MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

2026年、明けましておめでとうございます。

新年最初の記事は明るい内容にしようと思い、予定していたのが〈アルフレド・ゲバラとフィデル・カストロ生誕百年〉を記念する写真展「フィデル・カストロ、アルフレド・ゲバラ:革命の歴史」。シネ・チャプリンで開催中。

 

  アルフレド・ゲバラ:1925年12月31日~2013年4月19日

  フィデル・カストロ:1926年8月13日~2016年11月25日

 

アルフレド・ゲバラといえば、フィデルの指名により「キューバ映画芸術産業庁(ICAIC)の初代長官」に抜擢された人物で、二人の出会いはハバナ大学時代に遡ります。

映画を通して、キューバおよび革命のイメージを創造・普及させた人物。

 

主な業績:ICAIC(映画ニュース、映画誌、シネマテカ、音の実験グループ等を含む)創始者

     国際新ラテンアメリカ映画祭初代委員長(1979年~)

 

 

     

 

さて、上の投稿をアップする前に、悲報が入ってきました。

 

革命後のキューバ映画を象徴する顔とも言うべき『ルシア』(第3話)を演じたアデラ・レグラが1月2日早朝にサンティアゴ・デ・クーバの病院で亡くなりました。

  1939年グアンタナモ出身。享年86歳。

 

オリエンテ地方の貧農家庭の出身で、農作業や家事の手伝いをしていた彼女が、革命後にバラコアの女性連盟で活動していたとき、〈キューバ独自の新しい美〉を探していたソラス監督に見いだされ、演技経験ゼロにして主役デビューした映画が『マヌエラ』(1965年)。

 

続いて『ルシア』(第3話)では、その野性的で奔放な存在感と強烈な目ヂカラで、革命が最も輝いていた60年代キューバを象徴する存在となりました。

 

         

 

その他の映画出演作

Rancheador(1976)

El Brigadista(1977)

Aquella larga noche (1979)

Polvo Rojo(1981)

Vals de la Habana Vieja(1988)

Nada (2001)

Miel para Oshún (2001)

Barrio Cuba (2005)

 

悲報を伝えるテレビニュース

 

合掌。

 

『プラハの春 不屈のラジオ報道』2024年(チェコ、スロバキア)/131分

監督・脚本:イジー・マードル

原題:Vlny(英題:Waves)

公式サイト:映画『プラハの春 不屈のラジオ報道』公式サイト

       

【ストーリー】映画チラシより(下線はMarysol)

チェコスロバキア国営ラジオ局の国際報道部は、部長ミラン・ヴァイナーの下、政府の検閲に抵抗し自由な報道を目指して活動している。亡き両親に代わり弟パーヤの世話をするトマーシュは、中央通信局で働いていたが、上司命令により報道部で働くことになった。

それは、学生運動に参加している弟を見逃す代わりに、報道部とヴァイナーを監視する国家保安部〈StB〉に協力させるためだった。ヴァイナーや局員たちの真実を報道しようとする真摯な姿勢を間近で目にし、信頼され仕事も任されるようになったトマーシュは、弟の心配と良心の呵責で葛藤する。やがて、“プラハの春”が訪れ、国民が歓喜する中、トマーシュは中央通信局に呼ばれ、驚くべき内容をラジオで報道するよう命じられる—

 

Marysolより

本作を観ながら、キューバのあれやこれやとリンクしたので、以下にそれらの事柄を書き出してみました。世界的に強権的政権が増えるなか、キューバだけでなく、日本の報道の独立性や世界のフェイクニュースへの懸念も過(よぎ)り、今と繋がります。

 

① 東欧の自由化の空気

あるキューバ映画人の証言:1966年にトマス・グティエレス・アレアとハンガリーに招かれた際、「帰路はヨーロッパのどの国を経由してもよい」と言われ驚く。「東欧のみならず西欧を含めどこの国でも経由してよい」というハンガリー側の言葉は信じ難かった。外国にいても公安の厳しい監視やコントロールに置かれることに慣れていたので、このとき〈東欧に吹き始めた開放の風〉を肌で感じた  届かなかった招待状:パゾリーニ | MARYSOL のキューバ映画修行より

 

 ※尚、映画プログラムによると、〈人間の顔をした社会主義〉と呼ばれる“プラハの春”はドプチェク大統領就任で検閲が廃止された1968年3月に始まるようですが、映画ではその前から「早春」の雰囲気があったことが伝わってきました。

 

② 西側のヒット曲を(隠れて)楽しむ人たち

 西側の文化や流行が排斥された時代のキューバ

 

西側文化の魅力

 映画 『怒りのキューバ』を観たソ連の人々の驚きと反発(笑)

 (『怒りのキューバ』は)ソ連の人々にとり、間違いなく余りにも“進んで”おり、そこには豪華ホテルやビキニの美女という、退廃的資本主義の“魅力的”過ぎる姿が映っていた(がゆえに)無理解と拒絶反応を被った。『SOY CUBA(邦題:怒りのキューバ)』(2) | MARYSOL のキューバ映画修行より

 件のシーンは 2:10~

 

④ 義務報道

 “義務(押し付け)報道”を揶揄するキューバの短編コメディ

 

『プラハの春 不屈のラジオ放送』では、虚偽の“義務報道”を突っぱねるヴァイナー部長が素晴らしかった(拍手)!実在の人物だそうです。

 

⑤ 1968年8月20日 ソ連とワルシャワ条約機構軍によるチェコ侵攻

 事件に対するキューバの反応

 ・1968年キューバのロードムービーともいえる『キューバの恋人』(黒木和雄監督)に挿入されている風刺画(米国と対抗すべくベトナムに向かうべき戦車がチェコに侵攻したことを揶揄している。侵攻事件が20~21日に起き、フィデルの声明が23日なので、その間に出たと推測される)。 4月6日イベント参加者のご感想・ご意見 | MARYSOL のキューバ映画修行

   

 

・詩人ラファエル・アルシデスの発言:「(革命プロセスにおける)最初の失望は1968年。ソ連の戦車がプラハに入ったときだ。フィデルはそれを正当化した。それまで米国の侵攻を非難してきたのに。私も非難し憎んできたから、同意できなかった。何かがおかしいと感じた」

 『NADIE(ノーバディ)』最優秀ドキュメンタリー賞 | MARYSOL のキューバ映画修行より

 

・革命の同志だったカルロス・フランキもアルシデスと同じ理由で革命と決別しました。 

  カルロス・フランキ | MARYSOL のキューバ映画修行

 

・①の証言者、ファウスト・カネル氏の投稿記事の1968年の項では…

   前年10月にチェ・ゲバラがボリビアで殺され、ラテンアメリカ革命の希望が潰える。
その一方で、パリ、メキシコシティ、プラハ、米国では反体制運動が盛り上がっていた。
キューバは、経済苦境の唯一の打開策としてソ連に従属するか否かの選択を迫られていた。

そのうえフィデル・カストロがソ連のチェコ侵略を支持したことで、もはやキューバ革命が独立した未来を失ったことは明らかだった。

 

※ちなみに、キューバ映画の名作『低開発の記憶』が封切られたのは、「チェコ侵攻事件」の前日。もし封切り予定が数日後だったら公開されなかったかもしれません。

なぜなら…

1968年10月から翌年1月にかけて、軍の機関誌『ベルデ・オリーボ』にて、レオポルド・アビラ(ペンネーム?)なる人物が、ビルヒリオ・ピニェラ、レネ・アリサ、カブレラ・インファンテ、パディーリャら作家たちを攻撃する。

 「灰色の5年」の前章(1968~71年) | MARYSOL のキューバ映画修行

 

以上、 本作は、革命がソ連化したと評される70年代キューバを考えるうえで、また、今も報道や表現を通して主張している人たちを応援する意味でも観て良かったです。

映画プログラムも充実の内容。

 

個人的エピソード:「チェコ侵攻事件」と私

 世界中が政治的、文化的にも熱かった1968年。

当時の海外報道は、ベトナム戦争が中心でしたが、ソ連がチェコスロバキアを侵攻すると、並行して長期に渡り関心を集めました。

 当時わたしは中学2年生でしたが、それなりに関心をもって新聞を読んでいました。

で、その頃〈日本の報道は西側の情報に偏っている〉という批判的意見をしばしば目にしていたので、中学3年の自由選択の授業で「時事問題」を選択し、「チェコ侵攻事件」についてソ連大使館に情報収集に(級友と2人で)行きました!(今思うと恥ずかしい…)

 日本人の館員さんから面倒くさそうに渡されたパンフレット。そこにはなんと「ソ連軍を歓迎する市民」という見出しの付いた写真(戦車と兵士を笑顔で迎えているプラハ市民)や記事が掲載されていました!

 その頃の私は〈大使館=公的機関〉を信頼しきっていたので、「ホントだ、日本(西側)の報道と違う」と思い、授業で披露したのでした💦。おそらく先生は、呆れていたことでしょう…。我ながら浅はかだったと思いますが、「本当のこと(真実)が知りたい」という気持ちは、「映画を通してキューバの人々の真実が知りたい」という今に繋がっているかも。

キューバ革命の変容:「反ソ連」から「親ソ連」へ(68年から71 年) | MARYSOL のキューバ映画修行

 

 話は変わりますが、1998年に初めてツァーでキューバに行ったとき、参加者のなかに「家が共産党だったからキューバに興味があった」という女性がいたのですが、「キューバが話題になったのは70年代になってからだった」と言っていました。

今年のハバナ映画祭で名誉賞を授与されたガエル・ガルシア=ベルナル。

     

 

そのときのスピーチで、彼が「15歳か16歳のときに(ハバナ郊外にあるサン・アントニオ・デ・ロス・バニョス)映画テレビ学校の講座を受けた」(2:35)ことを初めて知りました!

 

 

おかげで長年の疑問―彼はいつキューバ映画の名作『低開発の記憶ーメモリアスー』を知ったのか?が解けました。

 

      

というのは、日本で2007年に『低開発の記憶(以下、メモリアス)』が公開されたとき、プログラムにガエルのコメント、「15歳のときに見た、この美しい作品を紹介します。『低開発』と『開発』という言葉をどう捉えるかは、育った社会的背景によって、人それぞれですが、この作品がみなさんの考えるきっかけとなってくれることを願います。」(2004年@Soho House) が紹介されていたのですが、本作がメキシコで知られているとは思えなかったからです。(その理由はコメント欄に) なるほど、15歳のときのキューバ留学で観たんですね、きっと。

 

思いがけず謎が解けたのも嬉しかったですが、彼の映画に対する思いが、『低開発の記憶』の普遍的意義と重なるのも嬉しい驚きででした!

 

 

2:20~「映画の素晴らしいところは、現実に疑問を呈するところです。その問いは、ラテンアメリカにおいて、どれほど必要なことか。我々にはたくさんのテーマや事柄が必要とされており、もっとそれらを広げ、複雑化し、単純な二元論にしないことが必要だ。映画とはそういうもの。映画は一方的な主張を排する。これは現代の我々、人類の未来の一端を担っている我々にとって重要だ。」

 

このガエルの言葉、そっくりそのまま『低開発の記憶』に当てはまる!のですが、「人生においてあらゆることに疑問を呈することが必要」と彼に教えたのは、なんと彼の祖母だったそうで、2009年のグアダラハラ映画祭での受賞スピーチでもお祖母様に感謝の意を捧げていました。

 

キューバと縁のある出演作品

DVD『チェ・ゲバラ&カストロ』 チェ・ゲバラ役

関連記事:『FIDEL』 米国製DVD | MARYSOL のキューバ映画修行

 

『モーターサイクルダイアリーズ』:エルネスト・ゲバラ役

 

『WASPネットワーク』:キューバ人スパイ役 

今月4日から14日にかけて開催された、恒例のハバナ映画祭(正式名称:国際新ラテンアメリカ映画祭)。

46回目となる今年は、昨年を上回る電力不足の深刻化に加え、複数の伝染病の流行する状況のなか、個人的には開催を危ぶんでいたのですが、無事に終了しました。(トラブルについては後述します)

 

以下、備忘録を兼ねたメモ

応募作品数:283本(上映作品は222本で、その製作国は42か国に及ぶ)

カテゴリー:フィクション(長編&短編)、ドキュメンタリー(長編&短編)、アニメ、初監督作品、未発表脚本、ポスター

 

長編フィクション部門

★最優秀作品賞:Un poeta(仮:ある詩人)/シモン・メサ監督(コロンビア)

    

 

★最優秀監督賞:O agente secreto (仮:シークレット・エージェント)/クレベール・メンドンサ・フィリオ監督(ブラジル)

     

 

ちなみに、キューバ映画の注目作は『Neurótica anónima』でした。 

ホルヘ・ペルゴリア監督・脚本、ミルタ・イバラ主演・脚本

 

 

その他のトピック:

① 映画芸術産業庁の初代長官アルフレド・ゲバラの生誕百年を記念した書籍、“Mi pasión más allá del cine” 出版。半世紀に及ぶ「キューバ映画」誌への同氏の寄稿の中から主要記事を選び年代順に編纂し、その思想的変遷をたどる。

           

 

② 名誉招待国はメキシコ。同国のチュルブスコ映画スタジオ(創設80周年)に対し名誉賞を授与。また、同スタジオとICAICとの間で共同制作を含め人的・技術的交流や養成の促進を目的とする協定を結ぶ。

 

③ 同国の俳優、ガエル・ガルシア=ベルナルに「名誉賞」を授与。

 

上のインタビューで初めて〈ガエルが15歳か16歳のときにハバナ郊外にある映画テレビ学校の講座を受講した経験がある〉ことを知りました。だから、ガエルはキューバ映画の名作『低開発の記憶』を知っていたんですね、きっと。

 

④ 検閲問題

今回、なぜかプログラムから外されていた作品が、革命後のキューバを代表するシンガーソングライター、パブロ・ミラネスのドキュメンタリー 『Para vivir. El implacable tiempo de Pablo Milanés』(ファビエン・ピサーニ監督/メキシコ在住)。

外された理由は不明ですが、監督は「パブロ・ミラネスの発言が率直で誠実すぎたからではないか」と推察しています。

 

ところが、ポスター部門で最優秀作品賞を受賞したのは、なんと同作品のポスター!

描いたのは、キューバ系アメリカ人のエデル・ロドリゲス。

 

 

検閲された作品のポスターが最優秀賞を受賞するのも不可解ですが、そこがキューバらしい?

 

幸い、映画祭の終了から数日後、ノルウェー大使館で上映されたとのこと。

(チェコ大使館でも上映されたと読んだのですが、真偽のほどは不明)

 

⑤ 独立系メディア「14ymedio」によると、停電等によるトラブルから、上映が中止になったり、中断したり、それに伴いプログラムや時間の変更が起きたりしたとのこと。国民が日々、長時間に及ぶ停電や食料・医薬品不足で苦しんでいるなか、映画祭を開催するのはけしからん!という意見もありました。実際、私のFBへの投稿(ガエルの名誉賞受賞)に対し、「人々が飢えと病で亡くなっているなか、誰もハバナ映画祭には行くべきではない。それは人類への犯罪を認めることになる」というコメントをもらいました。

 

ロバート・レッドフォードが亡くなって1ヵ月半も経ちましたが、訃報と共に、彼の主宰するサンダンス・インスティテュートとキューバおよびラテンアメリカ映画との結びつきについて、初めて知ったこと、忘れていたことがあったので、遅ればせながらまとめてみました。

 

レッドフォードが最初にキューバを訪れたのは、1988年5月。

当時の米国はレーガン政権下で、彼のキューバ渡航が禁輸措置に違反しなかったか、米財務省は彼を調査したそうです。本人は「文学関連のワークショップに参加するため」と話すにとどめたようですが、ネット上の記事によると、フィデル・カストロと会見(短い談話程度?)したほか、ハバナ郊外にある国際映画テレビ学校を訪問し、そこでガブリエル・ガルシア=マルケスと会ったことが、こちらの記事で判明。写真も記事から拝借。

 

      

2人の出会いは1988年のハバナだったのですね。 

 

1989年のサンダンス国際映画祭で、マルケスの原作をベースにしたラテンアメリカ映画シリーズ、“Dangerous Loves”(※1参照)が上映されました。

ということは、前年のハバナ訪問はそのための打ち合わせだったのでしょうか。

 

1995年『苺とチョコレート』(トマス・グティエレス・アレア監督/1993年)をサンダンス映画祭で上映。映画は、審査員特別メンションを受賞し、キューバ映画の存在をアピールしました。

 

アレア監督とレッドフォード(1995年のアカデミー賞授賞式前の2人)

 

その後も同映画祭で『Memorias del Desarrollo (邦題:セルヒオの手記)』(ミゲル・コユーラ監督/2010年)、『Boleto al Paraíso(仮:楽園への切符)』(ヘラルド・チホーナ監督/2010年)、『Tundra』(ホセ・ルイス・アパリシオ監督/2022年)が上映されたほか、アルマンド・カポ監督の『August』にグローバル・フィルムメイキング賞を授与。米国におけるキューバ映画の紹介に貢献しました。

 

もちろん、キューバだけでなく、ラテンアメリカ映画との交流にも力を入れました。

レッドフォードの意見:「ラテンアメリカ映画は政治や社会の抑圧と関係の深い作品が多い。彼らは、わずかな中から驚くべき機知や工夫を発揮する。そこには、チャンスと飛翔する想像力と神話がある」。

 

2004年1月 レッドフォードが長年温めてきた企画で、しかも製作総指揮を務めた映画、『モーターサイクル・ダイアリーズ』(ウォーター・サレス監督※2)をキューバのシネマテカで紹介するために再びキューバを訪問。上映会には、チェ・ゲバラの未亡人と娘の両アレイダさん、チェの戦友、ラミーロ・バルデス情報通信大臣(当時)、アルフレド・ゲバラ(ICAIC重鎮)らが出席。エル・パイス紙によると、〈レッドフォードはチェ・ゲバラの家族に映画を観てもらえることに興奮していた〉。また、ホテル・ナシオナルでフィデル・カストロと再会し、政治と文化、ラテンアメリカの物語りへの関心などについて語ったそうです。 

 

 

 

2018年、サンダンス・インスティテュートがラテンアメリカ映画に門戸を開いてきた功績に対し、ハバナ国際映画祭(新ラテンアメリカ映画祭)が名誉コラール賞を授与。レッドフォードは授賞式に出席できませんでしたが、ビデオメッセージで、感謝の意と共に、映画人同士の架け橋になる大切さを強調しました。

 

さて、上のレッドフォードとキューバの映画交流史に『ハバナ』(1990年)も入れたかったのですが、フィクションだし、撮影地はハバナではなく、ドミニカ共和国。

ところが、意外にもプロデューサーで監督も務めたシドニー・ポラックとキューバの興味深い関係が判明したので、引き続き紹介します。 

 

         

 

『ハバナ』は、1958年12月というバティスタ政権末期を背景に展開する、アメリカ人のカードギャンブラーと革命闘士の美しい人妻のラブストーリー。

 

キューバでの撮影を望んだポラックは、キューバ政府にシナリオを見せ、(もうちょっと革命を描いて欲しいとの要望はあったものの)撮影許可を得ました。しかし、〈4000万ドルという巨額の製作資金をキューバに投入するのは許せん!〉と、米財務省が許可せず。

 

キューバのトマス・グティエレス・アレア監督は、ポラックに「もしハバナで撮影するなら、ぜひ自分をコンサルタント兼助手として参加させて欲しい。最先端の映画産業の映画作りに興味があるし、学びたい」と手紙を書いていたのですが。

  

           アレア監督とポラック監督

 

ポラック監督としては、〈ハリウッドはキューバ革命を映画で取り上げたことがない。革命を背景にラブストーリーを撮れば、あまり政治的にならず理想的〉と考え、主役にレッドフォードとレナ・オリンを据え、豪華スタッフをそろえたのですが、期待に反し、映画は米国では不評。

 

一方、ハバナ映画祭でも上映され、「キューバの観客には好評だった」とはポラック監督の言。

フィデル・カストロも観たそうで、ポラック監督に「映画は気に入った。ハバナで撮影されなかったのが残念だ」と言ったとか。 

 

 

ちなみに、カストロ政権についてのポラックの意見:「腐敗した政権があった。その後、革命は教育と医療において良い結果をもたらした。しかし一人の男が絶対的権力をもつのは私には危険に思える」。

 

ところで、ポラック監督のキューバ訪問は1990年が初めてではなく、なんと1977年が最初。

ヘミングウェイの最後の妻、メアリー・ウェルシュがキューバを訪れた際に、映画人のグループも同行しており、「グループの中心的人物がシドニー・ポラックだった」と一行の案内役を務めたICAICのミゲル・トーレス氏が書いています。その記述によると、ポラックは昼も夜も至る所で写真を撮っていたとか。ヘミングウェイの映画を撮りたかったほか、革命後のキューバで初めて映画を撮る米国人監督になりたかったそうです。

 

こうして見ると、映画『ハバナ』には、ポラック監督とレッドフォードのキューバに対する思いが込められていた気がします。やはりハバナで撮って欲しかった!

 

※1 日本で1990年、新ラテンアメリカ映画祭‘90にて〈ガルシア=マルケス映画特集〉“愛の不条理シリーズ”として上映された7本の映画と同じプログラムではないかと推測します。

   

 

※2 ウォルター・サレス監督といえば、『セントラル・ステーション』(1998年)がベルリン国際映画祭を始め、世界各国の映画祭で賞を獲得しましたが、最初の受賞は1996年の「シネマ100・サンダンス国際賞」でした。

レッドフォードの言葉:「『モーターサイクル・ダイアリーズ』はウォルターとコラボレートできる完璧な題材に思えました。キューバの革命指導者チェ・ゲバラがきわめて扱いに注意を要するテーマにもなりうることを思えば、なおさらでした。ウォルターなら、のちのエルネストの政治的な部分に焦点を当てるのではなく、詩情あふれる人間性を描き、この物語を見事に舵取りしてくれるだろうと、私は確信していました」。(映画プログラムより引用)

久しぶりの更新です。

1週間ほど前のことですが 「キューバ映画で最も重要な監督」と紹介された、フェルナンド・ペレスのインタビュー動画(独立系メディア、LA JOVEN CUBA)がSNSで称賛されていたので紹介します。

いくつか彼の発言を紹介すると…

「現在のキューバの危機は、経済的のみならず、社会的危機でもある。その危機を論じる政府の声に変化のないことが危機的に思える」

「キューバ映画は骨折状態にある。表現の自由の制約、一部の映画人の排除などの結果である」

「必要なのは、討論や意見交換」

 

…と、特に新しいことは言っていないのですが、最後の質問とその答えに感動。

「もし1本だけキューバ映画を救えるとしたら、あるいは、キューバ人が必ず観るべき映画は?」

ペレス監督:『低開発の記憶』

 

『フローラの遺産(原題:LA HERENCIA DE FLORA)』2024年/ペルー/133分

                    

監督:アウグスト・タマヨ

脚本:ヒメーナ・オルティス・デ・セバリョス、アウグスト・タマヨ  

出演:パローマ・イェロビ(フローラ)、ディエゴ・ベルティエ(シャブリエ船長)ほか

                      

※7月18日 ペルーコンテンポラリー映画祭@セルバンテス東京で鑑賞(日本語字幕付き)

 

内容

フローラ・トリスタンは、19世紀中頃のフランスで作家、女性解放論者、社会活動家として活躍した、先駆的で魅惑的な女性。ちなみに画家のポール・ゴーギャンはフローラの孫に当たる。

(未読だが、バルガス・リョサの小説「楽園への道」はこの2人が主人公。)

 

ペルーの身分の高い資産家出身の父とフランス人の母をもち、パリで生まれたフローラが、19世紀前半という時代に、私生児という身分、経済的困窮、不幸な結婚という不条理や不幸に屈せず、それらを乗り越え、自分の人生だけでなく、ほかの女性たちや労働者の人生をも共に切り開こうと闘う姿を描いている。

 

Marysolより

予備知識なしに映画を見ただけでは、彼女の人生がダイジェスト版的にしか伝わらず、掘り下げ不足の感があった。もっと知りたくなり、ネット検索でこちらの論考を読み、ようやく彼女の功績や特長が分かり、映画のシーンとリンクした。

 

基本的にフランスで活躍した女性運動の先駆者だが、ペルー体験がフローラに与えた影響は見逃せない。

ペルーでは、昨年の国際女性デーに合わせて公開された。

今回の投稿は、キューバ映画研究家ファン・アントニオ・ガルシア・ボレロ氏のFBの投稿を元に作成しました。

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1980年代のICAIC(キューバ映画芸術産業庁)の状況は、製作本数が増え、新人監督が育っていたものの、60年代のような前衛的な場ではなくなり、成果も挙げていなかった。

 

芸術表現における探求や実験は、視覚芸術に顕著で、トマス・サンチェスホセ・ベディアフラビオ・ガルシアンディアレアンドロ・ソトゴリらが、社会に巣くう緊張を可視化していた。キューバの現実に対するICAIC作品が概ね“優し”かったのに対し、造形芸術における形式やテーマの刷新への要求は際立っていた。

 

ICAICの外では、トマス・ピアードやホルヘ・ルイス・サンチェスを筆頭にアマチュア映画の動きが起きていた。(ピアードは、1987年にキューバ初のアマチュア映画、長編フィクション『Ecos』を撮る。)

 

また、1986年にサン・アントニオ・デ・ロス・バニョス国際映画テレビ学校、翌87年にエルマノス・サイス協会・映画ワークショップが創設された。(当時のICAICの傾向との間にギャップが生じる一因となる。)

 

こうした状況を鑑みると、当時のICAIC長官、フリオ・ガルシア=エスピノサの自己批判が理解しやすい。

「フィクション映画が1980年代の時代的高みに到達できていないのは事実だ。その原因のいくつかは、我々の責任だ。製作を増やすのに必要な基盤がなかったため、振興策が過度に遅れてしまった。そのせいで、映画製作者間の必要かつ体系的な対立プロセスに悪影響を及ぼした。その後の製作の増加は、製作条件を変えることなく、必要な時に行われた。より柔軟な新しい振興策が、しかるべき速さで導入されなかった。議論の風潮はかなり衰退した。プロジェクトに対する芸術的な配慮も、かつてほど献身的でなくなった。新たな経済的メカニズムの導入に時間がかかりすぎた。」

 

ICAICは徐々に官僚化されていた。設立当初の10年間でICAICが国際的に獲得した知的名声を取り戻すには、少なくとも制度的に自律性を高め、映画人同士が議論を通じて内部交流を深める必要があった。そこで、ICAICは3つの創作グループを結成した。(※ 1988年?)

 

ガルシア=エスピノーサの言葉:「映画人の参加を活発にするため、3つの創作グループと芸術審議会を創設した。後者は映画人で構成され、キューバ映画の政策を構成する全ラインを分析し、提案する。3つの創作グループは、まだ始動したばかりだが、監督たちが自主的に参加し、グループごとに責任者と代理人を決める。各グループには、ドキュメンタリーや長編映画の年間製作本数が決められている。より多く、より良い映画が撮れるかどうかは彼ら次第で、集団的にも個人的にも経済的結果が付随するだろう。ICAIC執行部が承認するのは、あらすじと最初のコピーだけである。プロット、脚本、俳優の選択、ファーストカット、ファイナルカットの決定権は各グループにあり、より一貫した芸術的配慮がなされる。集団作業が増える。対立は有機的な出来事となり、議論は不可逆的に救われる。これらの振興策は、プロであろうとアマチュアであろうと、才能へのアクセスを妨害したり、妨げるものではない。我々にとって、今は種まきの時期なのだ」。

 

トマス・グティエレス・アレアは、3グループのうちのひとつの責任者になった。彼のグループには、ロランド・ディアス、ファン・カルロス・タビオ、セルヒオ・ヒラル、ミリアム・タラベラ、ギジェルモ・トレス、メルチョル・カサルス、コンスタンテ・ディエゴ、エンリケ・コリナがいた。ほかの2つのグループは、マヌエル・ペレスウンベルト・ソラスがそれぞれ責任者となって率いた。

アレアは、このシステムがICAICの映画に奇跡をもたらすとは思わなかったが、「意義のある変化をもたらすだろう」と考えていた。

 

Marysolより

ガルシア・ボレロ氏の投稿に寄せられたコメントへの返答に、同氏から次のような指摘があったので、付記しておきます。

「最初に創作グループを作る可能性について公に話したのはティトン(アレアの愛称)で、1968年のカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭から帰ったときのことだ。これは「シネ・クバーノ」誌に掲載されており、アレアは「キューバではまだ環境が整っていない」と言っている。

そして、ガルシア・ボレロ氏は「嘆かわしいことに、60数年経てもまだ、文化的官僚制は出来ること、出来ないことをコントロールしたがっている」と付け加えている。

 

その他のコメントから

「80年代の動きと最も似ていたのが、Muestra JovenやCardumen、G-20映画人たち、映画人会議だ。そこでは映画人たちが作戦を練り、問題解決を提案していた。残念ながら、今は映画人たちは互いに議論することはなく、キューバ映画にまつわる最終決定をする官僚制に対し、個人で対応している。このプロセスを逆戻りさせることは難しいだろう。」

 

追記① 

60年代に蓄積されたICAICのエネルギーは、その独自性を失うことなく70年代という厳しい歳月を乗り切り、80年代に自らを刷新するに十分だった。(アルトゥロ・アランゴ)

去る5月30日、キューバの国営通信会社ETECSA(以下、エテクサ)は、自国通貨のペソ(CUP)による携帯電話のデータアクセス容量を制限すると同時に、追加料金(ドル払い)を伴う新たな「データ通信プラン」を発表した。 ※図表はCibercuba より拝借。

下の図が示すのは、プリペイドの顧客が30日間に使える新データプラン。

 

最大6ギガで360CUPまで保証(制限)される。

 

しかし、6ギガ以上使用する場合は、追加のデータ通信プランを契約しなければならない。

しかもドル払い!

※国際カードまたはMiTransferウォレットを通じて米ドルで購入する。

 

 

 

これでは、外貨で収入が得られる人か、海外からの送金のある人でなければ支払えない。

 

そもそも90年代の経済危機後、観光収入に活路を見出す一方、外貨収入や送金の有無が国民の間に格差を生じさせてきたが、この《経済格差》に加えて、新たに《情報格差》が生じようとしている。

 

ペソ(CUP)で払えるプランもあるが、途方もない料金であることに変わりない。

 

 

ちなみに、一説によると、キューバ国民の携帯電話の平均データ使用量は10ギガ。

ということは、6ギガのブランでは、不足する4ギガ分を追加購入する必要がある。

3ギガの追加料金3,360ペソは、キューバ人の平均月収5,840ペソの半分以上で、年金受給者の月収2,075ペソを上回る金額だ。

 

すでに慢性的に電気、食料、水、医薬品の不足に苦しんでいるキューバ国民にとって、今回のエテクサの突然の発表は、大きなショックと反発を招いた。

 

まず大学生が抗議の声をあげた。

ハバナ大学の数学・コンピュータ学部の学生たちがロックアウトを呼び掛け、他の学部や大学でも集会が開かれるなど、抗議と話し合い(説明)を求める動きが広がった。

それに対し、国内の知識人、アーティストらも彼らへの支持を表明している。

 

こうして変革への希望が垣間見える一方、昨日あたりから、抗議運動をする学生の元に出頭命令が届くなど、圧力がかかり始めている様子も見られ、今後の動向が非常に気になる。

Marysolとしては、これ以上国民の声、特に若者の声を封じては国の未来がない、と心配でならない。

 

※ 追記(6/27)

追加プランとして発表された〈大学生向けプラン〉では、360CUPで6GBの追加容量が提供されるが、利用できるのは、教育機関から認可を受け、携帯電話回線を所有している成人学生に限られる。自分名義の回線をまだ持っていない人のために、所有者の変更手続きが可能になり、教育センターや商業オフィスから管理できるようになった。

 

しかし、この措置はすべての人を満足させたわけではない。専門家、科学者、国家公務員は、ソーシャルネットワーク上で、実際に接続の必要性がある他のセクターが除外されていることに疑問を呈している。

 

ほかにも、月1回だけ1,200CUPで2GBを購入できる「追加プラン」が発表されたが、利用者の38%が月8GB以上を消費しており、顧客のかなりの部分にとって不十分なままだ。

 

5月30日以降、ETECSAはモバイルデータ購入の制限と追加パッケージの急激な値上げという方針を打ち出している。360CUPまでの基本プランを使い切ると、ユーザーはわずか3GBのために3,360CUPを支払わなければならない。これは最低賃金(2,100CUP)を上回り、一般的な年金の2倍である。

 

参照記事:ETECSA activa líneas a más de 45.000 estudiantes para que compren el plan con el que pretende callar su malestar | DIARIO DE CUBA

ファウスト・カネルのFB投稿を元に。

1959年3月に創設されたキューバ映画芸術産業庁(以下、ICAIC)には500万ペソの予算が与えられ、トマス・グティエレス・アレア(当時ICAIC技術部長)とP.エプステイン(化学エンジニア)が6月にハリウッドで買い付けた機材(撮影用カメラのミッチェルとアリフレックスのほかドリーなど)や、ハバナ東部に映画スタジオを建設する費用のほか、長編フィクション『レボルシオン 革命の物語』の脚本家との契約、『キューバは踊る』の脚本のスーパーバイザーをしたチェーザレ・ザパッティーニへの支払いに充てられた。

革命軍映画部(部長は、カミーロの兄、オスマニー・シエンフェゴス)にいた若者たちは、人民社会党員だったので、ICAICに参加するには適切なタイミングが来るまで待たされた。

 

農民を教育するための一連のドキュメンタリー製作が始まり、ICAIC長官、アルフレド・ゲバラが提示したテーマのリストの中から私(カネル)は「トマト」を選び、生産量の多さで有名な、カマグエイのトマト生産協同組合で撮ることになった。

監督は私で、撮影はネストール・アルメンドロス。

ICAICにとってハバナを出て撮影するのは初めてで、急遽写真付きのIDカードを作ることになり、ID番号1番は私、2番はネストールとなった。

 

カマグエイの10月の太陽の下、輝く緑と真っ赤な実のコントラストが映え、撮影は順調なスタートを切った。

トマト生産協同組合は素晴らしく、それをネストールがニューヨークから持参した、小さなボレックスで捉えた。ICAICでは、まだカメラが足りなかった。

さて、3日目のこと。現場に行くと、誰もいない。そこへ警備を代行する老人が来て、興奮した口ぶりで言った。「カミーロがいなくなった!」。我々はなんのことか分からなかった。「みんな彼を探しに行った」と老人が続けた。「どこへ?」ネストールが訊くと、「どこへだって?知らんよ。小型飛行機に乗っていたんだが、どこにいるか分からないんだ」と答えた。

ネストールと私は街中のホテルに戻った。レセプション横の小さなバーのテレビは、ヘリコプターから撮影した映像を流していた。国中がすべての活動を止め、カミーロを探して大騒ぎになっている、と伝えていた。捜査の成果はまだ出ておらず、フィデルが翌日テレビで国民に報告するだろう、とのことだった。

それから2日後、我々は撮影を再開した。農民たちは意気消沈しており、賑やかだった協同組合は、沈黙に包まれていた。

公式見解で、カミーロは亡くなったとされた。そんな状況のなか、我々は撮影を急いで終わらせ、ハバナに戻った。

 

『トマト』はテレカラー処理された。ICAICには、まだラボや編集設備が整っていなかったが、某民間企業が提供してくれた。編集を手伝ってくれたカルロス・メネンデスは、その後の私の作品をすべて手掛けることになる。本作は、共同組合で働くメリットを示す例として、農業改革庁(INRA)が全国の農民に対して上映した。

 

『トマト』1959年/ドキュメンタリー/16ミリ/13分/

制作:サンティアゴ・アルバレス

監督・脚本:ファウスト・カネル

撮影:ネストール・アルメンドロス

編集:カルロス・メネンデス

録音:ICAIC録音部

内容:教育映画(トマトの種まきから収穫まで)

 

ファウスト・カネルの談話:

米国大使館所蔵のドキュメンタリーは依然として参照源になっていた。本作では、協同組合でいかに種まきから収穫まで行うかを描いており、そのテーマは単に教育的のみならず、政治的な提案でもあった。提案と言ったのは、プロレタリア独裁政権が話題にすらならなかった1959年のことだからだ。ネストールの写真はすばらしかった。

※データと写真:El tomate - Portal ENDAC

 

※下の写真は、『トマト』撮影中のカネル監督とネストール・アルメンドロス(1959年)

1990年3月2日にネストールがNYからカネルに宛てたメッセージが添えられている。

「歳月は流れ、残るのは記憶と写真…」

「共に過ごした大変な時代の思い出」

 

拙ブログ関連記事:ファウスト・カネルとの対話(1) | MARYSOL のキューバ映画修行

 

補足:

タイトルは「トマト」だが、テーマはトマトの協同組合で、農民たちは国家に属する存在ではなく、自分たちで共同販売し利益を分け合った。

ファウスト・カネルとICAIC/50年代~60年代に関する「ある証言」 | MARYSOL のキューバ映画修行