アンダルシア旅行から帰ってきました。
今回は最も印象深かった所、フリヒリアナとアルプハラ地方について書きたいと思います。
が、その前にざっと旅程を紹介しておきます。①=1日目
① ドーハ→ 14:30 マラガ到着・宿泊
空港から専用マイクロバスでホテルに行き、スーツケースを置いてから市内観光
ピカソ美術館・ピカソの生家・サンティアゴ教会(ピカソが洗礼を受けた教会)→アルカサバ(モーロ人が11世紀に築いた要塞)・ヒブラルファロ城・パラドールで休憩→市内で夕食
② ネルハ:アギラ水道橋・洞窟(鍾乳洞)→フリヒリアナ:散策・昼食
→アルプハラ地方:パンパネイラ、ブビオン、カピレイラ泊
③ グラナダ:アルハンブラ宮殿・ヘネラリッフェ、サンニコラス展望台、サクロモンテでフラメンコ鑑賞(18:30~)、市内観光、宿泊
④ コルドバ:アルカサル・大聖堂・ユダヤ人街
夜に大聖堂から出る〈聖母マリアの誕生祝の行列〉を見て、夕食・宿泊
⑤ セビージャ:ヒラルダの塔・大聖堂・スペイン広場・旧ユダヤ人街
⑥ セビージャで終日自由行動:アルカサル・グアダルキビル川周遊・市内観光
⑦ ロンダ→カサレス→コスタ・デル・ソル:マルベージャ
→(遊覧船で)ミハス→トレモリノス
⑧ トレモリノス→ドーハ(飛行機が遅れ1日滞在)→成田へ
フリヒリアナ(Frigiliana)は、アンダルシアで人気の「白い村」のひとつで「スペインで最も美しい村」に選ばれたこともある所。実際どこを切り取っても絵になる!
しかも、洒落たおみやげ屋さんやレストランもあり、たっぷり時間をとって散策したい所でした。
ただ、この美しい村には悲しい歴史が秘められていました。
それに気づいたのは、この写真を撮ったとき。
ここに描かれているのは、1569年にフリヒリアナで起きたモーロ人たちの反乱のエピソードのひとつ。※こうした陶板は街のあちこちに全部で12枚あるそうだ。
《モーロ人の女の中には、夫や息子、兄弟を助け、勇敢な男の様に戦った。敗北を悟った際には、キリスト教徒の手に落ちるよりも、険しい断崖から飛び降りて死ぬことを選んだ。また、子供を肩にかつぎ、岩から岩へと飛び移る女もいた》
帰国後、この反乱についてネットで調べたところ―
1492年のレコンキスタ(スペイン国土回復運動)でカトリック両王が勝利すると、定住を望むイスラム教徒たちはカトリックへの改宗を迫られた。改宗したイスラム教徒は「モリスコ」と呼ばれ共存していたが、彼らに対する重税や異端審問による宗教的抑圧が強まるにつれ、キリスト教支配への反感をつのらせていく。
1567年、フェリーペ2世の勅令により、モリスコ住民は以下のことを禁じられる。
・アラビア語の使用(話すこと・書くこと)
・伝統衣装の着用や習慣の実践
・武器の携帯
・全ての書物の引き渡し
翌1568年のクリスマス、アルプハラ地方でモリスコの反乱が起きると、たちまち近隣の集落に広がり、フリフィリアナもその舞台となる。
1569年6月11日 フリヒリアナの岩壁の戦い(Batalla del Peñón de Frigiliana)
フリフィリアナの岩山に集結した約4000人のモリスコのうち半数が戦死。そのうち男が500人で大半は老人。女や子供の死者が約1300人。一方、スペイン軍の兵は5000人で、戦死者は約800人。
生き延びた約2000人のモリスコは、アルプハラの山間部に逃れ、小戦闘を続けたり、追放されたり、山賊になったりした。
最後のモリスコの反乱は1571年。
1609年、フェリーペ3世により、全モリスコが国外追放になる。
※ だが、1682~84年、モリスコの集団が隠れ住んでいたり、キリスト教徒の領主の庇護の下で生存していたことが異端審問所の調べによって判明。
★モーロ側の敗戦は、軍事的のみならず、モリスコの社会的および文化的終焉という意味でも重要であると同時に、歴史・文学作品のテーマになっている。
個人的に思い浮かぶ例
セルバンテスも反乱から20年後にこの地方を訪れていたらしい。
『ドン・キホーテ』の後編、《リコーテという名の追放されたモーロ人とサンチョ・パンサが再会するエピソード》が思い出される。
こういう歴史を知ると「ドン・キホーテ」がもっと面白く読めるかも。
アルプハラ地方
「地球の歩き方 スペイン」いわく、アルプハラ地方は〈カトリック両王に敗れたアラブ王国の残党が隠れ住んだという、いわば落人の里〉で、〈雪を頂く峰を望む、緑の段々畑と白い家〉〈冬は零下となるので、どの家にも暖炉は欠かせないようだ〉。
ブビオンの教会の壁には、カトリック青年に恋したモーロ娘の伝説(実話?)が描かれていた。娘は反乱の間、この塔(もとはイスラムの要塞?)に閉じ込められていたという。
下の写真は、カピレイラ
暖炉の煙突が可愛い。
カピレイラは、標高が1,400メートル以上ある地方なので、爽やかで、夜は羽織るものが要るくらいでした。また、なぜかサイクリニストが結集していました。
そして、宿泊したホテル・レアル・デ・ポケイラでは忘れがたい思い出ができました。
カピレイラを愛した日本人画家:市村修(いちむら・しゅう)
ホテルのオーナー、フランシスコさんは、朝食の席で私が日本人であることを確かめると〈カピレイラに20年近く住んで、多くの作品を描いた画家で親友の”シュウ”こと市村修さん〉のことを熱心に語り始めました。
はじめ「イチムラ・シュウを知っているか?」と訊かれたときは「No」と答えましたが、ホテルのエントランスに飾られている印象的な絵を描いた方と知り、一気に引き込まれました。
フランシスコさんは高齢にもかかわらず、記憶も話し方もしっかりしていて、しかも的確な日本語で挨拶や声をかけてくれましたが、それはシュウさんとの長い付き合いや、彼のマネージャーとして日本を訪れたことがあったからだったんですね。
何年前の写真か不明ですが、修さんの絵の横に立つフランシスコさん。
「もし時間があれば、彼の絵を見せてあげるよ」と仰ったので、出発前のわずかな時間でしたが、皆で見せていただきました。
場所は、フランシスコさんがもつ近くのオスタル兼バル「メソン・ポケイラ」
残念ながら、案内してくれたのは、フランシスコさんではなく、双子のご兄弟の方でした。
シュウさんは亡くなる直前、日本からフランシスコさんに電話をかけ、「ありがとう」と感謝の意を伝えたそうです。
今も彼の絵を大事に展示し、彼の存在を伝えることを使命にしているフランシスコさん。
その気持ちと友情を知ったおかげで、シュウさんの絵と共にカピレイラが忘れがたい地となりました。ありがとうございました。フランシスコさん!
皆さんも、アンダルシアを旅行したら、ぜひカピレイラまで足を伸ばして、シュウさんの絵を通して、カピレイラの魅力を感じとってください。
アルプハラ地方(パンパレイラ・ブビオン・カピレイラ)