MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

アンダルシア旅行から帰ってきました。

今回は最も印象深かった所、フリヒリアナとアルプハラ地方について書きたいと思います。

 

が、その前にざっと旅程を紹介しておきます。①=1日目 

①  ドーハ→ 14:30 マラガ到着・宿泊

空港から専用マイクロバスでホテルに行き、スーツケースを置いてから市内観光

ピカソ美術館・ピカソの生家・サンティアゴ教会(ピカソが洗礼を受けた教会)→アルカサバ(モーロ人が11世紀に築いた要塞)・ヒブラルファロ城・パラドールで休憩→市内で夕食

 

②  ネルハ:アギラ水道橋・洞窟(鍾乳洞)→フリヒリアナ:散策・昼食

アルプハラ地方:パンパネイラ、ブビオン、カピレイラ

 

③  グラナダ:アルハンブラ宮殿・ヘネラリッフェ、サンニコラス展望台、サクロモンテでフラメンコ鑑賞(18:30~)、市内観光、宿泊

 

④  コルドバ:アルカサル・大聖堂・ユダヤ人街

夜に大聖堂から出る〈聖母マリアの誕生祝の行列〉を見て、夕食・宿泊

 

⑤  セビージャ:ヒラルダの塔・大聖堂・スペイン広場・旧ユダヤ人街  

 

⑥  セビージャで終日自由行動:アルカサル・グアダルキビル川周遊・市内観光

 

⑦  ロンダカサレスコスタ・デル・ソル:マルベージャ

→(遊覧船で)ミハストレモリノス

 

⑧  トレモリノスドーハ(飛行機が遅れ1日滞在)→成田へ

 

フリヒリアナ(Frigiliana)は、アンダルシアで人気の「白い村」のひとつで「スペインで最も美しい村」に選ばれたこともある所。実際どこを切り取っても絵になる!

 

    

    

   

    

  

 

しかも、洒落たおみやげ屋さんやレストランもあり、たっぷり時間をとって散策したい所でした。

   

 

ただ、この美しい村には悲しい歴史が秘められていました。

それに気づいたのは、この写真を撮ったとき。

ここに描かれているのは、1569年にフリヒリアナで起きたモーロ人たちの反乱のエピソードのひとつ。※こうした陶板は街のあちこちに全部で12枚あるそうだ。

《モーロ人の女の中には、夫や息子、兄弟を助け、勇敢な男の様に戦った。敗北を悟った際には、キリスト教徒の手に落ちるよりも、険しい断崖から飛び降りて死ぬことを選んだ。また、子供を肩にかつぎ、岩から岩へと飛び移る女もいた》

 

帰国後、この反乱についてネットで調べたところ―
 1492年のレコンキスタ(スペイン国土回復運動)でカトリック両王が勝利すると、定住を望むイスラム教徒たちはカトリックへの改宗を迫られた。改宗したイスラム教徒は「モリスコ」と呼ばれ共存していたが、彼らに対する重税や異端審問による宗教的抑圧が強まるにつれ、キリスト教支配への反感をつのらせていく。

 

1567年、フェリーペ2世の勅令により、モリスコ住民は以下のことを禁じられる。

  ・アラビア語の使用(話すこと・書くこと)

  ・伝統衣装の着用や習慣の実践

  ・武器の携帯

  ・全ての書物の引き渡し

 

翌1568年のクリスマス、アルプハラ地方でモリスコの反乱が起きると、たちまち近隣の集落に広がり、フリフィリアナもその舞台となる。

 

1569年6月11日 フリヒリアナの岩壁の戦い(Batalla del Peñón de Frigiliana

 フリフィリアナの岩山に集結した約4000人のモリスコのうち半数が戦死。そのうち男が500人で大半は老人。女や子供の死者が約1300人。一方、スペイン軍の兵は5000人で、戦死者は約800人。

 生き延びた約2000人のモリスコは、アルプハラの山間部に逃れ、小戦闘を続けたり、追放されたり、山賊になったりした。

 最後のモリスコの反乱は1571年。

 

1609年、フェリーペ3世により、全モリスコが国外追放になる。

※ だが、1682~84年、モリスコの集団が隠れ住んでいたり、キリスト教徒の領主の庇護の下で生存していたことが異端審問所の調べによって判明。

 

モーロ側の敗戦は、軍事的のみならず、モリスコの社会的および文化的終焉という意味でも重要であると同時に、歴史・文学作品のテーマになっている。

個人的に思い浮かぶ例

    まさにアルプハラが舞台!

 

セルバンテスも反乱から20年後にこの地方を訪れていたらしい。

『ドン・キホーテ』の後編、《リコーテという名の追放されたモーロ人とサンチョ・パンサが再会するエピソード》が思い出される。

こういう歴史を知ると「ドン・キホーテ」がもっと面白く読めるかも。

 

アルプハラ地方

「地球の歩き方 スペイン」いわく、アルプハラ地方は〈カトリック両王に敗れたアラブ王国の残党が隠れ住んだという、いわば落人の里〉で、〈雪を頂く峰を望む、緑の段々畑と白い家〉〈冬は零下となるので、どの家にも暖炉は欠かせないようだ〉。

 

ブビオンの教会の壁には、カトリック青年に恋したモーロ娘の伝説(実話?)が描かれていた。娘は反乱の間、この塔(もとはイスラムの要塞?)に閉じ込められていたという。

 

 

下の写真は、カピレイラ

暖炉の煙突が可愛い。

 

カピレイラは、標高が1,400メートル以上ある地方なので、爽やかで、夜は羽織るものが要るくらいでした。また、なぜかサイクリニストが結集していました。

そして、宿泊したホテル・レアル・デ・ポケイラでは忘れがたい思い出ができました。

 

カピレイラを愛した日本人画家:市村修(いちむら・しゅう)  

 ホテルのオーナー、フランシスコさんは、朝食の席で私が日本人であることを確かめると〈カピレイラに20年近く住んで、多くの作品を描いた画家で親友の”シュウ”こと市村修さん〉のことを熱心に語り始めました。

 はじめ「イチムラ・シュウを知っているか?」と訊かれたときは「No」と答えましたが、ホテルのエントランスに飾られている印象的な絵を描いた方と知り、一気に引き込まれました。

 

 

 

     市村修氏

 

フランシスコさんは高齢にもかかわらず、記憶も話し方もしっかりしていて、しかも的確な日本語で挨拶や声をかけてくれましたが、それはシュウさんとの長い付き合いや、彼のマネージャーとして日本を訪れたことがあったからだったんですね。

 

 何年前の写真か不明ですが、修さんの絵の横に立つフランシスコさん。

 

「もし時間があれば、彼の絵を見せてあげるよ」と仰ったので、出発前のわずかな時間でしたが、皆で見せていただきました。

場所は、フランシスコさんがもつ近くのオスタル兼バル「メソン・ポケイラ」

  

 

残念ながら、案内してくれたのは、フランシスコさんではなく、双子のご兄弟の方でした。

   

  

  

  

 

  

 

シュウさんは亡くなる直前、日本からフランシスコさんに電話をかけ、「ありがとう」と感謝の意を伝えたそうです。

今も彼の絵を大事に展示し、彼の存在を伝えることを使命にしているフランシスコさん。

その気持ちと友情を知ったおかげで、シュウさんの絵と共にカピレイラが忘れがたい地となりました。ありがとうございました。フランシスコさん!

 

皆さんも、アンダルシアを旅行したら、ぜひカピレイラまで足を伸ばして、シュウさんの絵を通して、カピレイラの魅力を感じとってください。

 

アルプハラ地方(パンパレイラ・ブビオン・カピレイラ)

 

     

 

  

 

    

   

             

 

 

 

10日間ほどアンダルシアを旅行してきます。

アンダルシアに行くのは3度目ですが、40年以上ぶり。

きっと最後になるので、今回は映画を観たり、本を読んだりして、予習・復習に励んだため、8月はブログ更新できませんでした。

情報はあまり頭に入っていませんが、リスペクトを込めてイスラム世界の名残を味わってきたいと思っています。

 

1998年に日本で公開された『炎のアンダルシア』(1997年)。

エジプト・フランス合作映画で、撮影もスペインではないけれど、物語の舞台は12世紀のイスラム帝国ムワッヒド朝の首都コルドバ。

 

本作の魅力についてはWikipediaをご参照ください。

炎のアンダルシア - Wikipedia

 

 

旅の参考書

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amazon.co.jp/約束の地、アンダルシア-スペインの歴史・風土・芸術を旅する-濱田滋郎/dp/4865592210

★こちらもお薦め

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「太陽と月の大地」スペインの児童文学の名作の邦訳

レコンキスタ後、生まれ育った土地から追放されるモリスコ(キリスト教徒に改宗したイスラム教徒)の一家の運命が悲しい。

宗教や思想の違いで排斥される人々の悲劇は今も続いている…

 

   

 

こちらの本も再度目を通しました。

amazon.co.jp/スペインを追われたユダヤ人―マラーノの足跡を訪ねて-ちくま学芸文庫-小岸-昭/dp/4480082808

 

では、行ってきます!

ちょうど1週間前、50年前から観たいと思っていたペルー映画『みどりの壁』(1970年)をようやく観ることができました!生きてて良かったです(笑)。

於)ペルーコンテンポラリー映画祭@セルバンテス東京

 

監督のアルマンド・ロブレス・ゴドイは、私が大学生のとき初めて観たラテンアメリカ映画『砂のミラージュ』の監督。

そのときの驚きと感動が大きくて、同監督に関心をもつと同時に、すでに日本公開されていた監督の『みどりの壁』を観逃したことが残念でなりませんでした。

 

今回の鑑賞を機に、作品だけでなく、監督についても色々と知る機会になり、半世紀間の夢が叶いました。

 

※プログラムも鑑賞後にネットで見つけ購入。嬉しい💕

 

ストーリー(全篇)

若い夫婦のマリオとデルバは、リマの都会生活を捨て、セルバ(熱帯雨林)で開拓民として暮らしている。政府が奨励する植民政策に乗ったのだが、移住が実現するまでには、非効率極まりないお役所仕事の壁に何度も阻まれた。当時は赤ん坊だった息子のロムロも来年は小学生。牛と育ち、近くの小川が遊び場だ。そんなある日、一家の所有地に入り込んだ男たちに、大切なコーヒーの木を折られてしまう。「農地改革のための測量に来た」という言葉に、境界画定への不安を覚えたマリオは、事態を把握するため、開拓地域の中心の町、ティンゴ・マリアへ出かける。その数時間後、大変なことが起きた。ロムロが毒蛇に足を嚙まれたのだ。デルバは、隣人たちの助けを得て、ロムロを病院へ。途中マリオと遭遇し、愛児を病院に運び込む。幸い、そこにはブラジルから届いたばかりの血清があった。ところが、保管場所の鍵を持つ院長は、大統領を迎える祝賀会に出ていた。マリオは全力で走り、院長を連れて戻るが、手遅れだった。小さな棺をカヌーに乗せて運ぶ途中、どこからともなく子供たちが現れ、参列してくれた。家に戻ると、マリオは不思議な音に気付く。確かめに行った先はロムロの遊び場で、手作りの水車と家から持ち出したグラスで音が鳴る仕掛けになっていた。愛児を失った悲しみと怒りで、思わずマリオは水車を踏みつけるが、すぐに元通りに直す。ロムロに頼まれていたように。日が暮れて暗くなった家の中、マリオとデルバは抱き合い、初めて声を上げて泣くのだった。

 

鑑賞後に知ったこと・思ったこと

〈ジャングルを舞台にした親子3人の物語り〉くらいの予備知識で鑑賞したので、随所に織り込まれる〈お役所仕事の絶望的な非効率さと非情さ〉に「これは政治的な映画なのかな?」と思ったり、その後の展開にも割り切れないモヤモヤ感が残ったので、帰ってからネットで監督や映画について読みまくりました。

 

まず、驚いたのが、監督自身が家族と共にティンゴ・マリアで8年間も開拓移民として暮らした事実。

しかも、その体験を基に執筆した原作小説があり、ほぼ自伝的作品であること。

  

ということは、映画に散りばめられていた〈官僚制への批判〉も実体験に基づくと思われます。

実際、監督はインタビューで「ジャングルに負けたのでない。“お役所仕事”に敗れたのだ」と明言していました。

本当の映画のタイトルは『みどりの壁』より『官僚たちの壁』かも…。

 

ある批評家が「毒蛇は密林のシンボルであると同時に、植民者たちの大敵のシンボル」と書いていましたが、「ロムロ坊やの死因は、毒蛇だったのか、大統領ご一行だったのか?」考えさせられますね。

 

ただ、本作の魅力は、官僚制批判を上回る、強靭で素朴な生の姿や善が描かれているところ。

その象徴的なシーンが、〈土ぼこりをたてて疾走する、傍若無人な車の列や、姿の見えない役人たち〉とは対照的に、〈愛児を亡くした夫婦と、その深い悲しみに寄り添う人々が川をゆっくりカヌーで行く〉シーン。哀しいけれど、心が洗われます。

 

ゴドイ監督は、実体験で味わった怒りや感動を、この作品に昇華させたのだろうと思うと、モヤモヤ感が消えていきました。

 

★ ペルーの農地改革

本作の上映後、主催者らしき方が、「本作で何度か言及される農地改革については映画『革命する大地』のプログラムを読むといい」と仰っていたので、2カ月前に鑑賞した際に買ったプログラムを読み返しました。

が、『革命する大地』は、1968年から1977年まで政権を担ったベラスコ大統領下の農地改革が主題。

一方、『みどりの壁』の背景は、1963年に大統領に就任したベラウンデ政権の重要政策のひとつ「アマゾン流域の密林地帯(セルバ)」の開発。

『みどりの壁』の映画プログラムに掲載されている故増田義郎教授の解説によると(以下、「抜粋」)

「ベラウンデは、セルバ地方を農地改革により開放して、(中略)、深刻化する食料問題、失業問題の解決の路を見出そうとした」。(中略)「しかし、現実は政治のスローガン通り動かなかった」「どうしようもない非能率的な官僚機構、政治の腐敗、反動的階級の抵抗などがあって、夢はつぎつぎうらぎられて行った」

「こうした政治の裏切りに対して、ペルーには1968年10月3日軍部のクーデターがおこり、ベラスコ・アルバラードの左翼的軍事政権が誕生した。『みどりの壁』は、そのような現時点からふりかえって、ペルーの社会の問題と矛盾を描いているのである。」

とあり、なるほど、『みどりの壁』と『革命する大地』の繋がりが分かりました。

 

それにしても、『みどりの壁』がペルーで封切られたとき(1970年6月)、批評家からは「気取っている」「感動がない」などと酷評されたそうです。ベラスコ政権下だったのに…?

他方、海外では絶賛されました。

※日本での紹介と評判は、以下のサイトの〈チラシ裏の画像〉で読めます。

みどりの壁 | スタッフ・キャスト・作品情報 - 映画ナタリー (natalie.mu)


アルマンド・ロブレス・ゴドイ監督について

父はペルーを代表する曲「コンドルは飛んでゆく」を作曲した高名な音楽家ダニエル・アロミア・ロブレス。

母カルメラ・ゴドイ・アゴスティニはキューバ出身。

兄マリオは同監督の撮影カメラマン。

 

1923年2月7日、ニューヨークで生まれ、10才のとき一家でペルーに戻る。

ジャーナリスト、作家。映画監督。

 

1949年から57年まで、妻とティンゴ・マリアで開拓生活を送る。

このサイトによると、ティンゴ・マリア一帯の開拓事業は1936年から始まっている。

1962年から約1年半「ラ・プレンサ」紙で映画批評を書くほか、ペルー全土を巡ってフォトレポルタージュを掲載した。

1964年から映画を撮り始め、まず短編を2本撮った後、長編フィクション“Ganarás el pan”が劇場公開される。

次の長編フィクション『ジャングルに星はない』(’66)は、翌年のモスクワ映画祭で金賞を受賞。

『みどりの壁』(1970年)は第2作目に当たる。

第3作目は『砂のミラージュ(邦題)』(1973年)は、シカゴ国際映画祭でグランプリ受賞。

砂のミラージュ

   『砂のミラージュ』日本公開は1975年

 

それから10年以上のブランクを経て、1987年に”Sonata soledad”を撮るが、一般公開はされず、文化的サークル内での上映にとどまった。2003年の”Imposible amor”が遺作となった。

 

ペルー映画史において、初めて映画を芸術表現と捉え、作家性のある作品を撮り、国際的評価を獲得した。

2010年8月10日、リマで永眠。享年87歳。

 

トリビア

監督は、マリオ役に名優アンソニー・クイーンを望んだが、スケジュールの都合で断られた。しかし、そのときクイーンからもらった手紙を宝物のように大事にしていた。

マリオ役を演じたのは、メキシコの俳優フリオ・アレマン。

この2カ月ほどICAIC創設期から参加していたファウスト・カネルの作品や証言を集中して紹介してきました。

カネル氏は1968年にキューバを去るので、彼の証言も同年までに限られるし、体制に批判的。

私も彼の証言を初めて紹介した13年前は、真偽のほどが分からず、慎重に身構えていましたが、今では信用し共感もしています。

 

以下は、先の紹介記事の詳細版になりますが、個人的に非常に関心のあるテーマや時代なので、改めて彼の証言をまとめてみました。

参照元:https://elcineescortar.com/2022/12/19/el-principio-del-fin/ ほか

 

サロン・デ・マヨ(1967年8月)から1968年10月まで:ファウスト・カネルの証言

 

1968年1月に開催された国際的な催し「国際文化会議」は、そもそもチェ・ゲバラのラテンアメリカにおけるゲリラ戦を掩護(えんご)するために企画された。(注:企画した時点では当然のことながらチェがその前に殺されるとは想定していなかった)。

 

そして、同会議を大々的に宣伝し、「PM事件」で痛手を負っていたヨーロッパやラテンアメリカの知識人を再び魅了するため、フィデルはカルロス・フランキに国際的規模の文化的祭典を実施するよう命じた。

 

当時フランキは、アルジェで新聞「レボルシオン」の展覧会(地下活動およびシエラ・マエストラ時代の英雄的時代から革命勝利後の発刊に加え、「ルネス」やR出版を含む)を開催した後、イタリアのモンテカティニで隠遁生活を送っていた。ちなみに、同展覧会も、フィデルが在アルジェリアのキューバ大使、“ペピート”・セルゲラに頼んで、「レボルシオン」廃刊で不快な思いをしているフランキに主催させたのだった。

 

フィデルの呼びかけに忠実なフランキは承諾した。すでに止めようのない文化の親ソ連化にフランキは一石を投じたかったのだ。大義のため、沈黙を含めすべてを捧げた男の復権。反スターリン主義、反社会主義リアリズムという姿勢の再度の宣言だった。

 

「サロン・デ・マヨ」は1967年7月末にハバナで開幕し、カルダーやジョアン・ミロなど著名なアーティスト達が出席し、華々しい成功を収めた。同時に開催された「ラテンアメリカ連帯会議(OLAS)」では、《多くのベトナムを》というチェの呼びかけが書かれた広告版が至る所に見られた。

 

しかし、同年10月にチェ・ゲバラがボリビアで死亡すると、ラテンアメリカにおける戦略としてのゲリラ戦の可能性も消滅する。

 

それでもフィデルは「ハバナ文化会議」の開催を中止せず、予定通り翌年1月に開催するが、遅すぎた。もう可能性がないと悟ったフィデルは、180度方向転換し、ソ連式社会主義理論の「一国社会主義論」を受け入れる。

https://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12383889608.html

 

アルフレド・ゲバラは、質の高い映画の輸入や批評的映画の制作というポリシーを引っ込める。時代が変わり状況が変わり、スターリン主義者との論争は、PM事件同様、己の立場を危うくしかねなかった。

 

一方、世界では次から次へと事件が起きていた。キング牧師やロバート・ケネディの暗殺、パリの五月革命、チェコ侵攻事件、トラテロルコの大虐殺(メキシコ)など。

1968年は、世界中で若者たちが政府に反抗した年だった。

 

フィデルは早い時期から米国の反体制派の若者たちを支持していた。だが、1968年には、学生運動はすでに左派のデマゴーグの手から離れていた。フィデルは、キューバで同様の反乱が起きるのを避けるには、思い切った対策を取る必要があることを理解する。

 

このとき世界で警察と闘っている若者たちにとって、髭と長髪を含め反乱の模範だった革命は9年前のことで、矛盾が露になる。

 

1968年、革命大攻勢・グランサフラ

キューバでは、私有企業、個人商店までもが接収された。

国民は政府の呼びかけに応じるほかなく、「砂糖キビ1千万トン収穫(グランサフラ)」のために無報酬で働く。

https://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12277755200.html

 

この決定は、失望状態にある自主的な若者たちを無力化するため、自分の町や家族、友人たちから離して分散させるため、そうして、世界で起きている混乱を避けるためだった。

 

1968年の「革命大攻勢」は、系列の大臣さえ可能とは思わなかった「砂糖キビ1千万トン収穫」を達成しようとして、都市型経済の国家をダメにした。

後に残ったのはただの歴史ではない。

ひとりの男の思い上がりとその政府の大失敗という悲しい歴史だ。

 

すでにソ連の援助は唯一の救命板だったから、フィデルがソ連のチェコ侵攻を支持したことは、自主的な未来を失った国の危機を認めることに他ならなかった。

国民はチェコ侵攻支持を気に入らなかった。

政府が創りあげた反帝国主義のアイデンティティに反していた。

 

1968年という要の年、トリッキーな演劇作品や、“楽観的なメッセージ”のない詩や小説が、まだ優れた賞を受賞するも、出版に際しては、禁書目録の注意書き的序文が付けられた。

 

こうして灰色の5年(キンケニオ・グリス)が到来する。

 

1976年、文化省が創設されるが、アルフレド・ゲバラは大臣にはなれなかった。しかも、最も屈辱的だったのは、彼の領地であるICAICから独立性が奪われ、新設の文化省に従属させられたことだ。

訃報:アルマンド・アルト元文化大臣 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

1980年代初め、ゲバラはICAIC長官の座を追われ、フィデルによってパリに輝かしく追放された。そこでも『PM』上映禁止事件は、キューバ文化検閲の起爆装置として語られ続けた。

 

後年のインタビューで、アルフレド・ゲバラは「いつも『PM』について尋ねられる」と嘆く。

「キューバ文化の歴史と言えば、『PM』、「UMAP」、「パディージャ事件」でうんざりだ」「もし分かっていたら、違った行動をとったのに」と。

 

すべては遅きに失する。

 

ファウスト・カネルの亡命

Fausto Canel habla del cine y de la censura ほか

 

当時の妻はフランス人で、キューバで私と2年暮らしていた。彼女はソルボンヌ大学の民俗学の学生で、論文を書くために〈19世紀のキューバにおける中国人移民〉の調査をしていた。彼女がハバナに居ることで、私は公安からマークされる一方、フランス大使館のおかげで守られてもいた。だが、“イデオロギー的不明瞭さ”のせいで公安のブラックリストに載せられていた。

 

アルフレド・ゲバラは、私が己の行動をもって再び映画を撮れるようになるか、あるいは〈機上の人〉になるか、選択肢を提示した。その頃、私を含め6人が国から出されようとしていた。我々のうち誰もが逮捕される可能性があり、そうなればアルフレド・ゲバラやICAICにとり深刻な問題になる。支配権を奪われる前に、自ら組織を浄化する方が良いとゲバラは考えた。

 

私は迷わず〈機上の人〉になることを選んだ。なぜなら、フィデルがチェコ侵攻を支持したことや、自滅的な革命大攻勢のせいで、もう祖国で出来ることはないと確信していたからだ。

 

妻は一足先に東ドイツの貨物船で脱出していた。船長がわずかの金でキューバ人移民に船室を貸してくれたのだが、私は断られてしまい、飛行機の順番がくるのをビクビクしながら待たねばならなかった。

 

出国の前日に連絡があり、〈機上の人〉となった私は、10月15日早朝にスペインのバラハス空港(マドリッド)に着いた。ドルを持っていなかったので、どうやって空港から出ようか考えていると、奇跡的にもジョランダ・ファル(『デスアライゴ』の主演女優)の姿が目に入った。一足先にユートピアからの脱出したジョランダは、同じくキューバから逃げ出した友人の画家を迎えに来ていた。私は彼女に電話代を借りて、先に亡命していたラモン・スアレスに電話をした。ジョランダは親切にもタクシーで市内まで乗せて行ってくれた。

 

☆同じ頃にキューバを去った映画人

ラモン・スアレスロベルト・ファンディーニョ、エドゥアルド・マネ、フェルナンド・ビジャベルデ、アルベルト・ロルダン(ロルダンは10年後)

1960年代のキューバ映画 :「PM事件」とその後

 

★序章および前編(1942年~1960年)はこちら↓

ICAIC創設に至る経緯と対立関係(1942年~1960年) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

参照:ファウスト・カネル著「Sin Pedir Permiso」巻末年表

 

1961年

1月3日 キューバと米国の断交

 フィデル、米国による侵攻の可能性を前に戦時体制を敷く

 ハバナの街の至る所に対空機関銃が設置される。

 

1月4日 「文化審議会」創設。

 トップをPSP(旧共産党)のビセンティナ・アントゥニャとエディス・ガルシア・ブチャカが占める。古参共産党員勢力の拡大。

 

 未来の初代文化大臣の座を狙うアルフレド・ゲバラは、同審議会をライバルと見なす。

 

 オルランド・ヒメネス・レアルとサバ・カブレラが短編ドキュメンタリー『PM』を製作。

夜のハバナの様子を詩的に描く。

 

4月17日 ヒロン浜侵攻事件(ピッグス湾侵攻事件)

 フィデルは、革命を“社会主義”と定義する。

 

5月 『PM』をテレビ番組「ルネス・デ・ラ・レボルシオン」で放映。 

 視聴者には好評で、苦言を呈する者はいなかった。

 

 

 オルランド・ヒメネス・レアルとサバ・カブレラは映画館での上映許可を得るためICAICの映画研究分類委員会に赴く。

 

 アルフレド・ゲバラは、これを「ルネス」のリベラル派をたたく好機とみる。

彼にとって問題は、映画の内容ではなく、独立系映画であること、彼が検閲しコントロールできる脚本がないことだった。

アルフレド・ゲバラの命に寄り、同委員会は上映を許可せず、コピーを没収した。

 

 リベラル派とマルクス主義者との間で論争が起きる。→「PM事件」

抗議が起き、上映会が行われ、検閲への怖れが広まり、緊張が高まる。

フィデルが介入せざるを得なくなる。

 

6月16日、23日、30日 国会図書館で討論会が行われる。

最終日にフィデルの「知識人への言葉」が発せられる。

「革命の範囲内ではすべてが認められるが、革命に反するものは一切認められない」

 

11月6日 「ルネス・デ・ラ・レボルシオン」は、紙媒体もテレビ番組も消滅。

その後、新聞「レボルシオン」も廃刊になる。

「7月26日運動」の社会民主的左派は、表現メディアを失う。

 

モンカダ襲撃以来のカストロ主義者でマルクス主義の知識人、アルフレド・ゲバラは、遂に自分の時が来たと信じる。文化大臣の地位を欲するゲバラは、『PM』を禁じたことで生じた悪評を挽回する必要があった。

 

革命の文化政策にふさわしいドキュメンタリー映画や長編フィクションの制作。

質の高いヨーロッパ映画の輸入。

 

芸術的実験と革命プロセスに対する“革命的”批評。“革命の範囲内ならすべて可”。

 

1962年

10月15日 キューバ危機

 フルシチョフ、フィデルに相談なくケネディと合意。

 フィデルは激怒する。

 フィデルとクレムリンの関係が冷める。

 

1963年

 アルフレド・ゲバラ、未来の初代文化大臣となるべく、文化審議会に巣くう親ソ・スターリン派主義者に対抗。そのために、ゲバラはICAIC内で表現の自由をめぐる討論会を組織し、その結果を雑誌「シネ・クバーノ」に掲載する。

 

 これに対し、スターリン主義者が攻撃。

ガルシア・ブチャカ、ミルタ・アギーレ、ブラス・ロカが、アルフレド・ゲバラによるICAIC運営を非難する記事を書く。

 

ICAICが反撃する。

カストロ政権の文化政策をめぐる議論が始まる。

 

1964年

 ICAICと古参の共産主義者との間の論争は「マルコス・ロドリゲス裁判」の開始で決着する。

元PSPのメンバー、通称“マルキートス”は、*「大統領官邸襲撃事件」の逃亡犯らを密告した罪で逮捕される。裁判の結果、銃殺刑に処せられる。

 

*「マルキートス事件&裁判」 (参照文献「カストロの道」K.S.カロル著ほか)
 1957年3月17日に起きた大統領官邸襲撃事件の生き残り4人(フルクトソ・ロドリゲス、ファン・ペドロ・カルボ=セルビア、ジョー・ウェストブルック、ホセ・マチャード)は「ウンボルト通り7番地/Humbolt 7」の隠れ家に潜んでいたところ、マルキートスの密告により4月20日逮捕され拷問死した事件。 マルキートスは事件後メキシコへ行き、そこで亡命中のオルドキ=ブチャカ夫妻に密告したことを告白。(革命後)夫妻は彼を保護しプラハに留学できるよう画策(その手続きをしたのがアルフレド・ゲバラだったと犠牲者フルクトソの遺児は書いている)。マルキートスは出世街道を歩んでいたが1962年に逮捕される。

E.ガルシア=ブチャカの訃報と文化抗争 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

10月19日 ファキン・オルドキと妻のエディス・ガルシア・ブチャカは「マルキートス事件」との関係で逮捕される。その結果、文化面におけるPSPの影響力は大幅に低下する。

 

アルフレド・ゲバラにとり、「社会主義リアリズム」から自由な映画製作と輸入が可能になる。

 

ラテンアメリカにおけるゲリラ拡張政策に固執するフィデルと共に、アルフレド・ゲバラは、ヨーロッパの左翼の支持を得るため、批評的で質の高い映画を売り込む。

 

1967年 10月 チェ・ゲバラの死

 

1968年

 緊張する国際情勢:パリ五月革命、メキシコ、トラテロルコの虐殺、プラハの春、キング牧師とロバート・ケネディの暗殺、中国の文化大革命

 

3月13日 フィデル、「革命大攻勢」発令

 フィデル版「文化大革命」により、人々を都市から移動させ、反乱の発生を防ぐ。

 民間の小規模サービス業5万件を国有化

 私有財産の名残りが消滅する

 

8月21日 ソ連によるチェコスロバキア侵攻

  23日 フィデル、侵攻を正当化する

 

 ヨーロッパの知識人たちは、フィデルの主張を否定し、初めてカストロ政権と距離をおく。

 “人間の顔をした社会主義”の終焉(チェコとキューバ) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

A.ゲバラは、ヨーロッパ人を魅了するための批評的で質の高い映画制作を正当化できなくなる。

ICAICでは、独立戦争をテーマにした映画の企画が始まる。

「反帝国主義の闘い」100年を祝う

革命への批評は消える。

 

 3年後、教育文化会議でICAICは、国民を“教育する”ための手だてとして“歴史的”映画の制作を求められる。

 アルフレド・ゲバラは、新ガイドラインに服従し、ICAIC長官の座にとどまる。だが、念願の文化大臣に就任することは決してなかった。

 

 1968年の末までに、ICAICでは主要な映画人7人が国を去る。

 革命の現実に批評的なキューバ映画の黄金時代は終焉する。

 

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「キューバ映画の新段階(1960年)」メモ | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

以下の年表は、ファウスト・カネルの著書「Sin Pedir Permiso」巻末の年表「60年代キューバ映画」と記述に添い、さらに彼のインタビュー記事での見解を補って作成し、拙ブログ関連記事と写真を参考に添えました。よって、ファウスト・カネルの見解として参照してください。

 

1942年

ハバナ大学で、ホセ・マヌエル・バルデス・ロドリゲス教授が「映画:我らの時代の産業と芸術」と題する夏季映画講座を開講する。

当時の知識人は映画を単なる娯楽と見なしていたが、バルデス・ロドリゲスが初めて芸術として論じる。

60年代のキューバ映画に関わる者の多くが、本講座を受講する。

*講座は、16回の映画理論の講義と12本の名作映画の上映およびディスカッションから成り、1957年まで続いた。

革命前のシネフィルたちの出会いと覚醒の場 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

1948年

3月、ヘルマン・プイグ(写真左)とリカルド・ビゴン「ハバナ・シネクラブ」を設立。

上映会で、バルデス・ロドリゲス教授の講座の受講生らが再会する。

 

1949年

プイグとビゴンは、「シネクラブ」の規約を登記し、映画アーカイブとシネマテカ(フィルムライブラリー)の創設意図を強調する。

「ハバナ・シネクラブ」の成功を前に、バルデス・ロドリゲスは、映画関係プレスに対し、上映活動の宣伝をしないよう、自らの影響力を行使する。

 

1950年

プイグ、フランスに留学

 

1951年

2月、文化芸術団体「ヌエストロ・ティエンポ(我らの時代)」創設

当初は非政治的な団体で、映画部では、講演や討論、機関紙の発行を行う。

「ハバナ・シネクラブ」が「ヌエストロ・ティエンポ」に統合される。

「シネクラブ」の上映会は「ヌエストロ・ティエンポ」の大事な収入源となる。

 

プイグ、仏シネマテーク館長のアンリ・ラングロワと親交を結ぶ。

ラングロワが外交アタッシェケースで「ハバナ・シネクラブ」に映画作品を送る。

9月以降、「ヌエストロ・ティエンポ」で仏シネマテークが送る作品を上映する。

 

バルデス・ロドリゲスは、自分にフィルムを渡すようフランス大使に談判する。

外交的不都合を避けるため、ラングロワはプイグに、「シネクラブ」をシネマテークとして登録し、国際フィルム・アーカイブ連盟(FIFA)に参加し、直接関係を結べるようにすることを勧める。

プイグはハバナの仲間に手紙で、一刻も早い実行を求める。

 

ラングロワはFIFAに働きかけ、ケンブリッジで開催される組織大会にプイグをオブザーバーとして招待させる。

FIFAは、まだ登録手続き中の「シネマテカ・デ・クーバ」の加盟提案を“原則的に”受諾するが、あらゆる文化団体から独立した組織である必要があった。

新指導組織のメンバーは、会長にヘルマン・プイグ、副会長にカブレラ・インファンテ、書記にファン・ブランコ、常務理事にネストル・アルメンドロス

アルメンドロスの母がシネマテカの規約をフランス語に訳す。

ヘルマン・プイグ:「シネマテカ・デ・クーバ」創設者 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

1952年 

3月10日 バティスタによる軍事クーデター

 

5月 フランスから帰国したヘルマン・プイグは、FIFAの指針に従って「シネクラブ」と「ヌエストロ・ティエンポ」の連携を断つ。両グループの関係悪化。ちなみに「ヌエストロ・ティエンポ」は密かにPSPに従属していた。

 

資金および支援不足に加え、クーデターによる苦境で「シネマテカ・デ・クーバ」は活動を中断する。一部のメンバーたちは、実験的な短編映画を製作する。

 

1953年

フィデル・カストロによるモンカダ兵営襲撃。

人民社会党(PSP=共産党は、これを暴徒的行為と見なす。

 

1955年

「シネマテカ・デ・クーバ」は、文化庁の賛助の下で活動を再開する。

プイグは会長として、カブレラ・インファンテは理事として、ニューヨークの現代美術館(MOMA)を訪れ、キューバで上映するための映画の貸し出しが許可される。

 

ヌエストロ・ティエンポ派の活動

『エル・メガノ』 (1955年) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

   撮影風景

 

1956年

1月23日 「ハバナ・シネクラブ」が、正式に「シネマテカ・デ・クーバ」となる。

 

※現シネマテカのアーカイブには、キューバ国立公文書館登録番号933番にシネマテカ・デ・クーバが登録されたことをハバナの州知事に報告した文書がある。また、現シネマテカ館長で映画史研究家のルシアーノ・カスティーリョは、自著 “Cronología del Cine Cubano III (1945‐1952) で同文書に敬意を表すと同時に、アルフレド・ゲバラの命により事実が15年間隠蔽されていたことを明らかにした。

 

2月25日 フルシチョフが、ソ連共産党第20回大会でスターリンを告発する秘密報告をする。

12月2日 グランマ号の上陸 …国内の政治的緊張が再び高まる。

 

12月、「シネマテカ・デ・クーバ」は、資金が枯渇し活動停止(二度と復活せず)

ヘルマン・プイグ:訃報と功績 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

カルロス・フランキはシエラ・マエストラに行き、ラジオ・レベルデ(反乱軍ラジオ放送)を開設、機関紙「レボルシオン」を編集する。

カルロス・フランキ | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

アルフレド・ゲバラメキシコに亡命し、反乱軍に武器を送る。

アルフレド・ゲバラ経歴(革命と映画) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

ICAICのルーツ | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

1959年

1月1日 革命成就(臨時大統領:マヌエル・ウルティア、首相:ミロ・カルドナ)

 

革命が勝利すると、カルロス・フランキとアルフレド・ゲバラは、文化方面の高官となる。

フランキは、「レボルシオン」の編集長になり、その傾向は社会民主主義だったが、

アルフレド・ゲバラはマルクス・レーニン主義のままだった。

 

※タララにあるチェ・ゲバラの家で社会主義的法令を作る影の政府要員として、アルフレド・ゲバラはフィデルに呼ばれる。同グループの存在は、カルドナ首相さえ知らず、フランキやPSP派も知らなかった。

キューバ革命を世界に伝えるため映画を必要としていたフィデルは、その役目を忠実なフィデル主義者のアルフレド・ゲバラに託した。

 

2月7日 1940年憲法を発展させた共和国基本法の制定

 13日 辞任したミロ・カルデナに代わり、フィデル・カストロが首相に就任

 

3月24日 キューバ映画芸術産業庁(ICAIC)創設

 長官:アルフレド・ゲバラ、カブレラ・インファンテ:顧問

 トマス・グティエレス・アレア:顧問

ICAIC(キューバ芸術映画産業庁)の設立 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

30年代から40年代の名監督ラモン・ぺオンはメキシコから帰国し、フィデル・カストロに新しい映画産業への協力を申し出る手紙を書く。フィデルはその手紙をA.ゲバラに渡すが、ぺオンが返事をもらうことはなかった。

 

ビゴンもメキシコから帰国するが、アルフレド・ゲバラは面会を拒む。「ヌエストロ・ティエンポ」から「シネクラブ」を分離させたことを許していなかったのだ。

 

 

キューバを訪問したジェラール・フィリップをアテンドするビゴン

 

ビゴンは、メキシコでルイス・ブニュエル監督の『熱狂はエル・パオに達す』の撮影助手だったことから、主演のフランス人俳優ジェラール・フィリップと親しかった。帰国後、彼からキューバ訪問の意志を知らされたビゴンは、フランキとカブレラ・インファンテに伝える。

その頃「ルネス」はサルトル招聘で多忙だったため、ジェラール・フィリップ招待をICAICに任せる(7月に実現)。ビゴンは、この快挙をICAIC参入の機会到来と見る。

 

カブレラ・インファンテは、ビゴンのICAIC加入を認めるようアルフレド・ゲバラに要求。

ゲバラ、面会に応じるも喧嘩別れに終わる。

カブレラ・インファンテ、ICAICを抗議の辞任、

以後、「ルネス」紙の文芸特集版「ルネス・デ・ラ・レボルシオン」の指揮に従事

 

革命前に対立していた「シネマテカ・デ・クーバ」のリベラル派「ヌエストロ・ティエンポ」」のマルクス主義派が、「ルネス・デ・ラ・レボルシオン」「ICAIC」に分裂

1959年生れの文化グループ・メディア(一部 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

「ルネス」が牽引した時代(1959~60年) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

 

カルロス・フランキ(中央)とサルトル&ボーヴォワール

 

右からカブレラ・インファンテ、ファウスト・カネル、アルフレド・ゲバラ

 

7月16日 ウルティア大統領、社会主義的法案の通過を拒否。

     フィデル、首相を辞任する。

 17日 フィデル、テレビでウルティア大統領を非難する。ウルティア大統領を辞任。

 18日 オスバルド・ドルティコス博士が新大統領に任命される

 23日 フィデル、首相に復帰

ファウスト・カネルとの対話(1) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

1960年

2月 ICAIC、シネマテカを創設

   *ヘルマン・プイグとリカルド・ビゴンが創設したシネマテカを無視

 

4月 リカルド・ビゴンの死

カブレラ・インファンテ、「レボルシオン」紙上で、ビゴンに対するアルフレド・ゲバラの不当な行為を非難する。

ビゴンとカブレラ・インファンテ

 

6月? 新革命法制定

カストロ主義が極左へ向かい、「ルネス・デ・ラ・レボルシオン」の知識人たちは不快感を抱く

 

ICAICは、映画ニュースに参入し「ICAICニュース映画」を創設

アルフレド・ゲバラは、知性と啓蒙を目指しつつ、アジテーションとプロパガンダの映画制作を企画。創造性を目指しつつ指揮された政治社会映画。

キューバ革命の名声を世界に伝えるドキュメンタリーや映画。

    

10月 米国、対キューバ貿易を禁止

   フィデル、革命防衛委員会を創設(9月)

 

12月 「レボルシオン 革命の物語」(トマス・グティエレス・アレア監督)

       「キューバは踊る」(フリオ・ガルシア・エスピノサ監督)

 

「レボルシオン」紙と「ルネス」の批評家たちは、両ICAIC作品を時代遅れで形式主義だと非難した。すでに、旧来の映画話法とは異なる新しい映画運動が起きていたからである。

両グループ間の緊張は最高潮に達する。

 

Marysolより

後日アップする「年表後半」は、1961年から筆者カネルがキューバを去る1968年まで。

1961年に起きる「PM事件」の遠因が、上記のシネクラブ(ルネス)対ヌエストロ・ティエンポ(ICAIC)にあります。

 1964年に製作され、翌年なんとか公開にこぎつけた中編フィクション『Desarraigo(デスアライゴ)』の主人公マリオは、アルゼンチン出身でパリ在住のエンジニア。キューバに来た当初は革命に対し甘美なビジョンを抱いていた。しかし、現実のなかで直面する矛盾や摩擦は、彼のビジョンを損なっていき、キューバに留まるべきか否か、悩む

 

 映画の舞台は、ハバナとニカロ。後者の撮影には、工業省の許可が必要だった。

当時の工業相はチェ・ゲバラ。チェは脚本を読んで、撮影を許可したものの、「単なるブルジョア的ドラマ」と見なしていた。※参照『Cine cubano de los sesenta:mito y realidad』

               

 

以下、は上の本より抜粋

同書の著者で映画研究家のファン・アントニオ・ガルシア=ボレロの意見:

 〈世界変革のため具体的行動を促す問題と関係の無いものは、チェにとってすべて“ブルジョア的な陳腐な視点”でしかなかった〉からで、それはチェのエッセイ「キューバにおける社会主義と人間」を読めば明らかだ。

 

本作の監督、ファウスト・カネルの見解:

 本作ができたとき、すでにマルクス・レーニン主義者たちが、国の要となるポストを占めていた。(ICAICでは)マシップ兄弟、パストール・ベガ、ホルヘ・フラガたちだ。アルフレド・ゲバラも多分そうだった。ティトンはもちろん違った。だが、アルフレドはフィデルとの協定で、批評的映画を撮ることを許されていたそれは、自由なイメージをヨーロッパに与えるためだった。サン・セバスティアン映画祭で『デスアライゴ』が受賞した事は、アルフレドにとって、正統派を前にして、復権の機会となった。興味深いのは、チェが本作を軽視していたにもかかわらず、ニカロやモアでの撮影を禁止しなかったことだ。キューバ国民や世界の世論を丸め込むためのフィデルの悪だくみをチェは知っていたのだ。

 

痛々しいコントラストの時期:J.A.ガルシア=ボレロが見た1965年

 その頃、キューバの政治的前衛派と前衛的知識人の関係は定義し難いジレンマにあった。

チェ同様、大多数にとって“社会主義リアリズム”は正しい道ではなかったが、その境界は明白ではなかった。痛々しいコントラストに満ちた時期だった。その証拠に、エドムンド・デスノエスが「低開発の記憶」を出版し、ホセ・トリアーナが「La noche de los asesinos」でカサ・デ・ラス・アメリカスの演劇賞を受賞する一方で、エル・プエンテのような独立系出版誌が廃刊させられた(編集長のホセ・マリオはまもなくUMAPに送られた)。

 

Marysolから一言:奇妙な一致 (チェ・ゲバラのジレンマ)

 映画『デスアライゴ』の主人公マリオは、アルゼンチン出身のエンジニア。この設定(アルゼンチン出身でキューバから観て外国人)には、共同脚本家のマリオ・トレッホが反映されている。

偶然の一致だが、チェ・ゲバラもアルゼンチン人。もっとも、脚本を気に入らなかったそうだが。理由は“革命的”ではなく、積極性に欠けていたからだろう。

 

本作のテーマは「キューバに留まるべきか否か」。

最初のタイトルが『甲斐あること (Lo que vale la pena)』だったように、主人公はキューバに戻って来る。恋人のためか、革命のためだったかは分からない。

 

一方、1964年から翌65年にかけて、チェ・ゲバラはキューバを去る決断に至る道をたどっていた。

こちらの年表を参考に編んだ拙年表を見ると、1964年、チェの掲げる経済政策や革命の輸出が見直しを迫られていた。

そして、翌1965年、キューバとソ連の政治・経済的な結びつきが強まるなかで、チェはソ連批判とも言うべき発言をアルジェでし(2月下旬)、キューバ帰国後まもなく消息が不明になる(実際にはコンゴ遠征に旅立つ)。

それから約半年後の10月、フィデルはキューバ共産党の中央委員会発足式で「チェ・ゲバラの別れの手紙」を発表。(チェがボリビアで殺されるのはそれから2年後のことだ)

 

留まるべきか、否か。

フィクションとはいえ、キューバに戻る主人公マリオに対し、この脚本に批判的だったチェはキューバを去る。共通のジレンマを抱えながら、現実は皮肉だ。

 

追記(6月29日):ファウスト・カネル監督の証言

コメント欄3にカネル氏から昨晩届いたメール(原文)を載せましたが、作品の補足説明を兼ねて、以下に訳文を掲載します。

ラモン・スアレスがキューバを去った(注:1968年)のは、もう耐えられなかったからだ。同じく国を出た残りの私達同様に。東ドイツの貨物船で出国しようとした。船長が自ら船室を借りてくれた。妻と生後間もない娘と出国しようとしたが、警察に阻止された。それで、アルフレド・ゲバラから公的な出国許可を得られるよう、ティトン(トマス・グティエレス=アレア)に頼まねばならなかった。ラモンをキューバ映画に引き入れるため、スウェーデンから連れ戻したのはティトンだったからだ。

キューバに留まるか、去るべきか。この決断が国中で迫られていた。
だがキューバ映画は、我が国の街角の現状を反映していなかった。

私は、脚本家のマリオ・トレッホと共に、最初にその真実を『El final(仮:終焉)』で具現化した。3つのオムニバス映画から成る『Un poco más de azul』の1本だ。本作は39年後にシネマテカで1日限り上映されるまで、一度も公開されることはなかった。

ティトン(トマス・グティエレス・アレア監督)は『デスアライゴ』を気に入った。すでにデスノエス『低開発の記憶』を準備しており、その脚本に提示されている不安と私の不安は同じものだった。彼が私に言った言葉を覚えている。「『デスアライゴ』のあまりにも巧妙なせりふは好きじゃない。だが映画は気に入った」。

当初のタイトル『Lo que vale la pena(甲斐あること)』をやめた理由は、“メロドラマチック”過ぎると思ったからだ。『デスアライゴ(祖国喪失)』のほうが概念的だと思った。今は正反対の考えだ。今なら『甲斐あること』のままにしただろう。その方が、言葉の本当の意味で、よりドラマチックで情緒的だから。
当時は、感情を表現するのが少し怖かったのだ。おそらく、我々との間に日増しに広がる革命との食い違いを見て取られるのが怖かったからかもしれない。

最近観た2本の映画について、私的メモを兼ねて。

 

①   『ゲバルトの杜 ~彼は早稲田で死んだ~』公式ホームページ (gewalt-no-mori.com)

この映画は、1972年に“内ゲバ事件”で早稲田大学のキャンパス内で殺された川口大三郎氏をめぐるドキュメンタリー。※ゲバ=ゲバルト=暴力(ドイツ語)

 

1972年といえば、私は高校3年生。

申し訳ないけど、事件の記憶はありません。

だからと言って、大学紛争に関心が無かったわけではなく、誰も無関心ではいられない時代でした。でも、1969年の東大安田講堂封鎖解除で収拾した、という認識でした。

なので、1972年にまだ内ゲバが続いていたこと、事件の凄惨さ、理不尽さに愕然としました。

 

中学・高校時代(1967~1972年)の私にとって「学生運動は正義の闘い」に見えていました。

若者パワーが音楽もファッションも何もかも変えていくなか、「あのお兄さんたちが世界を変えてくれる、頼もしい!」と。

 

一方で、最高学府の学生がなぜ暴力に訴えるのか? それが理解できませんでした。

本作を観た理由も、「革命的暴力とは何だったのか?」「その肯定の結果は?」を知りたかったから。

 

武装闘争を掲げ、ラテンアメリカ全土に革命を広げようとしたチェ・ゲバラに対する疑問も同じです。(当時は意識していませんでしたが)

キューバ革命を否定するのではありません。

ただ、武装闘争をラテンアメリカ全体に広げようとした結果がどうだったか?

内ゲバ事件を再考するように、キューバを含め、再考する必要と意義があると思うのです。

 

正論、正義の闘いに対し、反論するのは難しいものです。

高校時代、教育実習の国語の“先生”が授業中に言った言葉は、私にとって決定的でした。

「あなたたち、何もしなくてもいいから、邪魔だけはしないでね」

 

それを聞いて、「そうだ、私が出来るのは邪魔をしないことなんだ!」「何も出来ないけど、邪魔だけはしない」と心に誓いました。

たとえ”正義の暴力”や”革命的暴力”にどんなに違和感を覚えても。

 

映画のなかで、革命家の女子大生が放つ「私たちは階級闘争を闘っているんだ。革命に命をかけているんだ。お前たちはそれに刃向かうのか。帰れ」に重なる記憶です。

 

こうして疑問を封印してきた私が、キューバ映画『低開発の記憶』と出会ったとき、主人公セルヒオを通じてキューバを知りたいと思いました。

 

今も「どうしてそんなにキューバに関心があるの?」とキューバ人からも訊かれますが、原点は「革命的暴力」への疑問・違和感と「その行方」です。

 

この機会にエドムンド・デスノエスの言葉を伝えておきます。

「キューバの軍国主義、ゲリラ闘争の拡張は、キューバにおける社会正義の夢を大きく損なった。チェは、キューバに社会主義を建設すべきだったのであり、失敗に終わる軍事的冒険に身を投じるべきではなかった。比較的豊かな島を発展させる代わりに、司令官たちは世界に武力を広げることに信をおき、キューバの幸福を犠牲にした。2万人以上のキューバ人がアンゴラで命を落とした。我々の島は国際的連帯の下に軽んじられたのだ」

 

ちなみに、私がブログを書きながら見つけた〈答え〉は、アフガニスタンで殉職された中村哲氏です。

『荒野に希望の灯をともす』:聴診器と鶴橋(ツルハシ) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

クラウドファンディングで英語版も製作されました。

世界中で観て欲しい!

 

②  

 

 

学生運動が社会に吹き荒れていた嵐だとすると、トノバンこと加藤和彦は、私にとって〈内なる世界〉〈私的世界〉の象徴:反戦、不条理への抵抗、ユーモア、軽やかさ。

ファンクラブにも入っていましたが、その当時は「ジョン」と呼んでいた気がします。

 

今回、久しぶりに映画で彼の歌声を聞いたら、記憶より素敵だったし、目の付け所は間違ってなかったと思いました(笑)。

 

松山猛さんのエッセイ@「アンアン」?も愛読していました。

ミカさんには嫉妬していたかも(笑)

 

 

拙ブログ関連記事:

https://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12290738687.html

前回の投稿記事のコメント欄で紹介したように、ファウスト・カネル氏から1986年に米国の映画業界誌「バラエティ」に掲載された告発状がPDFで送られてきたので紹介します。②

 

が、その前に、同記事の発端となった出来事から紹介します。①

 

①  事の発端(参照記事)

1986年、当時のキューバ・シネマテカ館長、エクトル・ガルシア・メサが、米国で最も権威ある映画業界紙『バラエティ』のインタビューで「シネマテカには、キューバ映画史における全作品が保存されている」と断言していた。

それを見た我々は、Variety誌の編集部に宛てて、我々が60年代末にキューバを去って以来、ICAICが上映においても書物においても我々の存在を消し去ったことを告発することを思いついた。

驚いたことに「バラエティ」誌は、我々の告発状を〈同年のカンヌ映画祭特別号〉に目立つように掲載した。アルフレド・ゲバラ長官がその手紙を読んだとき(或いは、彼は英語が読めないので読んでもらったとき)、ICAICの7階は慌てふためいたことだろう。

ICAICは直ちにポンビドゥー美術館でキューバ映画の回顧上映を行い、その後ニューヨークやロサンジェルスでも開催した。

私の『Papeles son papeles(仮題:紙幣も紙切れ)』(国際的に最も評価された『Desarraigo』ではなかった)や、アルベルト・ロルダン監督の『La ausencia』が、革命の魅力ゆえに上映された。ロルダンはキューバを出てヨーロッパに行く許可をICAICに求めて以来、映画地図から消されていた。彼は、出国できるまでの11年間、建設現場でレンガ積みの労働に従事した。

 

バラエティ誌 編集者殿:

 ICAIC製作の映画リスト(1960年~1986年3月12日)を見て、我々は驚き狼狽した。あまりにも多くの作品と監督がその“完全な”リストから除外されているため、我々は真実を確立すべく、貴編集部に急ぎ本状を書き送る次第である。

 1961年のサバ・カブレラとオルランド・ヒメネス・レアル共同監督による『P.M.』の上映禁止・没収に始まり、キューバでは政府に不同意な者にとり、芸術的自由の行使はますます困難になっている。結果的に、芸術家たちは攻撃され、迫害され、孤立させられ、国外追放され、そして今、あらゆる歴史的記録から消されてしまった。

 キューバは、アカデミー賞を受賞したネストール・アルメンドロスほか、複数の映画監督の作品を無視することを決め込んでいる。人々やその業績を歴史から消し去る行い、延々と続く悲しむべきスターリン的伝統は、映画産業庁の官僚たちを貶め、彼らを犠牲者にも迫害者にもしている。

 キューバ産業庁のような公的機関が、「バラエティ」誌をミスリードするとは遺憾だ。ゆえに、我々はICAICのリストが除去した作品リストを同封する。

 

Un Poco Mas De Azul (1963)

 3人の監督(F.カネル、M.O.ゴメス、ビジャベルデ)による革命に関する3つの短編から成るオムニバス映画。

カネルとビジャベルデの観点は、共産党による検閲で“非正統”と見なされ、一度も上映されなかった。

 

Desarraigo (1964)  

 現在NYで活躍するファウスト・カネルが脚本を書き、監督した。1964年に製作され、ICAICが東西ヨーロッパに配給。1965年、サン・セバスティアン国際映画祭でスペシャル・メンション受賞。

 

Tránsito (1964)

 エドゥアルド・マネ監督・脚本。マネは現在フランスで活躍し、受賞歴もある劇作家で、ゴンクール賞のファイナリスト。

 

El Mar (1965)

 フェルナンド・ビジャベルデ監督・脚本。ビジャベルデは現在マイアミで活躍。キューバの官僚達に「イデオロギー的謀略」とレッテルを張られ、公開されなかった。

 

Papeles son papeles (1966)

 ファウスト・カネル監督・脚本。キューバで大当たりしたが、後に監督は体制に失望し国を去った。

 

El Bautizo (1967)

 ロベルト・ファンディーニョ監督による、非常に人気と成功を博したコメディ。ファンディーニョは現在スペインの映画産業で活躍している。

 

La Ausencia (1968)

 受賞歴のある映画作家、アルベルト・ロルダン監督・脚本。ロルダンは、1969年に出国ビサを申請したが、拒絶され、レンガ積み工として12年間働かされた。1981年にキューバを去り、現在はロス・アンジェルス在住。

 

もしキューバのシネマテカ館長、ガルシア・メサ氏が「バラエティ」誌の読者に請け合ったように、完全なアーカイブを有しているなら、上記フィルムの上映を手配することも可能だろう。

 

ネストール・アルメンドロス

ファウスト・カネル

ロベルト・ファンディーニョ

オルランド・ヒメネス・レアル

エドゥアルド・マネ

アルベルト・ロルダン

フェルナンド・ビジャベルデ

 

※拙ブログ関連記事

ファウスト・カネル:著書とフィルモグラフィー | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

Un poco más de azul

64年になると、ICAICとしてもドキュメンタリーの経験はかなり積まれていたので、フィクションを撮るよう提案された。トライアルとして、1本の長編よりも3本の短編をオムニバス形式で撮ることになった。タイトルの『Un poco más de azul(仮:もう少し青く)』には〈赤い傾向を歓迎しない私の気持ち〉〈もう少し青く!という我々の願い〉が込められている。3篇は、革命前、闘争中、革命後を描くことにし、私は最後の「革命後」を選び、国を出て行こうとする人物を描いた。それまで誰も描いたことがなく、敢えて描く人もいなかったことを映画にした。

 ファウスト・カネルとICAIC/50年代~60年代に関する「ある証言」 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

EL FINAL(仮:終焉)/1964年/フィクション(歴史ドラマ) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

ロベルト・ファンディーニョ監督

1968年に亡命した映画人:ロベルト・ファンディーニョの場合 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

ネストール・アルメンドロス(4):ICAIC時代 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

『ザ・ブロークン・イメージ』:亡命したキューバ映画人のドキュメンタリー(1995年) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

追加情報(6月13日)

La ausenciaの一部(反バティスタ闘争だろうか?緊張感があってすごく面白そう)

 

 

昨日ファウスト・カネル監督の『Desarraigo(直訳:根こそぎ)』(1965年)をブログにアップできたので、1年3カ月ぶりにMessengerで「ようやく紹介します。これを機に、作品のことや『低開発の記憶』(1968年)への影響についてお話を聞かせてください」という趣旨のメッセージを送りました。

すると「何が知りたい?メールの方が良ければアドレスを教えて」と返信があったので、アドレスを添えて、こう書きました。
「もっと『低開発の記憶』を分析したいし、違う声をブログで紹介したい。私には、1960年代に武力闘争が肯定されたことへの疑問があります。チェはそのシンボルでした。日本で彼は正義のシンボルと捉えられていますが、私はそのことに不安を覚えるのです。」

翌朝、ファウスト・カネルからの初のメールが届きました。
以下にその日本語訳と原文を掲載します。(※はMarysolによる追記)



2024年5月29日 ファウスト・カネル氏からのメール
チェ... 当時のキューバ人が抱いていたチェのビジョンは、フィデル・カストロによって作られた... キューバのすべての問題を解決してくれるだろう解放者... 南米の解放によって、肉はアルゼンチンから、石油はベネズエラから、ニッケルとコバルトはチリから、トロピカルな産品はブラジルから、などなど...キューバはもはや、創造、労働、組織化...について心配する必要はないだろう。とりわけ、労働については… キューバ国民のエネルギーは、キューバの太陽の下、革命広場に何時間も立ち、最高司令官の演説を無制限に聞くために蓄えておかねばならない...ラテンアメリカ革命を糧とする 「社会主義 」の楽園...それがカストロのサブリミナルなメッセージだった。あるいは、気づいていたかもしれない。だが、不条理に直面した者たちは、移住し、国を離れ、正気(※もしくは分別)を求めてすべてを捨てるしかなかった...。

世界的なチェ神話は彼の死後に生まれた。彼を全能だと信じていた左派の困惑につけこもうとしたのだ--- 当時すでに、彼がコンゴで失敗したことは明らかだったのに(キューバ人は、彼が殺されないように、最後の瞬間に彼を引きずり出さなければならなかった)、そしてもちろん、ボリビアでも... キューバで彼への崇拝は背を向けられ、彼は失敗者と見なされた… それはキューバで許されない...現在の国の指導者たちに対する国民の軽蔑を見ればわかるだろう....凡庸だからだ…
キューバの世論は偽情報、嘘で作られたのだ…インターネットが登場するまで、情報は入ってこなかった。

『Desarraigo
(※デスアライゴ=根こそぎ)』は1964年の春から夏にかけて書かれ、年末には完成していた。
アルフレド・ゲバラは、この映画がサン・セバスティアンで入賞し、公開への政治的口実を得るまで、ほぼ7カ月間 放置した。というのも、当時PSP(ブラス・ロカ)の共産主義者たちが、アルフレド・ゲバラが輸入および製作した映画を理由に、彼の首を要求していたからだ...。こうして彼なりに、短編映画『PM』を禁止し没収した汚点を取り除こうとしたのだった。

『Desarraigo』の脚本家はアルゼンチン人の詩人マリオ・トレホで、彼は外国人ゆえにセルヒオ・コリエリが演じた人物
(※マリオ)の問題をよく理解していた...

『Desarraigo』が公開された時には、まだ『低開発の記憶』の小説も脚本も書かれていなかった...デスノエスが直々に祝福してくれたことを覚えている...デスノエスが『Desarraigo』をコピーしたり模倣したとは思わない...こうしたテーマ(※後進性への問題意識)は、さほど無邪気でないキューバの知識人たちの頭の中にあったのだ...
『低開発の記憶』は『Desarraigo』と多くの接点を持っている...ティトンがこの作品を気に入っていたことは知っている。彼が個人的に私にそう言ったからだ...
キャスティングが一致しているのは確かだが、それは意識的に真似たというより、むしろキューバ映画の弱点のせいだと言える...。
ハグを送る


29 de mayo de 2024
Email original de Fausto Canel a Marysol 


El Che... La vision que los cubanos entonces tenían del Che fue creada por Fidel Castro... Un LIBERTADOR que resolvería TODOS los problemas cubanos... Con la Liberacion de SurAmerica la carne vendría de la Argentina, el petróleo de Venezuela, el nickel y el cobalto de Chile, los productos tropicales de Brasil, etc, etc... Cuba no tendria que preocuparse m'as en crear, trabajar, organizarse... Sobre todo en trabajar... las energias habia que conservarlas para irse a parar durante horas a la Plaza de la Revolucion, bajo el sol cubano, a oir hablar sin limites al Comandante en Jefe... Paraiso "socialista", decia, que viviaria de la Revolucion Latinoamerica... Ese era el mensaje subliminal de Castro, que los cubanos compraban sin darse cuenta... O tal vez se daban cuenta, pero ante el absurdo no tenian otra que emigrar, irse del pais, dejarlo todo buscando la cordura...
El mito mundial del Che vino después de su muerte, tratando de sacar partido del desconcierto de la izquierda que lo creia omnipotente ---cuando ya para entonces era evidente que había fracasado en El Congo (teniendo los cubanos que sacarlo en el ultimo instante, para que no lo mataran), y por supuesto, en Bolivia...  En Cuba le dieron la espalda a su veneracion, lo consideraron un fracasado ---y eso en Cuba no se perdona... No hay mas que ver el desprecio del pueblo por los actuales dirigentes del pais...  Por mediocres...
Enonces la opinion publica cubana fue creada en la desinformación, la mentira ----la  informacion no entro hasta que llego la internet, y para eso, con trabas...
Desarrraigo se escribió en la primavera y el verano de 1964 y estaba terminada para finales de año. Alfredo Guevara dejo pasar casi siete meses hasta que el film gano un premio en San Sebastian, y asi tener la excusa politico para estrenarla... Entonces los comunistas del PSP (Blas Roca)  pedian la cabeza de Alfredo Guevara por las peliculas que importaba y las que producia... Era su forma de (tratar) de quitarse el manch'on de su prohibicion y confiscacion del corto PM.
El guionista Desarraigo fue el poeta argentino Mario Trejo, que como extranjero entendió muy bien la problematica del personaje de Sergio Corrieri...
Ni la novela, ni el guion de Memorias del Subdesarrollo estaban escritos cuando se estreno' Desarraigo... Recuerdo que Desnoes me felicito personalmente... No creo que hubo copia o imitacion de Desnoes de Desarraigo... Esos temas estaban en la mente de los intelectuales cubanos menos ingenuos... 
"Memorias" tiene muchos puntos de contacto con "Desarraigo".... S'e que a Titon le gusto, ya que me lo dijo personalmente... Hubo coincidencias de casting, cierto, pero eso lo podemos achacar a la fragilidad del cine cubano mas que una copia consciente y directa...''
Abrazos
  

  1959年の映画人たち

  右端の白いシャツがファウスト・カネル

  その左がティトンことトマス・グティエレス・アレア監督

  アレアが米国に機材を調達しに出国するところ

  左端がアルフレド・ゲバラ長官

 

★追記

このメールの後のやりとりは、コメント欄に記しました。