サロン・デ・マヨ(1967年) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
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キューバ革命後の文化(特に60年代)は、旧共産党(PSP)勢力が押し付けようとする社会主義リアリズム(ソ連派)と、新しく独自の文化を創造しようとする表現者たち(反ソ連派)との覇権抗争の歴史だった。

 

きょう紹介するのは、反ソ連派のカルロス・フランキが企画し、1967年7月に開催した大イベント「サロン・デ・マヨ」(開会式は7月30日)。

パリで毎年5月に開催される「サロン・ド・メ(5月展)」をハバナに招待したのだ。

 

フランキの意図。それは(K.S.カロルによれば)、社会主義国が常に反対してきた自由な絵画をカストロ主義者たち(キューバ革命)は支持していること。それを公然と表すこと。

つまり、カストロ主義者たちこそ真に革命的であり、“化石化したマルクス主義”の虜になっていない前衛の名に値する芸術とはこのようなものだ、と高らかに宣言することだった。

 

パリ側でこの企画に協力したのが、キューバ出身でピカソとも親しい画家のウィフレド・ラム。彼は団長として、6月末に他の招待者と共にパリからハバナに到着した。

各国からの招待客(アーティスト、作家、ジャーナリストなど)の数は150人を超えたという。マルグリット・デュラスやミシェル・レリス、ホルヘ・センプルン、ファン・ゴイティソロ、ホルヘ・カマチョ(この滞在中にレイナルド・アレナスと接触)の姿もあった。

 

そして、7月17日の夜、国籍も流派も異なる60人近い画家が、通称「ランパ」通りに面する「パペジョン・デ・クーバ」で、ラムの指揮のもと巨大な壁画「CUBA COLECTIVA(集団的キューバ)」を共同製作するという大パフォーマンスを繰り広げた。

                  壁画のサイズ:10m×5.5m

 

画像: http://www.penultimosdias.com/2008/03/25/historia-de-un-mural/

 

キューバ側の参加アーティストには、アメリア・ペライスやマリアーノ・ロドリゲス、ラウル・マルティネスらがいた。

また、会場前の路上では「トロピカーナ」の美しい踊り子たちがパフォーマンスを繰り広げた。大勢の人が集まり、その様相は、まさにアートのカーニバルだった!

     

 

招待客たちはその後、自由に様々な施設や教育機関を見学し、革命記念式典に出席するためサンティアゴで集合した。

7月26日、フィデルは、「ヨーロッパの知識人とシエラ・マエストラの農民に共通するのは、正義を求める熱意、人類の進歩への熱意、人間の尊厳にかける熱意である」と演説した。

 

それから4日後の30日夜。「サロン・デ・マヨ」は開会式を迎えた。

会場には約200点の作品が展示され、ピカソ、マグリット、マン・レイ、ロベルト・マッタ、アントニオ・サウラ、レネ・ポルトゥオンドらの作品に交じり、日本の画家の作品も出品されていた。(ちなみに1951年に「サロン・ド・メ 日本展」が東京で開催された)

 

          写真はJiribilla

 

この大イベントの参加者のうち75名が《抑圧された人民の武装闘争と翌年1月に開催予定の文化会議を支持する文書》に署名したという。

 

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時計の針をさらに進めると…

それから2か月後、ボリビアでチェ・ゲバラが処刑された。

翌年8月にはチェコ侵攻事件が起き、フランキはソ連を支持したフィデルと決裂。

 

そして1971年3~4月「パディージャ事件」が起き、「サロン・デ・マヨ」に参加した何人かはフィデル宛の抗議文書に署名することになる。

 

1974年、キューバの作家ホセ・アントニオ・ポルトゥオンド(ソ連派)は、「『サロン・デ・マヨ』は、我々がいかに新植民地主義に毒されていたかを示すものだった」と語った。