「留まるべきか否か」:映画『デスアライゴ』とチェ・ゲバラ | MARYSOL のキューバ映画修行

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 1964年に製作され、翌年なんとか公開にこぎつけた中編フィクション『Desarraigo(デスアライゴ)』の主人公マリオは、アルゼンチン出身でパリ在住のエンジニア。キューバに来た当初は革命に対し甘美なビジョンを抱いていた。しかし、現実のなかで直面する矛盾や摩擦は、彼のビジョンを損なっていき、キューバに留まるべきか否か、悩む

 

 映画の舞台は、ハバナとニカロ。後者の撮影には、工業省の許可が必要だった。

当時の工業相はチェ・ゲバラ。チェは脚本を読んで、撮影を許可したものの、「単なるブルジョア的ドラマ」と見なしていた。※参照『Cine cubano de los sesenta:mito y realidad』

               

 

以下、は上の本より抜粋

同書の著者で映画研究家のファン・アントニオ・ガルシア=ボレロの意見:

 〈世界変革のため具体的行動を促す問題と関係の無いものは、チェにとってすべて“ブルジョア的な陳腐な視点”でしかなかった〉からで、それはチェのエッセイ「キューバにおける社会主義と人間」を読めば明らかだ。

 

本作の監督、ファウスト・カネルの見解:

 本作ができたとき、すでにマルクス・レーニン主義者たちが、国の要となるポストを占めていた。(ICAICでは)マシップ兄弟、パストール・ベガ、ホルヘ・フラガたちだ。アルフレド・ゲバラも多分そうだった。ティトンはもちろん違った。だが、アルフレドはフィデルとの協定で、批評的映画を撮ることを許されていたそれは、自由なイメージをヨーロッパに与えるためだった。サン・セバスティアン映画祭で『デスアライゴ』が受賞した事は、アルフレドにとって、正統派を前にして、復権の機会となった。興味深いのは、チェが本作を軽視していたにもかかわらず、ニカロやモアでの撮影を禁止しなかったことだ。キューバ国民や世界の世論を丸め込むためのフィデルの悪だくみをチェは知っていたのだ。

 

痛々しいコントラストの時期:J.A.ガルシア=ボレロが見た1965年

 その頃、キューバの政治的前衛派と前衛的知識人の関係は定義し難いジレンマにあった。

チェ同様、大多数にとって“社会主義リアリズム”は正しい道ではなかったが、その境界は明白ではなかった。痛々しいコントラストに満ちた時期だった。その証拠に、エドムンド・デスノエスが「低開発の記憶」を出版し、ホセ・トリアーナが「La noche de los asesinos」でカサ・デ・ラス・アメリカスの演劇賞を受賞する一方で、エル・プエンテのような独立系出版誌が廃刊させられた(編集長のホセ・マリオはまもなくUMAPに送られた)。

 

Marysolから一言:奇妙な一致 (チェ・ゲバラのジレンマ)

 映画『デスアライゴ』の主人公マリオは、アルゼンチン出身のエンジニア。この設定(アルゼンチン出身でキューバから観て外国人)には、共同脚本家のマリオ・トレッホが反映されている。

偶然の一致だが、チェ・ゲバラもアルゼンチン人。もっとも、脚本を気に入らなかったそうだが。理由は“革命的”ではなく、積極性に欠けていたからだろう。

 

本作のテーマは「キューバに留まるべきか否か」。

最初のタイトルが『甲斐あること (Lo que vale la pena)』だったように、主人公はキューバに戻って来る。恋人のためか、革命のためだったかは分からない。

 

一方、1964年から翌65年にかけて、チェ・ゲバラはキューバを去る決断に至る道をたどっていた。

こちらの年表を参考に編んだ拙年表を見ると、1964年、チェの掲げる経済政策や革命の輸出が見直しを迫られていた。

そして、翌1965年、キューバとソ連の政治・経済的な結びつきが強まるなかで、チェはソ連批判とも言うべき発言をアルジェでし(2月下旬)、キューバ帰国後まもなく消息が不明になる(実際にはコンゴ遠征に旅立つ)。

それから約半年後の10月、フィデルはキューバ共産党の中央委員会発足式で「チェ・ゲバラの別れの手紙」を発表。(チェがボリビアで殺されるのはそれから2年後のことだ)

 

留まるべきか、否か。

フィクションとはいえ、キューバに戻る主人公マリオに対し、この脚本に批判的だったチェはキューバを去る。共通のジレンマを抱えながら、現実は皮肉だ。

 

追記(6月29日):ファウスト・カネル監督の証言

コメント欄3にカネル氏から昨晩届いたメール(原文)を載せましたが、作品の補足説明を兼ねて、以下に訳文を掲載します。

ラモン・スアレスがキューバを去った(注:1968年)のは、もう耐えられなかったからだ。同じく国を出た残りの私達同様に。東ドイツの貨物船で出国しようとした。船長が自ら船室を借りてくれた。妻と生後間もない娘と出国しようとしたが、警察に阻止された。それで、アルフレド・ゲバラから公的な出国許可を得られるよう、ティトン(トマス・グティエレス=アレア)に頼まねばならなかった。ラモンをキューバ映画に引き入れるため、スウェーデンから連れ戻したのはティトンだったからだ。

キューバに留まるか、去るべきか。この決断が国中で迫られていた。
だがキューバ映画は、我が国の街角の現状を反映していなかった。

私は、脚本家のマリオ・トレッホと共に、最初にその真実を『El final(仮:終焉)』で具現化した。3つのオムニバス映画から成る『Un poco más de azul』の1本だ。本作は39年後にシネマテカで1日限り上映されるまで、一度も公開されることはなかった。

ティトン(トマス・グティエレス・アレア監督)は『デスアライゴ』を気に入った。すでにデスノエス『低開発の記憶』を準備しており、その脚本に提示されている不安と私の不安は同じものだった。彼が私に言った言葉を覚えている。「『デスアライゴ』のあまりにも巧妙なせりふは好きじゃない。だが映画は気に入った」。

当初のタイトル『Lo que vale la pena(甲斐あること)』をやめた理由は、“メロドラマチック”過ぎると思ったからだ。『デスアライゴ(祖国喪失)』のほうが概念的だと思った。今は正反対の考えだ。今なら『甲斐あること』のままにしただろう。その方が、言葉の本当の意味で、よりドラマチックで情緒的だから。
当時は、感情を表現するのが少し怖かったのだ。おそらく、我々との間に日増しに広がる革命との食い違いを見て取られるのが怖かったからかもしれない。