現代文明とは無縁のような暮らしぶり。

目を丸くしているうちに、本題の〈フセイン大統領の誕生日を国中で祝う〉30年前のイラクにタイムスリップ。

 

主人公の少女ラミアは9才で、祖母とふたり暮らし。クラスのくじ引きでフセイン大統領の誕生日を祝うケーキを用意する役目に当たってしまう。

 

国連の経済制裁による物不足、戦時下の混乱、独裁政権の抑圧的体制という、踏んだり蹴ったりの状況のなか、ケーキの材料を求めて四苦八苦しながら奮闘し、走り続けるラミアと仲良しの少年サイード+雄鶏のヒンディ🐓

衝撃のラストのあとには、イラクのことをもっと知りたくなっていて、プログラムを買いました(笑)

 

ストーリーはもちろん、次々と展開する場面と共に多様なイラクの側面、喜怒哀楽、音楽にも触れることができ、印象深い映画体験になりました。

 

最後にもうひと言

本作を通して、ぜひ〈独裁体制への違和感や不条理、抑圧感〉を感じて欲しい。

敗戦前の軍国主義下の日本も同じ空気が支配していたと思われるし、今またそんな時代に逆行しつつあると感じるので。

今享受している自由を権力者に奪われてはならないと。

キューバの人は、この映画を観てどう感じるかなぁ?意見を訊いてみたい。

ニコラス・ギジェン=ランドリアン (1938~2003)

  

本名:Nicolás Marcial Guillén Landrián

1938年6月30日 カマグエイ生まれ ~ 2003年7月21日、マイアミにて逝去(享年65歳)

映画監督のほか、画家、詩人、ラジオのアナウンサーの肩書をもつ。

不遇時代には、公園の管理人、道路清掃夫

叔父はキューバを代表する詩人、ニコラス・ギジェン

 

大学入学前に、カマグエイで仲間と映画を撮ろうとしたが、編集機材がないため未完に終わる。

サン・アレハンドロ美術学校附属に通った後、外交官養成学校で学び、そこでファン・カルロス・タビオと知り合うが、二人とも奔放過ぎて放校処分となる。

 

1962年、当時の妻(女優)の勧めで、ファン・カルロス・タビオを介し、映画芸術産業庁(以下、ICAIC)に応募し、採用される。ヨリス・イヴェンスやテオドール・クリステンセンに師事。

1962年 

  Homenaje a Picasso フィルム紛失 

  Enciclopedia Popular No. 18: Congos reales フィルム紛失

  Enciclopedia Popular No. 27: Patio arenero フィルム紛失

1963年 

  Un festival

  En un barrio viejo (古い街で) クラクフ映画祭で審査員賞を受賞 

  El morro  フィルム紛失

1964年 

  Rita Montaner  フィルム紛失

1965年

  Ociel del Toa(トーア川のオシエル)

  Los del baile (踊る人々)

1966年 

  Reportaje(ルポルタージュ)

  Retornar a Baracoa(再びバラコアへ)

 

このあとイデオロギー上の問題で逮捕され、ピノス島の農場で労働に従事させられる。

そこで統合失調症が再発し、ハバナの精神病院に移送され、初めて電気ショックにかけられる。

その影響は、その後の作品に反映している(エルネスト・ダラナス監督)。

釈放後、ICAICに戻り『コフィア・アラビカ』(1968年)を撮る。

同作品は、ICAICでは好評で何も問題にならなかったが、フィデルを含め政府高官のなかに問題視する声あり。

 

1968年 

  Coffea Arábiga(コフィア・アラビカ)

1969年 

  Expo Maquinaria Pabellón Cuba  フィルム紛失

1971年

  Desde La Habana ¡1969! Recordar

  Taller de Línea y 18      

1972年

  Nosotros en el Cuyaguateje

  El son フィルム紛失

  Para construir una casa

  Un reportaje sobre el Puerto Pesquero

 

以上、19本の短編ドキュメンタリーをICAICで撮る(内7本は紛失)。

詩的で実験的な作風、懐疑的もしくは大胆で挑発的な姿勢が特徴

※ 邦題は2011年度 山形国際映画祭上映時のタイトル

 

1973年、ICAICを追放される。

 

逮捕歴

バティスタ政権下でも逮捕歴があったが、革命政権下でも、その自由で奇抜な言動や外国人女性との結婚、マリファナの使用などが警察の取り締まりの対象となり、逮捕・釈放を繰り返す。また、「フィデル・カストロ暗殺未遂」で危険人物に指定される。この嫌疑については、彼が提案した劇映画の本の〈ある善人が国の指導者を暗殺したがる内容〉が証拠とされた、と本人は語っている。

こうした状況のなか、彼の出国を求める(不都合な声を排斥する)声もあり、

 

1989年 妻のグレーテル・アルフォンソとキューバを去り、11月末よりマイアミに住む。

 

2001年 Inside Downtown  ホルヘ・エスキサと共作

 

2003年、癌のためマイアミの病院にて死亡。

本人の希望により、ハバナのコロン墓地に埋葬される。

 

★キューバでは彼の作品は長らく封印されていたが、2003年の「第二回若手映画人作品上映会(Muestra de Jóvenes Realizadores)」で上映されたのを機に再発見・再評価へと繋がっている。

 

未亡人となられたグレーテル・アルフォンソ夫人。

2013年のハバナ映画祭で“Retornar a La Habana con Guillén Landrián”がUNEACで上映されたとき、登壇してトークをなさいました。話し方も外見も優雅な方でした。

 

拙ブログ関連記事:没後20年、蘇るニコラス・ギジェン・ランドリアン監督 | MARYSOL のキューバ映画修行

 

 

数日前、フェイスブックで〈ニコラス・ギジェン・ランドリアン監督の最後のインタビュー〉が紹介されており、読んでみると、彼の作品や人生を知るうえで貴重な内容でした。

Lara Petusky Coger & Alejandro Ríos & Manuel Zayas: Entrevista a Nicolás Guillén Landrián / El cine postergado - Incubadora

 

ちなみに、ギジェン・ランドリアン監督は、1962年にICAICに入所し、18本のドキュメンタリー作品を撮ったものの、1972年にICAICを追放され、1989年に妻と共にマイアミに移住。2003年7月22日に同地で逝去した。上のインタビューはその2ヵ月前に行われたとのこと。

 

今回はそのなかでも“En un barrio viejo”(以下、邦題『古い街で』)という1963年度の作品に焦点を当て、まず監督自身の証言①と、同作の撮影助手のウンベルト・ロペス氏の執筆記事②を紹介し、最後に『古い街で』の紹介③をします。

( )や下線はMarysolが加えました。

 

    

 

① N.G.ランドリアン監督の証言

ICAICでは、あらゆる時代のドキュメンタリー映画を見ることができた。そのうえ、誰もがアバンギャルドな映画を撮ろうとしていた。新しい映画話法を模索していたのは、私だけでなく、全員だった。私は良く思われないようなこと(反発を招きそうなこと)を敢えてしようとした。なぜなら、当時はユーフォリア(幸福感)に包まれた国民についての映画でなければならなかったが、私はそれを共有していなかったからだ。

 

フィデル・カストロは、『古い街で』 のプレミア上映で「おやおや、この映画はまるでフランス人が撮ったみたいだな」と言った。あの時代にその言葉が意味することを想像してほしい。私をICAICから追放したのは、フィデル・カストロだと確信している。誓っても良い。

 

② ウンベルト・ロペスの証言(1999年11月15日付けのウェブ記事、CUBA HOYより要約)

あの晩、ICAICの2階の映写室は満員だった。ティトン(注:トマス・グティエレス・アレア監督の愛称)は最前列に座っていた。あの夜の映画討論会はいつもと違い、もっと複雑でデリケートなものだった。ニコラス・ギジェン・ランドリアンの『古い街角で』を上映すべきか否かを討議することになっていたからだ。(皆で討議する)集団的検閲は、5階から禁止を宣告されるよりは“民主的”だった。

 

ニコラシート(ギジェン・ランドリアン監督の愛称)は、その長い足を伸ばしていたが、やや緊張した様子だった。私は本作のカメラマン、リビオ・デルガードの見習い助手として撮影に参加した。すでに撮影中から、我々には「問題作となるドキュメンタリーを撮っている」という確信と怖れが生じていた。革命の存在を強調することなく、暗いハバナ旧市街の生活を詩的に撮る、それは、少なくとも当時の政治的指導者たちやICAIC幹部にとって好ましいテーマではなかった。『P.M.事件』の亡霊は、まだICAICの廊下を彷徨っていた。

 

私にとって本作は、クリエーターとしての仕事において何度もインスピレーションを与えてくれ、生涯を共にする経験になった。何か重要なことをしているという予感、先験的であると同時に禁断的、扇動的とも言えることをしている感覚。アーティストとして自分が欲し、感じていることのために闘うことを学ぶ、偉大な場になった。あの晩、“重要な闘い”が展開しようとしていた。それでも我々は心強く感じていた。ティトンは我々の味方だ。

 

当時、ティトンは精神的父親、芸術的代父のような存在だった。それは、ニコラシートだけでなく、サリータ・ゴメスやファン・カルロス・タビオにとってもそうだったし、その後のセルヒオ・ヒラルやその他の若い映画人にとってもそうだった。我々全員(ICAIC第一世代)が最も尊敬し、愛し、信頼する映画人だった。

社会主義や社会主義リアリズムが救い得なかった、すべての苦悩する魂の守護者。ニコラシートは「我らの母、フアナ・デ・ロス・マタデロス」と呼んでいた。

 

あの夜、撮影とポストプロダクションを終え、待ち時間や不安、焦燥感に苛まれた後、おそらくこの作品の運命、そしてある意味では、逆風の中で働き続けてきた私たち自身の当面の運命も決まるはずだった。

 

あれから長い年月が経ち、記憶違いや混乱があるかもしれないが、はっきり覚えていることがある。それは、『古い街で』に対するティトンの素晴らしい弁護だ。この晩も彼は毅然として、ドグマティズムを前に芸術的創造を擁護し、プロパガンダ映画に対して質の高い映画を守った。

あの冷静で、思慮深く、内気な男が、我々の猛々しい弁護人になり、本作に対する批判に対し、説得力のある論旨をもって反駁し撃破した。

 

数時間後、討論が終わり、我々はICAICの角のカフェでビールを飲み、タバコを吸っていた。バービィ(注:当時のティトンの妻)が迎えに来て、彼はいつものように背を向けたまま、右手を振りながら帰って行った。「もうこの件について話す必要はない。やるべきことがまだたくさんある」と言うかのように。

 

我々、ニコラシート、リビオ、サリータ、オスカル・バルデスほか皆は、話をやめず、眠そうなウェイターたちに追い出されるまで、いつものように議論を続けた。

数週間後、『古い街で』の最初のコピー数本が現像所を出た。

 

③『古い街で』/原題:En un barrio viejo/1963年/9分/モノクロ

以下、En un barrio viejo (1963) – Portal ENDACより引用

 

監督・脚本:ニコラス・ギジェン・ランドリアン

撮影:リビオ・デルガード

 

シノプシス 

ICAICのニュース映画として製作された短編ドキュメンタリーだが、当時のキューバのドキュメンタリー映画の慣例から脱却しようと、監督は初めて型破りなスタイルを実践している。当時ICAICに所属していた批評家マリオ・ロドリゲス・アレマンいわく「ギジェンは明確な社会的目標を掲げてはいないが、批判することなく、今なお実在する強烈な一角に視点を当てている」。

 

 

ニコラス・ギジェン・ランドリアン監督の声明 

私は64年間、物心ついた頃からずっと、名前と姓のせいで、排斥されて生きてきた。想像してみてほしい。国際映画祭に私の映画が出品されても、私自身は一度も出席したことがないのだ。なぜなら、私がキューバ映画を代表できるという認識をICAICの幹部がもっていなかったからだ。というのも、とんでもないことに、かつて誰かが私の映画をフランス風だと評したから、らしい。

事の起こりは『古い街で』の時で、臆病な責任者たちは皆、同意してしまった。『古い街で』は、ポーランドのクラクフで審査員特別賞を、フランスのトゥルーズではオペラ・プリマ賞を受賞した。私のキューバ映画界でのキャリアは、悪いスタートを切り、悪い形で閉じた。この経験により、私は排斥を最悪のものと考える。

 

フリオ・ガルシア・エスピノサ監督のコメント 

『古い街で』の長所のひとつが、リビオ・デルガードという新しいカメラマンの存在を知らしめたことだ。本作は、単純な説教調からはほど遠く、古い街の時が中断した雰囲気を詩情を交えて精密に映し出しているが、最後に、過去と現在の葛藤もしくは共存を示す弁証法的な編集により(その雰囲気は)壊される。だが、古い街への一種のノスタルジックな視点に固執したせいで、本作の強度が削がれた。まるで田舎のボイオ(粗末な小屋)の老朽化し、哀れなうえに硬直した表情を、いにしえの観光客たちが慰みものにしつつ己の感性を養っていたときと同じだ。

 

Marysolより補足など

まず、シノプシスにある「型破りなスタイル」とは、インタビューを使用せず、映像のみで表現したことを指しています。

また、ギジェン・ランドリアン監督が「名前と姓のせいで排斥されて生きてきた」と言った背景には、ニコラス・ギジェンという名の有名な詩人を叔父にもっていたため、混同を避けるため、ICAICでは〈ギジェン・ランドリアン〉としかクレジットされなかった事実があります。

 

ウンベルト・ロペスの執筆記事は、私が26年前にプリントアウトして保存しておいた記事で、もうウェブ上には存在しません。

いつか紹介したいと思っていたのですが、ようやくチャンスが訪れました。 

そして、この機に初めてウンベルト・ロペス氏のことを検索してみたら、ご存命であること、60年代後半、自身のドキュメンタリー作品2本が検閲で禁止されたこと、69年にキューバを去ったことなどが判明しました。東ドイツを経て、スウェーデンで活躍している様子(映画界は引退し、今は作家として活動中)。

フィルモグラフィの中にCastro’s Cubaというドキュメンタリーがあったので、観てみたい。

 

『古い街で』を改めて観て、アレア監督の『低開発の記憶』との関連(街や人々が反映する変化と残存する過去など)に気付かされました。

また、本作にまつわるエピソードを通して、改めて〈フィデルとティトンの視線が同じではないこと〉を確認しました。

 

拙ブログ関連記事:没後20年、蘇るニコラス・ギジェン・ランドリアン監督 | MARYSOL のキューバ映画修行

 

追記(6月30日)

冒頭で紹介したURL=N.G.ランドリアン最後のインタビューは、2011年に開催された山形国際ドキュメンタリー映画祭のカタログに全訳されていました。

  

 

追記(7月3日)

『古い街で』を始め、N.ギジェン・ランドリアン監督の5作品の撮影を担当したリビオ・デルガードの証言(2013年)

 

       

 

ニコラスG.ランドリアンとの出会い

出会いは61年、私がICAICに入所した頃。ニコラスは時代を先取りしたヒッピーで、他の人とは全く違っていた。「映画監督の悪党」か「悪党の映画監督」といったところだった。というのも、金を貸すと二度と返ってこなかったから(笑)。黒人で声がすごく大きくて、映画に対し、ずば抜けた天性の直観をもっていた。最初の瞬間から、彼には独自の作風、スタイルがあることが伺えた。そのベース無しには話にならない。また、その素晴らしい直感力に加え、いとも容易く人々に受け入れられる素質があった。笑い声が良くて、しわくちゃのスーツに、ベトナム人が履いていた自動車用ゴム製のサンダルを履いていた。63~64年当時、そんなサンダルは見た事がなかった。 最初のドキュメンタリー『古い街角で』の撮影でも履いて歩いていたことは忘れがたい。

 

静止画のようなカメラワークの意味について

それは個人へのオマージュだ。その人物は仕事をしている必要はなく、ただ静止してカメラを見つめている。これは当時使われていなかった手法だった。ニコラスは映画の表現様式を大きく変えた。当初は「なぜあの人たちはカメラを見つめているのか?」と疑問を投げかけられたり、批判する人もいたが、ニコラスはこう言った。「カメラを見つめているからって、何が問題なんだ? 皆さん、そんなくだらない考えは頭から追い出して、ありのままの自分でありなさい。それがすべての根本なんだ」。

 

当時のICAICと反応

 ICAICには素晴らしい取り組みがあった。毎週金曜日に、監督、撮影監督、編集者、プロデューサーを全員召集し、制作されたすべての作品を鑑賞することが義務付けられていた。そこで誰もが意見を述べることができ、実に並外れた自由があった。求められる質に達せず、保管されたまま、上映されなかった作品も数多くあった。

 

『古い街角で』が上映されたときの衝撃はものすごかった。制作はシンプルで、3日間手持ちカメラで自由に街を歩き回りながら撮影しただけなのに、非常に完成度の高いドキュメンタリーだったからだ。

 

ICAICの副所長だったフリオ・ガルシア・エスピノサは、才能のある者を積極的に押し上げ、ない者には辛抱強く接していた。6ヶ月契約だったから、半年が過ぎると、才能を示せなかった者たちとの契約は切られた。 ドキュメンタリーが完成した時、フリオはニコラスに言った。「おい、これは素晴らしいぞ」。当時、ニコラスとフリオの間には非常に強い友情があった。

 

ICAICの所長アルフレド・ゲバラは別格の存在で、まさに“将軍”のような人物だった。多大な敬意が払われており、非常に無愛想だったが、フリオは正反対で、 絶妙なコンビだった。一方は権力と法そのもの。もう一方は皆から慕われ、「演劇界のルンベロ(ルンバのダンサー)」と呼ばれていた。『古い街で』を通して、フリオは私の存在に気づいてくれた。彼が振り返って、誰が作ったのかと尋ねてきたのを覚えている。

久しぶりの投稿は、キューバの話題ではなく、個人的な旅の報告。

 

5月18日から29日までバルセロナとその近郊にいました。

バルセロナへは、1977年のスペイン留学時代から、1996年、2016年、そして今年と4回訪れていますが、いつ行っても新鮮でワクワクします。

 

ただ、これまでと違い、今回の旅には目的がありました。

それは、バルセロナから車で1時間半ほどの小さな町、イバルス=Ivars d‘Urgellで毎年開催されている「日本文化祭り」こと“MATSURI DE PONENT”に参加すること。

✅ FESTIVAL JAPONÈS A LES TERRES DE LLEIDA - Matsuri de Ponent

 

というのも、このMATSURIの主催者ジェニス・カステリョ氏の(そば打ちの)師匠であるY氏(長野県松本市在住)は大学時代の同級生で、ジェニスさんが「日本のマンガと食の力を借りて町起こしをしたい」と故郷で始めたMATSURIを手弁当で毎年手伝っており、いつか参加してみたいと思っていたから。

 

今年は初めて「おにぎりを作って売る」ということで、私たち3名の元同級生が日本の美味しいお米を分担してスーツケースに入れ、現地で6種類、200個以上のおにぎりを作り、めでたく完売しました!

 

以下、写真での報告です。

 

2026年5月23日(土曜) 

第5回日本文化祭り・MATSURI DE PONENT @Ivars d’Urugell(イバルス・ドゥルジェイ町)

   

 

 

近くに湖があるせいか、鳥がたくさんいて、街のあちこちに鳥の壁画がある。

 

     

主催者のジェニスさんは、子供の頃「ドラゴンボール」を見て、日本ファンになったとか。

 

 

 

 

大学時代の仲間(右端が蕎麦打ちマエストロのY氏)    

 

          

           ハチ公がいました!

 

   

 

    

    右から主催者のジェニスさん、マエストロ・デ・ソバの山崎氏、イグナシさん

    スクリーンで山崎氏の後ろに映っているのがロマさん(みんな山崎氏のお弟子さん!)

 

祭りのオープニングでは、交流のある長野県大町市とネットで結んで「信州そば切り音頭(介護予防体操編)」を一緒に踊りました。

スペインの太鼓チームの方々が、振りもリズムも完璧に踊っていて感心!

イバルス町では、スクリーンに映る大町市の人々の姿を見て盛り上がっていました。

 

お祭りには、バルセロナ日本総領事やイバルスの町長も参加なさいました。

日本からは、私たちのほか、横浜スペイン協会会長夫妻や会員さんが参加し、桜の植樹をなさったほか、一緒におにぎりも作りました。

 

もちろん他にも近隣に住む日本人や地元の方々が、飲食や小物など様々な店を出したり、パフォーマンスを披露したりして、来場者を楽しませていた一方、来場者の装いも日本風な工夫をこらしていたりして、何かと目を引かれました。

日本の食や文化が愛されていることが実感でき、嬉しかったし、貴重な体験となりました。

 

MATSURIのインスタグラムも見てください。https://www.instagram.com/matsuriponent/

 

「フィデルとティトン、同じ視線をもつ二人」と題する展示が、去る16日(アレア監督の命日)から〈ティトンとミルタの家〉@ハバナ・ビエハで始まりました。

注:ティトンとは、故トマス・グティエレス・アレア監督の愛称

 

      

 

最初にこのタイトルを見た時、私は「同じ視線」という言葉に違和感を覚えたのですが、ミルタ・イバラ夫人が開幕式のアナウンスをしている映像を見て、「もしかしてプラヤ・ヒロンのドキュメンタリーのことを指しているのかも」と考え直したものの…

 

やはり疑問を感じた人は多かったようで、オルランド・ロハス監督(今はカリフォルニア在住)は早速自身のFBに「異議申し立て」を投稿。すぐにシェアされたおかげで、私も読めたうえに、彼の投稿に寄せられた多くのコメントを通して、70年代末以降のICAICの様子や秘話を知ることもできました。

というわけで、キューバ映画解読の参考に、それらを以下に書き留めておきます。

 

尚、ロハス監督とアレア監督の交流は、『天国の晩餐』(1978年)の助監督をロハスが務めたときに遡り、以後アレアの晩年までずっと「知的で深い共感に基づく対話」を重ねてきたとのこと。よって彼の主張は、その20年に及ぶ経験に基づいています。

 

① 結論:「フィデルとティトンの間に倫理的あるいは政治的な類似性を裏付ける手掛かりは一つも見つからない」。

 

*「ティトンがバティスタ政権が象徴する不平等と民主主義への侵害を一掃する革命を信じていた」ように、「フィデルもティトンも現実を変えようとする意志は共通だった」。

だが、やがて二人は「革命後のキューバの変容する現実を、正反対の視点から解釈することになる」。しかも「同胞の人間の向上に視線を向け続けたのはアレア監督だけだった」。

 

*アレアの伝説的発言:「フィデルの革命は良い脚本だったが、ひどい映画だ」

 

*「キューバの“大作”が悲劇的な失敗に終わったのは、対外的な封鎖や干渉を超えたところ、その“監督”の傲慢で頑固な“視線”によるものであった。彼と同様に、その作品が向けられる観客、すなわちキューバ国民のニーズに耳を貸さない“制作チーム”に支えられていたからだ」。

 

*「イタリアのピエトロ・ジェルミ監督作品のタイトル『誘惑されて棄てられて』は、我が国とその大多数の国民が直面する現実を予言することになった。キューバは、フィデル・カストロによって誘惑され、見捨てられたのである」。

 

*「ミルタ・イバラ夫人だけがティトンの未亡人ではない。すべての映画監督、すべてのキューバ人アーティスト、そして、尊厳と真実こそが我々の物語に不可欠な要素であるべきだと信じる全ての人々が、次第に未亡人になっていった」。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・

以下は補足的要素

② ロハスにとってのアレアの存在

*ティトンの最大の美徳は誠実さ。思ったことを口にし、それに従って行動した。便宜主義に陥らなかった。

*最高指導者を批判する発言にも、無邪気な幻想に浸って最高指導者の責任を免罪しようとする人たちの言葉にも同調することなく耳を傾け、人を欺いたり、追いやったりすることは決してなかった。

*1995年6月にロハスの3作目の映画『Cerrado por reformas』がアルフレド・ゲバラによって検閲された際、連帯の支援を寄せてくれた。

*ICAICの枠組みの中だけでなく、それに逆らった映画人に対しても、躊躇なく彼らを擁護した英雄。

 

③(私にとっての)新事実

*1991年4月、『(仮)不思議の村のアリス』が検閲された後、ラジオ・テレビ局との合併(=革命指導部の支配下に屈すること)を阻止するため、アレアを先頭にICAICの映画監督18人が数週間に渡りストライキをした。

拙ブログ関連記事:映画『(仮)不思議の村のアリシア』(1990年)の騒動・背景・余波 | MARYSOL のキューバ映画修行

 

Marysolより

 ロハス監督の投稿は、共感したり、切なかったり、新情報があったり、貴重な内容でしたが、コメント欄にも、アレアの娘さんや、撮影監督を務めたガルシア・ホヤ氏の娘(AGF)さん、キューバ映画人たちなどの声が寄せられていて、興味深く読むと共に、学びがありました。

 例えばAGFさんの「ティトンと彼の仲間たちは体制からサボタージュされていた」という指摘は意外でした!

 アレアの遺作『グアンタナメラ』に出演した俳優は「同作をフィデルがテレビで30分以上に渡り批判した」と書いていました(実際にはフィデルは作品を観ていなかったそうです)が、私もあの映画のあのシーンを覚えているからこそ、ティトンの視線がフィデルと重なるとは絶対に思えません。尚、『グアンタナメラ』について、ロハスは「ラウル・カストロと常に好戦的な革命指導部によって仕組まれた攻撃を避けるために、再び戦線に戻ったあの恐ろしい日々も決して忘れることはない」と記していますが、詳細は不明。

 

 あと「アレアの伝説的発言」ですが、「革命は脚本は良かったが、演出がひどい」という説もあります。

 

付録:オルランド・ロハスの代表作『ダビドの花嫁』

トランプ大統領がイランの次に介入を予告し、ベネズエラからの石油供給も止められ危機的状況にあるなど、キューバへの関心が高まっています。

 

昨夜のNHKクローズアップ現代も、キューバを中心に現状報告や今後の動向の分析がされていましたが、ゲストで出演された元駐キューバ大使の渡邊優(まさる)氏のさらに充実した解説がYoutubeの「文藝春秋PLUS 公式チャンネル」で聞けるのでご紹介します。

安定した語り口で、論点から逸れることなく話されるので、落ち着いて聞けます。

 

前半(約30分)

【カストロ後のキューバ政権】経済困窮でも「体制崩壊はない」|ディアスカネル大統領の人物像|亡命者多数で「100年後にキューバはなくなっている」|国民はアメリカ大好き|【元キューバ大使・渡邉優】

 

後半(約36分)

【トランプ大統領「次の一手」はキューバか】“キューバ系”マルコ・ルビオ国務長官との因縁|兄弟国・ベネズエラ侵攻のショック|オバマ→トランプで対キューバ政策は一変【元キューバ大使・渡邉優】

『Adiós Cuba(アディオス キューバ)』2025年/スペイン/カラー/100分/フィクション×ドキュメンタリー

 

現在Vimeoを介して世界中で(もちろん日本でも)視聴可能です!(英語字幕付き・有料)

ぜひこの機会をお見逃しなく!!

VimeoAdios Cuba. Una película de Rolando Díaz. をオンラインで鑑賞 | Vimeo オンデマンド

 

   

 

監督・脚本:ロランド・ディアス

撮影:アライン・ロペス

音楽:エデシオ・アレハンドロほか

キューバチーム:フェルナンド・ペレス、ミゲル・コユーラ、リン・クルス

米国チーム:ベベ・ペレス、レモン・ディアスほか

 

キャスト:

ジュリエット・クルス(カリダー)、フランク・モレノ(ラサロ)、ベティサ・ビスマルク(レグラ)、グリセル・モンソン(ファティマ)、エルネスト・ウラ(エルネスト)

 

*第40回トリエステ・イベロ・ラテンアメリカ映画祭 観客賞受賞

 

内容

主人公のカリダーは、キューバで演劇の演出家をしていたが、移民して現在はスペインのバレンシアで暮らしている。そして、同胞のラサロ、レグラ、エルネストたちと、キューバ移民たちの命がけの祖国脱出体験を舞台化しようとしている。

モデルとなる人たちを探しだす係りは、キューバでジャーナリストをしていたファティマ。

本作は、実在のキューバ人移民たちの証言映像(ドキュメンタリー)と、それを演劇で表現しようとするフィクション部分で構成されている。

 

尚、監督で脚本も手掛けたロランド・ディアス自身も1994年にキューバを去り、カナリア諸島に移住し、現在はバレンシアで暮らしている。異国で映画作りをする監督の苦労は、本作の主人公カリダーに投影されている。

また、証言者たちが語る7つの脱出劇は、筏(いかだ)でマイアミを目指すケースのほか、アンゴラから始まってセルビアを経由したり、様々だが、どれも驚きと恐怖と不条理に満ちている。

 

※ 見逃せないのが、キューバ独立の父、ホセ・マルティが1857年から1859年(4~6歳)にかけて家族と暮したバレンシアの家が、カリダーの住まいとして使われているところ。

 

Marysolより

キューバ難民のドキュメンタリーというと、『キューバン・ラフターズ』が忘れがたいですが、あれは90年代が背景でした。本作が生まれた背景として、監督は「ここ3年で100万人以上のキューバ人が移民した事実から生まれた」と語っていますが、40年前のエピソードからつい数年前の体験談まで含む「キューバ難民史」とも言うべき歴史的証言集になっています。

 

※拙ブログで紹介したロランド・ディアス監督の作品:『フル・カウント』(1985年)

先日の投稿でアリーナ・ロペス女史の意見Ⅰを紹介しましたが、その直後、さらに充実した内容のインタビュー記事(長文!)をご自身のFBで紹介されていたので、今回も論点を整理し、構成し直して紹介します。

 

    

   

参照元:「オプシオン・マルキスト・インターナショナル(OMI)」によるインタビュー

2026年3月28日付

ロペス女史による『OMI』の紹介:

「左派組織OMIは、米国によるキューバ政府への制裁に反対する一方で、キューバ政府による市民への弾圧を非難し、キューバの政治犯のために声を上げてきた。彼らは多元主義、意見の多様性、表現の自由を信奉している」。

 

① 食料・エネルギー危機とその国内的要因

今 人々は飢えている。食料が高すぎて買えないからだけでなく、日常生活が完全に崩壊し、料理をする手段がないからだ。停電は最低でも20~22時間、それ以上に及ぶときもあれば、数日間続く地域もある。電気もガスも使えない状況下で、石炭や薪を使って料理するしかない。

 

現在、石炭1袋の価格は1600~2200ペソ(3.70米ドル)で推移しているが、年金や退職手当の中には3000ペソ(5.80米ドル)しか支給されない場合もある。石炭を買ってしまうと、食料や医薬品を買う余裕がなくなる。

 

また、手頃な価格の乳製品や肉類を入手する手段がない。養鶏場への投資が打ち切られ、閉鎖されたため、卵も手に入らない。キューバでは卵は輸入品であり、それが価格を高騰させている。卵30個入りのパックは3000ペソ(5.80米ドル)で、これは最低年金と同じ金額だ。野菜や果物はほとんど手に入らない。

 

人々の食事は非常に質素であり、多くの人々が栄養失調で、高齢者においては、明らかに体重が減っている。

 

状況が深刻化した要因として、「配給手帳」を通じて1人当たり7ポンドの米が安価で保証されていた制度が約2年前から廃止され、米が販売されなくなったことがある。人々は、食生活の基盤である米を自由市場で購入せざるを得ない。そこでは、品質にもよるが、米1ポンドが250~300ペソ(0.50米ドル)する。米1ポンドでは大家族が1日分しか食べられず、それも十分とは言えない。

 

キューバの耕作地の大部分は国家が所有しており、これは非生産的な巨大な独占体制となっている。

国営農業や集団化された小規模農地は、土地の大部分が不毛となり、炭を作るための棘のある寄生植物マラブで覆われるという結果をもたらした。

 

*砂糖産業の解体

2002年の砂糖産業の解体は致命的で、多くの人々を失業させた。キューバの経済的伝統の基盤で、国内の生産連鎖や電力増産を生み出していた同産業の解体は、国家の衰退に影響した。

さらに悪いことに、砂糖産業の解体後、サトウキビ栽培に充てられていた広大な土地は、食料生産にも転用されなかった。新たな遊休地を小規模農民に所有権として譲渡し、農地を拡大して生産に役立てる代わりに、使用権(所有権ではない)として譲渡する法律が可決された。使用権は10年間のみだったり、使用権者が耕作地内に住居を建設できないといった制約があり、そのため作物の世話や監視ができなかった。結果的に、肥沃な土地に富みながら放棄されている国に食料不足が生じている。

現在、砂糖は世界市場で非常に有利な価格となっている。もし生産を維持していれば、現在のような苦境に陥ることはなかっただろう。

 

*エネルギー問題

電力化は、経済の発展と日常生活にとって極めて重要だが、政府はこの基幹分野への投資を停止してしまい、資金は観光業に充てられてしまった。火力発電所は技術が陳腐化している上、硫黄分を多く含むキューバ産石油を燃焼させざるを得なかったため、酷使され、損傷を受けている。

 

② 新自由主義的経済政策が招いた国民の窮乏(不満)

危機の代償を個人や家族の肩に負わせるという政策は、ラウル・カストロが権力を掌握して以来、特に2008年に国務評議会および閣僚評議会の議長に任命されて以来さらに強まった。

彼の下で、社会福祉、保健、教育といった社会支出や投資が体系的に大幅に削減された。

 

また、ディアス=カネル政権下の2021年1月に実施された「タレア・デル・オルデナミエント(経済再建計画)」として知られる新自由主義的な一連の措置により、この傾向がさらに強まった。ハイパーインフレが起こり、物価は短期間で急騰し、賃金や年金は目に見えて減少した。

しかも、人々がキューバ・ペソで賃金を受け取るこの国で、ドル建ての店舗がオープンしたため、格差はさらに拡大した。海外から送金してくれる親族がいる人々は危機を乗り切ることができたが、ドルを受け取れない人々は貧困に陥り、その中には(大家族、子育て中のシングルマザー、高齢者、年金生活者など)極度の貧困に陥った人々もいた。

 

2021年7月11日の社会的な爆発的抗議行動の背景には、こうした事情がある。

10年や15年前にも貧困はあったが、相対的な尊厳を保った貧困だった。ゴミ捨て場で食べ物を探している人々、時には家族全員がそうしている姿は見られなかったし、働かされている子供たちの姿も見られなかった。

 

③ 高齢化と人口流出

キューバは、人口流出と低出生率により、この地域で最も高齢化が進んだ国になっている。そして高齢者は極度の貧困に苦しんでいる。国内外に住むキューバ人の支援を受けた、教会や市民の慈善団体によるプロジェクトが、極めて困窮した地域で貧困に苦しむ人々を支援しているが、それだけでは不十分だ。

総死亡率は上昇している。これはチクングニア熱の流行時に顕著で、病院の遺体安置所に遺体が山積みになった。また、乳幼児死亡率や妊産婦死亡率も上昇している。

 

④  中小・零細企業

小規模事業が許可されたのは1990年代で、それ以前は、1968年の「革命大攻勢」と称する政策により、民間事業は全面的に禁止されていた。民間事業が「Mypimes(中小・零細企業)」という概念の下で認められたのは2021年のこと。

現在、民間事業者が石油を輸入することが許可されており、そのルートを通じて食料やその他の物資も流入している。米国やその他の国々から、食料、医薬品、マットレス、シーツなども配布されている。これは教会を通じて行われている。もちろん、それだけでは解決策にはならない。こうした製品がもっと大量に流入すべきだが、キューバ政府は常に外貿易の厳格な独占を維持してきた。

 

⑤  観光業について

観光部門こそが、過去20年間の経済モデルにおいて、官僚機構が賭けを置いた分野だ。

そのために、保健、教育、農業、科学、産業への投資が犠牲にされた。

しかも政府は、ホテルの建設に投資しただけで、広義の観光を促進したわけではなかった。

その結果、ホテルは一年の大半が空室のままで、中には観光客不足により閉鎖を余儀なくされたものさえある。この「観光客の減少」という状況は、非常に多くの労働者を失業状態にしている。これはトランプ政権以前から続いており、政府の独断的な経済運営は衰退と深く関わっている。

 

⑥  GAESA(Grupo de Administración Militar SA)

人々がキューバの社会主義について語るのを聞くと笑うしかない。なぜなら、キューバの主要な経済資産は、実際には共和国監査院や国民議会の監督下にはなく、GAESAを率いる選りすぐりのグループの手にあり、彼らは何の説明責任も負っていないからだ。そして、この権力グループこそが、米国に対し経済開放を望んでおり、腐敗した政治階級を存続させているキューバの政治システムを疑問視すること以外なら、彼らはどんな手段も講じるだろう。

 

民主主義なき資本主義、それがキューバ政府が米国と交渉している内容だ。米国がそのような道を受け入れるかどうかは断言できないが、キューバ政府が「歴史的な敵」と呼んできた政府との対話を、キューバ国民との対話よりも優先しているという事実は、極めて象徴的だ。 

 

参考:ジョアニ・サンチェスがGAESAについて語る動画

 

⑦  米国との対話

すでにキューバ政府はトランプ政権との対話が行われていることを認めているが、公式にはほとんど語られていない。2014年にオバマ政権との和解が進み、キューバに米国大使館が開設された際、私たちはそのような話し合いが行われていることを知らないでいた。キューバ政府はこうした情報について常に非常に不透明なので、カナダで数ヶ月にわたり会談が行われていたことや、キューバ側の代表団を率いていたのがラウル・カストロの息子のアレハンドロ・カストロ・エスピンだったことを、私たちは後になって知った。

こうした理由に加え、彼らが動いている一族支配的な状況を考慮すれば、現在の協議も一族の誰かが主導しているに違いない、と私は見ている。長きにわたり、国内弾圧を担う基幹機関の一つである対諜報機関を指揮していたアレハンドロ・カストロ・エスピン本人かもしれない。

が、今回はラウル・カストロの孫、ラウル・ギジェルモ・ロドリゲス・カストロ(写真↓右)がその役割を担ったようだ。彼は、故ルイス・アルベルト・ロドリゲス・ロペス=カジェハの息子であり、ラウルの元義理の息子でもある。ルイス・アルベルトは、パナマに登記された資本主義的な株式会社として、事実上キューバ経済を支配しているGAESAの責任者だった。

 

ミゲル・ディアス=カネル大統領が米国との対話が行われていることを公に認めた日、それは政治局および閣僚評議会との会合の場で行われ、その後テレビで放映された。そして、ラウルの孫は、それらの機関のいずれにも役職を持っていないにもかかわらず、出席者の中に座っていた。これは、彼がその対話に関与していることを示す指標だ。

 

*トランプによるキューバ介入について

異議を唱える人々や抗議活動に参加する人々は、政権交代を求めていたわけではなく、深刻な問題の解決を求めていたのだが、政府は彼らに対し暴力的な弾圧を続けて来た。そして多くが拘束され投獄されてきた。こうした弾圧の結果、人びとはもはや食料や電気よりも自由を求めている。

トランプによるキューバ政府への圧力を、危機からの脱出の道として捉えている人たちもいる。

これこそが絶望の度合いを示している。

〈キューバ政府と米国の対立〉には注目するが、〈キューバ政府と無防備な市民との対立〉には決して目を向けようとしない左派の前で、自分たちが「見えない存在」となっている時に何が起きるかを如実に物語っている。

 

人々は、時間の中で停滞した国であるキューバにおいて、何かを変えようとする即時の可能性を、外部の、異国の存在に見出しているのだ。

だが、結局のところ、米国は自国の利益を守る限り、独裁政権を嫌がったことは一度もないという事実を、彼らは考えもせずにいる。

 

もしキューバ政府がトランプ政権との対話において、利益が満たされることを保証してしまうなら、私たち市民は取り残されてしまう。これは極めて大きな懸念であり、国際機関や国際世論の一部には大きな責任がある。キューバ政府は、政治的な変革を行うことなく、外国資本や投資を受け入れることだけを望んでいるが、経済分野における汚職や透明性の欠如を考えると、それが受け入れられることは明らかに難しいだろう。

 

⑧  望ましい支援

キューバには国連のブルーヘルメットのような人道介入が必要だと確信している。もしキューバに専門家チームが入り、国民と国が置かれている状況を評価すれば、まるで破壊的な内戦状態にあるかのような実態を確認することになるだろう。 

(私の言う内戦とは)インフラ、道路、通信網、発電設備を破壊し尽くした、長年にわたる戦争のこと。道路の大部分は破損し、通行不能な道もある。停電時には固定電話も携帯電話も機能しない。信号を中継する基地局がアンテナから電力供給を受けられず、私たちは皆、完全に孤立してしまう。

 

医療システムは完全に崩壊している。医師たちの並外れた努力にも関わらず、何年も前から医薬品や医療資材が不足している。重篤な病気にも、ごく軽度の病気にも薬がなく、闇市場では非常に高価で、貧しい人々は手に入れることができない。

ラウル・カストロ政権が医療分野への投資を削減してから、ほぼ18年が経ち、医療システムは崩壊してしまった。

 

もう一つの支援方法として、キューバで起きていることを世界に知らしめることが重要だと考える。内部からの変革が必要だ。アメリカが言うからではなく、ここに住む私たちがそれを求めているのだ。国民の声が届くことが必要。下から湧き上がる変革が必要。民主主義が必要。物事が機能することが必要。多様性と異なる考えへの尊重が必要だ。それなしでは、機能する国を作ることは不可能だ。